心のポテトサラダ

2010/07/07(水)17:21

宇佐山城址2 の巻

trekking(8)

今にも雨が降り出しそうな天気の朝、深い木立に囲まれた誰もいない参道を歩きます。 勾配がきついので、ゆっくり上がります。 目指す宇佐神社が見えてきましたが、その横に、「宇佐山城」の道案内が立っています。 参拝は後回して、この勢いで城跡まで上ることにしました。 この参道は、湖西道路のすぐ横で、木々の切れ間から猛スピードで走る車が見えます。 湖西道路のトンネルの上を越えて上ってきました。 ここからは、山道です。 獣道に毛が生えた程度の踏道が、つづら折れや回り道を繰り返しながら続いています。 里山の低山でも、簡単に迷うので、時々後ろを振り返り、あたりの景色を記憶にとどめます。 帰り道を間違えると、とんでもない所に下山して、車に帰るのに難儀します。 足元は悪く、薄い霧に包まれた山道は滑りやすいです。 時折急坂もあり、休憩を入れながらの登山になりました。 この辺の田畑には、獣避けネットが敷かれていないので安心ですが、鹿はいるかも?まさかクマはいないだろうけど。 念のためウエストバックから、先週好日山荘で買った山歩き用の小さな鈴を出してぶら下げます。 早速の出番です。 静けさの中で孤独に歩を進めます。 この道はキツイです。 山頂まで登って、出艇の時間に間に合うのだろうかと、「引き返した方がいいよ。しんどいし」という心の声が聞こえます。 「折角の機会を、途中離脱という情けない結果でいいのか」のGOの声が、それをかき消します。 木々が濃いのが幸いしているのか、薮が繁茂しておらず、その点では楽でした。 それに・・・「宇佐山城跡」「もう少しで頂上」「滋賀県は楽しい」などの小学生が書いた立て札が、道を迷わないように所々に立っています。 「平成21年6月・・小学校6年4組」となってて、軟弱や女児に、成人男子として負けるわけにはいきません。 途中から、蜘蛛の巣払いに小枝を振り回しながら、頂上に到着しました。 三角点335mと書いてありました。 そこには、眼下に琵琶湖の絶景が待ってるのかと思いましたが、北・東・南の展望はなく、わずかに開いた西側からだけ更に高い東山の一部が見えるだけでした。 でも十分な達成感です。 この西側斜面には、資材を運び上げる作業用ケーブルが敷かれていました。 山頂に似つかわしくない琵琶湖TVなどの共同アンテナが建ち、2棟のコンクリ建物が立っています。 それへの物資供給ケーブルのようです。 でも作業員が上がる整備された道はありませんでした。 数本ある山道を上がってくるのでしょう。 山頂の一段下に、かつての山城を思い出させる石垣が残っていました。 崩れた石垣の石も多数残っています。 土塁や長い年月により浅くなった空堀の跡もあります。 北側にも小さな平坦地があり、その間を上がってきた山道が通っていますが、山城跡から見ると、これはまさに堀切でした。 北の山頂にも砦が築かれていたものと思われます。 かなり満足して下りにかかりました。 楽な下りこそ滑りやすく、山頂を目指す獣道ルートが重合してるので、間違えないように慎重に下ります。 こころ強い味方が、小学生看板です。 それでも1ヶ所、どうにも判断に苦しむ分岐があり、数度行ったり来たりしましたが、正解ルートを選択することが出来ました。 まあ、間違ったルートでも、急斜面ながら、同じところで合流しましたが。 「宇佐神社」横まで下りてきて、朽ち果て苔むした土塁を見つけました。 この土塁の配置を考えると、相対するのが「宇佐神社」です。 ここに森可成の館だあったのかもしれません。 山城は終の防戦場所で、日常は毎日あんな山道を上り下りしません。 麓の館で日常業務をこなし、いざという時の防戦が敵わなくなって、山城に退却し、標高差の有利を得て、最後の奮戦でなんとか延命しようとします。 その館を敵軍に占領された時の次の防戦ラインの土塁のようです。 僕は、戦国武将になった気分で、小さくなった土塁を越え、宇佐神社に向かって道なき木々の 間を進軍しました。 そして宇佐神社前の舗装路に降り立ちました。 すると、宮司さんなのだろうか、車から荷物を下ろしていた御仁が、ぎょっとして僕を見ます。 不意打ちだったのでしょう。僕の勝利です。 「おはようございます」と挨拶し、いつものように10円賽銭で参拝しました。 「これまで、家族を見守ってくれてありがとうございました」、いつもの挨拶です。 僕は、「・・に合格させて」とか「・・の足が治りますように」などのお願いを、神仏にしません。 生まれて2ヶ月で、致死率の非常に高い腸重積という病気になり、手術を勧める小児科医から僕を引っ張り合い、罵声を浴びながら、母親は「回復手術が成功しても、体力が持ちません」と強引に僕を取り戻しました。 すぐに駆けつけた関西労災病院で、たまたま帰り支度が遅くなって残っておられた部長先生に診てもらい、高圧浣腸数回で治りました。 母の話では、お隣の子も同じ病気になり、手術は成功しましたが亡くなりました。 その後、僕自身や子供達の人生を見ていて、生死の境目なんてほんの一瞬だとわかりました。 人の力の及ばない何かが、僕や家族を事故や病気から守ってくれているとしか思えません。 受験に失敗しようが、仕事でミスろうが、みんな小さな事に見えてしまいます。 「今まで生かしてくれてありがとう」 「明日死んだって、昨日までありがとう」です。 小さめの本殿の前に小さな拝殿、さらにその前に農村歌舞伎が演じられていたのでしょうか舞台がありました。 能楽が盛んだったと言われる北摂の神社には、小さな神社にも当たり前のようにありますが、京都や滋賀では大きな神社にしかないと思ってました。 謂れを読むと、源頼義がAD1065年に建立すたのだとか。 源頼義と言えば、長男悪源太義平・三男頼朝・九男義経の親父ではないか・・・?何か感じが違う。違和感が。1192作ろう鎌倉幕府との年代に隔たりが・・・。 気になったので帰って調べたら、義平の親父は、源義頼でした。 名前が似ててややこしいが、同じ清和源氏系河内源氏系でした。 頼義は、清和源氏初代源満仲の子で河内源氏の祖頼信の子で、八幡太郎義家の父親。 義平・頼朝・義経兄弟の直系の先祖でした。 森可成の館址に神社が建ったのではなく、遠い先祖の建てた神社の裏山に城を築いたようです。 なかなか面白い登山になりました。 時刻は7時を回っています。 急いで参道を下りました。 参道脇の小さな側溝には、山からの湧き水が何ヶ所からも流れでています。 日本は、水に恵まれています。 手頃な湧き水を飲んでみました。 乾いた喉に、優しい潤いです。

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