才という国も大変なんですよね
「忍耐の王(その2)」陽が西に傾いているので黄海には明朝入ることになった。漢は猛徳と一緒に舎館に泊まった。漢は吉量を連れているという。長閑宮では夏官を務めていたらしい。「私は洪雲、字は天海という。揖寧の治安を担当してた、といっても下っ端だけどな。秋官と組んで王師を指示して取締りをする。だからいろんな噂には耳聡い。こんな顔だから皆安心しているのかもしれない。ほとんど聞き役だってこともある。噂に惑わされることだってよくある。けど、どうにか生き延びてきた。そういった意味じゃ運が強いのかもしれない。ヤバいこともいくらでもあったけど、ね」舎館で酒を飲み交わしながら話をし始めると途端に天海の言葉が砕けてきた。猛徳もそのほうが楽であった。言葉は砕けても姿勢は崩れなかった。眠そうな顔はそのままでピンと背筋が伸びているのだ。身体が揺れることもない。猛徳と一緒にかなりの量を飲んでいるはずだが、これほどまでに身体が乱れない漢は珍しい。「その顔に騙されるのかな?」「騙すとは失礼な!…って言いたいけど、そうかもな。寝てるのか笑っているのかはっきりしろってよく言われるよ。実際には当人は至極真面目な顔をしているつもりなんだけどね、誰も信じちゃくれないんだ。だから寝た振りや笑った振りをする。そうすると皆納得するんだから厭なもんさ。俺が怒っている時ですらそうだもの。堪んないよ」「でもそれは武器でもあったんだろう?相手に油断させてイロイロと聞きだしたりとか」「かもな。でも、お前さんは違うな。こういうのに慣れているのか?」「そういうわけではないが、油断ならないようなのは何人か知っている。腹の中で何考えているのかわからないんだよな。それでいてこっちの考えていることはすべてお見通し。頭の出来が違うといえばそれまでだけどな」「それって慶の遣士って奴らかい?」「そういえば慶の遣士だったかな?もう八十年以上もいるから柳の官だと思い込んでいるのもいるらしい。変な奴さ」「才にもいたけどどうもつんけんしちゃって厭だったな。私は頭がいいんですよって面してるし」「才にいるのはそういうのなのか?柳のは頭はいいかもしれないが、どっちかというと遊び人って感じだな。言葉遣いもちゃらんぽらんだし… けど、やることはしっかりやっているから認められてはいるようだけどな」「それが俺に似ていると?」「顔のつくりとかは全然違うけど、雰囲気とかがな。だから騙されているようで騙されていないというか」「何か物凄く酷い言い方をされたような気がするぞ」「一応は褒め言葉だぞ。慶の遣士ったら一国の王様でさえ手玉にとるくらいの頭の切れがあるんだぞ。俺なんかがあれこれ言えた義理じゃないけど、ありゃ凄いな。それでいて権力とかに全く執着していないし…」「柳にいる遣士ってのは凄いんだな。となると才にいたのはハズレだったのかな?」「どうなんだろう?何でも奏にいる槙羅って人が筆頭格で雁の堅至、恭の白溪、範の庸賢ってのが有名らしいな。自分の国についてはどうなのかはわからないけど、智照って言う奴だ」「…そういうのって誰から聞くんだい?」「その智照って奴や俺の主筋かな?どっちにしろネタもとは智照らしいけど」「なら自分のことは良くは言わないのかな?奏や範に挟まれて才はダメって聞いたりするからなぁ… 前の遣士は賊に襲われて殺されたって言うし、後任は長閑宮に入れていないみたいだし…」「才は落ち着きがないみたいだからね。奏の荒民がらみの騒ぎは落ち着いたようだけど、妖魔とかは?」「奏との高岫のほうはでるようだ。東側の三州は耕地が荒れてしまっているし… 範に逃れているものも多い。長閑宮もどうなるのかな?仮朝もバタバタしてるんだよね。まぁ、これじゃ遣士も赴任できないか」「王が決まって落ち着けば挨拶に来るんじゃないのか?今度のはケッコウできるらしい」「それはまだ聞いていないが… まぁ、どっちにしろ王が決まってからだな」「決まるといいな」「ああ」坤城の夜は更けていった。 * * * *翌朝必要なものを買い集めて猛徳や天海は漣の州候の一団とともに令坤門をくぐって黄海へと入った。大方の昇山者たちは昨日のうちに黄海に入り、かなり先のほうへと言っているようだった。猛徳たちがほぼ最後だろう。才、舜、漣の三国の昇山者が集まったせいで剛氏が雇えなかったものもやむなくこの州候の一団についてきていた。その数およそ五十人。州候の一団が二十人ほどだからおよそ倍の人たちが後からこの一団に加わったのだ。州候たちは馬車や荷車などを用意していたが、残りのものはほとんどが身体一つで参加しており、騎獣を持っているのは猛徳や天海くらいだった。したがって一日の旅程はどうしてもはかが行かない。取り立てて足弱がいるわけではないが、黄海の気候は過酷だ。重い荷物を背負って歩くには厳しすぎる。かといって最低限の水や食料を持たなければ途中で行き倒れになるしかない。その塩梅がわかっていないものが多いようだった。州候の一団もしっかりわかっているとはいえないようだ。猛徳を別にすれば一番旅なれているのは天海らしかった。騎獣も連れているし、荷も必要以上のものは持たない。煮炊きが不要な食料を携帯しており、水も節約して使っている。猛徳が注意する必要がないというのは楽だった。少なくとも猛徳の雇い主は天海であり、州候の一団もその他の面々も言ってみれば妖魔向けの囮に過ぎないのだ。