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私はキリスト教の信者ではない。だが、
幼い頃はカトリック幼稚園に通っていた。 金髪の貫禄のある神父を中心に園児がまわりを囲っている写真がある。 その写真の中に私の姿もある。 自分の記憶には残っていないが、賛美歌を歌い、 クリスマスにはイエス生誕の劇を演じていた。 イエスという名の人の教えがキリスト教である。 その教えにもとづいて教育を受けた時期があるのに、 そのことは潜在意識下に滑り込んでしまい。 どのような教えを受けたのかは思い出せない。 そんな私に「イエス」の人物像を示してくれたのが、 メルギブソン監督作品「パッション」。 ここに描き出されている彼の愛は大きく深く尊かった。 その当時、常識とされていた教えではなく直感で感じた事を説いたナザレのイエス。 彼を信じ慕う者が増えていく。 権力者は彼の人気が高まっていく事が面白くない。 彼を抹殺したいほどに怒り憎しみがこみ上げる。 彼を捕らえ罪人に仕立て上げるために強引に裁判にかける。 魔法で病人を治す。予言をする。神の子と称す。彼の話は人の心を惑わす。 「これは悪意のある茶番だ。」悪意に気付き声をあげた者はつまみ出された。 悪意に支配された者達は彼を辱め死に至らしめなければ気がすまない。 イエスは結果を知っていて全てを受け入れた。 最後の晩餐の時彼は言った。 「私があなたを愛したように互いに愛し合いなさい。 私を信じるのだ。私は道であり、真理であり、命である。 私を通らねば父の元へは行けない。」 弟子のユダは密告し彼を銀貨と交換した。 弟子のペドロは「そんな人は知らない。」と逃げ出した。 人々の悪意が彼の肉体に叩き込まれ肉が裂け血がしたたる。 十字架にかけられた彼は祈った。 「父よ。どうか彼らをお許し下さい。彼らはしている事が分からないのです。」 罪の無い自分を、裏切った者、臆病風に吹かれて逃げ出した者、悪意をそそぐ者。 全てを受け入れ、許し、彼らの罪が許される事を願った。 理想としてはイエスが愛したように私も愛したい。 彼の愛に比べたら私の愛は安っぽく、悲しいがとても真似は出来ないように思われる。 臆病者の私は劇中のペドロの姿に自分を見た気がした。 偉大な彼の愛の前では私は膝を付き頭をたれ祈る。 「愚かな私をお許し下さい。」 いうまでもなく彼は全てを受け入れ許している。 彼を信じるものはその大いなる愛に癒されるのである。 「救いの御業は成し遂げられた。父よあなたの御手に我が霊を委ねます。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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