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Nonsense Story

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菊日和(番外編) 2




菊日和 (番外編) 2




 不意に、義弟の()から、つぅと雫が溢れてきた。彼が泣くのを見るのは、いや、男の子が泣くのを見ること自体、初めてだった。
 大した失恋経験もなく、こんな相談を受けたこと自体が間違いだったのかもしれない。碌な言葉を掛けてやれない自分を、不甲斐無く感じる。義弟に頼られた喜びは、霞のように消えていた。けれど、今彼をなんとかできるのは、僕しかいないのも事実だ。
 僕は戸惑いながらも、必死に()い募った。
「でもね、きみのご両親もおねえさんもおれも、みんなきみのこと想ってるから。その人の心にはなくても、おれ達の心の中にはきみの場処があるんだよ。今もおねえさんは、きみの手をしっかり握ってる筈だ」
「本当に?」
 義弟が(かお)を上げ、縋るような()でこちらを見た。
「自分で確かめてごらん」
 潤んだ睛に、彼の真意を垣間見たような気がして、僕は自分の立場も忘れて切なくなった。それは義弟が、今までの無邪気な彼ではなく、努力だけではどうにもならないことがあるという現実を受け入れ、大人へとひとつ近づいたことを物語っているように感じられた。
 彼は、自分の姉が好きなのだ。
 突き抜けるように晴れ上がった(そら)を、とんびが一声啼いて、舞っていく。
 義弟は神妙な貌で肯くと、その前にと云って、手を差し出してきた。
「手を・・・・・・繋いでもいいかな」
「・・・・・・いいよ」
 遠慮がちに出された手を、軽く握る。握り返してくる力は、既に大人の男のものだった。
 僕は心の底から彼の姉を大切に想っているけれど、彼の力に対抗しようという気にはなれなかった。それは僕たちが結婚しているという余裕からでも、彼らが姉弟だからでもない。強いて云えば、彼が僕の義弟であるからだ。彼女を想うのとは別の次元で、彼も僕にとって大切な人だった。
 彼は今、どんな気持ちで、恋敵である僕と手なんて繋いでいるのだろう。彼女を好きだという気持ちは、きっと自分でも認めたくなかったに違いない。それを認め、苦しみ、そして今、僕にしか相談できない場処にまで来てしまっている。おそらく、一番相談したくなかっただろう僕にしか。
 無言で歩く道すがら、僕はそんなことを考えていた。
「ごめんな」
 ぽつりと漏らした謝罪に、アスファルトを突き破って咲く夾竹桃の花に視線をやっていた義弟が、かぶりを振る。
「謝ることないよ。人の気持ちはどうしようもないだろ」
「それでも・・・・・・」
 一人っ子だった僕は、義理とはいえ、結婚したことで弟が出来て嬉しかった。彼の人懐っこい振る舞を、単純に好まれていると受け止め、喜んでいた。しかし、彼は違ったのだ。あの笑顔の裏には、葛藤や苦しみがあった筈だ。嫉妬を押さえ込んでもいた筈だ。それを想うと、申し訳なさが募った。今だって、憎まれていないという保証は何処にもない。
 おれ、ずっと姉貴より兄貴が欲しいと思ってたんだ。
 結納の日、そう云ってにかっと笑った彼の心中は、哀しみに沈んでいたのかもしれない。
「そろそろ、行かなくちゃ」
 義弟に握られていた手が、急に涼しくなった。気づくと、既に車の処まで帰ってきていた。そうした方がいいと呟いて、車の鍵を取り出す。助手席の扉は開けなかった。
「見舞い、来てくれる?」
 運転席に乗り込むと、車窓から義弟が問うてきた。僕は複雑な想いに駆られながらも、喜んで肯いた。
「きみさえ良ければ」
「ありがとう」
 礼を云うのはこっちの方だ。
 そう云おうとした時には、既に彼の姿は消え、車窓には、どこまでも続く高い天と、青々とした山が見えるばかりになっていた。


 義弟は先日から、交通事故で入院していた。意識不明の重体である。歩いているところを、乗用車に撥ねられたのだそうだ。目撃者の話に拠ると、彼は心ここに在らずといった風情で、赤信号をふらふらと渡っていたらしい。


 その夜、一人で即席麺を啜っていると、我が奥方から電話があった。義弟の意識が戻ったのだと、泪声で語る。普段は喧嘩ばかりしているように云っていたが、やはり心配だったのだろう。彼女の声は、安堵と歓喜に溢れていた。
「良かったね」
 僕は彼女ではなく、義弟に向けて呟いた。ほら、きみの存在は彼女の中でもこんなに大きい。
「あんまり驚かないのね」
 彼女は僕の反応が不満だったらしい。つまらなさそうに云う。
「ああ、電話が鳴った時、なんとなくそんな気がしたから」
「わたしはまた、弟があなたの処にでも現れたのかと思った」
「っ、まさか」
 僕はむせそうになったが、辛うじて誤魔化した。彼女は非現実的なことは受け入れない性質だったのだが、僕といる所為か、最近、こういうことに順応しつつあるようだ。
「あ、でも、きみの弟と同じくらいの齢の子に会ったよ」
 僕は、義弟だということは伏せて、彼のことを話した。云わないという約束ではあるが、少しでも、彼の気持ちを彼女に届けてやりたくなったのである。
 しかし、僕が話し終えると、彼女は全く見当違いのことを口にした。
「その子、あなたのことが好きだったのね」
「なんでそうなるの。だいたい男の子だったんだよ」
「それも有りなんじゃない? 今日は重陽の節句だし、その子、あなたに菊の花が見たいと云ったんでしょう?」
「それとこれとの関係性が分からないんだけど」
「そりゃ分かってたら、そんなに暢気ではいられなかったでしょうね」


 数日後に見舞いに訪れた時、義弟は生霊になって僕の前に現れたことなど、何も憶えてはいなかった。何かを吹っ切ったような清清しい表情からは、彼が誰を好きだったのかを窺い知ることも、僕には出来なかった。しかし、或いは、彼女は何かを知っていたのかもしれない。視えなくとも、たしかに繋がる絆があるように。
 悪態を吐きながらも、かいがいしく世話をする彼女と、それを煩そうに受け止めている義弟を微笑ましく眺めながら、僕は、二人の間に入っていけないのは自分の方だと感じていた。








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