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カテゴリ:文章論
好きな文章というものがある。その内容以前に、ことばを紡ぎだす書き手のこころの律動が、こちらの胸の奥にある音叉と共鳴して、微かな「うーん」という音をこころのなかに響かせる文章。ひとつの文をたどりながら、その少し先や、あるいはその少し奥が、布地に垂らしたインクのように周囲に静かににじみ、広がっていく文章。ひとつの文から次の文への流れが予測通りであることがよろこびとなり、予測通りでないことがまたよろこびとなる文章。そういう文章がある。
もう一方で、「好き」ということばが必ずしもふさわしくない文章もある。もちろん「嫌い」なわけではないが、こちらから望んで積極的に読むことは少ない、ただ、何かの折にふとその文章に触れると、「はっ」と息を呑んでしまう文章。それまで無意識のうちに曲がってしまっていた自分の背筋を思わず伸ばしてしまう文章。何気ない一節に張りつめた「気」がこもっている文章。そういう文章がある。 私にとって幸田文の文章は後者に属する。たとえば「藤」という随筆がある。 大正十三年。文は家族ともども町へ引っ越す。それまでの草木に親しんでいた暮らしから、玄関わきに椿が一本、茶の間の前にかなめもちが一本、隅に椎が一本というようなわびしい景色の中に移り住むことになる。草木の少なさに不服を述べる家人に向かって、父、露伴はこう言う。 「そこ(庭)は盛り土がしてあり、以前の表土の上に木屑や石くれが積んであるので、植えても木は枯れるだろうし、枯れていく木を眺めていられるほど自分の神経は、むごくはないのだ」。 家人はそのことばに納得し、それ以後、何も言わなくなる。 文は嫁ぎ、その後、夫と別れ、小さな娘を連れてうちに帰ってくる。 「父なし子になってしまった孫娘に、祖父はあわれをかけてくれた。」 そんなある日、町に縁日が立つ。 「父は私に、娘をそこへ連れていけ、という。町に育つおさないものには、縁日の植木をみせておくのも、草木へ関心をもたせる、かぼそいながらの一手段だ、というのだった。」 この縁日の短い描写に、私は小さく息を呑む。 「水を打たれた枝や葉は、カンテラの灯にうつくしく見え、私は娘の手をひいて、植木屋さんとはなしをした。『これだけしゃべらせて、なんだ、買ってくれねえのか』といわれたりすると娘は私の手をかたく握って、引っ張った。」 「娘は私の手をかたく握って、引っ張った。」ーー文章の神様がそっとウィンクしてくれなければ、けっして書くことのできない一節である。文章の神はこういう細部に好んで棲みつくものらしい。 春になり、お寺の境内に植木市が立つ。 露伴は文にガマ口を渡し、「娘の好む木でも買ってやれ」という。 汗ばむような、晴れた午後、文と娘は連れだって植木市へ行く。娘は藤の鉢植えがほしいといいだす。 「鉢ごとでちょうど私の身長と同じくらいの高さがあり、老木で、あすあさってには咲こうという、蕾の房がどっさり付いていた。子供はてんから問題にならない高級品を、無邪気にほしがったのである。」 とてもガマ口の小銭で買える代物ではない。文は笑って他の草花をすすめ、娘は小さな山椒の木を選ぶ。彼女は山椒の葉としらすぼしを醤油でいりつけてごはんにぱらぱらとまいた弁当が好物だったのである。 のどかな光景である。小さなしあわせのともしびがほんのりと浮かび上がるような情景だ。 しかし、この空気が帰宅後、一変する。父、露伴はその話を聞いて、みるみる不機嫌になる。文の書く露伴のことばはいつも私の胸を衝く。それはひょっとすると露伴のことばそのものではないのかもしれない。そのことばを聞いたときの文のこころの震えや怯えや畏れごと、それらは紙の上にすくいとられているように思える。ここに書かれた露伴のことばもまさにそうである。少し長いが、以下に引く。 「(父は)藤の選択はまちがっていない、という。市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目をもっていたからのこと。なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、藤は当然買ってやるべきものだったのに、という。そういわれてもまだ私は気がつかず、それでも藤はバカ値だったから、と弁解すると父は真顔になっておこった。好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を渡してやった、子は藤を選んだ、だのになぜ買ってやらないのか、金が足りないのなら、ガマ口ごと手金に打てばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、藤が高いのバカ値のというが、いったい何を物差にして、価値をきめているのか、多少値の張る買い物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花をもいとおしむことを教えてやれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の親しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の目を伸ばさないとはかぎらない、そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない。子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ。金銭を先に云々して、子の心の養いを考えない処置には、あきれてものもいえない」と。 このことばは文のこころに深く沁み入る。娘は大きくなっても花を見て、きれいだというだけ、木を見ても、大きな木ねというだけで、それ以上心が動かない様子を見せる。 「ほかには優しい心をもつほうなのだが、野良犬にふみ倒された小菊を、おこしてやろうともしない固さなのである。」 文章の神がまたウィンクをしている。 しかし、娘の嫁いだ夫は望外に花を愛する人であり、その感化で娘もやがて花を愛ずるようになる。 文はほっとこころをくつろがせ、一度どこかへ藤をたずねたいと思うようになる。 そして東京近郊に見事な藤を見つけ、ひとときの間、それに見惚れる。 しかし、その目は上を仰ぎみた後、下へと向かう。幸田文の文章の真骨頂が始まる。 「しかし、花よりもその根に、おどろいた。千年の古藤というからには、根まわり何十尺と数える太さもさることながら、その形状のおどろおどろしいのには、目が圧迫された。うねり合い、盛り上り、這い伏し、それは強大な力を感じさせるとともに、ひどく素直でないもの、我の強いもの、複雑、醜怪を感じさせた。花はどこまでもやさしく美しく、足もとは見るもこわらしく、この根を見て花を仰げば、花の美しさをどうしようとおろおろしてしまう。だが、それならといって、立去れもしなかった。こわいものの持つ、押さえつけてくる力があって、連れの人にうながされるまで、私は佇んでいた。」 ここで文は花を見、根を見ながら、人を見、人の生きる姿を見、人の生きる世界そのものを見ている。そこには美があり、同時に醜がある。そして、そのふたつは離れがたく結びついている。美に魅惑があるように、醜にも強い力がある。それをどう考えるべきか、しかし、答はない。 答のない世界に棲む生き物の恍惚と不安と恐怖。それをこれほど短い文章に掬い取る幸田文の文章の凄みに、私は好意よりもむしろ恐怖を感じる。 彼女の文章がこれほどの凄まじい凝縮力を感じさせるのは、彼女の目がおそらくここに書かれた以上のものをありありととらえていたからである。そして、彼女はそれを書かないことを通して、それらを言外の余韻として読む者に感じさせる。 文章の神のウィンクばかりでなく、その鬼のような形相を垣間見た人間だけが、このような文章を書くことを許される。 そう思いながら、私は文庫本にしてわずか15頁のこの作品を読みおえ、深く溜息をつくのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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はじめまして。
シカオ氏の「ふたりのかげ」の分析と解釈があまりにも深く的確な表現でしたのと、幸田文さんのこの「藤」は未読ですが、「流れる」など文章のキレのファンでしたので、感銘を受け、コメントさせて頂きました。 M17星雲さんの文章も読んでいるとその本の中に入り込んだような錯覚にとらわれます。「藤」をぜひ、読んでみたいと思いました。 (2008.02.13 13:32:48)
ケイさんへ
こちらこそはじめまして。あたたかいコメントありがとうございます。こういうふうに読んでもらえたらうれしいなと思っていた通りに読んでいただいて、光栄です。シカオちゃんのことばと幸田文の文章、まったくかけはなれているように見えますが、いわれてみれば、どちらも垂直方向に「立って」いる文章ですね。いろんな意味で。 書き忘れましたが、「藤」は新潮文庫の「木」に入ってます。ほんとうは、これはいいです、ぜひ読んでくださいという形で紹介するのが本道なのでしょうが、日頃、幸田文なんか読んだことないよ、という方にも、このすばらしさを体感してもらいたくて、あえてこんな無粋な書き方をしてしまいました。何も説明しなくてもわかってくれる方がいるんだなあと思って、寒い一日、こころがほっこりとぬくもりました。また遊びにいらしてください。ありがとうございました。 (2008.02.13 22:12:42)
M17星雲の光と影さん
こちらこそ、ありがとうございます。 読み応えのある文章を書かれていらっしゃるので時間を忘れます。 「木」は、ハードカバーの少し大きめの本ですね。 読んでみます。 (2008.02.14 00:15:08) |
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