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カテゴリ:その他
直線と曲線
自然界には直線がない。これはよくいわれることである。そこには無数のバリエーションの曲線が存在しているのみである。それに対して人工の世界は至るところ直線が氾濫している。 近代的思考のシンボル、それが直線なのかもしれない。人が直線を引くとき、それにしばしば伴う行為は「切断」である。線を引き、それにそって切断する。それらを組み合わせて建造物を造る。こうして人間の居住する空間が生まれる。「切断」とは男性性の本質でもある。(これは生物学的性とは関係がない。人間の本質を男性的なもの、女性的なものに分けたとした場合の一方というくらいの意味である)これに対して女性性の本質は「包含」であるといわれる。この両者は同じ人間の中にも分かちがたい形で共存している。 直線は抽象の世界であり、原理の世界であり、それだけに虚構の世界であるということもできる。二点間を最短距離でつなぐ直線というものは現実世界には存在しない。それはただ「そういうものがあると仮定して」という仮定の中に、定義の中にしか存在することができない。 その定義の中から近代的思考が発生してきたことを考えると、この符合は興味深い。 一方、世界中にはさまざまな形の「カミ」が存在している。そのカミのシンボルはことごとく曲線で成り立っているように思われる。はたして直線で形づくられる「カミ」をシンボルとしていただく民族、種族が存在しているだろうか。 曼陀羅、仏像、イコンの多く、道祖神の類に至るまで、その多くは曲線によって描かれるもののように思われる。ただ十字架とダビデの星を除いては。 人間の意識に直線が生まれた瞬間、それらが曲線の世界に呑み込まれ、ふたたび息を吹き返して世界中を覆う再生の瞬間、そこに今の人間の意識の核と同時に病根が潜んでいるのではないか、そういう気がしてならない。 「直線と意識」「直線的思考」というものをふと考えてみたのである。「直線と曲線の興亡」という形で人間の歴史の一断面を切りとることはできないものだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.12.15 10:44:28
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