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2021年05月27日
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カテゴリ:テレビ番組


将軍後見職 徳川慶喜が禁裏御守衛総督になるのは『青天を衝け』第15回 篤太夫、薩摩潜入の回でした。渋沢栄一の自伝『雨夜譚』をベースに解説します。
 
渋沢栄一と渋沢喜作は、文久4年2月12日(1864年3月19日)か13日あたりに、一橋家に召し出されました。この際、改称することを命じられ、栄一改め渋沢篤太夫(とくだゆう)と、喜作改め渋沢成一郎となり、正式に一橋家の家臣となります。身分は奥口番。奥の口の番人でした。
この改名は、平岡円四郎の意向でした。渋沢栄一の記録には、「お前の名はどうも武士らしくない、おまえは道徳に心がけがあるようだから篤の字がいい」と円四郎が付けてくれた、とあります。
『青天を衝け』第14回と第15回で描かれていたのは、奥口番の次、御用談所下役に代わったところからです。4石2人扶持(ぶち)。京都滞在中の月手当は4両1分。資金不足で生活が困窮していました。渋沢篤太夫から無心された幕末の一橋家家臣の猪飼勝三郎(いかい かつさぶろう)は総額25両を貸してくれたので、恩に感じ、交流は維新後も続くことになります。篤太夫(とくだゆう)と、喜作改め渋沢成一郎は、八畳二間に勝手の長屋を借りて、自炊。失敗しながらも水の分量を覚え、釜で米を炊き、みそ汁の具や沢庵を買い出しに行って、豆腐汁や菜の汁などを作っていました。最上の食事は、竹の包んだ牛肉でした。3枚の布団を2人で使っていたようです。倹約に倹約を重ね、25両の借金を4、5か月で返済しました。
猪飼勝三郎(いかい かつさぶろう)のエピソードです。
徳川慶喜に小姓、側用人として仕えた猪飼勝三郎は、徳川慶喜と火の見櫓の階段を登っていた際、誤って後ろにいた徳川慶喜の顔に足を当てて鼻血を出させてしまい、自害しようとしたところ、徳川慶喜は「自分の不注意で手すりに顔をぶつけただけだ」と咎め立てしなかったといいます。また徳川慶喜の髪上げをしていた際、誤って剃刀で頭を切ってしまったが、「自分が不注意で脇見をしたのが原因だ」と、徳川慶喜は、問題にしませんでした。徳川慶喜の側近たちは、その寛大さに感じ入ったといいます。『青天を衝け』第15回でも描かれていました。
なお、京都で徳川慶喜は、公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡円四郎と用人の黒川嘉兵衛と見なされていました。平岡円四郎は、元治(げんじ)元年2月、側用人番頭を兼務します。文久からに改元され、元治元年2月20日(西暦1864年3月27日)となりました。
元治元年2月25日(西暦1864年4月1日)いち早く、山内容堂が京都を退去し、元治元年3月9日(西暦1864年4月14日)には一橋徳川家当主・将軍後見職 徳川慶喜が参預を辞職。続いて他の参預も相次いで辞任し、参預会議が瓦解しました。そして、元治元年3月25日(西暦1864年4月30日)、徳川慶喜は将軍後見職を免ぜられると同時に禁裏御守衛総督に就任しました。幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護するために設置された役職です。任命された徳川慶喜は、摂海、すなわち、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮(せっかいぼうじょしき)という役職にも同時に任命されました。朝廷から任命された役職ですが、禁裏御守衛総督の役料として幕府より月に7500俵受け取る合意を得ました。徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(まつだいら さだあき)(京都所司代・桑名藩主)の三者により構成された、いわゆる「一会桑政権」の誕生です。江戸の幕府から距離を置き、在京幕府勢力の指導的役割を果たしました。
さて。渋沢篤太夫の一橋家における勤務先は御用談所です。御用談所上役は、一橋家の用人物頭(ようにんものがしら)または目附など、外交の事務をつかさどる部署で、御用談所は、その人々の集会所でした。禁裏、すなわち、京都御所に対する接待、堂上(どうじょう)、すなわち、公家との交際、諸藩の引合など。御用談所の下役とはいえ、政治の中枢に関わることができる気分のいい仕事でした。
春暖の頃、諸藩の有志慷慨家が京都に集まり、攘夷鎖港を唱えるので、「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)」という問題が生じました。もし外国と戦争するには、摂海、すなわち、大坂湾の海防が必要である、ということです。
※折田要蔵
折田 要蔵(おりた ようぞう)は、幕末の薩摩藩士。砲術家。湊川神社初代宮司。名は年秀。
渋沢篤太夫は、一橋家の家臣になったものの、いまだに、尊王攘夷の志士でした。幕府の失政を機に天下に事を起こそう、それができるのは、薩摩藩か長州藩だと考えていました。渋沢篤太夫は、平岡円四郎に「薩摩藩の動きを知らなくては、京都を警護できない」と建言しました。すると、平岡円四郎から相談されます。
「摂海防禦に詳しいと評判で、二条城で諸侯の前で講義もした、大坂にいる薩摩藩士・折田要蔵を一橋家に引き抜くべきかどうか。なんとか伝手を頼って大坂の薩摩藩にもぐりこんで、探ってきてくれないか?
