海に咲く花(七) 9
翌朝、ぼくは早めに家を出た。イケの家に行くつもりだった。 おじいちゃんは、「学校休んでもいいんだぞ。ルイ、無理するな」と、言った。びっくりした。以前は、そんなことを言うおじいちゃんではなかったから。ぼくはとても、嬉しかった。でも、何だか寂しくもなった。いつまでも、強気なおじいちゃんでいてほしいからなんだ。いつまでも、元気でいて欲しいと思っているからだ。「大丈夫だよ。おじいちゃん、行ってくるね」 ぼくは、元気に家を出た。 イケは、まだ家にいた。開けたドアの陰で、イケの左手は見えなかった。「お早う」 ぼくは、覗き込むようにして言った。「よおー。何だよ、こんなに朝早く。何しに来たんだよ。どういう風の吹き回しだ、オイ」 イケは、笑いながら言った。「イケと一緒に学校行こうと思ってさ。しょっちゅうサボってるからさ、イケったら」「まあな。親父、まだ寝ていやがるんだ。どっちが親だかわからねー、あはは。親父を起こして、会社に行かせるからよ。待っててくれよ、すぐだからよ」 ぼくは、イケの手を確かめようとしたけど、見えなかった。イケは、引っ込んだまま、なかなか出てこなかった。家の中の声が聞こえてくる。「父ちゃん、起きろよ。オレ、もう学校行くからよ。父ちゃん、父ちゃんッ」 イケの父さんが、何か喚いているようだ。酔っ払っているのだろうか。「父ちゃん、父ちゃん!オレ、もう学校行くよ。会社遅れるぜ。オレ、ちゃんと起こしたんだから、なー。飯、できてるからよ。オレ、もう行くよ」 イケは、毎日こんな生活をしてるのだろうか。朝食だって、イケが用意して。「おう、待たせたな」 イケには、何にも負けない強さがある。「何で、オレを迎えに来る気になったんだよ、ルイ。お前、その手どうした?」「イケこそ、手どうなった?あの後、病院行ったの?」「病院?行く訳ねーよ。もう、治ったし、よ」「見せてよ。ほんとに治ったかどうか」「お前、疑い深いんだよッ」「そうだよ。だから見せろよッ」 ぼくは、一刻も早く確かめたかった。何でもないことを祈るような気持ちで。 イケは、左手をグウーにして、ぼくの前に、にょきっと突き出した。「何でもねーよ、ほら」 少し変だった。「パアにして」「お前、いちいちうるせーんだよ。ほれ、見てみろよ」 ぼくは、息を呑んだ。イケの左手の薬指は、内側にぐにゃっと曲がりその上に中指が重なっていた!一瞬、イケがふざけてぼくを驚かそうとしてるのかもしれないと、思ったほどだ。でも、これは紛れもない事実なのだ。イケは、薬指に力を入れて伸ばそうとしている。何故、こんなになるまで、ぼくは気がつかなかったのだろう。イケの父さんだって、何故気がつかなかったのだろう、親なのに。親のくせして。どんなに痛かっただろう!「イケ、真っ直ぐ指を伸ばしてみてよ!イケ、イケッ。真っ直ぐだよ、真っ直ぐにだよ!」「これしか、できねーって。お前、うるさいこと言うなよ。しょうがねーだろ。こうなってしまったんだから、よ。バレリーナは、こんな手つきして踊ってるよな?だから、いいんだよ。気にするな。お前こそ、どうしたんだよ、その手ぇ」 ぼくは、胸が詰まって何も言えなかった。こんなになるまで放っておいたことが、悔しくて、悔しくてしょうがなかった。イケもイケだ。何故、父さんに話して病院に連れてってもらわなかったのだろう。怒りがこみ上げてきた。「オレ、もう痛くねーしよ」 と、イケがケロリと言った。「そんな問題じゃ、ないだろッ」「何、イカってんだよ、ルイ」「イカってるよ。当たり前だろッ。そんなになるまで、なんで病院に行かなかったんだよ。ちゃんと治せたはずなのに!」「仕方なかったんだよ。しょうがねーだろ」「仕方もしょうがも、あったんだよッ。イケは何を考えてたんだよ!」 ぼくは思わず、訳の分からないことを言ってしまった。イカリが収まらなかった。「イケったら、馬ッ鹿じゃないの。何でだよォ、こんなになるまでー。全く」 イケの手は、もう治せないのだろうか。もう、手遅れなのだろうか。 つづく