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カテゴリ:メンタル
![]() ドッグランで感じた孤独と罪悪感|心の距離が犬にも影響する理由日常の中に、ふとした瞬間に現れる孤独や罪悪感。それは犬との関わりの中でも、強く心に突き刺さることがあります。ドッグランで感じた小さなすれ違いが、やがて心の深層にまで降りていく。そんな思考の旅を、丁寧に綴りました。 目次
ドッグランに立つ孤独・増えていく他者の輪 ドッグランに着いたとき、そこには誰もいませんでした。少しホッとした気持ちと、少し寂しい気持ち。やがて人が増え、犬たちも増えて、次第に「場」が形成されていきました。人と人、犬と犬が自然に挨拶を交わし、会話が生まれていきます。 しかし、その「輪」に自分が入っていける感覚がまったくなかったのです。まるで自分だけが透明な存在で、空気のように扱われているような孤立感。誰も悪くないのに、心の奥で何かが疼きました。 「他者と繋がること」への不安は、社会心理学でもよく語られます。特に日本人は「場の空気」を読み、同調を大切にする文化の中で育ってきました。だからこそ、その場にうまく適応できない自分を強く責めてしまう傾向があるのです。 ・「入れない」ではなく「入らない」選択 私はあのとき、「入れなかった」のではなく「入らなかった」のだと思います。もし意を決して一歩を踏み出せば、誰かが笑顔で迎えてくれたかもしれません。それでもできなかった。 言葉を探しても見つからず、視線の交わし方すら分からなくなる瞬間があります。「何を話したらいいのか分からない」という不安が心を支配してしまうとき、私たちは自己を守るためにあえて距離を取ります。心理学ではこれを「回避的対人行動」と呼び、自己防衛の一種として説明されています。 この「選ばなかった」感覚に自責の念が生まれ、それがさらに孤独を深くしていきます。そして、その矛先がなぜか「自分の犬」に向かってしまったのです。 心の中の声に耳を傾ける・本音と建前の間で揺れる心 周囲の人たちが笑顔で会話している姿を見ると、まるで世界が「明るさ」でできているように感じられます。けれど、その明るさは時に「建前の光」でもあります。そこに入っていけない自分は「本音に忠実」と言えるのかもしれません。 「入りたくない」と思っていたのに、気づけば「心は入りたがっていた」。この矛盾は、現代人の内面にしばしば現れる「感情の分裂」です。哲学者ハンナ・アーレントは、人間の思考における「二重性」を語っています。心の中で複数の自己が同時に語り合う。それは自己との対話であり、倫理の出発点でもあります。 人との関係においても、こうした内なる声を無視せずに聴くことが、心の健康にとって大切なプロセスなのです。 ・会話が怖い理由を探して 会話は、ただの言葉のやり取りではありません。相手の感情を受け止め、自分の感情を差し出す行為です。それはとても繊細で、時に傷つくこともあります。 「何を話したらいいのか分からない」という恐れは、実は「間違えたくない」という気持ちの裏返しです。失敗を恐れ、拒絶されるのが怖い。これは自己肯定感の低さと密接に関係しています。特に女性は、社会的な役割や評価への感受性が高く、場の雰囲気に敏感になりやすい傾向があります。 だからこそ、会話への第一歩を踏み出すことが、思っている以上に重く、勇気が必要になるのです。 鏡としての犬の存在・犬の行動は飼い主の写し鏡か 私の犬は、群れに入っていくことをしませんでした。近くにはいるけれど、同じテンポで遊ぼうとはしない。その姿に、まるで自分の内面を見ているような感覚を覚えました。 動物行動学では、犬の社会性や行動傾向は、飼い主との関係性や日々の環境によって大きく影響を受けるとされています。飼い主が内向的で慎重な性格の場合、犬もまたその気質を反映する傾向があるのです。 心理学者ジョン・ボウルビィの愛着理論でも、人間同士の関係性が心の「安全基地」として機能するように、犬にとっても飼い主の存在はそのまま安心感の指標になります。つまり、私の気質がそのまま犬に表れていたとしても、何ら不思議ではありません。 それでも、その姿を見るたびに「自分のようにしてしまったのでは」と胸が締めつけられました。 ・育てる責任と感情の連鎖 責任感というものは、時に重すぎる鎖となって心に巻きついてきます。特に「育てる」という行為においては、相手の行動ひとつひとつに「自分のせいかもしれない」と結びつけてしまいがちです。 犬の行動が自分に似ていると思った瞬間から、それは「感情の連鎖」となって罪悪感を生んでいきます。