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孫悟空が決め台詞に「天国に行きてぇか、地獄に行きてぇか!」と言う。
だが、残念ながら仏教に天国はない。 西遊記の世界観では、天の国は天帝が治める神仙族の国であり、死者が赴くところではないのである。 斉天大聖というのは悟空が勝手に作った位だが、後に天帝から正式に斉天大聖に任命されているくらいだから、それを知らないはずはない。 仏教では極楽浄土(極楽)という。 しかも悪人は地獄に落ちると決まっているのだから、わざわざ聴く必要などないはずである。 日本仏教だとちょっと違うが。(歎異抄参照) もしかすると、西域のことだから"天国"に行く者達なのかもしれない。 強引な辻褄合わせだが・・・ ちなみに、キリスト教的には天国への扉があり鍵がかかっていて、その鍵を預かっているのが聖ペテロであり天国の門番である。 極楽より何か天国の方が楽しそうだ。 なお、ペテロとは岩のことである。 サン・ピエトロ寺院はペテロの殉教地に建っているので有名。 地獄は映画"コンスタンティン"で見たばかりである。 仏教の地獄は永遠にいるというわけではない。 悪事を報いると極楽に往ける(往生)のである。 少ない悪事なら早く極楽に往けるし、大きな悪事なら気が遠くなるほど長く地獄にいることになる。(7日だけ地獄にいた男の話がある) なにせ、もう死なない(もう死んでいる)のだから無限に近いことだってあるのだ。 日本ではその先がある。 悪事を全て白状し報いることで早く償いを終わらせることができるとされる。 このために閻魔王が厳しく追求するのである。 その閻魔とは現世での地蔵菩薩であり、その追求もまた慈悲なのだという。 「絵で見ては 地獄の方が 面白し」が日本的発想。 例えば、不殺生戒、生き物を殺してはならないという戒めである。 畑仕事で、土を掘り返すとミミズや虫を殺してしまうかもしれない。 それでもダメである。(いわば"未必の故意"である) では、他人に掘らせるとどうなるか。 間接でも命じたのだから同じことである。(いわば"教唆"である) なので仏教では「そこを掘れ」ではなく「そこを知れ」と言うそうである。 どう考えても詭弁に過ぎないが・・・(現行法的には同罪だろうが) まあ、そのくらい厳しいものだということ。 耐震強度偽装でも粉飾決算・風評流布でも同じである。 彼らは不偸盜(ふちゅうとう)・不妄言(ふもうご)のふたつの戒を犯している。 これらは不殺生戒を犯すのと同レベルの大罪である。 まして、死人が出ているではないか。 まあ、「地獄の沙汰もお金で買えるさ」くらいのことは言いそうだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年01月25日 16時09分43秒
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