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以前にも書いたことだが、最近の若者を自分たちとはまったく異なる新人類ととらえることに私は懐疑的である。理由は以下の通り。
1 人間はそもそも後続世代に対してそういう見方をしがちである(私がわざわざそれに加担する必要はない) 2 若い世代は基本的にわれわれの似姿であり、鏡である。 3 日常的に若者に接する機会の多い人間は「最近の若いやつは」という言い方を自制すべきだと思う。(これは根拠ではなくて、信念ですね。なぜそう思うかというと、若者と接する機会の少ない人はその発言をうのみにしちゃう可能性が高いからです。) ただし、だからといって世代間の意識の相違や変化を認めないというわけではない。そんなことはぜんぜんない。こちらの予期しない反応や態度を目にして驚くことはしばしばである。でもそれを若者の傾向ととらえるよりも、同時代に生きる人間の特徴ととらえたほうがフェアな態度ではないかというのが私の基本的な考え方である。 ということで前置きは終わり。でもね、と話は続きます。やっぱりびっくりしちゃうことはあるんです。こちらの予想を超えた言動に出会って「びっくり」ということは少なからずあります。今日はそういうお話です。 彼らがいわゆる「単語しゃべり」をすること、あるいは「名詞(体言)しゃべり」といってもいいかもしれないが、とにかくぼつぼつと単語(その多くは名詞)を並べてしゃべる傾向が強いということはいえます。でもこれはいまさら驚くことではない。 ぬぼーとした18、9のくすんだ服装をしたおにいちゃんが、ドアを開けて入ってきて、「何か用かな」という問いかけに対し、「しょーろんぶーん」。やや間をおいて「ぷりんとー」と答える。これなどは即座に解読できないと仕事がたちいかない。彼が何をいいたいか、おわかりになりますか。 そうです。もちろん「私は昨日小論文の授業を欠席したのですが、その時に配ったプリントをいただきたい。まだ残部のプリントは保存してあるでしょうか」と言っているわけです、彼は。これは若者語の解読としては初心者クラスの問題ですね。 もちろんこのように解読して、事務的に対応するのは通りすがりとか、初めて会う生徒に限られます。もしも自分の教えている生徒だったら、対応はまったく異なります。 「しょーろんぶーん」 「ああ、小論文ね、知ってるよ。かれこれ20年近く教えてるからね。むずかしいよねー、小論文。でもあれが意外に奥が深くて、小論文とはなにかという問いに対する究極的な答えをみつけるにはまだいたって……」 「ぷりんとー」 「そう、そう、小論文教育におけるプリントの重要性、これがまた奥が深くてね。それに関しては大きく分けて三通りの立場があって、そのひとつは……(以下、延々とつづく)」 となるわけですね。これを教育的指導、あるいは教育的シカトといいます。徹底的にわからないふりをするわけです。たまにやると面白いですよ。(というか一度やると、二度と彼らは単語しゃべりをしなくなります) しかし、彼にも彼の事情というものがある。それも事実です。たしかに彼らは「ぼけー」としてぼつぼつと単語を並べるだけの話し方をします。しかし、その背後にはちゃんとそうするだけの理由があるのです。 彼らは「ぼけー」としているわけではなくて、正確にいうと「ぼけ」なのです。なに、意味がわからない?ほら、「ぼけ」と「つっこみ」っていうでしょ、漫才の。あの「ぼけ」です。つっこみは当然、彼の母親です。彼らの日常会話は以下のようなものです。 「しょーろんぶーん」 「の授業は昨日だったわよね。でもあんた昨日風邪引いて授業やすんじゃったでしょ。だいじょうぶ。欠席して。でもむこうだってサービス業なんだし、欠席者にはそれなりのアフターサービスってのがあるんじゃない。お金ももったいないし、とりあえずは行って来て聞いてみれば」 「ぷりんとー」 「そうそう、プリント、プリント。講評とか参考資料とかあるはずよね。きっと昨日の分、保存しておいてあるはずだから、それとってくるといいわよ。ついでに自分の答案ももらってこなきゃ。もしプリントないとかいわれたら、お母さんが後で電話で抗議してあげるからね。はやくいっといで。」 ほら、ぼけ役は二単語ですんじゃうでしょう。日常的にこういう「ぼけ、つっこみ」的会話をしてるもんだから、彼らはこういう話し方をするわけです。だから、若いやつがけしからんっていっててもしょうがないですよね。 だからこの程度の単語しゃべりでは私はおどろきません。しかし、先日、その私をおどろかせることがあったんです。 例によって例のごとく、ぬぼーとした18、9の男登場。なんというかまんぼうが立ち泳ぎしながらチェックのシャツとグレーのジャンパーとジーパンを着て、リュックを背負ったという、そういう出で立ちの男性です。彼は私のほうへやってきて「あのー」といいます。 「どうかしましたか。」という私の問いかけに彼はこう答えました。 「自習室が」 「自習室がどうかしたのかな」 「あいてないんですー」 「自習室があいてないんです」 別におどろくような発言ではない。主述があるし、ごていねいにも助詞まで使っている。でも私は首をひねりました。なぜかって?自習室はあいてるはずなんです。予定では。 「おかしいな、自習室あいてるはずなんだけど」 「でも自習室、あいてないんです」 「ちょっと待って。自習室の予定表もってくるからね」 「ああ、はい」 「あれ、やっぱりあいていることになってるな」 「でもあいてないんです」 「そういえば朝私の知ってる人が鍵の当番で、たしか自習室あけてたはずだよ。あいてるはずだよ、きっと。」 「でも、あいてないんですー」 「そう、じゃ、いっしょに行ってみよう」 われわれは二人で自習室に出かけました。すると自習室にはこうこうとあかりがともっています。 「あいているじゃない」 「あいてないんですー」 「おかしいなー。」 がちゃ。 「やっぱ、あいてるじゃない。自習室。中に人もいっぱいいるよ。みんな勉強してるし」 「あいてないんですー」 だいじょうぶかな、この子。あたまおかしいのかな。そう思いますよね。ふつう。でも彼の顔をじっと見ていて、私はようやく彼のいわんとすることに思い至ったのです。 「わかった。君は自習室にいったけど、自分の席があいてなかったっていってるんだ」 「はいー」 私はおどろいた。「自習室があいていない」これはどうみても客観描写である。自習室という客体が閉鎖されている。そういう意味にしか私にはとれない。しかし、彼の言説の意味するところはそれとはまったく違うことなのである。「自習室において自分の専有すべき空間があいてない」彼はそういっていたわけです。これはむずかしい。上級者用の問題だ。 「自習室=自習室において自分のために空けられておくべき空間」という含意が私には読みとれなかった。 まだ会ったことがないので確言はできないのだけれど、もしも神さまという存在がいて、彼と話したとしたら、彼はおそらくこういう話し方をするのではないかとその時思った。 自習室は私の創造したものであり、そこには当然私の位置するスペースがあるべきである。もしもそれが存在しないとすれば、これほど理不尽なことはない。当然下々の者にクレームをつけねばならない。どういうクレームか。 「じしゅーしつがあいてないー」 そっか、彼は「若者は神だ」という深遠なるメッセージを私に伝えていたんだ。むずかしいなー、超難問だなー。って、そんなもんわかるかっ。っていうか、わかってたまるか。 うん、まてよ。冒頭の自分の発言となんだか矛盾してるような気がしてきたな。でも、ま、いいか。たぶん、気のせいだ、きっと。なんたって、春先だしな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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