「こんな人間に育てられたら、そりゃそうなるよな」という心の声。これは、育てる側としての自己批判であり、同時に相手に対する深い愛情の裏返しでもあります。 精神分析の分野では、こうした感情の連鎖は「投影」と呼ばれます。自分の不安や欠点を、無意識のうちに他者に投影してしまう。そしてそれに気づいたとき、初めて「自分を責める必要はなかった」と感じるための第一歩が始まるのです。 「子育て」とのリンク・親としての不安と未来予測 犬を見ながら「子育てでも同じようになるのではないか」という恐れが浮かんできました。この不安は、まさに現代社会における親たちが共通して抱える苦悩です。 育児においても、どれだけ本を読み、知識を身につけたとしても、現実の子どもとの関係は「理論通り」には進まないものです。育児書では答えられない瞬間が必ず訪れます。そして、その瞬間に「私はこの子を正しく導けているだろうか」と自問自答するのです。 発達心理学においても、親の精神的安定が子どもの自己肯定感に大きく影響すると言われています。それだけに、親はつねに「自分自身の在り方」を問われる存在なのです。 ・知識では癒えない心の痛み 知識は道しるべにはなりますが、それだけでは心の痛みを癒すことはできません。理解はできても、納得が追いつかない。そのギャップこそが、育てる者の苦しみです。 仏教では「知」と「行」が一致してはじめて智慧になると言われます。つまり、知識を行動に移し、体感として学ばなければ真の意味では得たことにならないのです。 だからこそ、頭では「気にしなくていい」と分かっていても、心がついてこないということは珍しくありません。それは人間の自然な反応であり、自分を責めるべきことではありません。 むしろ、その「癒えないもの」を抱えたままでも前に進もうとする姿勢こそが、大人としての成熟なのです。 孤独と向き合うための哲学・孤独は悪か、それとも資産か 私がドッグランで感じた孤独。それは本当に「悪いもの」だったのでしょうか。哲学者ジャン=ポール・サルトルは「他人は地獄である」と語りましたが、それは決して対人関係を否定しているのではなく、他者の視線により自己が縛られる苦しみを表現したものです。 その視点で見ると、孤独とはむしろ「自分自身に戻るための時間」であるとも言えます。他者の期待から離れ、自分の心の声に正直になることで、初めて見えてくるものがあります。 社会的な孤立と、内面的な孤独は異なります。前者は解消すべき課題ですが、後者は「向き合うべき人生のテーマ」として尊重すべきものです。 ・足を止めない意味と希望 どれだけ心が苦しくても、私はその日、ドッグランに行った。そして立ち尽くしながらも、犬を見つめ、心の声に向き合いました。それ自体がもう「前に進む行為」だったのだと思います。 仏教でいう「歩みを止めないこと」は、常に進み続けるという意味ではなく、停滞しながらも「在り続けること」です。呼吸をするように、悲しみや迷いと共に在る。その中にこそ、学びと変化の芽はあるのです。 自己を責めるのではなく、自己とともに歩く。そんな生き方ができるように、今日もまた心を見つめていきたいと思いました。 最後に 孤独や罪悪感は、私たちの内面を深く揺さぶる感情です。しかし、それらは決して避けるべきものではなく、むしろ人生の大切な問いかけを与えてくれる存在です。 ドッグランでの何気ない時間の中に、自分の過去、現在、未来が凝縮されていました。犬という存在を通して、自分自身の心と向き合うこと。そこから気づけたことは、知識や理屈だけでは得られない貴重な経験です。 これからも迷うでしょうし、不安になる日もあると思います。それでも、自分と犬とが共に成長していけるように、足を止めずに歩んでいきたいと思います。読んでくださったあなたの心にも、何かが届けば嬉しいです。 こちらもオススメです。 引きこもりや生きづらさの相談はこちら 思ったことを深掘りするブログ アニメを観た感想ブログ 叶えてみたい夢ブログ 自叙伝ブログ お金にまつわるブログ 料理に関するブログ ビジネスのブログ ダイエットのブログ ファッションのブログ スピリチュアルのブログ(英語) 発展途上国を応援するブログ 私が作っている引きこもりYouTube動画はこちら 私が作っている音楽のYouTubeはこちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025.04.23 15:41:34
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