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2018/08/11(土)16:41

ソニー仙台FCの至宝=大久保剛志、5年ぶり国内復帰!

ソニー仙台FC(99)

ご無沙汰しております。 2週間ぶりに綴らせて頂きます。 3週間以上も前の話題で恐縮でございますが、知人の方々より寄せられた情報によると、かつてソニー仙台FCで活躍されていた大久保剛志が2部の京都サンガF.C.へ加入されたとの事でした。 知人より寄せられた情報はこちらの リンク​ をご参照くださいませ。 自身が大久保を最初に見たのは、15年前の8月。 ベガルタ仙台の練習を見学する為に泉パークタウン練習場を訪れた。 ただ1人だけ、背番号ないプラクティスシャツを着た男がトップの選手たちとフィジカル中心の練習をこなしていた。 その彼は当時高校2年生だった大久保剛志。 ベガルタ仙台のユースに所属しながら、比較的時間の融通が効く夏休み期間中にトップの練習に参加していたのである。 当時から高校生ながらプロたちに混じって、2軍相当のサテライトリーグに数試合に出場するなど将来性が見込まれていたものである。 順調にトップ昇格し、2006年の監督であるジョエル・サンタナ氏より『コブリーニャ(コブラの子』と絶賛されたように、優れたポジショニングからゴールを積み重ねる驚異的な決定力が光っていたが、厚すぎる選手層という大きな壁に阻まれ、ほとんど出場機会に恵まれなかった。 2008年、ソニー仙台FCへの期限付き移籍し、1試合4ゴールなど大爆発し3シーズンで29ゴールを決めた。 また、ベガルタ仙台で多くのファンに愛されていたように、大久保のプレーを見に行こうとソニー仙台FCホームゲームでは多くのベガルタ仙台ファンが応援に駆け付けた。 その結果、大久保在籍のソニー仙台FCホームゲーム観客動員数は増加し、所属していた4年半のホームゲームで1,000人以上を13試合も動員したものである。 2011年、ベガルタ仙台に復帰したが、またも出場機会に恵まれず。 ↑ベガルタ仙台に所属していた頃の大久保。 1年でベガルタ仙台を退団し、2012年にソニー仙台FCへ完全移籍で復帰した。 同時にソニー仙台FCは2011年を持って退任された田端秀規氏の後任に石川雅人氏が監督に就任した。 田端氏が採用した4-4-2と打って変わり、石川氏は4-5-1に布陣変更し、なかなか持ち味を発揮できず、怪我にも泣かされ、2012年は1ゴールという不本意な結果に終わった。 2013年も控えで開幕を迎えたが、たった『1枚』というFWの座を争っていた村田純平の長期離脱や澤口泉の不調などの影響もあり、第4節以降、1トップを不動のものにした。 ここから水を得た魚のように持ち味を思う存分に発揮し、ゴールを積み重ねた。 FC町田ゼルビアやカマタマーレ讃岐にツエーゲン金沢など、2013年当時のJFLはJを目指すクラブが凌ぎを削っていたが、そのような強豪が集うなか、大久保らの活躍などでソニーは一時4位に上昇し、悲願に初優勝を狙える位置に付いた。 だが、8月。 急とも言える、2部のモンテディオ山形への完全移籍が発表された。 さすがに大久保が抜けた穴は非常に大きく、決定力不足が響き上位争いから脱落し、最終的に9位で2013年を終えた。 また、集客面にも大きな影響を及ぼし、観客数が激減した結果、大久保退団後のホームゲーム(実質中立地である西が丘開催やチャンピオンシップを除く)では1,000人以上を動員する事はなくなってしまった。 しかし、モンテディオ山形では138分出場ながら2ゴールという高い決定力をアピールしたものの、不可解ともいえる戦力外通告を言い渡された。 山形を退団後、タイへ海外移籍し、仙台や山形と同じくタイでも愛されてきた大久保はタイ1部通算50試合出場13ゴールと、結果を残した。 余談だが、知人である大阪在住モンテディオ山形ファンであるT氏がタイを訪れ、大久保の背番号とネームが入ったバンコク・グラスFCのユニホームを購入されました。 2016年のアウェー奈良クラブ戦でお会いしたT氏より、大変ありがたい事にユニホームをプレゼントされました。 話を最初に戻しますが、5年ぶりに国内復帰が発表された大久保。 加入先である2部の京都サンガF.C.はまさかの最下位に低迷。 ベガルタ仙台やモンテディオ山形での苦悩、約4年半にわたる海外生活、そしてソニーで示した決定力。 幾多の経験を積み重ねてきたプロ14年目の大久保が、京都の3部降格危機から救ってくれると期待しています。 遠く離れた東北から心より応援してます。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村

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