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2022.05.22
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全9件 (9件中 1-9件目) 1 日記
カテゴリ:日記
祖父1943年(昭和18年)の8月6日
二四駆逐隊にいた江風(かわかぜ)戦没 多くの方が近くの島まで泳いで助かる中、 祖父は責任をとって船の底に降りる階段を降りていき 船と共に沈んだそうです。 たくさん勲章が残っています。 残念なのは大切にとってあった手紙などを痴呆の曾祖母が燃やして しまったこと。頭を抱え、なんでこんなことをしたのかと泣いていて 祖母には叱られ、かわいそうだった。 でも、読んでみたかった。 真面目で真面目な人だったので、生きて帰れなかったのでしょう。 沢山の人が同じ船から助かっているというのに………。 船も遺骨もそのままです。 一緒に逃げて助かってくれていれば、祖母も母も苦労しなかった 全く別の人生があった。 私は生まれていなかった。 以下は「ENDLESS LIFE」さんのサイトより 江風 1937/4/30 藤永田造船所で就航 開戦時 第四水雷戦隊第二四駆逐隊に所属 比島攻略作戦に参加 1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加 1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加 1942/8~ ガダルカナル島輸送作戦に従事 1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加 1942/10/26 南太平洋海戦に参加 1942/11/30 ルンガ沖夜戦に参加 1943/2/1・4 ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加 1943/2/9 『東運丸』と衝突し損傷(佐世保に回航し修理) 1943/5 原隊復帰 1943/8/6 コロンバンガラ島輸送作戦中にベラ湾海戦で米艦隊と交戦、戦没
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2016.09.04 22:11:28
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2011.06.16
カテゴリ:日記
昔、子守唄の旋律が悲しみの旋律として日本人の
心の奥底や演歌のなにあるというような研究の記事を 新聞で読んだことがある。 昔のレコードを探していたが、祖母が誰かにセットで上げてしまったようだ。 たくさん買ってくれたのに、いつも聞く曲は一緒の曲ばかり。本も。 「みんなの歌」も。 ♪こがねむし~は金持ちだ金蔵建てた蔵建てた~。。。。♪ ♪赤鬼どん、青鬼どん♪ ♪あ~かい花~摘んで、あ~の人にあ~げよう♪ ♪ふったり~でお酒を、のみ~ましょぉおねぇ~~~~♪ ♪おんな~のみさあおおおおお♪ ♪しらかば~あおぞぉらあああ♪ どの曲も意味もわからずみに染み付いた私の悲しみの旋律。 第一の悲しみの旋律は、曾祖母たちが口ずさんでくれた子守唄だ。 聞きたいよ、おばあちゃん。 私は悲しみの旋律を伝える人がいない。ごめんね。
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2016.09.04 22:12:25
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2011.06.15
カテゴリ:日記
先の見えない、苦しい時期が長くありました。
その日から、毎日生かされていることを感謝するようになりました。 人生の大問題が少しずつではありますが、改善されたり、 前進したり、困っているとたくさんの味方が、 選ばれし戦士のように集まってきてくれて、 私を毎日助けて下さいます。 トラブルも嫌なこともあります。 でもなぜか、結果オーライになります。 ただただこの世に生まれ生かしていただいていることに感謝しただけ。 私の周りで関わる人すべてに感謝しただけですが、 毎日お弁当を作って大好きな仕事に出かけれる。 それだけで幸せです。 今の私の状態にしてくださっている人全てに感謝せずにいられません。
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2016.09.04 22:21:52
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2011.06.10
カテゴリ:日記
大雨で1時に電話で起こされ、彼が慌てて出て行った。
大雨の中、見送る身がこんなにつらいとは。。。 私は一人なのでいいが、幼い子供たちを抱えたままで 災害などの時に一番たよりたい父親が仕事でいない家庭の 奥様はどんなに心細いだろう。 母はずっとそうやって私たちを守ってくれていたんだ。 ありがとう、お母さん。 早く雨が止見ますように。 彼が無事に帰ってきますように。
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2016.09.04 22:13:34
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2009.04.23
カテゴリ:日記
大きいおばあちゃんが、施設に入ってどんどんぼけていくのに
大学で遊びほうけて会いに行かなかったこと。 おおきいおばあちゃんが、生きているうちに浴衣を縫ってもらいたかったこと。 小さいころには縫ってくれたし、布団も作ってくれた。 10代、20代で一緒に生地を選んで、作り方を教えてもらいたかった。 いろんなものの縫い方や、編み物やいろんなことを教えてもらいたかったこと。 おおきいおばあちゃんに、最後に病院で会ったとき、怖くて、 手を握ることも、抱きつくことも、声をかけることも、泣くことも 何もできなくて、ただただただただ、すごく怖くて おおきいおばあちゃんのことを怖いと思った自分が嫌で あの時、せめておばあちゃんの手をにぎりたかった。 通夜があってから翌日火葬だと思っていて そのころすでに仕事で精神を病んでいたので おばあちゃんが亡くなったと連絡があっても通夜と火葬が逆だと思った。 だから、間に合うと思って仕事をしてからかけつけた。 もう、そこにおおきいおばあちゃんの体はなかった。 火葬が先だったのだ・・。 そういう地域なの? また、おばあちゃんに会えなかった。 おばあちゃん、ごめんね。 もうすぐ、おばあちゃんの命日が来る。
