横溝正史『金田一耕助のモノローグ』
~角川文庫、1993年~
横溝正史さんによる、昭和20年4月~昭和23年7月の、岡山県での疎開生活を回想するエッセイ集です。もともと、徳間書店『別冊問題小説』1976年夏季号~1977年冬季号に連載されたエッセイの文庫化です。
構成は次のとおり。(連番は便宜的にのぽねこが付しました。)
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[第1部]疎開3年6カ月―楽しかりし桜の日々
[01]義姉光枝の奨めで疎開を決意すること 途中姉富重の栄耀栄華の跡を偲ぶこと
[02]桜部落で松根運びを手伝うこと ササゲを雉に食われて泣き笑いのこと
[03]敗戦で青酸加里と手が切れること 探偵小説のトリックの鬼になること
[第2部]田舎太平記―続楽しかりし桜の日々
[04]兎の雑煮で終戦後の正月を寿ぐこと 頼まれもせぬ原稿76枚を書くこと
[05]城昌幸君の手紙で俄然ハリキルこと いろんな思惑が絡み思い悩むこと
[06]探偵小説を二本平行に書くこと 鬼と化して田圃の畦道を彷徨すること
[第3部] 農村交友録―続々楽しかりし桜の日々
[07]アガサ・クリスティに刺激されること 公職追放令に恐れおののくこと
[08]澎湃として興る農村芝居のこと 昌あちゃんのお婿さんのこと
[09]「本陣」と「蝶々」映画化のこと 桜部落のヒューマニズムのこと
[10]倅亮一早稲田大学に入学のこと 8月1日に東京入りを覘うこと
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面白かった記述、印象に残ったエピソードなどをメモしておきます。
[01]では、「エラリー・クイーンのごときは、私が「探偵小説」という雑誌を編集しているころ、はじめて日本に紹介した作家である」(10頁)とのこと。別の個所でも書いていますが、早川書房さんが海外ミステリの翻訳を次々と刊行するまでは、横溝さんは自ら原著で海外ミステリを読み研究されていたそうです。
[02]は、「本陣殺人事件」『八つ墓村』『獄門島』の誕生に不可欠であった、加藤一さんという人物との出会いが語られます。また、後のエッセイについてもふれますが、横溝さんの戦争観も印象的です。「これはもうだれでも知っていることだろうが、敵が機関銃をもって向かってきたら、竹槍をもって闘えというのはまだしもとして、女は快く敵に強 姦させろ。そしてその最中に、相手の睾 丸を握りつぶせというには沙汰の限りであった。これはもう軍のエゴイズムとしか思えなかった。」(31-32頁)
[03]の青酸加里については、[07]にこのように書かれています。「私はどんな意味でも戦争協力を強いられるようなことがあった場合、一家五人無理心中をやってのけようと、家人にも絶対秘密である薬物を用意していた」(95頁)。[03]では、終戦のことをラジオで聞いて、「青酸加里と手が切れたことをハッキリ自覚した」(37頁)と書かれています。ここも、横溝さんの戦争観を端的に示していて、印象的でした。同時に[03]では、これで探偵小説が書けるようになる、という思いに燃え、外国雑誌を引っ張り出して読んだり、原稿用紙の準備をしたり、「トリックの鬼」となったことも書かれています。
[04]以降は、昭和21年3月から書いている日記ももとに当時を振り返っています。[04]では、昭和21年1月から2月末までの仕事集計というメモが紹介されますが、それによれば9作の原稿を2カ月で書かれています。うち、標題の頼まれていない原稿というのが「探偵小説」(『刺青された男』所収)です。
[05]では、「本陣殺人事件」執筆の経緯を振り返っています。
[06]は、「本陣殺人事件」と『蝶々殺人事件』を並行して書くこととなったいきさつ。
[07]では、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(の原著)を読み、『獄門島』の構想を練り上げるきっかけとなったと語られます。
[08]では、農村芝居のために台本を書いたことや、芝居に感心したことなどの思い出が語られます。また、桜で芝居の主役をつとめた昌あちゃんのお婿さんが、将棋の大山七段(当時)とわかったこと、別の雑誌に寄稿した短文でそのことを書いたのがきっかけで、大山さんとも交流が生まれたことも書かれていて、こちらも興味深かったです。
そして終章、[09]では、岡山を離れ東京に戻る経緯が語られます。ラスト、加藤さんとの別れのシーンは涙です。
と、自分の覚えの意味もこめてやや詳しいメモとなってしまいましたが、とにかく横溝さんの語り口がやさしく、ユーモアもあり、あらためて横溝さんの作品を読むとほっとするのを認識しました。とにかく大好きです。
(2021.01.02読了)
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