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カテゴリ:クルマ
2004年11/1の日記にキジーさんがコメントを入れてくれたので又掲載します。一寸書き足しもします。
1970年,二十歳の私は大阪万博会場に居た。 当時は,猫もしゃくしも私も,ミーンナ何回も万博詣でをしていました。 コレは会社から行ったときなのかな?記憶が定かでは有りません。 これは会社の仲間三人で青森の大間まで本州最北端の旅をしたときの物です。 セピア色のむかしです。この数年前こんなバトルもありました。私の2000GTは最終型ですが、これは未だ初期型の前です。つまり発売前です。 昭和38年5月日本で初めてのグランプリレースが鈴鹿で行われた。プリンスはこのレースにミケロッティーデザインによる美しいボディーを持ったスカイラインスポーツとグロリアを出場させた。 エンジンはグロリアのGB4型で、直4、OHV、1862ccだが、吸排気系の改良により出力は94PSに増大している。 ホイールベースは2535mm、全長×全幅×全高は4650×1695×1410mnm(クーペは1385mm)で、重量は1365kg、馬力(SAE)当たり重量は13.6kg/PSである。これとグロリァの二機種を出場させた。各社の申し合わせで一切改造はしない、市販車のママで出場させようと言うことであったが、其れを真面目に守ったのはプリンス只一社だけであった。裏切られて頭に来たプリンスは第二回にむけ絶対に優勝しないとプリンスの優秀性を世に問うことは出来ないと急遽スカイライン1500のドアの前を20cm伸ばして(ホイールベースを20cm)グロリアの6気筒を積む。しかし其れを察知した、トヨタは勝ち目が無いと知ると卑怯にも、ドイツで作られたばかりのポルシェ904GTS180馬力車重わずか650キロ最高時速260キロFRP製の車高の低い本格的なレーシングマシーンをぶち当てたのであった。一方スカイラインは平凡な4ドアセダンでポルシェより30cmも車高が高い上車重は1トンを超えエンジンもウェバーで125馬力に上げたモノを大改良して165馬力にしたモノであった。プリンスには全く勝ち目はなかった。先頭を行くゼッケン1のポルシェには歌手のオーヤンフィフィの旦那である式場壮吉である。一方これを追うゼッケン41番ののスカイラインは生沢徹るであった。やがて7週目、先頭グループがヘアピンカーブにさしかかった時、ひときわ大きな感性が上がった。周回遅れの車に前方をふさがれた904が一寸たじろいだところを、後を付けていた生沢のスカイラインが強引に抜き去ったので有った。 感動の一瞬だった。 ポルシェ904の前を行くスカイライン2000GT。日本がドイツを抜いたのだ。十七万観衆のすべてが愛国心に燃えた、そして酔った。スカイラインの健闘も其処までで、前半の追い上げの無理で力尽きた生沢はペースが落ち8週目には904に抜かれた。その後は生沢に変わって39番の砂子義一が二位にあがった。懸命にポルシェを追ったが、マシンの性能差は歴然で、最後は904が独走の形で16周をを走り切手ゴールイン。送れること10秒で砂子のスカイラインが二位に入った。そして一度はポルシェを抜き去った生沢がさらに20秒遅れてゴール、以下六位までスカイライン勢が占め、八位が又スカイラインだった。ちなみに七位がフェアレディー、ロータス選らんが九位、MGBが十位、トライアンフTR-4に至っては20位という有様であった。そしてこの日の午後、1300~1500ccクラスのレースが行われた。スカイライン1500が9台、べレットが10台、コロナ10台に後にスカイライン2000GTBの市販車の宣伝にSS4/1マイルの加速性能のライバルに使われた、ヨーロッパが誇るコルチナロータスが一台。結果はスカイライン1500が上位8位までを独占し、べレットが9位にやっと入った。圧勝であった。1964年にスカイラインGTが発売された。この車は第一回日本グランプリの反省から、第二回日本グランプリには全社的総力を上げて取り組むこととした。当時GTカーの公認を取得するには同一車種を100台以上生産しなければならないという条件があったため、大急ぎで生産することになった。こうして生まれたのがプリンススカイラインGT(S54A-1)である。こうして出場したGT-IIレースでは一時ポルシェ904をリードし、大観衆を喜ばせた。標準仕様の105psエンジン(A仕様)にウエーバーキャブレターを付けたB仕様は125psとなり、翌65年B仕様を標準とした『スカイライン2000GT』(後2000GT-B)が発売された。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年10月28日 21時08分23秒
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