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カテゴリ:その他
浜口庫之助という人は作曲家として名高いが、作詞者としても印象深い詞を書き残している。最近名前を聞くことが稀になったが、時間の波に洗われても 古びることのない、むしろ輝きを増してくるような唄の作り手だったと思う。 たとえば「もう恋なのか」の歌詞を見てみよう。タイトルはなんということもない凡庸なものに思えるが、歌詞には深い奥行きがある。 「恋というもの 知りたくて あの娘の名前を よんでみたら」 ⇒とくになんということはないですね、当時のふつうの流行歌のふつうの出だしです。ちなみに最後の「ら」は私の耳にはあまり聞こえていませんでした。 「俺のこころの かたすみを 冷たい夜風が 吹き抜けた」 ⇒うん?失恋でもしたのかな。それにしては冒頭の「恋というもの 知りたくて」という歌詞とうまく符合しないな、という感じですね。ここで軽い疑問が残 ります。恋を知らないままに失恋することはできないはずですから。 「ああ このさびしさは もう恋なのか ああ このさびしさは もう恋なのか」 ⇒ここはいいですね。恋にあこがれる男がいる。恋の予感を感じる相手もいる。でも、恋が何かはまだわからない。あこがれの相手の名前をとりあえず呼んで みる、すると、なんともいえない「さびしさ」がこころの中を吹き抜ける。これが「恋」なのではないか、というんですね。恋の予感とその本質にある淋しさ を結びつける発想は凡庸な感覚の持ち主にはできません。どうもこの恋ははじまるまえにすでにおわっているのではないかという予感を感じさせます。しか も、この最後のフレーズは絶唱というか、熱唱というか、切々とうたいあげられる。平凡に思えたこの唄のタイトルががぜん輝きを帯びてくる瞬間です。 二番。 「おとなになりたいころがある 恋を知りたいころもある」 ⇒う~ん。ここはあんまりよくないですね。穴埋めにとりあえず使われた歌詞というところ。ことさら何もいうことはありません。 「あの娘の笑顔も約束も 信じられないことばかり」 ⇒うん、なんかあったんだなという感じですね。一番の終わりから一定の時間が経過して、その間に何かがあった。そこでは気になるあの娘は笑顔で約束して くれたんだ、何事かを。おそらくは待ち合わせの約束でもしたのかな。でも彼女はこなかった。私は裏切られたと感じている。 「ああ このむなしさは もう恋なのか ああ このむなしさは もう恋なのか」 ⇒ここでは恋は「むなしさ」と結びついている。まだ恋を経験しないうちにそのむなしさだけを先取りして味わってしまう「むなしさ」。むなしさは普通恋の 終わりとむすびつくもの。でも、ここでは恋以前と結びついている。このあたりのやるせなさも絶唱、熱唱とうまくなじみます。 三番。 「死ぬということ 知りたくて 月の光に 照らされた 冷たい線路を みつめていたら いつか涙がこぼれてた ああ この悲しみは もう恋なのか ああ この悲しみは もう恋なのか」 ⇒耳で聞いていると、ここは最初驚きます。なにがあったんだろうという感じですね。ここでは知りたい対象は恋から死へと変わってしまっている。そして、 月、冷たい線路という死をリアルに意識させる情景が詠み込まれる。ここには飛躍があるようでいて、しかし、恋―死―月はなぜか親密に結びつくものでもあ るということが思い起こされるところです。 一番、二番、三番、それぞれの間に時間や空間、出来事の間隙があり、適度に「間」が空いている。そこを聞き手は自分なりの想像力を用いて補填していく。 聞き手もそのように作り手の側に身を寄せることで、この唄がいっそう身に、心にしみるものとなる。 使われていることばは奇異なものでも新奇なものでもなく、むしろ定型的なものだが、しかし、恋を見つめるアングル、視点そのものはとてもユニークだ。恋 の本質は真ん中ではなく、周縁にこそあらわれるものだという視点はぴくりとも揺るがない。これは名曲「みんな夢の中」にも現れている。恋ははじまるまえ から終わっている。終わってしまってからもはたしてあれが本当の恋だったのか確信がもてない。永遠に知りえないもの、それが恋だとするならば、それが死 と類縁関係にあることもまた当然なのかもしれない。 -------------------------------------- STOP HIV/AIDS. Yahoo! JAPAN Redribbon Campaign 2005 http://pr.mail.yahoo.co.jp/redribbon/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.01.02 08:18:01
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