136493 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

Nonsense Story

Nonsense Story





ポケットの秘密 3


赤


 そのカッターで初めて物を切ったのは、中学三年生の時。
 原因はいろいろあるけれど、父の浮気と、体に一生残る傷痕ができてしまったことが大きな要因だと思う。
 足に大怪我をしてやっと病院から退院したのは、そのひと月前だった。
 父には以前から、母の他に付き合っている女性がいた。そのことは家族全員が知っていて、母はノイローゼ寸前だった。それは今も続いている。
 私は、浮気をしている父やノイローゼ気味の母、そんな両親から逃げてばかりいる兄に代わって、一人で家の中を明るくするべく奮闘していた。精神的にまいっている母にだけでなく、父や兄にも笑顔をふりまいていた。
 父の愛人だと名乗る女性が家に乗り込んできた時も、泣き崩れる母に微笑みかけた。
「大丈夫よ。お父さんもそのうち目が覚めるって。私がなんとかするから」
 そんな私が怪我で入院してしまった。
 母は毎日、とても辛そうな顔で病院にやって来た。私は療養しながらも、母を元気付けなければならなかった。
 父が一緒に来ることもあった。彼は、私の足に傷が残ることをひどく気に病んでいた。
 私は父を責めることはしなかった。心の中でどんなに罵っていようとも、口には微笑を乗せてこう言った。
「心配かけてごめんね。お父さん。私なら大丈夫だから、お母さんを大事にしてあげて」
 私は知っていた。私のこういう態度が、父にどんな影響を与えるのかを。
 父は私の予想通り、愛人と別れると母に約束した。寒々しい病室で家庭の再生を誓う二人は、ひどく滑稽に見えた。それでも私は目に涙を浮かべて、母と喜び合うふりをするのを忘れなかった。
 退院してしばらくは、『明るく楽しい我が家』を装うことに成功していた。兄だけは、こんな家族ごっこが続くわけがないと、家にあまり寄り付かなかった。私も内心では兄と同意見だったけど、いつもニコニコと家族ごっこの中心で笑っていた。
 でも、ひと月も経たないうちに家族ごっこは終焉を告げた。父と愛人が切れていないことが発覚したためだった。
 それでも私は、ずっと笑っていた。母を励ますように。父に罪悪感を持たせるように。鏡の前で練習した極上の笑みを、絶えず浮かべていた。
学校でも演技は続けなければならなかった。
 友達の中での私への評価は『いつも明るくて優しい、リーダー格の子』。それを裏切らないように、私は笑みを浮かべ続けた。
 学校に復帰すると、みんなが怪我のことを気遣ってくれた。
「大丈夫? 傷が残るなんてかわいそう」
「何かしてほしいことがあったら、何でも言ってね」
 内心では、本心ではどう思っているんだか、と思いながらも、私は笑顔で応対した。
「ありがとう。もう大丈夫。これくらいの傷、なんでもないって。心配かけちゃってごめんね」
 傷は左足の太ももに、ムカデが這うような形で浮いていた。
 それまで穿いていた制服のスカートだと、どうしても傷の端が見えてしまう。私は制服のスカートを長いものに買い替え、お気に入りだったミニスカートを全て処分した。
 近所に住む幼馴染も一緒に事故に遭ったのだけど、彼女は捻挫だけで済んでいた。彼女の損失といえば、学校の駅伝大会に出場できなかったことくらい。
 傷が目に付くたびに、彼女は言った。
「ごめんね。私ばっかり軽い怪我で。この傷も二人で分けられたら良かったのにね」
 私は、気にしないで、と言いながらも、何故この子ではなく自分ばかりが大怪我を負わなくてはならなかったのか、いるのかいないのか分からない神様に問わなくてはならなかった。
