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子孫を残そうというのは本能である。
全ての生物がその本能を持っている。 なぜなら、そうでない生物は子孫を残さず、絶滅するのだから。 本能とは学習によるものではなく、初めから脳に存在しているものを言う。 それはDNAによって引き継がれたものだ。 小さな子供でも、自分の下半身に出っ張ったところがあり、別の人に引っ込んだところがあれば合体(ロボットアニメで言う)できるのではないかと考えるはずである。 それが本能的行動(思考)なのだ。 映画"ロボッツ"で、ビッグウェルド社長が会社に乗り込むシーン。 途中にトイレが出てくる。 男性用には"プラグ"の絵が、女性用には"ソケット"の絵が描いてある。 卑猥だ。 もし、人間の体をそれに当てはめると・・・ まあ、卑猥だと思う人が卑猥なのだが。 「成り成りて成り合はざる処」があり、他方に「成り成りて成り余る処」があれば、「此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎ」という。 古事記の伊邪那岐神・伊邪那美神の会話である。 もうこれは卑猥というものではない。 生命の本質であり、本能であり、運命でさえある。 もしセックスは絶対にいやだ、死んでもしないという人がいたとする。 結果、その人のDNAは受け継がれない。 セックスが好きな人であれば、より多くの子供を産み、後世にそのDNAは多く引き継がれることになるのである。 つまり、エッチな人のDNAは引き継がれ、そうでない人のDNAは引き継がれない。 それはDNAの呪縛でもある。 男が浮気をしたり、女が相手を選ぶのも本能である。 より多くのDNAを残したい男と、より良いDNAを残したい女の行動なのだ。 これもDNAの仕業である。 本質的には、生命とは単なるDNAの容器なのだろう。 お釈迦さまは、どんなに美人でも食べ物を糞に変えるだけの存在(糞袋)だという。 言葉は悪いが、怒ってはいけない。 全ての人がそうなのであって、美人だといっても表面的なもので、本質は同じ人間だということだ。 私はそれを言い換えてDNA容器と言っているのと同じことである。 まあ、美人のDNA容器とそうでないDNA容器は、DNA的に区別しているが。 美人だの、綺麗だの、可愛いだの、言葉は色々使い分けられるが本質を突いていない。 それらは民族や時代によって変わるものだからだ。 江戸時代だけでも、前期と後期では美人の定義は異なるし、現代でも痩せている方がいいという民族もあれば、そうでない民族もあるのである。 しかも、人により好みは異なるのだ。 最終的には、男はその人に子供を産ませたいと思うか、女はその人の子供を産みたいと思うかになるだろう。 なぜなら、それがDNAの目的だからである。 エッチだと思うことは、本能を押さえる社会制度と学習により作られた感情であり、それをエッチというなら、その子孫だけが生き残るのだから人間はエッチで当たり前なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年02月03日 14時45分47秒
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