2010/12/10(金)16:32
中大兄皇子の娘 の巻
「中大兄皇子の娘の墓か」
という新聞1面記事に目が止まりました。
パッと閃いたのは、三田の小野・大日堂の謂れ板に書いてあったこと。
中大兄皇子と中臣鎌足がここにやってきて、小野の地域の世話役である富農の家に泊まり、そこの娘との間に息子が生まれた。
父から剣を授かり、ここで青年になった。
そして京に上り・・・
中大兄皇子は7世紀の人だけど、下って平安時代までは当然、更に下って室町時代だって、身分の高い人が地方の家(たいていはその地区の世話役の富農など)に泊まると、その家の娘や娘がいなければ妻を夜伽として添わせるのが普通だから、いろんなところに子どもがいたらしい。
その子が父の引きで出世し、母親も出世した例は、山ほどある。
「誰との娘だろう?」なんて思いました。
中大兄皇子は、中臣鎌足とともに大化の改新をして蘇我氏が私していた政治を天皇家に取り戻した人で、後の天智天皇。
死後、息子と天智天皇の弟の大海人皇子との間に跡目争いが起き、大海人皇子が勝利し天武天皇になった。
天武天皇の妻は天智天皇の娘・・・なかなか面白い激動の日本史の時代です。
新聞記事を詳しく読むと、奈良明日香村の中大兄皇子の母親・斎明天皇と斎明天皇の娘・間人皇女の墓のすぐ前で出土したとか。
母・娘・孫娘(大田皇子)3代のお墓が近接してたんだなあ・・・面白いです。
大田皇女は、先に書いたように天武天皇の正室。
まあこの時代は、今のように一夫一婦制じゃないし、夫婦同居も一般的じゃないから、本当の父母かも怪しい時代だけど、夫や父など男どもの権力争いと一線を引いて、女性同士しっかり結びついてる感じで、日本を根っこで動かしていたとも言われる女系の流れが表に出てるなあと、興味深く読ませてもらい、想像させてもらいました。
いやあ、実に日本史はおもろい。
これだから謂れ読みはやめられません。