2006/12/15(金)22:26
競争社会と縄ばしご2
しかし、それから一ヶ月ほどしたある日、突然Uが会社に来なくなった。体でもこわしたのかと思い、自宅に電話したが、母親が出て、本人は不在だという。どうしたのかと思い、内勤の女性に事情を聞くと、
「なんか、Uの契約におかしな点があって」
「おかしいって?相手がブラック(過去に負債をこげつかせたことがあってローンが組めない人のこと)だったとか?」
その女性は首を振る。
「どうも架空オーダーらしいの」
「……」
話によると、Uは大学時代の友人や知人宅から電話をかけ、客を装ってもらい、仮名を使って契約内容確認の電話を会社にかけていたらしかった。私は何もいえなくなってしまった。
成績が上がらない頃、Uと二人で一方が客になり、もう一方がセールストークを行う「ロールプレイング」をよくやった。彼はとてもにこやかで、口調もなめらかだったが、下唇が小刻みに震えていたことを思い出す。やさしくて、思いやりがあって、よく気がつく人間だった。おいしいラーメン屋があるからといって、よく高円寺界隈に連れていってくれたりもした。
彼がそこまで追い込まれていたとは知らなかった。もうすこし早く気づいてあげるべきだった。こちらは買い手の心理を分析する営業のプロだ。それなのに隣に座っている同僚の気持ちがまったくわかっていなかったとは。私は唇を噛みしめた。
私はその頃、すでにリーダーとしてチームをまかされるようになっていた。部下もよくついてきてくれたし、私以上に成績を上げてもくれた。
これが競争社会なのだ。私はそう思った。誰が悪いわけでもない。勝つ者もいれば、負ける者もいる。これはそういう社会なのだ。
そして、その一方でこうも思った。ここを去ろう。オレはここにいるべきではない。オレはここには向いていない。裸一貫で技術を磨き、それを拠り所にして生きていくことは嫌いではない。しかし負けた人間がぼろぼろになって捨てられていく場所には、オレは適応できないし、適応しようとも思わない。
転職をして、今の職場に勤めはじめた頃、一人の先輩が「まったく、あいつ、仕事ができないばっかりに任せられる仕事がなくって、いつもうとうと昼寝をしていやがる、やってられねーぜ、まったく」と私にぼやいた。
先輩の指さすほうを見ると、なるほど一人の男が体を前後に揺すって、舟を漕いでいる。でもその光景は、私には牧草地に横たわる牛の姿に見えた。なかなかのどかでいいじゃないか。無能な人間が昼寝できる職場というのもけっして捨てたものではない。彼一人分くらいならオレがその分働いてもかまわない。そうも思った。もちろんそんなこと口に出したりはしなかったけれど。
甘いことをいうんじゃない。そんなこといってたら今の社会、生きてはいけないぞ。そういう叱責の声が飛んできそうである。
たしかに自然界にも競争はある。しかしその競争はあくまでも「共存」を前提としたものだ。負けたものを根絶やしにするような競争を自然は行わない。それは自然から多様性を奪い、結果的に自然の存立そのものを危うくするからである。
私は競争を否定しようとは思わない。競争の必要性も認める。しかし、同時にそこには競争から降りる「縄ばしご」も用意しておく必要があると思う。
競争至上主義を唱える得意満面の人間の顔を見るたびに、私の脳裏にはメタルフレームの眼鏡をかけたUのやさしい笑顔が浮かぶ。そして、何ともいえない苦いものが胸のなかに広がるのである。