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カテゴリ:その他
人が生きることは苦しみとともに歩くことだと思う。何千年、何万年、いや何十万年、あるいはそれ以上に及ぶ人間の生の長さと同じだけ、人の苦しみの歴史がある。そこで人はどうやってそれに耐えてきたか。そこでどのような技法を作り出してきたのか。そのことを考えたい。
ああ、「宗教」の話ね。そう思われる方もいるかもしれない。だが、「宗教」というような一般的な名称で人が救われることはない。それはその救いを外側から眺めたときの評語にすぎない。今考えているのは、苦しみをじかに体験している人間の内部でそれに対処するためにどのような技法が用いられてきたかということである。人の悩みはいつも具体的なものだ。それを和らげる方法もやはり具体的なものでなければならなかったはずである。 苦しみに耐えるための具体的方法、それは何かを「唱える」ことではなかったかと思う。一口で言い表せる表現、必ずしも具体的な意味が明瞭ではないフレーズ、簡潔で清潔で何度繰り返しても汚れないことば、示唆的で象徴的で暗示的な表現。そういうことばを何度も何度も繰り返し口にし、あるいは心のなかで反復する。そのような行為のなかで人は自らの苦しみを反芻し、徐々に消化し、同化していったのではないだろうか。それがヒトという種に共通する苦しみや哀しみへの対処法ではなかったか。そういう気がしてならない。 「南無妙法蓮華経」も「南無阿弥陀仏」も「般若波羅蜜多」も「アーメン」も「アッラー・アクバル」も、そういうことばではなかったろうか。そのことばの明示する意味よりも、音として響きとしてそれを唱える人間の心のうちに湧き起こる共鳴や共振、その中に人はわずかな救いを見出してきたように思える。 それらのことばはいわば嘆きを反射する壁の役割を果たしたのである。こころの中の苦しみをいったんその壁に向かって投げ放つ。そしてそこから戻ってくる自らの苦しみを胸のまんなかでしっかりと受けとめなおす。その繰り返しのなかで苦悩の受容と同化がなしとげられてきたのではないか。唱えられることばは「嘆きの壁」の役割を果たしてきたのだ。そういう気がする。 それはちょうどコンクリートのブロック塀に向かって行うキャッチボールのようなものだ。なんの変哲もない灰色の塀に軟球のボールを投げる。投げ終わったら、はねかえってくるボールの捕球態勢に入る。捕球したら再び投球姿勢をとり、何度もそれを繰り返す。その機械的な反復作業の中から投げてから捕るまでの一連の動作が自然な流れとして体の中に染みこんでくる。跳ね返ってくるボールの球筋は投げた球の高低やコース、球種、当たった箇所によって微妙に異なる。フライになることもあるし、地を這うようなゴロになることも、真正面を直撃するライナーになることもある。それを予測し、対処しながらゲームを続ける。 この壁の役割をするのが「唱える」ことばではないかと思う。それは複雑なものであってはならない。単純でしかし無機的ではなく、多様な広がりと解釈の豊かさをもっていることが望ましい。多種多様な人間の苦しみを受けとめ、さまざまな方向にはじき返す弾力と強靱さをそれはそなえていなければならない。 精神分析のカウンセラーが果たす役割も、このような「壁」の役目なのだと思う。より柔軟で、より苦しみに近い人間存在として、苦悩や病のなかにある人の前に立つ。そして、それらを受けとめ、静かに相手の胸のなかに投げ返す。一歩間違うと、そのボールは受け手の体を大きく損なってしまうかもしれない。しかし、熟練した苦悩の受け手は、体の中心部でゆっくりとそれを受けとめ、自らのこころのなかに深い共鳴を呼び起こし、それをエネルギーとして静かに相手にボールを投げ返す。そのボールは投げ手のなかのもとあった場所にもとのものとは微妙に異なる状態で戻ってくる。 その状態をなんと説明したらいいだろう。つきたての餅を思い浮かべてもらうといいかもしれない。耐えがたい苦悩や苦しみの本質、それは「癒着」ではないかと思う。自分自身とその苦しみは分離不可能な状態で、べったりとつながり、くっついてしまっている。それが人が苦しみのなかにある状態である。苦しみがつきたてのべとべとのままこころのなかで自己とねじれるようにからみあっている状態。その時に人はもっとも困難な時のなかにいる。 その餅をどうすればいいか。とりあえず咀嚼可能な大きさに引きちぎり、周囲と癒着しないようにキメの細かい粉でまぶし、乾燥させて、またもとに戻すしかない。そうすれば、以前の癒着を脱した状態で、こころのなかにそっとしまうことができる。そのようにして哀しみや苦しみを安置する場所を設け、それらと同居するしか方法はない。 なにかを唱えるということは、この餅の引きちぎり作業であり、粉まぶし作業なのだと思う。あるいは苦悩のボールを壁に向かって投げ、それを受けとめるキャッチボールなのだとも思う。 だが、宗教をもたず、神をもたない人間は、そのような時に唱えるべきことばをもたない。それを自前で作らなければならない。これはむずかしい問題である。苦しみを弾き返す弾力と強靱さをかねそなえたことば。深い意味と多様な解釈と象徴性をもったことば。そして平易で日常的で具体的なことば。一口でいいきることができ、何度も繰り返し口に出すことのできることば。そういうことばを自力で作り出すのはむずかしい。 魂にとってもっとも困難な時間帯、午前三時頃に苦しみがこころを襲ったとしたら、その暗闇のなかで私たちは何を唱えればいいのだろう。なまなましい苦しみをきめ細かな純白の粉でそっと包みこんでくれることば、自己と苦しみの癒着をやさしく分離してくれることば。目の前の苦悩をじっと受けとめてくれることば。 わからない。うまく思いつくことができない。しかたがない。ひらがな五文字のことばをわたしはこころのなかでなんどもなんどもくりかえし唱えることにする。それが正解であるかどうかはわからない。効果的であるかどうかも不確かだ。しかし、しかたがない。それしか思いつかないのだ。 わたしはなんどもなんどもくりかえしそのことばを反芻する。こころのなかの板にそのことばを横に五つならべ、さらにその横に五つならべ、十の一列を作る。そして、そのことばの列を縦に並べていく。こんな作業にはたして意味があるのかどうか、自信も確証もない。でも他の方法をおもいつかないのだ。 そのようにして、こころのなかの黒板に白いチョークで書かれた「ありがとう」という文字列が延々と書き連ねられる。このことばははたして人をどこかへ連れていく力をもっているのだろうか。それはわからない。でも今は原初から人を救ってきたこの行為の意味を信じるしかない。たとえそれが人をどこにも導かないとしても、その力を信じることしか今の私にはできそうにないのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.05.16 11:19:34
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