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カテゴリ:その他
昔、読んだ生物学の教科書の冒頭の一節にこうあった。「生命とは何か。それはタンパク質の存在様式である。」
その定義の簡潔さと明晰さに驚きを覚えた。生命は物質的組成としては特別なものではない。その本体はタンパク質である。けっして得意な物質でできているわけではない。しかし、その本質はそれがどのような様式において存在しているかというところにある。生命にとって本質的なのはWHATではなく、HOWである。この簡潔な定義はそのことを物語っている。 生命体がこの世に生まれ落ちる。その瞬間からその生命体は自らの生を維持するために行動しなければならない。環境に適応し、栄養分を摂取し、危険から身を守り、遺伝子の存続を図らなければならない。そのための最低限のHOWは本能という形であらかじめ体内にセットしてある。しかし、それはあくまでも最低限のマニュアルにすぎない。もしも「神」というものが存在するならば、彼が完全主義者でないことだけは確かなことのように思える。「まあ、路頭に迷うといけないから、ぎりぎり最低限の準備だけはしておいてあげるけど、あとは自分で考えててきとーにやりなさい。うまくいけばけっこう長生きできるかもよ」などといって生命を創出する存在が完全主義者であるわけがない。彼はかなりの「てきとー主義者」である。もっともそのおかげで人間は「自由意志」などというものを持つことができたのだから、ありがたいといえばありがたいことだけれど。 ともかく最低限のマニュアルとしての本能をセットされた生命体はなんとか生きていかなければならない。しかし、やみくもに行動しても成功する確率は低い。 「いくらなんでもこれっぽちの本能だけで生きていくのは無理ですぜ、神さま。もうちょっと行動の指針っちゅうか、ガイドっちゅうか、これにしたがって生きていけば、成功の確率は高いよ、っていうものを教えてもらわないと、わしらやっていけませんぜ」 態度の悪い人間がそう思ったとしても不思議ではない。いや人間に限らない。一定の複雑さをもった生命体であれば、そういう生の羅針盤を必ず必要とするはずである。 神さまはお尻をぽりぽり掻きながら、「めんどくせーなー、勝手にやりゃいいだろう、勝手によ。でも、まあ、おまえたちをあんまし賢く作らなかったのは事実だから、ワシにも責任の一端はあるといえばある。じゃあ、まあ、ちょっとこれでももっていけば」 そういって、神は机の脇にあるメモ用紙をびりっと一枚やぶって、「ほれ」といって人間に投げてよこした。「じゃあな、あとはよろしく」と言い残して。 そのメモ用紙にはこう書いてあった。「好き」 「なんじゃ、これは。好き、これだけか。こんなんじゃ、へのつっぱりにもならねえや。」短気な人間はメモをくしゃくしゃと丸めて、そのへんにぽいと投げ捨てた。 その様子を物陰から見ていたもう一人の人間はその人間の去っていた後に残された紙くずを広げてみた。「好き」か。なるほどな。 本能のままに行動するだけでは、複雑な進化を遂げた生命体は生きていくことはできない。かといって、すべてを自分の理性的判断で意志決定するには能力に限りがある。神はおそらくこのふたつのものの間をつなぐヒントをこのメモに書いてよこしたはずである。その人間はそう思った。それは「好悪の感情に従って生きよ」ということではないだろうか。 生命体にとって食物を摂取することは本能にもとづく行動である。しかし、では何を食べればいいかというのは本能ではわからない。そこに好悪の感情が関与する。自分の生命維持に必要な食物は美味と認識され、「好き」のランプが頭の中にともる。逆に有害物質は体内に取り入れようとした瞬間に強烈な嫌悪感を催し、それを吐き捨てる。警告のブザーが頭の中に鳴り響く。そうすることによって、生命活動の指針を与えようと神は考えたのだ。だから、このメモには「好き」という一語が書かれているのだ。 人間は基本的に「好き」という感情の導きに従って生きていくべきではないか。最近、とくにそう思うようになった。先日、職場へのストレスが蓄積し、高熱を発して入院した若い女性の話を聞いていて、あらためてその思いを強くした。そこはきわめて特異な職場であり、上司の意向が強くその場を支配している。「なぜそうするのか」という疑問に対して合理的な説明はなく、そもそもそういう疑問をもつこと自体が許されないような閉鎖的な職場である。しかし、社会に出たからには職場に適応し、自分のわがままや好き嫌いは押さえて、なんとかここに適応しなければならない。