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カテゴリ:その他
たとえばこういう会話がある。
「ねー、○○って、好き?」 「好き、好き、大好き。」 「○○って、いいよねー」 「ほんっと、最高。」 また、こういう会話もある。 「ねー、××って、私きらいなんだけど。」 「あー、私もきらい、だいっきらい、××」 「××って最低だよねー」 「ほんっと最低」 前者には好みの共有があり、後者には嫌悪の共有がある。そして、いずれも根拠の説明はない。私の感覚では前者には自然さを感じるが、後者にはなにか「いやな感じ」を受ける。両者の違いはどこにあるのか。 基本的に好きなものには理由はいらないのだと思う。その根拠や理由を明らかにしたところで、そこで何かまったく新たなものが得られるということはないからだ。 しかし、嫌いなものには理由や根拠が必要だ。それは以下のような理由による。 民主主義の社会というものの成り立ちを考えてみる。自らの政治的意思を代弁する政治家を一人一票のシステムで選出する。一票でも票数の多い者が勝つ。民主制とは基本的にそういうシステムである。アメリカの大統領選挙のように国政の最高権力者を国民の直接選挙で選ぶというシステムが選択される場合もある。こういうシステムが成立するにあたってはそれなりの理由があったと考えられる。 人間が集団を作る時、そこには必然的に闘争が生まれる。その闘争は時として武力を伴い、その結果、時には集団そのものが壊滅的なダメージをこうむる場合も考えられる。 そのような事態はなんとか避けなければならない。それを防ぐ手だてのひとつが民主制というシステムである。そもそも相互に異なる主張や利害をもつ集団の発生そのものを防ぐことは不可能だ。それは人間の本性に反する。また、その集団同士が何らかの形で闘争を行うことを防ぐこともまずできない。だがその闘争の結果として決定的な敗者が生まれると、そこには復讐心が生じ、それが次の戦いの火種になる。決定的な敗者を復讐に駆り立てない方法はなにか考えられないか。 敗者を慰めるにはどういうことばが有効か。まずは彼の肩をそっと叩いて「気を落とすなよ、次があるじゃないか」。こういう方法がある。つまりもう一度戦うチャンスを与えること。2年後、3年後、4年後に必ず次回の戦いを準備する。この「機会の確保」がまずは求められる。 次に考えられる慰め方、それは「仕方ないじゃないか、正々堂々と戦って破れたんだから。おまえはやるだけはやったよ。」これも悪くない。つまり、その戦いは正当なルールにのっとって行われた公正なものである。このことを保証することも必要だ。不正な手段や理不尽な力で敗者に追いやられたと感じさせることは、強い恩讐の意識を生む。これはつまり「正統性の確保」ということになる。 つまり民主制における選挙とは、次回の戦いという「機会の確保」と、戦いそのものの「正統性の確保」という条件を満たすために作られたシステムと考えられるのである。 いちおうこの二つの条件が揃えば、敗者の戦後処理は可能になる。でもこれだけではまだ不十分だ。戦闘直後の敗者を慰めるだけですべての問題が解決されるわけではない。ある戦いから次の戦いに至るまでにはかなり長い時間的スパンがある。この間にどのようにして安定した秩序を維持するかという、より大きな問題がそこには残っているのである。 具体的にいえば、51対49で勝敗が決したとして、ほぼ半数の非賛同者を抱えて、その社会にどのように安定した秩序を形成するかという問題がそこには残る。 この状況の問題点を一言でいうならば、それは全体の半数近い反対者とどう共存するかという問題である。これは勝者、敗者双方にいえることである。何年間かの間、自分とは異なる主張をもった、いわば「敵」と共存していくこと、それが民主制には求められる。 ことばを換えれば、自分の嫌いなものとどう共存するかということが民主制を成り立たせるための必須の条件になるということである。 そもそも人間は多くの場合、好きなものは無条件に好き、嫌いなものは無条件に嫌いである。これは好きなものに関してはとくに問題を生じさせない。むしろ人間の作る集団は、この「好き」という感情を接着剤として利用しているということもいえそうだ。 問題は「嫌い」のほうである。これは前述したような集団間の争いの原因となりかねない。この「嫌いなものとの共存」はいかにして可能になるのか。 嫌いなものと共存するために必要なことはなにか。それは嫌いなものから目をそらすことである。嫌いなものをじっと見つめていると、ますます嫌いになってくる。だから、目をそらすのである。でも嫌いなものを自分の意識の外へ追いやってしまっては、そもそも嫌いなものとの共存はできなくなる。では、どうするか。 考えられる方法は「言語化」である。嫌いなものを言語で表現するのではない。それは対象を凝視することになってかえって逆効果だ。対象をことばで描写するのではなくて、「自分がなぜそのものを嫌うのか」をことばで説明しようと試みるのである。 そうすると、自分の視線は当の嫌いなものからぐるっと迂回して、自分の方へ戻ってくる。なぜ自分はそれを嫌うのかというのは、嫌われた対象の問題ではなく、あくまでもその対象を嫌う自分の問題になるからだ。しかも、その理由を言語化することで、認識の対象は対象そのものから、その対象を客観的に分析した自分のことばへと移る。視線を嫌いなものから自分の内面へと移し、対象を嫌いなものそのものからそれを分析する自分のことばへと置き換える。これによって嫌悪感はかなり薄まってくる。この状態ならば、「嫌いなものとの共存」はかろうじて可能になる。(それでもまだ困難な場合は多いが) 民主制の社会では必然的に嫌いなものとの共存が求められる。その共存を可能にするためにはその対象がなぜ嫌いなのかという根拠をことばによって説明する必要がある。ことばという緩衝材を間に挟むことによって、対象との距離をとるのである。好きなものとは密着したい、嫌いなものとは離れたい。この人間の本性にのっとる形で問題は解決されなければならない。 だから民主政治においてことばによる活発な議論が尊ばれるのは、それが嫌いなものとの共存を行うための最も有効な手段だからなのである。 「ねー、××って、私きらいなんだけど。」 「あー、私もきらい、だいっきらい、××」 「××って最低だよねー」 「ほんっと最低」 この会話にはほんのわずかではあるけれど、民主制のシステムの原理に反する「嫌いなものの徹底的な排除」の姿勢が感じられる。 だから私がこのブログでいろいろと嫌いなものをとりあげて延々と文章を書き連ねているのは、けっして私が狭量な人間だからではなく、むしろ民主政治の原理にのっとったきわめて正統的かつ倫理的な振る舞いだったのだということが、賢明な読者諸君にはおわかりになったであろうと思うのである。 (ふ~ん、そうだったのか、ぜんぜん知らなかったっす。※筆者談) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.03.23 09:01:15
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