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カテゴリ:テレビ番組
#どうする家康 #武田勝頼 #本能寺の変 小田原城、散歩の続き。小峯御鐘ノ台大堀切西堀と総構(そうがまえ)。車に注意! [年表] 天正9年 1月3日 信長、安土城で正月。勝頼、高天神城の救援に出陣するとの情報あり。信忠に出陣、命じた。 1月4日 信長が派遣した水野忠守、水野忠重と大野衆が家康が在城する横須賀城に到着も、勝頼の出陣なく、のちに解除。 1月17日 勝頼、朱印状。高天神衆匂坂甚太夫と暮松三右衛門尉が敵中突破。何度か高天神城と甲府、往復。援軍要請。合計60貫文、与えると明記。助けに行くと明言できず。 1月20日頃 高天神城の籠城衆から矢文。降伏、開城の意思表示あり。家康、重臣らと協議。矢文、信長に転送。指示、仰ぐ。 1月25日 安土で矢文見た信長、援軍の水野忠重に書状。高天神城籠城衆全員の助命、交換条件として、高天神城、滝堺城(たきさかいじょう)、小山城の三城、明渡。信長、降伏の申出、拒絶した方が、勝頼、見殺し演出効果大。家康の判断に委ねた。 2月 家康、安土の信長にまもなく高天神城、落城と一報。 2月27日 高天神城封鎖の大堀、大土塁の普請、完成。 3月 勝頼、佐竹義重の仲介で、安房の里見義頼(さとみ よしより) と同盟交渉、開始。 3月7日 信長は左大臣に推任されたが、正親町天皇の譲位後に官位を受けたいと回答。朝廷は、「当年、金神(こんじん)により御延引(えんいん)」と回答。(金神とは陰陽道でまつる神。殺伐を好むおそるべき神。金神の方位は大凶方のため、正親町天皇は譲位を行わず。)信長は正親町天皇の譲位を勧めず。信長、官位、散位(さんい)、位階、正二位のままとなりました。 3月22日 第二次高天神城の戦い。亥の刻(夜10時頃)、高天神城の籠城衆、出撃。(岡部元信と横田尹松 (よこた ただとし )が大久保忠世の林ノ谷に向けて突出。)大久保忠教(おおくぼ ただたか)の配下・本多主水が岡部元信、討ち取った。688人戦死。一方、横田尹松、相木常林、西尾久作(のちの西尾仁左衛門尉宗次)、生還。なお、西尾仁左衛門尉宗次、のちに、結城秀康、越前松平家に仕え、大坂夏の陣で真田信繁、討ち取る。(信長公記、3月25日) 3月25日 安土の信長、家康に花押据えた書状送り、高天神城落城祝った。余勢買って敵地の攻撃継続しないように申し入れた。 4月10日 信長、安土から日帰りで、竹生島に参詣。女房衆と桑実寺(くわのみでら)の長老、成敗。 6月 松平家忠と「氏真衆」こと今川氏真家臣が交流。 7月 相良城の改修に着手。松平家忠らが普請、担当。家忠日記。 7月17日 佐和山城で丹羽長秀が、越中願海寺城 (がんかいじじょう)主だった寺崎盛永・喜六郎父子、切腹させる。 8月 北条氏、伊豆国徳倉(とくら)に大規模な城の普請、開始。北条記。 9月11日 第二次天正伊賀の乱、終結。信長公記。 10月 徳倉城主・笠原政晴が勝頼に寝返った。甲陽軍鑑。北条氏、韮山防衛のため、出城山城(でじろやまじょう)築き、北条氏光ら1000余人、置く。 10月 勝頼、佐竹義重の仲介で、安房の里見義頼と同盟締結。 11月1日 信長に、下野蜷川郷の皆川広照が名馬3頭、献上。 12月24日 勝頼、城下、未だ、未完成の新府城に移転。勝頼と一族、譜代と築城、本拠地移転めぐる対立、反発あり。 12月 信長、家臣・西尾吉次に黄金50枚預けて、兵糧8000余俵、調達させた。西尾吉次、家康に派遣され、三河東条城に、搬入。西尾吉次、相良城、検分して、信長のもとに帰還。 