その女性はそう考えて、ひたすら耐え忍んでいるうちに、ついに体が限界に達し、高熱を発し、緊急入院したという。免疫力が低下し、ウィルスが体内に入り込み、それが脳にまで達する怖れもあったそうだ。なんとか一週間程度で回復したが、彼女は退院後、その職場を去ることを決意する。でも、その判断が正しかったのかどうか、自信がもてないと彼女はいう。 「ほんとうにそれでよかったんでしょうか。」 「よかったんだと思うよ。嫌いなものにただ耐えているだけじゃ、なにも得ることはできないんじゃないかな。」 「でも、それではただ適応力が低いだけだということにはなりませんか。」 「いや、それはちがうと思う。自分の体のメッセージをきちんと受けとめることは適応力が低いことにはならない。おそらくその病気の原因は強いストレスだ。そうだよね。」 「ええ、医者はそういってました。」 「ストレスが免疫力を低下させ、通常ならば体外に排除できるはずのウィルスが体に居座り、健康を損なった、そういうことでしょう」 「ええ」 「つまり嫌なもの、嫌いなものが体に入って危機的状況になっている。そのことをシンボリックに体が教えてくれたというふうに考えるべきじゃないだろうか」 「体内に取り入れるべきではない毒素が体に回りかけているから気をつけろというメッセージを体が発したということですか。」 「おそらくね。10代前半くらいまでならいざしらず、そこそこの判断力をそなえた大人であれば、嫌いなものに耐えることから得られるものはほとんどないと考えていいんじゃないかな。大事なことは好きなことをしっかりと好きになること、できればその自分の好きなフィールドの中で自分を鍛錬し、向上や進歩を目指すということじゃないだろうか」 「ええ」 「好きという感情をあまりないがしろにしていると、結局はそのことから復讐されるような気がする。好きという感情は生きていく上で磁石の針のようなものではないだろうか。基本的にはそれに即して生きることを考えたほうが正しい選択ができるように思うけどね」 「でも、自分は何がいちばん好きなのかということが自分自身にもよくわからないことってありますよね」 「たしかに。自分でもよくわからないということもあるだろうし、好きというのが感情であり、感覚である以上、それが人間を欺くことも大いにありうる。子供の頃からジャンクフードばかり食べていると、食の嗜好が歪み、不健康をもたらす食べ物を「好き」ととらえる可能性はある。だからこそ、自分の「好き」という感覚を研ぎすます必要はあると思うけどね」 「どうやってですか」 「ひとつは体のメッセージに慎重に耳を傾けること。ふたつめは安易に流されることと「好き」という感情を峻別すること、そして、「嫌い」なものをきちんと意識すること」 「嫌いなものを意識、ですか」 「そう、好きなものを知るということは嫌いなものを知るということでもある。許せないもの、拒否しなければならないもの、そういうネガをきちんと意識化しておかないと、好きというポジも明瞭な像としては浮かび上がってこない。嫌いなものを意識化し、それを背景とすることによってはじめて自分の「好き」がはっきりとしたイメージとなって浮上してくるはずだから。」 「好きという感情が磁石の針だということの意味が少しわかってきたような気がします。つまり、それは「これが好き」という状態にとどまったり、安住したりすることではなく、それが導く方向に進んでいく、つまりその「好き」を自分なりに掘り下げ、探求していくことによって本当に「生きる」ための指針になりうるってことなんですね」 「うん、そういう感じ。好きなものを身の回りに並べて置いて、その中に埋もれていても、生の充実を感じることはできないとオレは思うね」 そんなことを話した。好きという感情はかなりの奥行きをもっていると同時に、本人にとって解明不可能な謎をもはらんでいる。なぜ自分はそれが好きなのか、ということは自分自身にもうまく説明できないことが多い。だからこそこの感情は指針としての機能を果たしうるのである。しかし周囲の「好き」を盲目的に自分の「好き」と重ね合わせる習慣を身につけてしまうと、この磁石は磁場を見失い、その針はぐるぐると回転しはじめる。 自分の生を導く「好き」という感情の針をどこまでも研ぎすますこと。そしてその針が指し示す方向を深く、遠く探究すること。それが「生きる」ということの意味ではないかと私は思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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