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2016.09.06 00:05:52
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2009.04.01
カテゴリ:日記
シナモン文鳥のココアが死んだ。
11歳と大往生であった。 残業で、最後を看取ってやれなかったのが悔やまれる。 1月に入ってからずっと体調が悪く、ずっとヒーターをあてたり 栄養ドリンクを飲ませたり、ちょっと元気になったこともあった。 最後まで自分でえさを食べたし水も飲んだ。 最近呼びかけても「チュン」とも答えてくれなかったのに、 最後に、さよならだったのか、かなり鳴いていたようだ・・。 すぐに、見てやらなかったと、気づいたときはもう遅かったと 彼は号泣し、自分を責め続けている。 それでも、私が帰ってくるまで泣きながらずっとココちゃんを抱いて いてくれたので、まるで生きているように暖かかった。 今にも目を開けてくれそうで・・・ 覚悟はしていたのに・・・こんなにも悲しいなんて。 11年間。 ココちゃん、ありがとう。 ありがとう。 ありがとう。 ありがとう。
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2016.09.04 22:14:00
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2008.04.18
カテゴリ:日記
平成20年、この年の春は、生涯忘れる事のない春になった。 父の退職、友人のこと、仕事のこと・・・そして、たくさんの、満開の桜たち。 子供の頃から、自分から動いて、まわりの全ての環境が変わることの連続だった。 新しい環境に独りで入っていくのは、いつも私の方だった。 見送られるのには慣れていた。人との別れや友人といつかは離れるのは普通だった。 努力しても報われない人の横で、何もしないでも簡単にできてしまって、正当に評価されることになれていた。 その後ろには絶対に自分を守ってくれる両親の存在。 傲慢で、自分の力で生きてるつもりだったのかもしれない。 私を見送る友の気持ちなど、一度も考えたことがなかった。 父が働き続けてくれたことの意味の大きさ。母の存在。 この春、私は動いていない。 あと少しのところで季節はずれの台風に見舞われたというところか・・・・ なんとか、根はふんばった。 このまま昔みたいに折れて、また倒れてしまうのじゃないかと思った。 見えなかったけど、この4年間に、しっかり、耐えれるだけの根は張ってたということか。 すっきりとした 夏のような快晴のなか 国道沿いを満開の桜の花道が華々しく(?)私を見送る。 遠くから山桜がひっそりと微笑む いつもは荒れ狂うばかりの海がエメラルドグリーンに輝いて 2色のわたしだけのオーラソーマに魂が応える。 元気にならないわけがない。 片側交互通行で普段止まることのない坂道で足止めされる。 ふと見ると、昔通った懐かしい小学校が下に見える。 満開の桜の木がぐるりと校庭を囲む。 ・・・・・30年・・・・有名な老木以外なら桜では一番の見頃だという。 お寺の桜、川沿いの桜、浜辺へ続く桜、田んぼの桜、高校の桜、公園の桜、神社の枝垂桜、道の駅の八重桜、さくら、さくら、さくら・・・・ こんなにもたくさんの満開の桜を見たことがあっただろうか 一生この花道のことは忘れられそうにない。ありがとう。 今年は散っちゃったけど、来年の春にはきっとまた芽を出すよ。
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2016.09.04 22:15:35
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2008.03.03
カテゴリ:日記
正月、父がめずらしく面白そうに話をしてくれた。
『お父さん、あなたより年下ですが・・・ 意外とあたしの性格、母親譲りなのかもしれないと思った瞬間でした。(´∀`)
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2016.09.04 22:16:17
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2008.01.08
カテゴリ:日記
昨夜のNHKの番組「クローズアップ現代」の中で、懐かしい風景を目にした。 日本経済全体が国内市場の売上げがマイナス成長なのに対して、国外での売上げがここ10年延びてきており、その企業例として島根県大田市の石州瓦の会社「森崎窯業」が紹介されていた。 国内の需要が減っているのを、景気回復を待つだけでは生き残れない今、この会社は積極的に海外の建築材料販売メーカーを招いて、石州瓦をプレゼンし、輸出を伸ばしてきている。 番組ではロシアのウラジオストックに輸出をこぎつけていた。ロシアは今建築ラッシュなのだという。 さて、この石州瓦、私にはとても馴染み深いもので、画面に映し出された山陰の海沿いの小さな町並は子供の頃過ごした温泉津の懐かしい風景そのままだった。 石州瓦は寒さや暴風に強く、塩害にも強い瓦として知られている。日本の瓦の特性が、その土地の気候風土と切り離せないように、古くから長くその土地に伝わるものというのは必ず理に叶った先人達の知恵と工夫があるものだ。 日本の文化を大切にしたいと思わされるようになったのは、ここ最近の和のブームもあるが、NHK番組「美の壷」をみるようになってからで、そこでも石州瓦が紹介されていた。 さて、この温泉津、世界遺産に登録された石見銀山のふもとにある小さな港町でその当時は銀の輸出をしていた港でもある。 私がはじめて友達と海でウニを採って、その場で石で割って海水で身を洗い、ちゅるんとおやつのようにぷりぷりのオレンジのうにを食べて遊んでいたあの海だ。 はじめて目の前で泳いでいるタツノオトシゴの赤ちゃんを見たあの海。 はじめてウミウシの大群をみたあの海。はじめてだらけの自然と遊びまわった温泉津。 郷愁に襲われるのは歳とったせいなのか・・・ とにかく、小さな町の企業でも確かな商品を作る力があれば、世界を相手にできる。 その昔、この小さな港から世界中に銀が広がったように、赤い石州瓦が世界中の家の屋根でみられるようになったら、なんとなく誇らしいではないか。 とっても応援したくなった。 そしていつか、赤い石州瓦を葺いたかわいい家に住めたら良いな。
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2016.09.04 22:16:45
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