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存生記

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2004年03月09日
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アントワーヌ・コンパニョン、『近代芸術と五つのパラドックス』(中地義和訳)、水声社、1999年。

 「モダン」と「ポストモダン」という言葉がどのようにフランス、ドイツ、アメリカによって定義され、変遷をたどったかを記している。日本人が読むとそこに日本における「モダン」と「ポストモダン」解釈が介入してきて、合わせ鏡は四つとなり、眩暈の度合いが増してくる。文化が「商品」となって国境を横断するにしても、ネットでつながっているにしても、それによってその国特有の受容が無くなるわけではない。そのためにこのような慎重な手続きが必要となる。

 フランス語の「モダン」はボードレール的な憂愁をともなう、うつろいゆくものの中に宿る永遠のものであり、デカダンスと紙一重である。ドイツ語の「モデルヌ」は、ルネサンスとともに到来した近代、「人間はより完全なものになりうるという観念」、啓蒙の哲学と同一視される。英語では、19世紀なかば以来、アカデミズムへの異議申し立ての一時代を美学的にとらえる観念である。

 要するに「新しいもの」を創りだそうとする運動であり、価値である。古いものに価値があるとする立場が古典派なら、新しいものに価値があるとする立場が近代派である。著者は、新しいものに対する態度を「現在に価値をおくもの」と「未来に価値をおくもの」と二つに分ける。ボードレールは前者であるから、未来には絶望と破局を感じていた。だからボードレール的モダンは憂愁の色に染まっている。伝統から逸脱するものを評価しつつ、科学の進歩によって発展する人類の未来には反撥を覚えるといった両義的な態度がみられる。

 ボードレールの現代性(モデルニテ)は現在そのものへの情熱であるが、未来への情熱に燃えるのが前衛(アヴァンギャルド)である。そこには未来をめぐる歴史意識と、時代の先駆けになろうとする意志が見られるという。革命家や理論家を自認するのが前衛である。

 ポストモダンは、理性による進歩や歴史的な発展という見方に対して批判的な立場をとり、過去の引用やパロディ、折衷的なものを評価する。ポストモダン以前から芸術や文化は市場の商品となっていたが、ポストモダン以降、とりわけポップアート以降、その傾向は強まる。作品は脱聖化され、作者が偶像化される。独創性は、引用の組み合わせやパフォーマンスへと横滑りし、マーケッティングに接近してゆく。

 批評意識をもたないポストモダンはキッチュに堕落する、というのが著者の結論めいた主張だと感じた。だが、キッチュと本物のポストモダンを識別する目を持とうする「志の高い」人は、少数であろう。まがいものをつかまされても気づかず、ブランド名が入っていれば、喜んで大金を払うような人が多いのではないか。本物と偽物を区別できないというのは、ドッペルゲンガーのように不気味である。識別を専門家に依頼しても、その専門家が本物であるかどうか識別できなくてはならない。学歴も詐称できる世の中で、本物を見抜く目を我々は持っているだろうか。そもそも本物は存在するのだろうか、という問いさえでてくる始末だ。

 年をとると感性が鈍って「新しいもの」に興味を示さなくなると言われるが、それと同時に経験が増すと「偽の新しいもの」には感動しなくなるということがある。若いうちは感動率が高い。モダンであろうとポストモダンであろうと、本物であろうとまがいものであろうと刺激を感じる。年をとると新しいものへの懐疑が生じてくる。この懐疑を突き抜けて新鮮な体験ができれば「おもしろい」と感じる。「だまされはしないぞ」という構えがあるために、この懐疑を突破することは容易ではない。ポストモダンの精神は、気難しい。そのために操作しやすい若者へとマーケッティングは狙いを定める。テレビを見る限り、特に日本はこの傾向が著しいようだ。





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最終更新日  2004年03月09日 00時29分25秒



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