|
カテゴリ:その他
ある人の人間性を知るためには、その人の好きなものを知ればいいか、それともその人の嫌いなものを知ればいいか、これはなかなか微妙な問題である。しかし、生徒に文章を書かせる時のテーマとして、たとえば「私の好きなことば」と「私の嫌いなことば」のどちらの方がより面白い文章を生み出すかというと、これはもう圧倒的に後者である。それは経験的にはっきりしている。
おそらくは「好きなもの」を通して現れるその人の人柄には、やや漠然としたふくらみがあり、その輪郭はにじんでぼやけている。そこには理想や希望という名のやわらかいもやをまとった形で、その人の姿が描き出される。 しかし、「嫌いなもの」を通して現れる人柄は、しばしば鋭角的で鋭く、輪郭線はくっきりと鮮明である。 そして、嫌いなものというのは、多くの場合、きわめて個別的である。ゴキブリが嫌いという場合、何を嫌っているのかを一般的に説明するのはなかなかむずかしい。「黒光りする、固い表皮におおわれた、ごそごそはい回る虫」と一般化したところで、かぶと虫やくわがたはぜんぜん平気という人も珍しくない。嫌いなものはただそのものが個別的に嫌いなのだ。人の好き嫌いにもそれはいえる。その多くは、理由を一般的に説明することはできないのだが、「とにかく嫌いなものは嫌い、嫌なものは嫌」なのである。 それでもなおかつ、自分の嫌いなものを一般化して説明しようと試みてみる。うーん、なかなかむずかしいが、一言で言うと、私は「なめている」ものが嫌いである。この場合の「なめている」とは、「てめー、なめんなよ」という場合の「なめている」である。 もう少し正確にいうと、より上位に位置し、より力の強いものが、より下位にあり、より力の弱いものを「なめている」場合、その上位に位置するものの姿勢がとにかく大嫌いである。 生徒をなめている教師、従業員をなめている経営者、読者をなめている新聞記者、聴き手をなめているミュージシャン、子供をなめている大人。みんな嫌いである。 不思議なことに、この関係を逆転させて、教師をなめている生徒、経営者をなめている従業員、新聞記者をなめている読者、ミュージシャンをなめている聴き手、大人をなめている子供。これらにはぜんぜん不快感を感じない。というか、そのほとんどは現在か、過去の自分にあてはまるような気がする。嫌悪感よりもむしろ親近感を抱いてしまう。それもまた人間的にどうかとは思うけれども。 強い者が弱い者をなめていることに対する感情は、「怒り」というようにきちんと整理されたものではないように思う。「嫌悪感」ということばでも、なんだかまだ整理されすぎているように感じる。もっと生理的なむかむかした感じ、ことばになる以前の吐き気を催すようないやな感じ。そういう気持ちだ。先日、英軍の兵士がイラクで子供に暴行を加える映像がテレビで流されたが、あれなども背中越しに撮影者の声を聞くだけで、吐き気がするような嫌な感じを味わった。むなくそが悪くなる、というしかないような生理的な不快感であり、嫌悪感だ。 ここで話は大学時代に飛ぶ。アルバイトをしながら自活していたこともあり、当時、私は貧乏であり、かつ毎日酒を飲みたいという切実な欲求をもっていた。この二つの前提条件から導き出される結論は一つである。「安酒をあおる」。それしかない。他の選択肢は考えられない。 ビールや日本酒では高すぎる。より少量で効率よく酔うためには安い洋酒というところが相場だろう。当時は舶来の洋酒は高級品であり、とても手が出ない。いきおい国産の洋酒の安物ということになり、選択肢は限られてくる。思いっきり貧乏くさく「トリス」でいくか、「赤」という名の洋酒を選ぶか、「黒」という名の髭ラベルの洋酒かということになる。三通りの選択肢のうち、一つを選ぶという、かなり限られた世界である。 友人のうちに遊びにいくと、たいていそこには「赤」という名の酒があった。私も高校時代、それを一本半空けて、前後不覚に陥ったことがある。それ以来しばらく飲んでいなかったが、友人宅でそれを飲む機会があった。口に一口含んで、それを飲み干す。びりっという刺激感があって、のどを通り過ぎるときにもいやな抵抗感があって、あとくちも悪い。「まずい」と思ったが、どうもそれだけではない。なんだか飲んでいるととても不快な気分になってくる。これはなんだろうと思った。 そう思いながら杯を重ねていくと(重ねるなよ)、あることに思い至った。これは私の嫌悪感を察知するセンサーの一番敏感な部分を刺激しているのである。