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存生記

2005年01月18日
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テリー・イーグルトン、『甘美なる暴力――悲劇の思想』(森田典正訳)、大月書店、2004年。

 全十章からなり、「廃墟の理論」「苦悩の価値」「ヘーゲルからベケットへ」「英雄たち」「自由・運命・正義」、「憐れみ、恐れ、快楽」、「悲劇と小説」、「悲劇と近代」、「悪魔」、「トーマス・マンのハリネズミ」という題がついている。著者の博識に畏れ入りつつ、知識の渦に幻惑されながら、引用の仕方の熱度から著者の立場を推し量ってゆかないと主張はつかみづらい。

 「悲劇」の語源は「山羊の歌」であり、「スケープゴートの歌」と翻訳すべきだとされている。著者によれば、ギリシャ悲劇の起源は動物を生贄にさしだす儀式にあった。スケープゴートについては、百家争鳴の意見があり、ここで紹介する余裕はない。いずれにせよ、共同体は生贄を選び出し、それを破壊することによってそこから価値を引き出す。クラスで誰かをいじめて喜ぶのもスケープゴートの思想の実践であるし、「オイディプス」の上演を鑑賞することもその実践である。

 悲劇は誰かが亡くなったり破滅したりと暗い話が多い。映画や出版産業としては困った話である。陰鬱な後味を残すチェーホフ全集には「希望を語る人物が各作品に一人は登場する」、とわざわざ記されていたそうである。19世紀後半、陰鬱さが非難された背景には政治的な動機があったと著者は考えており、トマス・ハーディはその犠牲者であった。悲観論は、懐疑主義、諦観、反抗心を助長し、社会秩序を混乱させる。芸術は、啓発・志気を高めるものだとされていた。はけ口のない苦しみは、芸術的観点からは存在意義はなかった。近代世界は、悲劇を推奨しながらも、悲劇のもたらす失望を恐れていたと分析されている。ある評論家によれば、救済の意識に欠けるイプセンは、真の悲劇作家ではないとされた。悲劇は人間の努力の崇高さを示さなければならなかった。

 悲劇を生の肯定とする考えは根強く、その妥当性が検証される。その際に苦痛は避けられねばならないが、苦痛から得られるものはなくはない、という見方と、苦痛そのものに価値があるという思いこみは区別されなければならないとされる。歯科治療は不快だが、歯の健康を保つには不可欠な手段だ。だが歯痛そのものに価値があるのかは別のことだ。悲劇の苦痛や苦悩は、勝利への一ステップである、という目的論的な悲劇のヴィジョンから、著者はその背後に蠢くイデオロギーを抽出しようとする。

 もっとも有名な悲劇的目的論はヘーゲルのそれであった。死という「否定的なものを直視し、それとともに佇む」という『精神現象学』の有名な一節が引用されている。主人と奴隷の弁証法から人間が人間になってゆく過程を考察しながら、ヘーゲルは、死の恐怖を直視し、それにひるむことなく、現実を変えてゆく力に人間性を見て、重視した。もっとも恐ろしい死と対峙し、死のもたらす別離のなかで自己を失わない精神は、それ自体が悲劇的英雄である。このような精神が歴史を動かしてゆく。そもそもヘーゲルにとって哲学自体が悲劇的状況の結果であった、と著者は言う。複雑化し、分業化した社会をもはや感覚的に理解することはできず、概念によって説明する必要が出てくる。社会の全体像は、宗教画や彫刻ではなくヘーゲルの頭脳のなかにのみ映し出されるものとなった。そして、悲劇とは、精神が否定を通して自己統一を回復する過程の最高のひな型だった。

 ニーチェも、悪の存在は神の正義と矛盾しないという悪の弁明という観点から悲劇を捉えていた。悲劇はディオニュソス的傷にアポロン的な香油を塗って癒すというものであり、悲劇的破滅の阻止に役立つ。どちらの場合も、悲劇は英雄の没落という古典的な観念に基づいて構想されている。ところが、ベケットに至ると、人物たちはそもそも転落できるような高さにさえ登りつめることができないでいる。転落できるというのは贅沢なことだったのだ。存在に目的はなく運命による強制があるだけである。ベケットの芝居では、永遠に苦しいのはなぜかという謎が問われ続ける。ベケットの確実性への懐疑は、非悲劇性をもたらしたが、状況の悲劇性すら確信できないということが最大の悲劇ではないだろうかと著者は言う。

 ミラーの『セールスマンの死』では、愛ではなく成功の法則に頼りすぎたために死なざるをえない男が描かれる。過酷な運命にあえぐ人にとって、成功の法則という支えがなければ「人生はつらい驚き」でしかない。ミラーにとって、法則が虚偽で真実が現実だというわけではなく、問題となっているのは半実存的真実で、論理的真実ではない。悲劇で大切なのは「コミット」の強さであり、登場人物の間違いは、価値のない目的に、貴ぶべき非妥協的エネルギーを費やしてしまったことにあるという。現代でも、占い師や評論家は「運命の法則」「成功の法則」を掲げ、信じようとする人は多い。法則や目的論は、精神衛生のためには必要なのかもしれないが、果たして本当に存在するのだろうか。

 その答について本書では、ものごとが悲劇的なのは情け容赦ない法則に支配されているからではなく、逆に支配されていないからだと書かれている。目的のない発達というカオスのなかに私たちは生きている。誕生するやいなや、欲望という非個人性のなかに投げ込まれる。欲望とは、苦悩であり異常性である。教師が痴漢をし、女子高生が偽札を作っても不思議ではない。人間は、欲望と理性のせめぎあいを生きる存在だからだ。人間的自我の内部には、欲望という異物が巣くっている。欲望は、死を意識することによって流れる時間のなかで、非個人的な運動を開始する。このような現実において、悲劇とはいかなるものたりえるのか。著者は、「革命」と悲劇を結びつけることによって「コミット」する力へと悲劇を捉えようとする。現実的で社会的に参画することによって悲劇を蘇らせ、そこに倫理を求めるというのは、なにやら実存主義的マルクス主義のようだが、その政治的主張は膨大な博識の影に隠れてつつましいものとなっている。「革命」という言葉ではなく、別の言葉が求められているのではないかと感じた。






最終更新日  2005年01月18日 23時07分13秒

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