昔は、京都なんてちっとも興味関心がなかった。
なぜに京都へ観光へ行く人がいるのだろう?それほどに思っていた。
しかし、実は地元に居ても、神社仏閣等に行くことはよくしていた。だから、京都へ行く…行ってみると、いろいろと歴史ある建造物や文化がある。日本の文化を学ぶ上で、本当にいろんなものが京都へ行くとわかることに気づいて、行ってみるようになった。
多くの国々から京都へ来ている人たちは、日本から京都へ行く人たちと似ている。
それは、京都について詳しい人と詳しくない人、京都に関心を持っている人ともっていない人…など、あらゆる点で同じだなぁ…と思わされるのである。日本人だから詳しいのではないということ。これも、本当に事実として国内外問わず、他地域のことを詳細に知っている人たちはすごいと思う。
さて、京都だけか?
実は、京都以外にも伊勢にも行ったし、出雲にも行った。
京都より奈良には行ったことがあった…そして、兵庫も、大阪も…
いろんなところに行くたびに感謝することがある。
それは、神様に愛されているなぁ…って。
本当に感謝です。
あまりよく知らないでウロウロとしている割には、ちょうどいいタイミングで拝観できたり、本当ならば入れない…が入れたり、見れたりとよくする。
それは、東京ディズニーランドなどでも…同じ。
古いところだけでなく、新しいところでも。
いろいろと学ばせていただけて、いつも有難いなぁ…って思います。
ただ、そんな私でも、行けないところもある。
用心しているところがあるということ。
それは、祀られている神様とのご縁がイマイチなところは、同行者がいて、その人が行きたい…など言っても、私は行けなかったりする。
一度身動き取れない体験をしてからは、そういう時はわざわざ行かないようにしている。
だから、本当はもっといろんなところがあるのだろうけど…なんて、欲張ってみたとしても、人それぞれご縁ってあるもんなんだよね。
特に、神様のお住まいとなっている社たちは、神様が取捨選択して来ていいなど決めているのだろうと思う。
普段は全く迷わないところでも、日によって迷ったり、全く知らないところでも迷わずに行けたりするのも同じだろうって思う。
このブログに偶然に出くわして読んでいる方も、何かご縁があったのかもしれませんね。
先日、涙の話を聞きました。
心からの涙と、魂からの涙があるんだよ…ってね。
涙の流れ方が違うと言われたのですが、わかる気がするなぁ…と共に、潜在意識にある物がかかわって流れる涙には理由なんてわからないことがあると思います。
今ならば少しはわかるのかもしれないなぁ…って思うんですが、昔、絵を見た瞬間に涙が止まらなかったことがあります。絵を描いた人は有名なのかもしれません。それは美術館で見た絵だから。でも、私は初見のモノでした。そして、その絵を描いた人なんて知りませんでした。今でも覚えていません。ただ、その時の美術展で2枚、その前に立った瞬間に涙が流れてくるという体験をしました。
絵も音楽も書も…何であれ、作った人の心だけでなく魂が宿るのだろうと思います。
そして、神様に関するもの達には、神様が宿ると思います。
全てをうまく大切にできていない自分がありますが、有難いなぁ…と思うのはその存在を感じることができることかもしれません。
表面つくろっても仕方ないんだなぁ…と思うとともに、昔の人が作ったモノも同じく、ただ作っただけのものと心や魂を込めたモノには違いがある…そんな違いを知っている人たちがしないことがあると思うのです。
今の日本は残念ながら、識字率は高いけど、そんな込められた心や魂などを感じる能力を鈍化させることに専念して人を育てた人達が牛耳っていてわけわからなくしていることがあります。戦争をしていた時の軍隊のように…諭す代わりに力で制圧し有無を言わせずに人を動かしてきた人たちの生み出した次世代への影響…本当は変えることができる影響であり、それから抜け出せるのに、そこにとどまりたがっている人たちがいる理由があります。まだ、存在していると勘違いしている魍魎が臭気をひそめながら…でも隠しきれずに出しながら…存在していて、違うものに変わったふりをして変わっていないことをしていることに気づかず過ちを繰り返し…恐怖におびえている存在をいいと思っている20世紀引きずる存在が死臭と腐敗臭を鼻ではわかりにくいけど、漂わせて存在していて、自分の過去の過ちを認めずに改めたような顔で存在しているから。
表面だけを変えても、気は変わっていないと、オーラも濁っているし…邪気を放っている。
京都などに行くとわかることは、様々な気が混在して社会ができていったんだなぁ…ということと、様々な思いが交錯していたんだろうなぁ…ということ。
神様のすごいところは、全てをゼロにする…無を作り出す力を持っているところですね。
天災は、忘れたころにやってくるという言葉がありますが、何を忘れるか?
自分が犯した過ちだと思います。
忘れてなかったことにしたい…と思ったときにやってくるんだろうと思います。
今こそ、あなたがやった罪を全て償うときですよ~ってね。
一番失いたくないと思うものが全て喪失する…そんな体験になるかもしれない。
そう思うと共に、生活費のために…など、本来正当化できない理由で誤ったことを平気でしていた人達は自分で自分がしたことに対して償わないなら、自然災害で全てをタイミングよく無くすことができるように…一番いいタイミングに全てが動くんだなぁ…と終っている人たちの気を見るたびに思います。
まだまだ天災はなくならない…でしょうけど、何度も消失しても京都があるように、きっと形を変えていっても必要なものはなくならないんだなぁ…と思わされるのでした。
醜態の終わりは
新しいモノの始まりでもあります。
醜態に関わっている人たちは、それをいいと固執しているかもしれませんが、その固執している価値すら腐敗臭漂っているもの…死臭が漂うものであっても、固執している人にはわからないのですよね。
淘汰された美…文化…などがある京都かな…なんて思いながら、神様はすごいなぁ…って思いますわ。