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Nonsense Story

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きみのこと 3


「あのぅ、私・・・・」
 急にすぐ近くで声がして、智樹は我に返った。智樹の顔から一メートルもない位置に、フジコちゃんの顔があった。いつの間にか、レジの前にかえってきていたのだ。
「あ、」
 フジコちゃんのことをすっかり忘れていた。とんでもない話を聞かれてしまったと、今更あせってしまうが仕方がない。
「ごめんなさい、急に隠れて。さっきの人達、同じクラブなんだけど、あまりうまくいってないんです」
 彼女はうなだれて、少し恥じ入るように言った。
 智樹は自分の話ではないことに安堵しながら、あることに思い当たった。
「ひょっとして、事故にあった子っていうのは」
「・・・・・・私です。」
 ポツリと彼女は言った。下を向いて、何かを諦めたように。「私、もう楽器吹けないんです」
 チヅコ達の話の途中からそうではないかと思っていた。彼女がしょっ中リードを買いに来ていたのは、下手だったからではなく、いじめにあっていたからだったのだ。
「さっきの子のリード、渡す前にこっそり割っときゃ良かったな」
 智樹がぼそっと言うと、フジコちゃんはびっくりしたように顔をあげた。目がまん丸くなっている。
「ささやかな仕返し」
 ニヤッと笑って智樹が言った。実際にはできないけれど、気持ちの上ではそうしてあげたかった、という意味を言外に込めて。フジコちゃんはやっと笑顔になった。
「でも良かったね。元気になって」
 楽器を演奏できなくなったというのだから、かなりひどい事故だったのだろう。それでも事故から三ヶ月足らずで、こんなに歩き回ることができるのだから、かなり回復していると考えられる。それに智樹の見る限り、露出部には傷が残っていないというのも救いだと思えた。
 しかし、彼女はまた少し驚いたような顔をした。
 演奏できなくなったことを聞いていながら良かったと言われたことが心外だったのかと思い、智樹は慌てて付け足した。
「サックス吹けなくなったのは残念だけど、可愛い顔に傷も付いてないし、命が助かって良かったよ」
「あぁ、・・・・ありがとうございます」
 彼女は一瞬、何かを理解したような反応を示したが、また複雑な表情で礼を言った。
「千晶ちゃんとは仲いいの?」
「ごめんなさい。さっきの話、聞くつもりはなかったんですけど」
 なんとか話題を変えようとして、智樹は墓穴を掘った。千晶はフジコちゃんを心配しているようだったから言ってみたのだが、結果、自分の話になってしまった。
「あ、いや、こっちこそ、変なとこ見せちゃって」
 智樹は頭を掻きながら答えた。
「千晶ちゃんのお姉さんと付き合ってたんですね」
 おずおずといった感じで、フジコちゃんが言った。言おうか言うまいか、散々考えたというような聞き方だった。
「振られたんだけどね」
 智樹はおどけて言った。が、彼女は笑わなかった。
「でも、お互いにまだ好きみたい」
「分からないよ、人の気持ちは」
「少なくとも、おにいさんはまだ好きなんでしょう?」
 彼女は泣きそうな顔で言った。智樹は慌ててなだめにかかった。
「俺はもう平気。仮にそうだとしても、きみが泣くことないんだから、ね」
 智樹がフジコちゃんの肩に手をのせようとすると、彼女は一歩下がって智樹の目を見つめてきた。先程の千晶のように、切実な瞳で。
「でも、さっき話を聞いてて思ったんです。おにいさん、すごく辛そうだから。なんだか、今日のおにいさん、笑ってても、最後に見たときの笑顔と違うっていうか、無理して笑ってるみたいっていうか、いつもの70パーセントくらいの笑顔にしかなってないっていうか・・・・。どう言ったらいいか分からないけど、見てると私まで辛くなるんです」
 フジコちゃんの一生懸命なまなざしに、じゃあ見なるな、とは言えなかった。
 智樹はうつむいて、ショーケースに映った自分の顔を食い入るように見つめた。そこには、誰にも見られたくないような表情になっている自分がいて、実際、智樹以外には誰も映っていなかった。まるで、店の中には智樹の他には誰もいないかのように。
「本当に分からないんだ、高町の気持ちは」
