451356 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【ログイン】

M17星雲の光と影

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

2006.04.02
XML
カテゴリ:その他
「公平性」ということばについて時折考えることがある。

このことばはしばしば誤解されて用いられているように思うのだが、公平性とは静態を意味するものではない。天秤ばかりの二つの皿に重りを載せ、それがちょうど水平に釣り合った静止状態を「公平性」の実現と考えるとすれば、それは誤りであると私は思う。

あるものとあるものを人間の意識の中で天秤ばかりの二つの皿に載せ、そのはかりの腕が完全に水平状態になることなど、まず起こり得ない。はかりの支点には生身の人間の感情があり、主観がある以上、それはぐらぐらと動き続け、けっして静止しないはずである。無理に静止させようとすれば、支点から好悪の感情や主観を奪いとらなければならない。いわば「無私」の状態を実現しないかぎり、このはかりが止まることはないはずだ。

「公平無私」ということばが、このような静止状態を意味するのだとすれば、そこでいう「公平」とは私がこれから述べようとする「公平性」とは異なるものである。主観や私的感情を排除、排斥することで得られる「公平」に私は興味を感じないし、それを論じることにも意味を見出すことができない。私の考える公平性とは、排除の対極にある精神の姿勢だからである。

私の考える公平性とは、「公平を目指して努力し続ける精神の姿勢」を意味する。「公平を目指そうとして努力すること」、それが公平性の定義である。

具体的に言おう。公平性とは、自分の嫌いなものの長所を見つめる姿勢であり、自分の好きなものの短所から目をそむけない姿勢のことである。

これはしかし生身の人間には大きな困難を伴う作業である。嫌いなものの短所だけ、好きなものの長所だけを見続ければ、話はずいぶん簡単になる。論理的な整合性は増し、感情的な動揺は抑えられ、複雑性は回避され、話はすっきりと単純にクリアになる。しかし、そのような単純化の誘惑に抗する姿勢、それこそが公平性なのだと私は思う。

いいかえればそれは「排除」の誘惑に乗らず、あえて複雑性に踏みとどまる姿勢である。心の中で微細に揺れ続ける動きをじっと見つめる忍耐心をもつことである。

話が抽象的にすぎる。具体例を引こう。

現在、村上春樹氏の「村上朝日堂」が三ヶ月限定で公開されている。読者からの質問に村上氏が答えるという趣向である。そこに先日の「原稿流失事件」に関する質問が寄せられていた。それに対する村上氏の回答は以下のようなものであった。

「生原稿流出事件のことですが、一部のマスコミでは「村上春樹が怒っている」みたいなかたちで報道されたみたいですね。でも「文藝春秋」に掲載された文章を読んでいただけるとおわかりになると思うのですが、僕は決して怒っているのではありません。むしろ悲しく、残念に思っているだけです。そしていろんなことをできるだけ公平に眺めようと試みています。僕があえてこの文章を書いたのは、こういうことが二度と起こってほしくないからです。」

印象的なのは、「僕は決して怒っているのではありません。むしろ悲しく、残念に思っているだけです。そしていろんなことをできるだけ公平に眺めようと試みています。」という部分である。「いろんなことをできるだけ公平に眺めようと試みています。」ーーこれはことばを正確に使うことの意味を深く知っている人間のことばであると私は思う。

「わからない」「よくわからない」「わかるような気がする」「わかると思う」「わかる」ーー村上氏の小説の中でこれらの表現はきわめて正確に使い分けられている。そして、公平性に関しても、彼はまた正確なことばづかいを行っている。

彼の原稿流出事件に関する文藝春秋の文章を読んで、私はこの文章の一部を引用することは避けたほうがいいと言った。文章の全体を読み、個々の意味のブロック間のバランスを考量しない限り、この文章は理解できないとも言った。そして、それ以上のことはことばにしなかった。

なぜそうしたかというと、私はこの文章は公平性を目指しており、なおかつ公平性の実現には微妙な所で失敗していると思ったからである。「失敗」ということばはあるいは不適切かもしれない。正確にいえば、彼の目指した公平性はそこここで微妙に「ほつれている」のである。なぜそういうことが起こったのか。それは彼が一人の人間であるからだ。生身の人間が完全な公平性に達することなどそもそも実現不可能なことだからだ。

彼は不本意で悲しい出来事に直面し、感情の動揺を経験した。そして、その感情の動きをその背後に存在する事実関係を含めて客観的に抽出し、慎重にガラス板の上に載せ、そっとその上にプレパラートをかぶせ、顕微鏡で観察した。そこにはさまざまな感情の因子が複雑微妙な動きをしていた。彼はそれを微細に観察し、文章に表現する。その際には「できるだけ公平に眺めようと試み」られた。しかし、やはりどうにも整理できない感情のほつれを示す表現があちこちに残った。そして彼はこう思った。公平であろうと試みたのも自分だが、どうしても公平にはなりきれなかったのもまた自分だ。この二つの自分はどちらも自分にとって必要な部分であり、存在だ。だから、このどちらかを切り捨てるのではなく、この二つを二つながら文章の中に組み入れよう。そして分量的には公平を目指した部分の比重を大きくすることで、この問題に対する自分のスタンスを示すことにしよう。彼はこう考えたのだと思う。