「摂海防禦に詳しい、二条城で諸侯の前で講義もした、大坂にいる薩摩藩士・折田要蔵を一橋家に引き抜くべきかどうかを、探ってほしい。伝手を頼って大坂の薩摩藩に、なんとかもぐりこめないか?」と聞かれたのです。渋沢篤太夫は、「一橋家から行くとなると角が立ちます。折田要蔵の内弟子になりたいと言えば、断らないでしょう」と提案。川村恵十郎の友人の小田井蔵太(おたい くらた)に頼んで、「築城修行のために内弟子になりたい」と頼むと同時に、一橋家からも「うちの家来に、よろしく、ご教授ください」と後押ししてもらいました。この作戦が奏功し、折田要蔵の内弟子となることに成功します。渋沢篤太夫は、元治元年4月のはじめに、隠密として、大阪の薩摩藩に潜入することができました。折田要蔵は薩摩藩士でありながら幕府から100人扶持をもらっていました。『青天を衝け』では、引っ越しのサカイのCMや、終着駅シリーズでおなじみ、徳井優さんが、折田要蔵を、「仕事きっちり」演じていました。
折田要蔵の下宿は大坂の土佐堀 松屋でした。玄関に紫の幕を張って、「摂海防禦台場築造御用掛 折田要蔵」と太い筆で大きな字を書いて掲げていました。
実地の学問なので系統だった築城術があるわけではありません。渋沢篤太夫の仕事内容としては、描いたこともない絵図を作ったり、書類を写したりしてばかり。絵図は失敗ばかりで、毎度叱られていたが、なんとか粗末な図が描けるようになりました。渋沢篤太夫は、薩摩言葉も多少わかったので、折田要蔵から命じられて、大坂町奉行や勘定奉行などに用事にも行きました。その過程で、西郷吉之助(のちの西郷隆盛)と折田要蔵のやり取りも目にしたようです。『青天を衝け』第15回では、西郷吉之助が、「先のことが見えすぎる人間は往々にして非業の最期を遂げる」と言い出しましたね。明治10年(1877年)西南戦争で敗れ、城山で非業の最期を遂げた西郷隆盛に、同じく非業の死を遂げた平岡円四郎の死亡フラグを立てさせる、という展開でした。
一橋家に仕えた篤太夫は、有志を訪ねまわり、諸藩の動きを探る活動を行っていました。その一人が西郷吉之助(のちの西郷隆盛)。渋沢篤太夫はなぜか西郷に気に入られ、時には鹿児島名物の豚鍋を作るから一緒に食べないかと誘われたそうです。豚鍋は三度ほどごちそうになった、と記録にあります。
薩摩藩から折田要蔵のもとに来ていた顔ぶれを挙げておきましょう。のちの警視総監・三島通庸(みしまみちつね)、のちの海軍卿・川村純義(かわむらすみよし)、のちの日本鉄道会社(にほんてつどうがいしゃ)社長・奈良原繁(ならはらしげる)そのほか、中原猶介(なかはらなおすけ)、海江田信義、内田政風(うちだまさかぜ)、高崎五六(たかさき ごろく)などです。そのうち、最も遊びに来たのは、松屋の隣に下宿していた三島通庸(みしまみちつね)と川村純義でした。質実剛健な三島通庸と川村純義は、派手好みの折田要蔵と意気投合しているようには見えなかった、とあります。