 どうして私ばかりが。
 そんな思いが強くなるのを感じていた。
 そんな矢先、とうとう父が家から出て行っていた。
 思い余った母が、出て行ってと口にしてしまったためだった。父にとって、それは願ってもない言葉だったに違いない。彼はそそくさと荷物をまとめると、私に「母さんを頼む」と言い残して玄関を出た。
 私は逃げるような父の後姿を、一人で見送った。兄はその日も帰ってこなかった。
 翌日も変わらず、笑顔で登校した。春に事故に遭ったのだけど、もう夏服の時期にさしかかっていた。
 この日は体育があり、足に傷ができて初めてのショートパンツでの授業だった。予想はしていたけど、やっぱりショートパンツの裾から傷が覗いた。トカゲの尻尾のようにちょっと覗くそれは、クラスメート達を震え上がらせた。
「うわぁ、痛そう。一生消えないって本当?」
「ちょっと、そんなこと訊いたら悪いよ」
 こんなやり取りを何度聞いただろう。その度に、私はにっこり笑う。
「全然平気よ。気にしないで。一生付き合わないといけないからね、もう恋人みたいなものよ」
「あはは、さすがポジティブシンキングだね」
「そんなの恋人にしなくても、かわいいんだから人間の恋人もすぐ出来るよぉ」
 私の冗談にみんなほっとしたような表情を浮かべ、示し合わせたように「強い」とか「前向き」という単語を口にする。その単語の前には、かならず「さすが」とか「やっぱり」という言葉が冠されるのだ。
 それは仕方のないことではあった。私が常にそういう女の子を演じてきたのだから。
 だけどそんな私には、気付くと息抜きの場所がなかった。偽物の笑顔が顔に貼り付き、本当の自分がどんな顔をしているのかも忘れてしまっていた。
 それでも、みんなの本音を実際に耳にしまうまでは、まだ耐えることができた。内心ではどんなに疑っていても、現実に陰口というものを聞くまでは、演技をしている自分でいいと思っていた。それがいつか本当の自分になると思っていたのかもしれない。
 体育の授業が終わった後、私は体育館のトイレに行ってから更衣室へ戻った。
 更衣室のドアへ手をかけた時、中で笑い声が弾けた。
「あんな傷が恋人だなんて笑っちゃうよねー」
「自分にあんな傷があったらって想像したら、たまんない。あたしだったら学校来れないよ。神経図太いよね」
 自分への中傷だと分かるのに時間は必要なかった。
 覚悟はしていた。女の子の陰口は、気軽に着ける安物のアクセサリーのように、そこにいない人間に対して深い意味もなく発せられる。標的になる人間も毎回違う。私も参加したことはある。
 今、私がいなかったから的になっただけのことだ。
 私は判っているつもりだった。しかし、解ってはいなかった。頭で理解しているつもりでも、心はついていっていなかった。
 気付くと手に靴を持って、焼却炉の前にいた。
 何故こんな所にいるのだろう。更衣室の前で立ち聞きをしてしまってからこれまでの記憶がない。
 足元に濃く短い影が落ちている。首筋が熱い。太陽が真上に来ているのを感じる。
 人気のない体育館の裏手で靴を手にしたまま呆然としていると、男子の声とともに集団の足音が聞こえてきた。昼休憩が始まったことが分かった。
 私は体操服のままであることに気付き、靴を焼却炉の裏に隠すと、更衣室へ引き返した。
 後で分かったことだが、持ち出した靴は「あたしだったら学校来れないよ」と言った子の物だった。人の靴を持ち出した記憶もないのに、しっかり選んで手にしていたらしい自分に、驚くとともに苦笑した。
 翌日、私は家からシールの貼ってあるカッターを持ち出し、隠していた靴を切り裂いた。
 切った靴は、焼却炉に投げ込んだ。


