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存生記

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2011年02月24日
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「ヒア・アフター」を新宿で観る。冒頭の津波のシーンに息をのむ。自然の猛威にはなすすべもない。逃げようもない。ニュージーランドの大地震の映像を見た後だけになおさら感じる。生存は偶然に左右される。スペクタクルはここだけで、あとは死後の世界をキーワードに女性キャスター、子供、元霊能者の工場労働者の三つの別々のストーリーが平行して進んでいく。

 死後の世界もスペクタクルにしない。暗闇に死者の映像がゆらめいているだけで、天国だか地獄だかも判然としない。どうやら快適な場所らしいのだが、このへんのストイックな演出がいかにもイーストウッドという感じで抑制がきいている。そんなにいいところだったら、苦しみの絶えない現世にとどまる意味とは何なのか考えさせられる。

三人が知り合うきっかけがグーグルだけでなく書物というのも悪くない。ディケンズが象徴的な例として描かれているが、文学の共同体も精神の問題に対処するには必要だ。デカルトの誤読から始まった科学や経済偏重の心身二元論の価値観が浸透することによって、精神という魂の問題はすっかり隅に追いやられた。ある種の文学がダメ人間を好んで描くのも、世俗化された社会生活からこぼれ落ちそうになることで、魂の問題について考えさせるからであろう。社会生活という名の経済活動に邁進していれば、安定した枠からはずれないですむ。そうなると死後の問題は鬱病の徴候のようなものでしかないのかもしれない。

死後の世界を本にしようとして失脚した女性キャスターは、自分の経験した未知なる体験にとまどい、その意味を共有できるような深いコミュニケーションを求めて本を書く。こういう経験はおそらく伝えようとせずにはいられないのだろう。マット・デイモン演じる霊能者が彼女に接近してゆくくだりについては、恋愛映画的なご都合主義ととらえるか、客観的偶然のような好運と捉えるか賛否がわかれるところだ。死後の世界を云々するよりも、まずは現世に救いや希望がなければならぬという監督の意志の現れのようにも感じられる。

霊能者もニュースキャスターも、さまざまな悩みを抱える現代人にとって情緒安定装置になる点で有用である。映画もまた然りだが、ただし観客を揺さぶって情動を喚起しなければならない。この映画は死後の世界をわかりやすく描いて安定させるのではなく、魂の存在はあるのかないのかさりげなく考えさせながら、世俗化した現代人に厄介な問いを突きつける。人間の身体は経済原理によって機械化されたが、その機械を動かす精神はいまだ暗黒大陸のままだからだ。もっとも脳科学の説明ですべて納得できる人にとってはこの映画は退屈かもしれない。機械が停止するまで走り続けるか、動物のように快と不快の世界にとどまっていればいい。

この映画は、クリント・イーストウッドという巨匠が、幸か不幸か目覚めてしまった人たちに捧げた贈り物である。





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最終更新日  2011年02月25日 02時38分25秒



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