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カテゴリ:SELECTION
あなたとことばとこころの関係について少し考えてみたいと思います。
あなたはこういう。 「ことばがうまく使えないので、自分のこころをうまく表現することができない。」 まったくその通り。私もそう思います。同感です。しかし、あなたのことばはこう続きます。 「だから、私はことばを使わない(うまく使えないから)」 なるほど。でも、私ならおそらくこう言うと思います。 「だから、私はことばを使う(うまく使えないから)」 こころの中にある微妙な感情のひだ、濃淡、陰翳、トーン、時にはもつれやねじれやひきつれをことばで表現し尽くすことなど不可能です。そんなことはおそらくこの世に生きている人間の誰一人としてできる者はいない。 でも、だからどうするのか。ここで道は二つに分かれます。 「ことばがうまく使えないから、私は表現しない」 「ことばがうまく使えないからこそ、私は表現する」 この二つです。 私は後者をとります。ことばがうまく使えない。だからこそ懸命にことばを使って自分のこころを伝えようとする。でも、やはり、ことばはうまく自分のこころを伝えてくれない。その時、ことばは力つき、がっくりと頭を垂れる。 でも、そのことばを受けとるべき人間は、そのことばの軌跡をじっと見つめる。そして、ことばが力尽きた、まさにその地点から、想像の翼を羽ばたかせる。あのことばはいったいどこを目指していたのだろう。どこへ飛び立とうとしていたのだろう。発信者のことばが力尽きた地点から、受信者は想像力を駆使して、そのことばの軌跡をさらに上方へと辿っていく。こうして、ことばのバトンリレーがなされ、ことばはよみがえる。ことばの力を信じる限り、ことばは死滅しない。ことばが力尽きた瞬間に、そのことばを受け継ぐ人間があらわれ、その軌跡を継承すれば、ことばのリレーを続けることは可能だ。 でも「ことばがうまく使えないから、私は表現しない」。この道を選んだとすると、はたしてそこからはどういう事態が招来するか。 そもそも「ことばがうまく使えないから、自分のこころをことばにしたくない」という考えは、ことば以前に、自分のこころが確固として存在していることを前提としています。でも、はたしてことば以前に自分のこころというものはたしかに存在しているものなのでしょうか。私は疑問に思います。 こころのかなりの部分は、ことばの力を借りることによって、わずかにそれらしき形をとることができるのではないでしょうか。もしも、ことばが存在しなかったら、私たちの内面に存在するさまざまな感情は、まるで夏の日の陽炎のように、ゆらゆらと地表をただよう存在の影にすぎないものではないでしょうか。 それはあるいは、深い山中に存在する池の面にただよう小さな水蒸気の粒子のようなものかもしれません。それは存在というには、あまりにもはかなくたよりない、存在の影です。そのままではやがて大気の中に消え去るしかないものです。しかし、そこにことばがあらわれる。そのことばの周辺に、微細な水蒸気の粒子が次々に集まってきます。そして、そこで凝結し、徐々に形を整え、やがて一滴のしずくとなって、落下します。それが水面に落ちる時にあたりに響きわたる音がこころの中にこだまする。その時、私たちははじめて感情の調べを耳にすることができるのです。 それはちょうど細かな水蒸気の粒子の塊である雲の中で、ほこりやちりが核となって雨粒が形成されるのと同じです。そこではことばはほこりであり、ちりなのです。だから、ことばはこころそのものではありません。でも同じようにもやや霧もこころではないのです。どちらか一方が欠けても、こころはそれにふさわしい形をとることができません。 ほこりやちりは実体をもつけれども、こころそのものを示すことはできません。また、もやや霧はこころの中の営みを反映したものではありますが、それだけでは具体的な形をとることができません。 ほこりやちりのまわりにもやや霧が凝結して一粒のしずくとなった時、はじめてこころはそれにふさわしい形をとることができるのです。 こころのなかをただよっているもやや霧こそこころの実体であるという考え方に私は同意することができません。その移ろいやすい姿にふさわしいことばがなかなか見つけられないからといって、ことばによってこころを表現することを断念しようとする精神に私は賛意を表明することができません。 もやや霧はこころそのものではありません。それはきわめて不安定で移ろいやすい「気分」にすぎないものなのです。 もしもその成分の中に可燃性の物質が含まれていたとするならば、小さな火花の存在によって、そのもやもやとした感情の渦は、たちまちにして引火し、炎に包まれ、爆発することでしょう。 自分の感情をもやや霧の段階でとどめておこうとすることは、しばしばこのような突発的で衝動的な行動を呼び起こしてしまうのです。 その結果何がもたらされるか。それはなにももたらしません。そこにはなにひとつ残ることはありません。揮発性の物質は爆発とともに空中に拡散し、こころの中には空虚が広がる。ただそれだけです。 こころからことばを遠ざけようとすることは、結局はこのような事態を招いてしまうのではないかと私は思います。 だから、ことばをあきらめないでください。ことばで自分のこころを言い表すことを放棄しないでください。断念しないでください。 それはことばの断念ではなく、自分のこころの断念につながってしまうからです。 ことばが無力であるからこそ、ことばの力に限界があるからこそ、われわれはことばをあきらめてはいけないのです。 ことばの限界を知るためにも、われわれはことばを使わなければならない。偽善的な行為の限界をもっともよく知る者は、おそらく偽善者です。偽善には限界がある。