|
カテゴリ:文章論
この数か月、どんな本を読んできたか、あらためて考えてみた。
レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』(村上春樹訳)、『大いなる眠り』、『かわいい女』(創元推理文庫)、『湖中の女』、『プレイバック』、『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。村上春樹『1Q84』(新潮社)、ジョージ・オーウェル『動物農場』(角川文庫)。ダシール・ハメット『マルタの鷹』(これは途中まで)。そして、今、目の前にあるのは『フイッツジェラルド短編集』(岩波文庫)。 要するに、村上春樹関連本ばかり読んでいるようなものである。しかし、この中でもっとも強くこころを動かされたのは、チャンドラーの文章である。 その文章の堅牢、精緻、剛健、精妙。そこには確かな「世界」がある。その世界に入るためのドアを開け、順路にしたがって歩を進める。その歩みのなかに感じる至福、充足、緊張、愉楽。極端なことをいえば、ストーリーなどどうでもよくなるほどの魅力が、この文章にはある。 ストーリーを追うことに熱心な読者は、彼がなぜこれほど細かい描写を積み重ねるのか、疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、この緻密な書き込みは、ある意味では必然なのである。彼は細かく書こうとしているのではない。細かく書かざるをえないのだ。それは文章化する以前に、彼の目に、描こうとする世界があまりにも鮮明に「見えてしまって」いるからである。 チャンドラーは「インナービジョン」の人である。彼にとって、文章を書くという行為は、実はことばによって世界を描くということを意味していない。まず、ことばがあり、そのことばの積み重なりを通して世界が浮かび上がってくる。この当然ともいえる流れの中に彼は位置していない。チャンドラーの場合、ことば以前に彼の脳内にくっきりと鮮明な内的な像が浮かんでいる。その像の運動方向に沿ってことばを展開することが、彼にとっての「書く」ということなのである。 ふつうの物書きならば、ことばを使って世界を描く。ひとつひとつのことばをていねいに積み重ねることによって、まるでキャンパスに油絵具を次々に塗り重ねていくように、画が描かれる。しかし、チャンドラーの場合は違う。ことばによって徐々に世界が作り出されるのではなく、ことば以前に、まず鮮明きわまりない内的なイメージがあり、そのイメージをことばが追っていく。当然、そのイメージのすべてをことばで表現することはできない。限られた、不十分なことばで、そのイメージの一部分が表現されることになり、その後には表現されなかった膨大なイメージが残される。そのことばにはならないイメージの残骸が、逆に作品世界のリアリティを、解像度を高めていく。ことばを超えてイメージを現出する力。そういう力が彼の文章にはある。 どこまでも鮮明で、あきれるほどの解像度をもった映像が、彼の脳内にはすでにくっきりと浮かび上がっている。それはことばによって再現することができないほど、確固とした映像である。彼はその映像を読む者の脳内にどうすれば再現することができるか。そう考える。むだな逡巡をなくし、目的地を定め、ひとつひとつの事実を冷静に、客観的に、論理的に積み重ねていく。それはある意味では息の詰まるような緊張感を伴う作業だ。しかし、その文章を辿る私たちの内面にきざすのは、他でもない、「自由」の感覚なのである。 彼の徹底的に人為的、客観的な言語操作が、なぜ人に「自由」を感じさせるのか。それは彼の文章が、どこまでも「人間であること」を突き詰めることから生まれてきたものだからだ。 彼は神のように世界を創造しない。上空から世界を俯瞰し、自分の意のままにチェスの駒を動かすように、登場人物を操作することをしない。なぜなら、そんなことは人間にはできないからだ。チャンドラーは空を飛ばない。あくまでも地面の上にいる。地表から自分の方位を確認し、進むべき方向に向かって一歩一歩、歩を進める。鳥の眼ではなく、虫の眼で世界の表面を移動していく。マーロウはそのように事件を追う。それがどこへたどりつくのか。彼自身にもわからない。「よくわからない」という彼のお得意のセリフは、彼が神の視点を拒絶していることを示す象徴的なことばだ。人間とは自分がどこにいるのか、その立ち位置が「よくわからない」存在である。それがチャンドラーの示す人間の定義なのだ。 読者はマーロウと視点を共有しながら、そのストーリーを追うことになる。しかし、読者もマーロウの頭の中にまでは入っていけない。彼は一人きりで、車をとめ、しばし考えにふける。しかし、彼がその時、何を考えているかは、読者には明らかにされない。彼の頭のなかに入るためには、読者は自分のあたまをフルに動員して彼の思考を再現しなければならない。これはずいぶん不親切な書き方のように思える。しかし、考えてみてほしい。いったい誰が実人生のなかで、他人の脳のなかに入りこむことができるだろうか。 