青


 制服のズボンのポケットから振動が伝わってきて、ぼくは携帯電話を取り出した。液晶画面には『公衆電話』と表示されている。
 折りたたみ式の携帯を開いて通話ボタンを押すと、赤松の声が耳に飛び込んできた。
「ごめんなさい。今日は多目的教室行かないから」
「どうかしたの? わざわざ連絡してくるなんて珍しいな」
 ぼく達は、約束して多目的教室に集まっているわけではない。お互い勝手にあそこで昼休みを過ごしているだけなので、行けなくなったとしても連絡をするという習慣はなかった。
 「あのね」赤松は少し言いにくそうに切り出した。「昨日トイレの前で会った人たちがね、一緒にお弁当食べようって誘ってくれて」
 あのデコボココンビは、赤松や藤田と同じクラスの人間だったらしい。
 赤松は、用事ではなくクラスメートを優先するために、ぼくに一人で昼食を食べさせることを申し訳ないと思っているようだった。だから、わざわざ連絡してきたのだ。
「良かったな。友達できそうで」
 赤松は、二年生に進級して二ヶ月経つ今でも、クラスに友人がいない。クラス内だけでなく全校生徒を合わせても、彼女と普通に話す人間はぼくくらいしかいなかった。
 彼女が多目的教室に来なくなるのは少し寂しい気もするが、ぼくは彼女には同性の友人が必要だと思っていた。何よりも、本人が欲しているようだったからだ。
「うん。ありがとう」
 耳に嬉しそうな声が聞こえてくる。その子供のように無邪気な声に、こっちまで微笑んでしまいそうになる。
「ところで、どこから電話してるわけ?」
 赤松は携帯電話を持っていない、今どき珍しい女子高生だ。よって、電話を掛ける時は公衆電話を利用するのであるが。
「職員室の前にある公衆電話」
 予想通りの答えが返ってきた。校内の公衆電話といえば、そこくらいにしかない。
「赤松の教室からそこまで行くよりも、うちのクラスに来る方が近いと思うんだけど」
「だって・・・・・・」
 赤松が口ごもる。また変な気使いやがって。
「また、迷惑かけるからとか思ってんだろ」
「ごめんなさい」
「だから別に謝らなくていいって」
 彼女は自分の存在を「ごめんなさい」と思っているので、人が自分の仲間だと思われることを迷惑に思うだろうと考えているふしがあった。だから赤松からぼくに声をかけてくることは、ほとんど人のいない時に限られる。
 想像に反して、携帯電話の向こうからクスクスという笑い声が聞こえてきた。
「なんだよ?」
「やっぱり電話にして良かったなと思って」
「なんで?」
「だって、デコピンされないで済むから」
「・・・・・・そもそも直接言いに来てれば、デコピンする理由はないんだけど」
「あ、そっか。頭いいなぁ」
 おまえが抜けてるんだよ。
 だいたい赤松の方が学校の成績はいいのだ。この前の中間試験も、僕の方がいい点数を取ったテストは一教科もなかった。
 一度こいつの頭の構造を見てみたいと思いながら携帯を切ると、なにやらクラスが騒がしくなっていた。
「何かあったの?」
 前の席の男子生徒に訊いてみる。彼は振り向いて言った。
「女子の誰かの靴が無くなったらしいよ」
「へぇー、とうとううちのクラスのも盗られたんだ?」
「みたいだな。でも、この時間に無くなったってことは、定時制の人間が犯人じゃないってことかな」
 うちの学校には夜間のクラスがある。いわゆる定時制というやつだ。
 最近の靴紛失事件の犯人は、その定時制に通っている人間の仕業ではないかと噂されていた。
「そうだな。でも、他人の靴なんか盗んでどうするのかな?」
 ぼくは同意してから、素朴な疑問を口にした。靴は男女問わず盗まれており、サイズもまちまちだった。種類も様々で、スニーカーもあれば革靴もある。犯人が履いているとも思えない。
「売るらしいよ」
 男子生徒は平然と答えた。
「売る?」
「そう、闇で買い取ってくれる靴屋があるって、もっぱらの噂」
「げ。中古の上、盗品の靴を売るのか。そこでだけは買いたくねぇ」
「同感」
 そんなやり取りをしていると、女子の集団が教室に入ってきた。クラスの人間だったので、帰ってきたというのが正しいかもしれない。
 何やら泣いている子を中心に、みんなで円陣を組むようにして慰めているらしい。きっと泣いているのが靴を無くした子なんだろう。
「かわいそうにな」
 前の席の男子生徒が、気の毒そうに言った。先ほどまでの『他人事』といったような物言いとは明らかに違う。実際の被害者を見て、気持ちに変化が生まれたのだろう。
 ぼくは曖昧に頷いた。本当はどうでもいいと思っていたが、口には出さなかった。
 ぼくの中には相変わらず、『他人事』という感想しかなかった。



つづく



© Rakuten Group, Inc.