しかし、その限界をもっともよく知るのは、実は偽善を自ら実践している偽善者なのです。だから、ことばの限界を知るためにこそわれわれは率先してことばを使わなければならないのです。 ことばが無力だというのなら、ことばがうまく使いこなせないというのなら、そう思う人間こそ、ことばを使った表現行為に没入する必要があるのです。 ことばはある意味では実体ではなく、「鏡」のようなものです。それは自分の存在の影を映し出す道具であり、手段なのです。 だから、こころがうつろな時にはそのこころはうつろなことばしか生み出すことができません。こころが偽りの感情に満ちている時には、それは偽りのことばしか生み出すことができません。でも、真の感情が、たとえば愛が、もしもこころに存在するとしたら、そのこころからはおそらく揺るぎようのないたしかなことばが紡ぎだされてくるはずです。 こころそのものを見る眼を私たちがもたない以上、われわれはこころをことばに託し、そのことばをじっと見つめるしか、自らのこころを確かめる方法をもたないのです。 あなたにいいたいこと、それはただひとつ。どうかことばをあきらめないでください。 そのことばは他人に語りかけるものである必要はありません。私の耳に届かない場所で密かにつぶやかれることばでかまわないのです。 ことばを断念することは、すなわちこころの闇を意味します。でも、沈黙は闇ではありません。他者へ語りかけることばがなかったとしても、自らのこころのなかに実りあることばが満ちあふれている時、そのことばはあなたを救う力をそなえています。 そのようなことばがあなたのこころに宿っていることを私は願っています。 朝靄の中で涼やかな音を響かせながら流れ落ちる谷川の清流の水辺に、ひっそりとたたずむ角のとれた平べったい丸みをおびたつややかな石の形をしたこころがあなたの内面にひっそりと、しかし確かに存在していることを私は願います。そのなめらかな石の肌を小さな水滴が無数の命の結晶のように覆っていることを私は祈ります。 あなたのこころのもっとも深い部分から、たいせつなことばが空に向かって放たれることを私はこころの底から願っています。 その時、あなたとことばとこころは、この世界の中で緊密につながれるのです。 そして、あなたの魂ともうひとつの魂も。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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今頃こんな所にコメントしてすみません。
しかしこの文章を読み始めた瞬間に、まさに今に自分が直面している問題だと思ったのでこころに響きました。 ブログで書くことは「しんでいることば」だと自分で書いているとき考えてしまいます。 生きたことばにあこがれるけれど、自分のことばが誰かに届いているのか自信がないからです。 だから書いた時点ではまるで生気がなくて、しかしもし誰かが私のことばをその心に映してくれて、それが生きたものになったならそれはこの上ないことだと思います。 以前、あまりに自分のことばの不自由さ(うまく伝えられない、声が出ない、思い沈黙を生む)に、話すことに嫌悪を抱き、ことばによる伝達を一切断ってしまった時期がありました。 ちょうどここでM17星雲さんが言われているように、頭の中にもやのような「気分」だけを浮遊させ、他者との関係も周囲の環境も自分の状態も、もやの中に置き去りにして過ごしていました。 今、その期間の空白の虚ろな状態をどうにかしようと、自分の記憶を呼び起こしてことばやイメージで表現して一つずつ、また記憶を整理していっている段階です。 そして、どうせならこんなにも悩ませられる「ことば」をもっと自分の気持ちや考えを表現するために研鑽してやろうと悪戦苦闘を始めています。 この文章にとても勇気付けられました。励まされました。たまたまですが今読んでみてよかった(^^;) ではまたお邪魔しますっ。 (2007.05.06 02:21:36)
ぱくみーさんへ
もう一年ほど前の文章ですが、私もまた大きな苦しみのなかでこの文章を書きました。そして、 >以前、あまりに自分のことばの不自由さ(うまく伝えられない、声が出ない、重い沈黙を生む)に、話すことに嫌悪を抱き、ことばによる伝達を一切断ってしまった時期がありました。 私にもそういう時期があったことを思い出します。自分のことばが他者に届くかどうか、今でも私にはよくわかりません。確信もありません。しかし、同時に不安もなくなったように思います。 私はまず私のなかにある他者によびかけることが大事なのではないかと思うようになりました。それは自分のなかの深い層に向かってよびかけることです。ちょうど底知れぬ深さをもつ井戸の底に向かって「おーい」と呼びかけるように。 そして、その声が自分のなかのもうひとりの自分の耳に届いた時、同時に自分以外の誰かの耳にも届くのだと思います。そのことについてならば、確信らしきものをもつことができるようになりました。 だから具体的な返答や返事がなくても不安を感じることはなくなりました。大事なことは自分のことばが他者に届いているかどうかということよりも、自分のなかに存在する他者としての自分の存在に耳を澄ませているかどうかということだと思います。そして、そういう姿勢をもっていれば、その声はなぜか(私にもそれがなぜかという理由はわかりません)他者にも届くのです。 ひとりの人間の苦しみが、もうひとりの人間の苦しみに触れ、そこで交感が起こり、そこから「はげまし」や「なぐさめ」の感情が生み出されたとするならば、拙い文章を書きつづける人間として、これに勝るよろこびはありません。 深いコメントをありがとうございました。 (2007.05.06 22:31:56) |
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