天正10年 2月1日 信濃木曾義昌、織田氏に内通。 2月2日 勝頼、木曾逆心、察知。新府城、出陣。 2月3日 信長、安土から武田攻め、下知。信忠、森長可、団忠正、河尻秀隆、出陣させた。 2月6日 酒井忠次、木曾逆心、織田軍出陣、知る。家康、境目の城砦普請延期。全軍に出陣準備命じた。 2月6日 吉岡城主・下条信氏、信正父子、追放。 2月13日 信忠、岐阜、出陣。 2月14日 織田軍、飯田、制圧。 2月14日 夜、浅間山、48年ぶりに大噴火。 2月15日 織田軍、松岡城、占拠。 2月16日 鳥居峠の戦い。木曾・織田連合軍が武田軍、撃破。 2月17日 大島城、自落。武田逍遥軒信綱(しんこう)、逃亡。 2月17日 家康、浜松から懸川城に入った。信長の家臣西尾吉次も同行。 2月19日 徳川軍、懸川から牧野城に入った。在番衆が逃亡し、無人となった小山城も接収。家康、遠江、統一。 2月20日 徳川軍、大井川、渡河。依田信蕃 (よだ のぶしげ)と三枝虎吉(さいぐさ とらよし)の田中城攻め。 2月21日 家康、田中城攻めの押さえの軍勢として鳥居元忠、置いて、当目峠(とうめとうげ)越えて、駿河に向かった。 2月23日 徳川支隊、持船城攻め。 2月25日 夜、穴山梅雪、離叛、発覚。 2月27日 勝頼、穴山梅雪の離叛、知る。 2月28日 勝頼、新府城に撤退。8000人が1000人にまで減少。 2月28日 北条軍、駿河東部に侵攻。 2月29日 持船城、降伏。開城。 3月1日 穴山梅雪の降伏と織田・徳川に内通が、徳川軍中に正式に公表。家忠日記。 3月1日 江尻城、開城、決定。引渡。 3月1日 久能城城代・今福虎孝・善十郎父子、開城。のちに城下の村松で自刃。朝比奈信置も、本領の庵原郷(いはらごう)に退去。のちに徳川方に殺害された。 3月1日 信忠、勝頼の異母弟・仁科盛信に降伏勧告も、高遠城攻め。 3月1日 家康、田中城の依田信蕃(よだ のぶしげ)に武田家に仕官した経験ある成瀬正一(なるせまさかず)、派遣。穴山梅雪の書状を送らせ、納得させた上で、開城。本領、信濃国佐久郡芦田(あしだ)、目指して帰国。武徳編年集成。 3月2日 高遠城、落城。仁科盛信、討ち死に。 3月2日 家康、穴山梅雪の求めに応じ、知行保証の証文与えた。 3月2日 勝頼、最後の軍議。甲斐国都留郡の国衆・小山田信茂の岩殿城で最後の決戦と決した。 3月3日 早朝、勝頼、新府城、焼いて、勝沼の柏尾山(かしおさん)大善寺に宿泊。 3月3日 信忠、諏訪大社に放火。 3月4日 家康、穴山梅雪と初対面(しょたいめん)。 3月4日 勝頼、大善寺から駒飼宿(こまかいじゅく)に到着。小山田衆の出迎えが来ないので、留まったまま。小山田信茂と信茂の老母も、同行。夜半、勝頼の許し得て、信茂、母ら人質連れて、笹子峠(ささごとうげ)に向かった。 3月5日 信長、安土、出陣。 3月5日 家康、駿府の留守居に宗誾(そうぎん)こと今川氏真、江尻城に本多重次、置く。 3月6日 家康、北条氏から贈られた江川酒(えがわざけ)、諸将にふるまった。 3月6日 信忠の先陣、滝川一益、森長可らが、甲府、占領。 3月6日 呂久 (ろく)の渡に差し掛かった信長に、仁科盛信の首が届いた。祖父物語。 3月7日 信忠、甲府に着陣。 3月8日 家康の先陣、万沢(まんざわ)に入った。家康、興津に到着。 3月8日 信長、岐阜、出陣。勝頼の逃亡、知る。上杉景勝と対峙していた柴田勝家に書状で、安心した、と書いた。 3月9日 家康の先陣、身延山久遠寺に入った。家康、万沢(まんざわ)に入った。 3月10日 家康の先陣、穴山梅雪の案内で、市川(いちかわ)に到着。家康も、着陣。 3月10日 勝頼、小山田信茂の出迎え、待っていたが、来ず。