だからこの文章の「ほつれ」の部分だけを拾い集めてコラージュすれば、ここから悲憤慷慨の文章を作り出すことも可能だ。ほつれていない部分だけを寄せ集めれば、村上春樹神話の証拠品をここから引き出すことも出来る。でも彼はそのどちらでもない文章を書いた。だからこの文章は引用も要約もできないのだ。私はそう思った。

その読みとりが基本的には大きく誤っていないことを春樹氏の回答を読んで確認し、少しほっとした。そして同時に「できるだけ公平に眺めようと試み」るという表現の意味について考えさせられた。

人間にできることは「できるだけ公平に眺めようと試みる」ことだけなのである。そして、その試みは必ず失敗する。でもだからこそ、この試みは大きな意味をもつのだ。どこまでも公平であろうと努め、ついにはそれが不可能であることを知る。そこにこそ人間の精神における「公平性」の意味が存在するのだと私は思う。

この国の社会を支配する精神の中でいちばん脆弱な部分、ほとんど欠落しているといってもよい部分は、こういう意味での「公平性」を実現しようとする姿勢だろうと私は思う。

もうひとつの実例を引く。4月2日付の朝日新聞第一面、外岡秀俊東京本社編集局長ゼネラルエディターの「『気骨ある紙面』めざす」という文章の一節である。これは新しい年度を迎えるに当たっての朝日新聞の所信表明演説ともいうべき文章である。二箇所引用する。

「はかない風情から、桜は戦前、武人の死をかたどる『軍国の花』とされた。しかしその一時期のゆがみを除けば、平安朝から今に至るまで、桜は咲く花を愛で、散る花びらを惜しむ日本人の優しい心根の象徴だった。」

「朝日新聞は戦後日本が独立した52年、ここに掲げる4カ条の綱領で、読者への責務と紙面の指針を示した。戦争翼賛に走った汚点を反省し、二度と同じ轍を踏まないことを誓ったものだ。一言でいえば、徒党にくみせず、イデオロギーにとらわれず、『リベラル』と『中庸』の気風を大切にするという目標だ。」

外岡氏は以前文学賞受賞の経験もある新聞人である。しかし、この文章全体には悪い意味での文学性、あまりにもナイーブな批評性の欠如を感じるが、まあそれはいい。ここでのテーマを公平性に限ろう。この文章の主題もおそらくは「公平性」ということになると思う。

私が見過ごせないと思った文言、それは「その一時期のゆがみを除けば」という表現、そして「戦争翼賛に走った汚点を反省し」という部分である。

この文言の背後には、「消すべき過去、排除すべきいまわしい過去」というニュアンスが感じとれる。それは日本という国の本体、朝日新聞という良心的メディアの本体からは逸脱した一時期の病的な症状である。彼はそういっているように私には思える。しかし、はたしてそうだろうか。それは例外的な「一時期のゆがみ」であり、一時期の「汚点」だったのだろうか。そうであれば、その汚れを消しゴムで消し、修正液で修正し、レーザーを当てて消し去ればすむだろう。でもはたしてそういう「排除」の姿勢で公平性を保ち続けることができるのだろうか。私はこの文言を第一面に掲げる新聞の公平性に全幅の信頼を置くことはできない。

人生の一時期、世の社会秩序に背く行動をし、不良と呼ばれた青年が、社会人として立ち直り、若い日のことを振り返って「あの頃の俺は一時的にゆがんでたんだよ」「あれは俺の人生にとって唯一の汚点だね」といったとすれば、私は彼の人間性に十分な信頼性を置くことができない。過去のあなたは今のあなたにとって必要な一部であり、それを克服する過程の中で現在のあなたが作られたと考えるならば、それはやはりあなた自身の一部なのだ。それを「ゆがみ」や「汚れ」として排除しようとすれば、結局は、あなたは現在の自分をもいつの日か否定することになってしまうのではないか。私は彼に小さな声でそう忠告すると思う。

公平性は何かを排除する精神の姿勢とは対極に位置するものである。それは求めることはできるが、完全に手に入れることはできない価値であり、事態を複雑にし、論理を込み入らせ、感情の振幅を呼び起こすやっかいな価値でもある。でもだからこそわれわれが社会で他者と生きるためには、この公平性の実現を試みることが大事なのだ。

嫌いなものの長所を見つめ、好きなものの短所に目を向けること。そうすることで、世界は平面ではなく、立体的な像となる。ある物体に立体感を与えるのは、異なる方向からあてられた光であり、その光が作り出す影なのだから。そして、そこに陰翳をもった本当の意味での「他者」が出現する。私はそう思うのである。






Last updated  2006.04.02 21:39:05
コメント(0) | コメントを書く

Calendar

Archives

・2017.07
・2017.06
・2017.05
・2017.04
・2017.03

Comments

М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…
PATTI@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) 訳詞を検索したら、素敵な訳詞が出てきた…
M17星雲の光と影@ Re:読んで頂けるでしょうか・・・?(08/18) らんさんへ コメント拝見しました。あ…
M17星雲の光と影@ Re:読んで頂けるでしょうか・・・?(08/18) らんさんへ コメント拝見しました。あ…
ペット総合サイト@ アクセス記録ソフト 無料 楽天 アクセス記録ソフト! http:/…

Copyright (c) 1997-2017 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.