渋沢篤太夫が京都に復命する前夜、三島通庸(みしまみちつね)と川村純義(かわむらすみよし)が送別会を開いてくれることになりました。渋沢篤太夫は、送別会のことを折田要蔵に伝えたうえで、三島と川村と3人で鼎座して、飲んで歌ったとのことです。三島通庸(みちつね)が、ひとり、先に松屋に帰っていき、渋沢篤太夫が、したたかに酔って、松屋に帰ったのは、よる11時ごろでした。渋沢篤太夫が松屋に帰ると、「三島通庸が来て乱暴を働いて帰っていった!」と折田要蔵が呆然と座っており、折田要蔵が寵愛していた松屋の娘おみきは額に怪我して、包帯を巻いていました。折田要蔵は、「お前たちは俺の悪口を言っていたのであろう!渋沢篤太夫も同類とみなす!」と言ってきたので、渋沢篤太夫は「それは、先生の推量なのですか?それとも、三島が言ったのですか?私は、先生から教授を受けている身。陰で先生の悪口を言うようなことはしません!もし、三島が私の名を語って、先生の悪口を言ったのなら、卑怯千万。三島を、ここへ連れてきて、刺し殺します!」と激怒しました。
渋沢篤太夫は、ただちに松屋の隣の三島通庸(みしまみちつね)の下宿先に向かいました。二階で酔って寝ている三島を発見。渋沢篤太夫が三島を折田要蔵の目の前に連れていって殺そうとしたところ、川村純義に止められ、そこに、ちょうど、折田要蔵からの使いの者も来てしまいました。使いの者に言われたとおりに渋沢篤太夫が松屋に戻ると、折田要蔵が、「自分の推量だ、三島は関係ない。三島に言われても困る」と丁重に詫びを入れてきたので、これを許しました。なお、三島通庸(みしまみちつね)は、酔って寝ていただけなので、このことを知らないとのことです。のちの警視総監。ここで命拾いしましたね!
鼎座とは
てい‐ざ【 × 鼎座/ × 鼎 × 坐】 [名] (スル) 三人が向かい合ってすわること。 「―して話し合う」
渋沢篤太夫は、元治元年5月8日に京都の若州屋敷を借りていた一橋家に戻り、平岡円四郎に復命しました。折田要蔵が薩摩藩の国父・島津久光へ建言したり、同じく薩摩藩の西郷吉之助へ意見書を提出したことも、探りえました。そして、渋沢篤太夫は「折田要蔵は、外見ほどではありません。さほどの人物ではございません」と報告しました。平岡円四郎は、「よくわかった」と満足そうだったとのことです。渋沢栄一の自伝『雨夜譚』によると、薩摩藩士・折田要蔵は、たいした兵学者ではないが、大言を吐くことが上手で、弁舌も立ったので、築城学者とみなされたのだろう、と最初から首尾一貫して、手厳しいです。折田要蔵は、のちに、主祭神:贈正一位橘朝臣(たちばなのあそん)(楠木)正成公の、湊川神社初代宮司となります。こちらは、皇居前広場の楠木正成像です。上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び、「東京の三大銅像」の一つです。この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として別子銅で制作され、住友から宮内庁に献納されました。住友グループ広報委員会のホームページを見るとよいでしょう。
元治元年(1864年)5月に、平岡円四郎は、一橋家家老並に任命されていました。家老並(かろうなみ)とは、家老と同等の扱いを受ける人。家老とは、藩や家の最上級の位に位置する家臣のことです。政務に当たるなど、大きな権力を持っていました。『青天を衝け』第15回でも、渋沢篤太夫と渋沢成一郎が祝意を言上していましたね!
禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮の一橋家には、有事に対応できる人材の頭数が足りていませんでした。一方、渋沢篤太夫は、伝馬町牢屋敷に捕らえられた、尾高長七郎を救出するために、江戸に行きたかったわけです。平岡円四郎と渋沢篤太夫の思惑は、ここに一致します。平岡円四郎から、一橋家の「人選御用」という仕事を拝命し、渋沢篤太夫は関東に下ることになるわけです。「人選御用」とは、組織に必要な人材を探し出す、今でいうスカウトのことです。
元治元年(1864年)5月末か6月初旬、渋沢篤太夫と渋沢成一郎が関東に向かいます。
平岡円四郎は、元治元年6月2日(西暦1864年7月5日)には徳川慶喜の請願により太夫(たゆう)となり、近江守に叙任されます。その2週間後の、元治元年6月14日(西暦1864年7月17日)、在京 水戸藩士 江幡広光(えばた ひろみつ)、林忠五郎(はやし ちゅうごろう)らに暗殺されました。享年43。この際、川村恵十郎は、負傷しながらも、江幡広光(えばた ひろみつ)、林忠五郎(はやし ちゅうごろう)を討ち取りました。
『雨夜譚』でも、渋沢栄一は、平岡円四郎を評して、「一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ」と語っています。この内容を、『青天を衝け』第15回では、西郷吉之助(博多華丸)に語らせていましたね。平岡円四郎は、「智弁俊逸」、知恵があり、物事を分別する能力にたけ、抜きん出た才能の持ち主だ、と。
若州屋敷
「慶喜は初め東本願寺に拠点を構えていましたが、御所からは遠く、交通は不便でした。当時、藩主が蟄居(ちっきょ)を命じられたことで空き家状態だったのが御所にほど近い小浜藩邸。慶喜はその若州屋敷を譲り受け、3年ほどこの場所で過ごしました。」
[まとめ]
徳川慶喜に渋沢栄一と渋沢喜作が拝謁した日が疑問でしたが、『青天を衝け』第15回で徳川慶喜が将軍後見職から禁裏御守衛総督 兼 摂海防禦指揮になったので、渋沢栄一の自伝『雨夜譚』の記述が不正確だ、ということがわかりました。すなわち、渋沢栄一と渋沢喜作が拝謁した際、徳川慶喜は「将軍後見職」だった、ということになると思います。折田要蔵に内弟子として潜入し、薩摩藩の様子を知ることができたのは、渋沢篤太夫にとって、大きなプラスでした。そして、一橋家の人選御用という任務を帯びて関東に下っているさなか、渋沢篤太夫と渋沢成一郎に、平岡円四郎が暗殺されたという悲報が届くことになります。
第15回 篤太夫、薩摩潜入
2021年5月23日放送
渋沢栄一(吉沢 亮)と渋沢喜作(高良健吾)は、武士として初俸禄(ほうろく)をもらい、平岡円四郎(堤 真一)から「篤太夫(とくだゆう)」「成一郎(せいいちろう)」という新しい名も授かる。篤太夫の初仕事は、摂海防禦(せっかいぼうぎょ)の要職に就く薩摩藩士・折田要蔵(徳井 優)の隠密調査だった。そこで出会った西郷吉之助(博多華丸)から、“先の時代が読める優秀な人材ほど非業の最期を遂げる”と聞かされた渋沢篤太夫は、平岡円四郎の行く末を心配する。一方、水戸藩では、藤田東湖の息子・藤田小四郎(藤原季節)が攘夷(じょうい)実現のため天狗党(てんぐとう)を率いて挙兵していた。
第16回 恩人暗殺
2021年5月30日放送
渋沢篤太夫(とくだゆう)(吉沢 亮)と渋沢成一郎(高良健吾)は、平岡円四郎(堤 真一)に命ぜられ、一橋家の兵と家臣を募るべく関東に出向く。二人はかつての同志・真田範之助(板橋駿谷)に会い、一緒に働くことを勧めるが一蹴されショックを受ける。血洗島村では尾高惇忠(田辺誠一)と尾高平九郎(岡田健史)が水戸騒動に関わった嫌疑で連行され、尾高惇忠は牢(ろう)に入れられる。一方、京都では土方歳三(町田啓太)ら新選組が池田屋を襲撃(池田屋事件)。攘夷(じょうい)派志士の怒りは、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)の徳川慶喜(草彅 剛)と側近・平岡円四郎に向かっていく。





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最終更新日  2021年05月27日 03時51分01秒
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