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2003年09月07日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
いやぁ、やっと読みました(^o^)v 京極夏彦の「陰摩羅鬼(おんもらぎ)の瑕」って1998年にでた「塗仏の宴 宴の支度」に「~宴の始末」の次に出版されるように予定が書かれていたんですが、「~宴の始末」のあとも短編(中篇?)集である「百鬼夜行-陰」「百器徒然袋-雨」「今昔続百鬼-雲」などがでて、その他の出版社からもいろいろ「どすこい(仮)」「ルー=ガルー 忌避すべき狼」みたいなお笑いや近未来小説、時代物(になるのか?)の「嗤う伊右衛門」「巷説百物語」「続巷説百物語」「覘き小平次」などなど、一体いつまで待たせるんだ!って待たされ続けた一品です。だからってわけではないんですが、「レンガ本」と呼ばれる京極夏彦の本って読むのに気合が要るんです。「鋼馬章伝」とか別にも読もうとしていた本もあって順番待ちになっていたのも事実です。それに急に暑くなって体調がおかしくなって本が読める状況でなかったのもあり、時間だけが経ってしまいました。で、漸く読み始めたんですが、プロローグと第1章で頓挫してしまいました。これは体調が思わしくなかったという理由でもあるんですが…

**これより先はかなりネタバレになっておりますので、ネタバレを回避なさりたい方は、本日の「日記」を読み飛ばすことをお勧めします**

中禅寺明彦という男がいる。中野の眩暈坂上にある「京極堂」という古書店の主であり、隣接する神社の禰宜でもあり、憑き物落しもする。戦争が終わって数年であるが、日常的に着物を着る男性が少なくなったのに、黒い着流しを着て、戦前の小説家のように不機嫌そうな顔をして熱心に本を読んでいる、いわゆる書痴と呼んでもよい人物である。書痴で禰宜で憑き物落しである彼は自然と古来の万物に通じることとなり、妖怪変化の類についても造詣があるが、「この世には不思議なことなど何もないのです」と語り、あたかも妖怪変化に仕業であるかのような怪事件の謎を解き、人の心に巣食う憑き物を落とすのだ。

そんな京極堂こと中禅寺には世間から見れば変わりすぎた友人知人がいる。高校時代からの縁である、関口巽や榎木津礼次郎もそんな「変人」であり、彼らの戦友(部下)であった木場修太郎は警視庁の刑事だが、彼らと関わっているうちに査問の常連となり、降格の上所轄署に飛ばされたりもするけど、それでも腐れ縁は続いている。

関口巽は鬱病である。頭が悪いわけではなく、むしろ明晰ともいえるが、極端な口下手であり、人と話をするのが苦手で、うつむきがちにぼそぼそとはっきりしない物言いをするために誤解を受けやすく、時には殺人事件の犯人と看做され、己に対する自信のなさや外界への不安から惑乱して、ついつい警察の追求どおりに認めてしまうような危うい男なのだ。そんな男がしばしば怪事件に巻き込まれる。売れない小説家の傍ら怪奇事件を扱うカストリメディアに寄稿しているのに、いざ事件となるとおろおろするばかりでものの役にも立たないのだ。そんな狂言回し的な男が物語の一人称(の一部?)を担っている。つまり関口の目を通して事件が語られることが多いのだ。というか中禅寺の目を通したら最初から謎などないからそうなったのかもしれないが。

榎木津はかなり変わった男だ。元華族といったら商才もなくただ落ちぶれて「斜陽」していくものだけど、彼の父親はまれに見る成功を収めた元子爵だが、この元子爵が「美田を子孫に残さず」タイプである程度の財産を分与した上で「縁切り」をしてしまう。自分の才覚で生き抜けということなのかもしれない。そうした「縁切り」をされた榎木津は何を思ったのか探偵になってしまう。といっても並みの探偵ではない。いわゆる素行調査のようなことなど一切しない。彼には変わった資質があり、他人が心に思い浮かべたものが視えてしまうのだ。つまり、犯行を行ったものならその情景が視えてしまうのだから誰が犯人かは一目瞭然で、常に「お前が犯人だ」と名指しすることができる。ただ問題はなぜそんなことをしたのかは一切わからないということだ。それに彼は奇矯な言動の上、他人にまともに説明しようとしないし、他人の話もまともに聞かないし、したがって状況を全く把握していないことすらある。