それくらいの割り切りを持っていなければ黄海では生き残れないが、天海もそのことを弁えているようだった。人からあれこれ訊かれればちゃんと教えるけど、訊かれもしないことをあれこれ親切に教えたりはしない。もちろん妖魔を呼び寄せるようなバカな真似をしようとした場合には有無を言わせずに辞めさせたりもする。その辺りのことをキチンとわかっているのが雇い主だと剛氏としてはやりやすい。ほとんど剛氏と変わりないからだ。その辺りのことが気になってある夜、夜営の際に猛徳は天海に訊いてみた。「天海さん、やたら黄海になれているようだけど、何度か旅したことがあるのかい?」「いや、そういうわけじゃないよ。才には令坤門がある。坤城を守る兵卒もいる。一時期あそこにいたことがあるのさ。夢破れて黄海から戻ってくるもの、夢を膨らませて黄海に旅立っていくもの。そういうのを見たりしてたんだ。自然剛氏や朱氏と話しをしたりして旅の装備とかについて教えてもらったりもしたさ。時には黄海へ捜索しに行くこともあったから。まぁ、あまり良いものは見れなかったけどね」「そりゃ、黄海で良いものって妖獣くらいだからな。これを捕えて馴致すれば金になるが、兵卒には関係ないよな。ヘタに妖魔と出っくわしたら命も危ないし… まぁ、仙になっていれば多少は生き延びる可能性も高くなるけどな」「あんたは仙なのかい?」「昔は大僕もしてたからな。大僕を首になっても仙籍はそのままだったらしいんだ。うちの主筋も似たようなものさ」「大僕?じゃ、主筋って劉王君?」「しっ!大きな声を出さないでくれよ。あの人ももとは黄朱の民でその縁で俺もこんなことになったんだ。あの人が王様らしく王宮に収まっていられずに黄海に遊びに来たりするから、俺がハマってしまった。笑い話だよな。その時には大僕を首になっていたからそれっきり黄海に入り浸ってる。普段は猟尸師もしてるんだ」「で、今回はどうかな?」「漣の州候もいるし… おまけも一杯ついてきているのに平穏に来ているな。令乾門から入ったときとは大違いだな。行きに一回、帰りに二回妖魔に襲われたからな。道に迷ったり、水場がなくて苦しんだりもした。それと比べると…」「いるかもしれない?」「ああ、残念ながらな」「何が残念なんですか?」「ああ、これは州候」「いえ、桓姜と呼んでください。で?」「気にしないで下さい。与太話ですから」「そうはいかない。この一団で唯一の剛氏殿の意見を無視していいものじゃないだろう?」「言っていいのか?」「言った方がいいようですね」「じゃあ言うけど、今回の旅は物凄くついているんだ。妖魔に襲われないし、水場にも苦労しないし、道にも迷わない。こんなにすんなりいくことってのは珍しいんだ。まるで鳳雛がいるみたいだなって話だ」「それがどうして残念なんですか?」「俺はたまたま去年の高王の昇山に居合わせたんだ。で、もし、今回も鳳雛がいたら変な噂を立てられかねない。そうなったら剛氏の仕事はできなくなっちまうって話なんだ。俺としては王様が見つかるほうが嬉しいけど、だからといって仕事ができなくなるのも厭なんだよな。まぁ、たまたま運がいいだけってこともある。この中に鳳雛がいなければ仕事を続けられるんだけどなぁ…」「ほぉ… この中に。それが漣の王なら好いのだけど、才の王かもしれないな」「州候、いや、桓姜さんは王になる自信がないんですか?」「私か?ありえないさ。私は州候としての義務で来ているのだ。国が傾くのを防げなかった償いだよ。もし私が王の器なら前王を援けて斃れないようにできたはずさ。それができなかった無能のものは黄海で朽ちれば良い。そう思ってやってきたのだが、王が選ばれる瞬間に立ち会えるとは冥土の土産になるかもしれないな」「そんなことはないでしょう?私は長閑宮の夏官で、やはり何もできませんでしたが、王を目指していますよ。自分に何ができるかなんてわからない。でも、あれだけ苦しんでいる民を見殺しにはできないですよ。ただ手を拱いているくらいなら、昇山して王になり、権力を手にして混乱を収拾すべきだと思います。桓姜さんも州候ならそういう義務があるんじゃないですか?」「ああ、確かにそうだな。廉王の碌を食みながら廉王が斃れたらさっさと逃げ出すのは無責任極まりないな。もし、この昇山の旅で王になったなら王として、王になれなくても州候として漣の復興に尽力するよ。生きて帰れたらね」「絶対に生きて帰ってください。約束ですよ」「ああ、わかった。君は王になれるかもしれないな。民のことを常に慮っている。けど、民のために尽くすことは辛いよ。私も州候としてできることはやってきたが、なかなか思うようには行かないものだ。試行錯誤といえば聞こえはいいだろう。州候ならまだやり直しも利く。けど、王や麒麟にはやり直しはないんだよね。下手をすれば失道だ。辛いよね」「そうですね。でも、王だから止むを得ないのかもしれません。王を律する人がいませんからね。州候を含め、官吏は王によって律せられていますから、なんとなれば王に従えばいいだけのものですよね?己のみを恃まなければならぬ王だからこそ何度も失敗を繰り返せないのでしょう。失敗を繰り返されたら民がたまりませんよ」「そうだな。ああ、では剛氏殿、明日からも頼むよ」漣の州候・桓姜は話を切り上げて自分の天幕のほうへと戻っていった。