夢見ル電気羊

2006/05/11(木)00:44

ゆっこさん

「セックスがしたい」 すごく真顔で僕は答えて、きょとんとした顔の後に彼女は大声で笑い出した。 「ちょっとー。いくら何でも正直すぎ。はー、おなか痛い」 涙を流すくらいに笑って、ひとしきり大きな笑い声で笑って、その後に僕に向かって言った。さすがにここまで笑われるとムっとする。「正直に言えって言ったの、ゆっこさんじゃないですか」真顔のまま言い返した。 ゆっこさんに飲みに連れてかれるのは珍しいことでもなんでもない。塾講師のバイト仲間で授業が終わった後にダラダラ講師控え室で喋っていると、「はーい、今から飲みにいくひとー」って社員のゆっこさんがドアから顔を覗かせる。「就職活動がめんどくさいから」って理由が本当かどうか知らないけど、ゆっこさんは塾の講師のバイトからそのまま社員になった「変わり者」で、(僕らバイトはみんな、社員の給料や待遇を目の当たりにしていて「ここの社員になるなんてありえない」と常々口にしていた)その変わり者は生徒にもバイトの講師にも人気がある「お姉さん」的な存在だった。だからゆっこさんの誘いがあればみんな ゆっこさんを囲むようにして「Earth」に飲みに行った。 その日、ゆっこさんが講師控え室に顔を出したときには小テストの採点をしていて遅くなってしまった僕以外には誰も居なくて、「なーんだ、ひとりしかいないのか」ってそれだけ言ってドアをぱたりと閉めた。 「なんすかー、俺ひとりじゃ不満ですか」 とっさに僕はそう言って。まぁ、聞こえないように言ったつもりだったんだけど。その後に小テストの採点を続けようとした。そこで気が付いたのは、確かゆっこさんは今日の仕事は休みだったんじゃないか、ってこと。あれ?そう思ったところでドアが開いた。 「べつに不満じゃないですけどー。行く?」 ゆっこさんがジョッキを飲むフリをして、僕は頷いた。今月はちょっと苦しいんだけど、ゆっこさんが今日ここに来たのが何か気になったから。さっさと採点を終わらせて、「Earth」に向かって自転車をひきながらゆっこさんと歩いた。 ゆっこさんは一言も喋らなかった。普段は四六時中喋ってるくせに。「何かあったんすか?」って聞こうとしたけど、「Earth」に着いてからでいいかと思ってそのまま歩いた。 「Earth」に着いてからは、それはもうすごかった。生中をイッキに飲み干した後、急に叫びだした。「おらー!今日は飲むぞー!!」ええー、いつも飲んでんじゃん。その後バーテンのケイちゃんに次々とメニューにないものを頼むわ、断られる度に騒ぐわ、僕はゆっこさんが仕事休んだのに顔を出した理由とか、Earthに向かう途中に無言だったこととか聞くことを忘れていた。 一通り「暴れ回った」後に、ゆっこさんは長いため息をひとつついて、3杯目の黒丸のロックを飲み干した。 「ねー、ゴメンね」 「なんすか、急に」 「やー、ほら。付きあわせちゃって」 「ホントですよ」 ちょっと間が開いてゆっこさんは笑い出した。ロックグラスを置いて手を叩いて。 「うん、ほんと。そのさ、正直なとこ。けっこう好きだよ」 「そうですかー、ありがとーございます」 箸でチャンジャをつつきながら答える。まったく。何があったかなんて聞く気はもう無かった。どうでも良かった。目の前のずっと大人なくせに僕よりずっと子供に見えるゆっこさんの相手に本当に疲れてた。 「聞かんの?」 「何をっすか」 「や、うん。ほら私がさ、飲んだくれてる理由とか」 「最初は気になってましたけど今は別に」 「そか…」 「…フラれた、とかですか?」 グラスに残った氷を口に含んでゆっこさんがじっとこっちを見る。さっきまで暴れまわって疲れたのか落ち着いたのか分からないけれど、ゆっこさんが妙に落ち着き払ったと言うか静かな口調でちょっと居心地悪くて僕は言うべきじゃないことまで言ってしまったような気がして「しまった」と思った。いくら僕でもこういうときに核心を突くようなストレートな言葉はマズイと思った。泡が消えてしまった生のジョッキに口を少しつけながら恐る恐るゆっこさんの顔を見ると氷を左右の頬に行ったり来たりさせながらこちらをじっと見ていた。 「すいません、余計なこと言いました」 僕が言ってゆっこさんが氷をパキリと噛み砕いた。 「あのさ、私がなーんでも言うこと聞くとしたら何したい?」 「へ?」って言うようなそんなマヌケな声が出たと思う。全く予想も何もしてなかった言葉だったから。 「いや、急にそんなこと聞かれても」 「正直に、言ってよ。遠慮とかせずに」 僕は困ってゆっこさんの目から視線を外した。ゆっこさんは胸元が少し開いた服を着てて、さっきからちょうど僕が持ってたジョッキに目をやると視界に入ってた。とっさに口を開く。 「セックスがしたい」 きっと、すごく真顔で僕は答えて、きょとんとした顔の後にゆっこさんは大声で笑い出した。 「ちょっとー。いくら何でも正直すぎ。はー、おなか痛い」 涙を流すくらいに笑って、ひとしきり大きな笑い声で笑って、その後に僕に向かって言った。さすがにここまで笑われるとムっとする。「正直に言えって言ったの、ゆっこさんじゃないですか」真顔のまま言い返した。 「うん、やっぱいいわ、その、バカがつくくらい正直なとこ」 口元がまだ笑ったまま、ゆっこさんがそう言って僕は何も言わなかった。 「そうやって、みんな正直だったらすごく楽なんだろうね」 独り言みたいにつぶやいているのを聞いて、やっぱり恋人と別れたのかなって思った。でも「正直」じゃなかったのはゆっこさんなのか、相手の彼氏だったのかは分からなかった。僕はゆっこさんはすごく正直で真っ直ぐだと思ってたけれど、それはそういうフリをしてるだけなのかなって、何故だかその時に思ったりもした。 「ありがと、ね」 ゆっこさんがEarthを出た所で振り向いて言った。飲み代は「お礼だ」って言ってゆっこさんが全部出そうとして僕は断った。あれだけ飲んだくせに、僕よりも足元がしっかりしてた。 「ねぇ、セックス、したいんだ?」 にやにやしながら聞いてくる。僕はなんだかさっきとっさに言った自分の言葉が恥ずかしくて 「別に」 とだけ言った。本音を言うと本当にセックスしたいって思った訳じゃなくて、でもあの時口から出たのはその言葉だった。そりゃ全くしたくないって訳じゃないけど。 「不健康だぞ、青少年!」 「別にゆっこさんじゃなくても、相手はいますから」 居もしないのにぼくは強がりだか照れ隠しだか分からない言葉を言って 「そっか、そうだよねぇ」 ってゆっこさんは妙に納得したように言った。 バカみたいに正直なのって、どうなんだろう。 「大人」になって僕はたまに思ってみたりもする。バカ正直が通用するのは「社会」に出る前までって、あのころの自分だって知ってた筈だけれど。「正直」が余りにも無い現実を見てるとそれが少し恋しくもなって、それだけじゃ生きていけないのを知りながらも。 ゆっこさんに言われた僕のあの頃の「バカ正直」は、いまになってみると「好きだ」って言ったゆっこさんの意味が分かるような気がしてた。 今の僕には言えるのかな。バカ正直が。 「セックスしたいです」 って。

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