文章を書くことは(それをフィクションという世界に限定すべきなのかどうか、今の私にはまだよくわからない)、神の視点、鳥の視点に立つことへとたえず誘惑されることである。そして、真に文章を書くということは、その誘惑に打ち勝つ文体を持つということである。チャンドラーの文章はそのことを教えてくれる。 文章を書くことは、実に容易に神の視点、鳥の視点を手に入れることを可能にする。しかし、その瞬間にその文章は腐敗臭を放ちはじめる。そういうことではないかと私は思う。 誰も神のように一望俯瞰の視点を手に入れることはできないし、鳥のように上空から世界を見渡すこともできない。われわれはみな、名もない虫として、きわめて見晴らしの悪い地表をもぞもぞと動いて行くしかない存在なのである。しかし、一匹の虫として、懸命に、自分の進むべき方向を模索し、そこを目指して歩いていく。虫の視点から世界を解釈する。それこそが「生きる」ということではないのか。彼の文体はそのことを告げている。 すべてを見通すことができない人間は、いったいどのようにふるまえばいいのだろうか。そこで踏み越えてはならない線はどこにあり、逆に踏み越えなければならない線はどこにあるのか。それを虫の視点で獲得するためには何が必要なのか。そこでは、自分の目に入る事実を出来る限り正確に認識すること、それをことばで再現し、いくつかの事実をつなぐつなぎ目、ブリッジを自分の知力を尽くして正確にトレースすることが大事である。そこではことばの精度が重要になる。そして、Aという事実とBという事実をどうつなぐか。その過程をできるだけ明瞭に認識することが大切である。というよりも、虫にできることはそれしかないのだ。そして、それをやり遂げた末に見えてくるのは、自分を神や鳥と錯視した人間にはけっして目にすることのできない、人間の生の真実なのである。チャンドラーの文章はそう告げているように、私には思える。 マーロウは行動の指針を見失い、思いあぐねて、しばしば自分の部屋の机の深い引き出しを開け、ウィスキーのビンを取り出し、それを口に含む。その時、チャンドラーの目には、その上の段の引き出しも同時に鮮明に映像化されている。その引き出しをそっと開けてみると、その内部に置かれたものの配置もどこまでも鮮明に見える。右手の奥に何があり、左手には何が置かれ、引き出しの取っ手がどのような形状をし、どういう材質でできているか。ことばにしようと思えば、いくらでも文章に描くことはできる。しかし、彼はそうしない。そのまた上の引き出しも、壁も、窓も、そこに漂う空気も、煙草の煙も、すべて手に取るように見えているのに、それはことばにされない。そして、ことばにされないことによって、それらは注意深い読み手のこころのなかにありありと浮かぶことになる。ことばの限界を通して、そのことばの向こうに、ほとんど無限の世界の広がりを表現する。私には今のところ、これ以上の言語表現の形を思い描くことができない。チャンドラーの文章とは、要するにそういう文章なのだ。 凡庸な作家がことばの数を増やすことによって文章の解像度を上げようとするのに対して、彼はむしろことばで表現しないことで、自身の脳内にある映像の圧倒的な解像度を感じさせるのである。 これだけ精緻なことばを用いながら、なおかつまだ描かれていないもののほうが多い。それがチャンドラーの文章だ。 「ぼうや、文章っていうのは、こういうふうに書くもんなんだぜ」 彼の文章はそう語りかけてくる。おい、おい、いい歳こいたおっさんを「ぼうや」呼ばわりかよ。しかし、その見立ては彼の文章がいつもそうであるように、公正で、客観的で、かつ正確だ。チャンドラーの文章に比べれば、私の文章など、「ぼうや」以前、いや人間以前のレベルにとどまる。 「おまえはチャンドラーの文章を翻訳で読んでいるだけだろう。それでなぜ彼の文体を論じることができるのだ」 こころある読み手はそうつぶやくだろう。たしかに、その意見は正当だ。私もそう思う。一般的にはその指摘は正しい。 だが、私にはなぜか、翻訳の向こうにたしかに彼の屹立した文体が見えるのである。 ひとつには清水俊二という名訳者の存在があるのだろう。その彼でさえ、「プレイバック」のあとがきの中で、「(チャンドラーの文章は)日本語になおすと、魅力が半減してしまうのが大へん残念なのである」と書いている。すると、私は彼の文章の半分しかまだ味わっていないことになる。これは実にたいへんなことである。 言いたいことを言い尽くせないままに、字数が尽きた。チャンドラーについては、もう一度、これまで読んだ作品を、そして読み残している唯一の長編「ロング・グットバイ」を読んでから、あらためて語りたいと思う。 「一に足腰、二に文体」 私はあらためて村上春樹のこのことばを噛みしめるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
4ヶ月近くブランクがあったので心配していました。
久しぶりに読むM17星雲さんの文章はやっぱり素晴らしい。すごく美味しい文章です! 顧みて自分の文章が恥ずかしくなりました。 (2009.08.26 08:29:33)
shinさんへ