 自分の置かれた状況を確認するように、智樹は話し始めた。高町とは大学のゼミが同じで話すようになり、先月まで付き合っていたこと。学生時代は毎日のように会っており、彼女の家にもよく遊びに行っていて家族とも面識があったのに、智樹が他県の多忙な会社に就職したため、別れる数ヶ月前からは、会うどころか電話で話すことも少なくなっていたこと。そんな二人を、これまたゼミで一緒だった菅田という友人が心配してくれて、あれこれ世話を焼いてくれていたこと。それはフジコちゃんへの説明ではなく、独白に近いものだった。
「別れるっていうのは提案じゃなく、彼女の中での決定だった。少なくとも俺はそう取った。そりゃ、別れたくはなかったけど、それまでの状況を考えると、そばにもいてやれない、電話だってロクにできない人間と、付き合い続けてくれなんて言えなかった。だけど、菅田達は別れ話は彼女の賭けだったって言うんだ」
 智樹の気持ちが分からなくなり、不安になっているところに妊娠が発覚。そんな状況下で高町のとった行動が、別れ話を持ち出し、智樹の反応を見ることだった、と。
 そこで智樹はその別れ話を呑んでしまった。いともあっさりと。でもそれは、彼女を想えばこそだったのだ。あの時、自分の気持ちだけを押し付けて、必死になって別れを拒んでいれば良かったのだろうか。
 それに、自分の子供だからといって、今更智樹が出て行って、受け入れてもらえるとも思えない。高町の賭けに失敗してしまった自分が、子供の父親として必要とされるなんてことがあるだろうか。
 智樹は今まで口にすることのできなかった想いや不安を、ショーケースに映る自分に向かってぶちまけた。
 フジコちゃんは静かに聞いていた。息もしていないのではないかと思うほどに静かに。
「高町さんは、おにいさんのこと、今でも好きだと思います」
 智樹の言葉が途切れると、フジコちゃんが言った。その言葉は、ぽつんと智樹の中に落ちてきた。違う状況で他の人に言われたら、すぐに否定していただろうけれど、今の彼女の言葉には受け入れられる響きがあった。
 しばらくの沈黙の後、フジコちゃんがまた口を開いた。
「おにいさんも薄々気付いてるんじゃないですか?」
 控え目だが、確信を持っている物言いだった。彼女はこうも続けた。
「本当の不安は、もっと別のところにあるんじゃないですか?」
 別のところ?
 智樹はショーケースに映る自分に問いかけた。今やフジコちゃんの声は、智樹の心の声になりつつあるようだった。
「今、急に子供の親になるのは怖いですか? 心の準備ができていない?」
 フジコちゃんの声が智樹自身の声になり、心の中にこだまする。
 それはある。確かに怖い。智樹の就職した会社は不況の煽りを受けていても、三年も働き続ければボーナスはかなりの額が期待できるような大手だ。しかし、今は就職したばかりで、経済的な不安は拭えない。それに、自分だって子供から抜け出せているのか疑問に思うのに、赤ん坊の父親になるなんて。
 でも、本当に自分と高町との子なら。そう、自分の子供なら。高町への想いのせいで、そう考えるのかもしれないけれど。
「他の人の子供かもしれないって思ってるんですか?」
 智樹はためらった。
 今はともかく、高町の子供ができたのは明らかに智樹と付き合っていた時だ。ここでうなずくことは、高町を疑っていることになるのではないかと思った。いや、心のどこかでは疑っている。あんなに連絡の取れない状況が続いてしまっていたのだから、高町が寂しさに負けても仕方がないと。距離は心をも離すことがあるからと。
 でも、そんな考え方をする自分を否定し続けてもいた。信じなければいけない、疑ってはいけない。
「分かりました。私、確認して来ます」
 自分の心とダブっていたフジコちゃんの声が、急に別の人間の声と意志を持って智樹の耳に届いた。
「・・・・え? きみが?」
「はい。高町さんて千晶ちゃんのお姉さんですよね? 私、千晶ちゃん家なら行ったことあるから大丈夫だと思います」
「会ったことあるからって、そんな・・・」
「とりあえず、私にまかせてください」
 智樹の言葉を遮るように言うと、フジコちゃんは出入り口に向かって駆け出した。


-つづく-



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