小山田八左衛門尉と武田信堯が使者としてやってきたが、夜、笹子峠に向けて去って行った。笹子峠の小山田衆に鉄砲撃たれ、信茂逆心、悟った。三河物語。田野に追いつめられ、勝頼、滅亡、決意。 3月11日 徳川軍、懸川から牧野城に入った。無人となった小山城も接収。 3月11日 勝頼、田野で滝川一益の追手に捕捉。天目山の戦い。巳の刻(午前11時頃)、勝頼は自害享年37。嫡男・信勝 享年16、正室・北条夫人 享年19。 甲斐武田氏は滅亡。勝頼、信勝の首、滝川一益が信忠のもとに届けた。当代記。家康、穴山梅雪と甲府の信忠本陣、訪問していた。 3月14日 浪合(なみあい)に在陣の信長に、勝頼・信勝父子の首、届いた。三河物語。 3月16日 武田信豊、小諸城で自害。まもなく届いた、武田信豊の首と、勝頼信勝父子の首、信濃飯田でさらし、その後、京都に送った。 3月17日 家康、穴山梅雪と諏訪に到着。 3月19日 信長、法華寺に入った。 3月19日 家康、市川の陣所に使者。御陣所、御茶屋などの御座所の普請、命じた。 3月20日 家康、穴山梅雪と信長に拝謁。 3月22日 深溝松平家忠も深溝衆、本栖に派遣。 3月23日 深溝松平家忠も本栖に到着。 3月23日 家康、市川の陣所に戻った。 3月26日 信長、信忠に太刀、贈る。天下の支配権も譲ると伝達。信忠、信長に拝謁して、礼述べた。気温低下、豪雨、降雪。織田軍の陣営に凍死者、続出。信長公記。当代記。 3月29日 信長、論功行賞。武田領国の解体、宣言。家康、穴山、曾根の知行地除く、駿河一国、宛行。家康も、信長の主従関係に組み込まれた。 4月2日 信長、甲府に向かう。 4月3日 信長、花水坂(はなみずざか)から富士山見物。 4月3日 信忠、信玄の菩提寺、恵林寺、焼き打ち。快川国師ら多くの僧侶、虐殺。 4月4日 本栖での御座所の普請、完了。 4月5日 女坂での御茶屋の普請、開始。家忠日記。 4月8日 朝比奈信置、織田信長の命令により自刃。享年55。 4月10日 信長、安土に帰るべく、甲府、出発。穴山梅雪に本領安堵状。正式に織田の臣下となった。 4月11日 信長、家康、女坂から本栖の御座所に入った。 4月12日 未明に信長、本栖、出発。真冬のような寒さ。富士山の裾野、かみのが原・井手野で、小姓衆たちが、無闇やたらに馬乗り廻して、大騒ぎした。富士山、高嶺に雪。裾野の人穴(ひとあな)も見物。ここにも休憩所、新築。酒肴あり。浮島ガ原(うきしまがはら)でしばらく乗馬楽しんで、富士宮(ふじのみや)浅間神社の御座所に戻った。信長、家康に感謝。秘蔵の脇差し、長刀、馬、贈った。 4月13日 信長、富士宮、出発。家康と田子の浦、見物。富士川、越えた。蒲原(かんばら)に休憩所。久能城、視察。江尻城に宿泊。 4月14日 夜明け前に、信長、家康、江尻城、出発。宇津ノ谷峠(うつのや とうげ)の入り口に御屋形。酒肴。田中城に入った。 4月15日 信長、懸川城に泊った。 4月16日 信長、浜松城に入った。信長、武田攻め用の兵糧8000俵余、すべて、家康に引渡した。 4月17日 信長、浜松城、出発。今切(いまぎれ)で御座船に家康と乗船。吉田城に入って、一泊。 4月18日 信長、山中、岡崎、経て、池鯉鮒(ちりゅう)に宿泊。信長、家康に感謝。もてなしたいので、安土まで来るよう、招待した。
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最終更新日
2023年07月11日 23時55分05秒
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