ご無沙汰しております。ご心配かけて申し訳ありません。とにかく仕事で忙殺される毎日で、なかなか落ち着いて文章を書く時間をとることができません。拙文をおほめいただいて恐縮です。また折に触れて書いてみたいと思っておりますので、時々遊びに来てください。あたたかいコメント、励みになりました。ありがとうございます。 (2009.08.27 11:57:51)
虫の視点は手探りの視点、
神の視点はGPSあるいは顕微鏡の視点でしょうか。 いずれも視点に拘束されているのがミソかもしれないと思いました。解像度や焦点、スケールといった目盛を使って、世界に対して分け入っていく以外にないというか。 分子生物学の福岡伸一の本の 「世界は分けないことにはわからない。 しかし、世界は分けてもわからないのである。」 という至言を思い出しました。 M17星雲さんの文章はハラにきます。 「文章を書くことは、実に容易に神の視点、鳥の視点を手に入れることを可能にする。しかし、その瞬間にその文章は腐敗臭を放ちはじめる。そういうことではないかと私は思う。」 ここにガツンとやられました。 読めてよかったです。 (2009.09.02 11:14:18)
mitsuさんへ
読みごたえのあるコメント、ありがとうございます。 ひさびさの文章のせいか、読み返すと、流れがあちこちでとどこおっており、お恥ずかしい限りです。でも、いちばん言いたかった部分をすくい上げていただいて、感謝しております。 神の視点への誘惑と、それに対する抵抗。そこに文章の本質があるのではないかというのが、今の私の暫定的な考えです。 もう少しこれについては考えてみたいと思います。 では。 (2009.09.03 10:47:27)
お久しぶりです。
私も久しぶりにブログ(といえるのかどうか)を更新した後、M17星雲さんのブログを覗かせていただきました。 ちょうど私も新作1Q84を読み終わった後、ハルキマジックから抜け出せずずっと旧作やロンググッドバイなどの翻訳本を読んでいました。 相変わらずM17星雲さんの文章はこころに響きます。 お忙しいとは思いますが、お体に気をつけてください☆ (2009.09.12 01:53:55)
2009年8月以来、ブログの更新をなさっていないようなので、今私がこうして書いているコメントを読んで頂けないかもしれませんが・・・。
M17星雲さんのブログに感動しています。 私が拝見したのは2006年6月の「will you still love me tomorrow」についてのものです。 つい最近、初めてこの曲を聴いてすぐに気に入りましたので、この曲について調べていましたら貴方のブログに 辿り着きました。 溢れる文才(もし、執筆のお仕事をなさっているプロでしたら申し訳ありません)と、たぶん、ロマンティストであろう 貴方の感性が現れていました。 是非是非、お薦めの三つの曲を聴いてみます! そしてもしよろしければ私のお薦め、日本人ジャズシンガ― (フリューゲルホーンプレイヤーでもあります) 「TOKU」の唄う will you still love me tomorrow も聴いてみてください。ユーチューブで聴けます。 (私は彼の歌で、この曲を知りました) お時間拝借しましてすみません。 ありがとうございました。 (2011.04.18 22:25:30)
無料 楽天 アクセス記録ソフト!
http://hotfile.com/dl/117012520/213679d/rakutensoft.zip.html (2011.05.07 20:10:37)
らんさんへ
コメント拝見しました。ありがとうございます。さっき、うっかりまちがって自分のブログを開いてしまいました。 そうですか、最近、この曲を初めて聴かれたんですか。たいへん幸せなことですね。以前に何を書いたか、残念ながら忘れてしまってますが、あたたかいおことばで心がぬくもりました。 執筆のプロなんてとんでもないです。ただのしろうとです。もう一度、ああでもない、こうでもないと文章を書き直す日々に戻りたいのですが、なかなかかないません。でもここを閉じたつもりはありませんので、いつか、また帰ってきます。 おすすめの曲、ぜひ聴かせていただきます。ありがとうございました。 (2011.05.27 12:26:22)
らんさんへ
コメント拝見しました。ありがとうございます。さっき、うっかりまちがって自分のブログを開いてしまいました。 そうですか、最近、この曲を初めて聴かれたんですか。たいへん幸せなことですね。以前に何を書いたか、残念ながら忘れてしまってますが、あたたかいおことばで心がぬくもりました。 執筆のプロなんてとんでもないです。ただのしろうとです。もう一度、ああでもない、こうでもないと文章を書き直す日々に戻りたいのですが、なかなかかないません。でもここを閉じたつもりはありませんので、いつか、また帰ってきます。 おすすめの曲、ぜひ聴かせていただきます。ありがとうございました。 (2011.05.27 12:29:00)
新しいお話をお待ちしております。
(2022.05.29 13:14:42)
|
|