テーマ:正しい食育ってなに?(1637)
カテゴリ:食事について
1954(昭和29)年12月7日に内閣総辞職。
翌日、吉田茂は自由党総裁を辞任。 PL480法案が妥結し、帰国してからわずか 三週間のことでありました。 新たに鳩山一郎内閣が誕生しました。 農林大臣には河野一朗。 そうして第二回の余剰農産物交渉が 始まったのです。(1955年9月) 交渉団出発前に政府内部では以下のことが 大筋で検討されていたという。 1.買い入れ総額は約7000万ドル(前回は8500万ドル)を要望。 2.買い入れ農産物のうち米(前回は1500万ドル)、 葉タバコ(前回は500万ドル)は今回は不要。 その代わり大豆、トウモロコシ、 綿実などの購入を希望する。 3.総額のうちの半分以上を農業関係に使うことを認めて、 自主的に使わせて欲しい。(前回農業関係に使えた額は、 日本側取り分214億2千万円のうちの30億円) 米、葉タバコはいらないから、大豆、トウモロコシ、 綿実を希望した、ということは、どういうことかというと? 大豆、トウモロコシ、綿実はいずれも油の原料なのですね。 そして大豆の絞り粕は家畜の飼料になる。 さらにトウモロコシはそのまま飼料にもなる。 買い付け総額の取り分は日本側の思惑通りに 行かなかったけれど、それでも日本側の取り分は 75%で4935万ドル、ということだった。 その半分は農業関係で使う。 残りは愛知用水などの継続事業や漁港整備、肥料、 甜菜工場などに使った、ということです。 これが日本の戦後の復興に果たした役割は 大きかったという。 しかし、それ以上に大きな犠牲もあったのですね。 同時にそれが日本人の食生活を変えなければ ならなかった、ということです。 最後に参考文献から引用しますね?(太字が引用) アメリカ農産物を受け入れることで多額の 復興資金を得ることに主眼を置いた政府の方針によって、 日本の農業も食生活もこの時期から大きく転換した。 その後米の豊作が続いた時期でも、小麦の輸入は 増加する一方であった。米離れが加速され、 小麦粉食による食生活の変化は急激に起こっていった。 日本の小麦生産農家は減少の一途を辿った。 では、小麦粉を日本人に食べさせるために、 政府はどんなことを行ったのでしょうか? それについては次回にね?(つづく) 【参考文献】 なにとぞクリックを! 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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