そんな榎木津が信州白樺湖のほとりにある「鳥の城」に呼ばれることになったのだが、急な病で目が見えなくなり、急遽関口が榎木津の「介添え」として同行することになった。「鳥の城」とは由良元伯爵の居館で壮大な館のいたるところに鳥の剥製が置かれているのだ。この由良元伯爵は過去4度結婚を行っているが、その4度とも婚姻の翌朝に花嫁を失うという奇禍に遭っており、この度5度目の結婚を行うに当たり、榎木津に花嫁の身の安全をお願いしようということになったのだ。しかし、この榎木津、なぜこの「鳥の城」に来たのかまるで理解していない。他人の心のうちは視えるけど、それが誰であるのか、誰がそれを見ているのかはわからない。そのうえそのことをまともに説明しようとはしない。関口もまた事情をあまり把握していない。その上あまりにも場違いな場所にやってきてしまったことで困惑し、まともに喋ることはおろか逆に幻覚に襲われたりしてほとんどパニック状態に陥ってしまっている。

さて、この4度の事件のうち23年前、19年前、15年前の3度の事件に関わった人物がいる。当時は長野県警に奉職し、その後警視庁に勤め、2年前に退官した伊庭銀四郎だ。長年連れ添った妻を亡くし、退官しても日長何をするでもなく暮らしていた彼のもとに木場がやってくる。由良元伯爵の婚儀に関連して起きた事件についての問い合わせが木場のところに誤ってきてしまったので、ことのついでに伊庭を訪ねてきたのだった。何でも戦争のドサクサ紛れに資料が散逸し、捜査した刑事もすべて他界して残ったのが伊庭一人だという。そして、8年前に起きた4度目は終戦直後でまともな捜査が行えなかったらしい。そこで5度目が起きるのだけは何とかしたいという県警からの捜査協力になんだかんだ言いながらも応じることになった伊庭も、かつての事件のために心に傷が残っているのだ。この事件に関わることはこの傷を癒すことになるのか…

…という感じで事件の幕は開くのでした。
森博嗣の弁によれば表紙や裏表紙、帯やカバー、見返しや目次、人物紹介表などを除く本文に関わることを述べることはすべてネタバレらしいので、もう既にかなりのネタバレを犯しているんですが、上のほうで、「第1章で頓挫した」というのも大いなるネタバレになりそうなんですよね。この「陰摩羅鬼の瑕」では関口、伊庭、由良元伯爵の三人の一人称で章ごとに語られているんですが、その一人称である「私」が誰であるかが読み進めないとわからないこともあるんですが、第1章の前に第12章の「承前」がプロローグとして載っています。これは「絡新婦の理」でも使われたものなんですが、この倒叙でほとんどフーダニット(誰がやった?)の様相はなくなります。というかこのシリーズはホワイダニット(どうしてやった?)を追い求めるもので、ある意味その他の要素はそれに付随するだけというようにも感じるので、ピカレスク的なものともいえるかもしれません。奥深いホワイダニットを満喫するためにフーダニット、時としてハウダニット(どういう風にやった?)を切り捨てているのかもしれません。あるいは「トリックなど何もないミステリー」ともいえるかもしれない。あっしが「第1章で頓挫した」のは「どこにも不思議などない」と感じたからなのかもしれません。「どうして犯人が特定できないのか?」って…

このホワイダニットそのものについてはここでは触れませんが、今の世の中ではありえないことだけど、やりようによってはいくらでも同じようなことが起きるかもしれない、と思ったら心が冷えてしまいました。今から60年前までならいくらでもあったかもしれないことですからね。で、それを少し読み替えると、どんなにすばらしい人でもかすかな瑕があることですべてを台無しにしてしまうこともありえるし、この瑕によって罪のない人が命を奪われることも起こり得るんだなって… しかもこの瑕は誰もが持っているものであり、それに気づいていないから、ある日突然悲劇が起こったりもするんですよね…

…ってホワイダニットがわからないとなんだか解らないかもしれませんが、それは現物を読んで貰わないと理解しにくいことですんで…

で、この本の中に眼から鱗という話が載っていました。江戸初期の儒学者である林羅山が仏教批判をしながらも天海や崇伝に擦り寄っていたのはなぜか?仏教はもともと輪廻転生を謳っており、今日のお寺さんのように墓地を守り供養するようなことは一切なかったのに、各家庭に仏壇があり、その中には位牌があり、盆や彼岸には墓参りをする… これは一体どういうことなのだろうか? …ということについても延々と語られており、これについてもホワイダニットに関連がないわけじゃないからここでは語りませんが、今日では当たり前だと思っていることが、実は遠い昔にまるきり作り変えられたってことがあるんだなぁ…って知ってしまうと、今日のあらゆる価値観が揺らぐようで、あるいは自分なりに価値観を持っても構わないんだって励ましになったりもしますね。モチロンそれが受け入れられて長い間ずっと経っていることを否定はしませんし、そのこと自体は悪いことじゃないと思います。しかし、受け入れられたものが天地開闢以来の伝統ではない、ある時点で作られたものであるなら、今か遠い未来にでもこれを全く新しいものに作り変えても罰当たりなことじゃないんですよね。まぁ、この辺りのことはいずれ違うネタの中でこそっと触れると思います<っていつなんだぁ!(爆)





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最終更新日  2004年08月04日 01時38分27秒
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