それは何か。この酒は「なめている」のである。なにをなめているのか。「安酒しか飲めない貧乏な酒呑みを見下し、なめている」、そういう味だと私は思った。 「おまえら、びんぼーにんはよお、この程度の酒のんでりゃいいんだよ。それで十分、おまえらは。もうすこしまともな酒呑みたかったら、もう少し高い金出して、それ相応の酒を買いな。ちゃーんとそういう酒も造ってるからよ、うちでは。とにかくあんたらは酔えればそれでいいわけだろ。味なんかどうでもいいし、だいいちそんなもん、あんたらにはわかりゃしないしな。アルコールが入って、酔えさえすれば、それでいいんだ。カラメルが入ってようが、着色料が入ってようが、そんなこたあどうでもいいんだろ。これはそういう酒なんだよ。そういう酒。気に入らなきゃ、飲まなきゃいいんだよ、こんな酒」 その当時、まだ若かった私の鋭敏な舌(ほんとかね)は、その酒を口に含んだ瞬間、以上のメッセージを瞬時に読みとったのである。私は、その時、その酒と、その酒を造っているメーカーの酒を今後飲まないことにしようと心に誓った。なぜならそのメーカーは貧乏な酒呑みを「なめている」からである。 しかし、そのメーカーのアルコール飲料の市場占有率はかなり高く、それからもいろんな場所で選択の余地なく、しばしばそこの酒を口にする機会があった。しかし、それらは例外なくまずかった。しかも、相変わらず「なめた」味だった。知識人、文学者をCMに起用し、芸術活動に投資し、活発な文化活動を行い、コンサートホールを建設し、華麗なイメージを創出しながら、それにもかかわらず(というか、その宣伝費の分を酒の製造過程から削り取ったあげく)そこの酒は劣悪で、「なめた」味がした。そこには「なめた」匂いがふんぷんと漂っていた。 一日肉体労働して疲れ果て、わずかばかりの日当の入った紙袋を手に、古い革のかばんのようにあちこちすり切れたおやじたちが、ふらふらと酒屋に入って買っていく酒。職場で怒鳴られ、家族にうとんじられ、ため息とともに懐から取り出して、キャップに入れ、くいっと一口であおる酒。けっして高級でなくてもいい、うまい必要すらない。でも、売値に見合った材料と製法できちんと作り上げ、彼らにひとときの慰安をもたらす酒がなぜ作れないのか。巨大な資本を持ち、巨額の文化事業を行い、海外にまでマーケットを広げている会社が、なぜ自分の国のもっとも貧しい労働者の心を癒すような良心的な酒を造らず、いつまでも「なめた」安酒を作り続けているのか。私は胸がむかむかした。この苛立ちを静めようとして、思わず「赤」の酒に手を伸ばそうとして思いとどまり、その隣にある「黒髭」の酒を買って飲んだ。それからそのメーカーの酒は極力飲まないようにした。今日に至るまでそうである。 でも私は知っている。あそこの酒も、おそらくはあの「赤」の酒も、市場の他の酒に合わせて人知れず少しずつ改良され、おそらくあの当時よりはずっとうまくなっているだろうことを。ちょうどその頃、べたべたでおちょこに入れて飲もうとするとちゃぶ台ごと持ち上がってしまいそうなべた甘の劣悪な日本酒を作っていた大手酒造メーカーの酒がいつのまにかそこそこの味になっているように。 でも、たとえそうであったとしても、あの頃のことを私は忘れない。忘れるわけにはいかないのだ。これは単なる私憤ではなく(いや、私憤であると同時に)公憤でもあるのだ。あの後、飲み屋に入って「当店は○○○○○のビールしか扱っておりません」といわれて、何も注文せず、そのまますっと席を立って帰ったこともある。何十年前のことであろうと、私はあの「なめた」味を忘れることはできないのだ。 そのメーカーが悔い改める道は「ひととおり」しかない。それは一日疲れて働いてうちに帰り、泥のようになったくたびれたおやじにひとときのやすらぎを与える良心的な「安酒」を作ること。それだけである。 大企業であり、大広告主であることをいいことに、マスコミでもけっして批判されないことを頼みとして、いいかげんな安酒を作り、それを気の利いたコマーシャルに載せて貧乏人に売り飛ばすことをやめること。ただ、それだけである。 もう一度いおう。悔い改める道はたった「ひととおり」しかない。それは貧乏大学生の頃の安酒の選択肢のように「さんとおり」はないのだ。 それは「さんとおり」ではない。私のいいたいのはそれだけだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|