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Nonsense Story

Nonsense Story

菊日和(番外編) 1




菊日和 (番外編) 1




 菊花展の会場を出ると、雨が()っていた。乙女心と秋の(そら)とはよく云ったもので、朝は雲ひとつなかった天から、雨粒が勢いよく地面を叩きつけている。
 会場の外に飾られていた鉢植えを非難させていた係員が、タクシーを呼びましょうかと声を掛けてきた。車で来ているからと断ろうとして、駐車場までの道のりを考え、しばし逡巡する。自分が濡れるのは構わないが、商売道具が濡れるのは避けたかった。一応、防水のカバーを掛けてあるが、それだけでは間に合わないのではないかと思う程の零りなのだ。
「よりによって、傘を車に置いて来るとは」
 自分の莫迦さ加減に情けなくなる。里帰り中の我が奥方に云われて持って来た傘は、車の後部座席に放置したままになっていた。今朝、実家から、わざわざ僕に忠告しに電話を()れたというのに。
「そんなことだろうと思ったよ。はい」
 会場の庇の下で肩を落としていると、見慣れた傘を差しかけてくる者がある。
「あれ? 来てたの」
「久しぶりだね。義兄(にい)さん」
 傘を拡げて人懐っこい笑みを浮かべていたのは、我が奥方の弟であった。


 義弟に会うのは、まだ片手の指で足るくらいの回数でしかない。成長期の彼は、会う度に大きくなる。最初に会った頃は姉と変わらないくらいだったのに、今では僕をも追い越しそうな勢いだ。窮屈そうに、大きな(からだ)を決して小さくはない傘の下におさめている。
「大きくなったなぁ。もうちょっとで抜かれちゃうね。来年成人式だっけ?」
「そう。ついでに云うと、来月で二十歳」
「じゃあ、誕生日にはお酒を贈るよ。日本酒はいけるクチ?」
「そういえば、義兄さんの親戚に造り酒屋があるんだったよね。でもそれ、未成年に訊くことじゃないだろ」
「あはは。でも、呑んでるんでしょ」
「呑んでるけど」
 皮肉なことに、駐車場に着くと雨は小零りになった。義弟を助手席に乗せ、この後は直帰できるので、何処か行きたい(ところ)があるかと問うと、菊の花が見たいと()う。それならば会場に引き返そうと提案したのだが、彼はもっと他の菊が見たいと主張した。
「他って云ってもなぁ」
 たしかに今は菊の盛りだ。だが、現在、このあたりで一番菊が集まっている(ところ)は、今出てきた会場に違いない。それに、二十歳そこそこの若者に菊を見せてもつまらないだろうという疑念もあった。折角来たのだから、どうせならもっと喜びそうなところに連れて行ってやりたい。しかし彼は、他の遊興施設には興味がないようだった。菊がいいと云ってきかない。
「義兄さんのお母さんが、畑で育ててるんだろ? 姉ちゃんに聞いたことある。それでいいよ」
「育ててるって云っても、墓に供える程度しかないよ」
「それで十分」
「変わってるなぁ」
「義兄さんに云われたくないね」
 そこで僕は、母が市から借りている山の一角へと車を走らせることになった。


 山に着いた時には、すっかり天気は回復していた。車が止められるようになっている空き地から畑までは結構な距離があるので、これは幸いなことである。しかし、菊の花は本当に申し訳程度にしか咲いておらず、他に見るものもないので、僕たちはすぐに車に引き返すこととなった。
「雨の後の空気って気持ちいいよな」
 義弟は鼻歌交じりに坂を下っていく。自分のTシャツの裾を引っ張って、雨に洗われた空気を衣服の中に取り込む。前に引っ張られたTシャツが背に張り付き、肉付きのいい背中を露にする。
 僕は同意をしてから、肉厚な彼の背中に問いかけた。
「で、どうして此処へ来たの。何か相談でもあったんじゃない?」
「・・・・・・分かる?」
 おそるおそるといった風に、義弟が振り返る。
「分かるよ。きみのお姉さんは、おれのこと鈍感だと思ってるみたいだけど」
「鈍感じゃなくて、無頓着って云ってたよ」
「異論はあるけど、反論はできないな」
 無頓着にしているつもりはない。虚と実、幻と(うつつ)。その境目が分かり始めたのは、つい最近のことだ。頓着しようにもできなかったというのが正解で、別に喜んで受け入れているわけではない。
 ただ、今は別だった。
「何? 云いたいことがあるなら云ってみてよ。おれじゃ頼りないかもしれないけどさ」
「絶対誰にも云わない?」
「云わないよ」
「姉ちゃんにも?」
「場合によっては云うかもしれないけど・・・・・・」
「じゃあ、云わない」
 彼はくるりと踵を返して、また僕に背中を向けてしまった。僕は一人っ子なので、ちょっと兄貴風を吹かしてみたかったのだが、失敗してしまったらしい。
 しかし、兄貴風云々はともかく、このままにしておくわけにもいかなかった。義弟の首筋がほんのり赤くなっているのを見て取ると、急ぎ足で横に並び、その肩に手を置く。
「好きな子でもできたの?」
 (かお)を覗き込むようにして問うてみると、これが図星だったらしい。触れている肩が一気に熱くなり、それと同時に彼の貌も真っ赤に染まった。
「そうかそうか。そうなんだ」
「ち、違う!!」
 にやにやしながら彼の肩に腕を廻そうとする僕を退けて、義弟は力いっぱい叫んだ。しかし、この場面に()いて、否定が肯定を表すものであるということに気づいたのか、彼はすぐ、悔しげに項垂(うなだ)れた。
「そういうことならおねえさんにも云わないよ」
 僕の言葉に、義弟は睨むような視線を返してきた。それに応えるように、ひとつ(うなず)く。と、彼は僕から視線を外して、ぽつりと云った。
「結婚してるんだ、その人」
「そっか。だから誰にも云えずに、思い悩んでたんだね」
 義弟は、子供のようにこっくりと肯いた。
「その人と付き合ってるの?」
「いいや。その人はおれの気持ちも知らない。夫婦仲はすこぶる良くて、おれの入る余地なんて、何処にもないんだ」
「それは・・・・・・辛いね」
 義弟に不倫などして欲しくはないが、報われない恋をしているというのも可哀相に思う。




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