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parmi les jours suspendus

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2014年07月18日
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カテゴリ:映画
戦争においてあたりまえであり、かつ、おぞましいものは、ほとんどすべてこの映画のなかにある。
それがかならずしも見えやすくなかったり、メタフォリックに扱われていたにしても。
『悪道日記』、ヤーノシュ・サース監督による、アゴタ・クリストフ原作の映画化。

基本的に田舎の、まわりにろくに家さえないところの話だ。
でてくるのは、せいぜい買い出しにいく小さな町。大きな街ではない。
国境がすぐそばにあり、有刺鉄線が張られ、収容所がある。
だんだんと服装や顔が汚れ、表情が、眼が動物化してゆく双子。
小説で双子である意味と、映画において双子である意味はすこし違うかもしれない。
眼が2つではなく4つになることであらわれてくるもの。動物がそこにいる感触。

パラパラマンガのようにして描かれる人が人を殺すさま。
甲虫の標本、そしてそれがのちに収容所を描くつたない絵と接続されること。
売られているリンゴやラディッシュの赤、セロリの白が鮮やか。
そして、大きな木が画面いっぱいに映しだされたときの緑の美しさと生命の感触。
あばあさんが雪のなか、双子に支えられるシーンは
『スターウォーズ』のジャバ・ザ・ハットを想いおこさせたりもし。

明確な輪郭をあらわすことがない音楽。低く小さい音でひびきつづけるオルガン。
フレーム・ドラムが倍音と余韻をのこしながら微かに打たれる。その不穏さ。
担当はヨハン・ヨハンソン(だから当然オルガンが中心になる、か)。
ノイズを含んだ古い録音でひびくチャイコフスキー《交響曲第5番》のエンディング。
女がハミングする。
ハミングとは何と平和でやさしくひびくことか…その直後にユダヤ人を動物扱いする声をあげようと。

ああ、これはやはりハンガリーなんだ、とクレジットをみながらおもう。
双子の本名がこうならぶ------
Gyémánt András
Gyémánt László
この列島の言語とおなじように、姓がきて、名がくる。

監督は映画化権を獲得した数日後にはスイスに住む作家を訪ね、
それ以前の作品を見せ、承諾をとったのだという。

ハンガリーの作曲家について想起してみる。
リゲティが1923年、クルタークが1926年の生まれ、
そしてエトヴェシュが1944年。このあいだにアゴタ・クリストフをおいてみること。

映画の公開は10月。






Last updated  2014年07月18日 12時22分15秒
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2014年07月10日
カテゴリ:広報
丹波明 講演会
「フランスで日本人作曲家であること」

2014年7月14日(月)18:15-
早稲田大学戸山キャンパス36号館682教室
聴講自由

9月に名古屋と東京で初演されるオペラ《白峯》を前に、
永年パリに滞在する作曲家におはなしをうかがいます。

丹波明 略歴
1932年生まれ。東京藝術大学作曲科卒業後、
60年フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に入学し、
オリヴィエ・メシアンに師事。作曲で一等賞、楽曲分析で二等賞等を受賞。
64~67年フランス国立放送研究所にて 「具体音楽」研究に従事。
68年フランス国立科学研究所哲学科に入り、98年主任研究員に就任。70年以降、作曲、音楽学の二分野で活躍。CD収録の主な作品は、ピアノ協奏曲〈曼荼羅〉、チェロ協奏曲〈オリオン〉
弦楽四重奏〈タタター〉等。
音楽学の分野では71年『能音楽の構造』によりソルボンヌ大学より音楽博士号、
日本翻訳家協会文化賞、
84年『日本音楽理論とその美学』により同大学よりフランス国家博士号を授与される。
日本国内で出版された著書には『創意と創造』『序破急の美学』(音楽之友社)がある。
丹波.jpg






Last updated  2014年07月10日 15時31分11秒
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2014年06月21日
カテゴリ:広報
岩波ホールで7月に公開される『大いなる沈黙へ』を記念して、
下北沢のB&Bで、光嶋裕介氏とトークをおこないます。
7月5日(土)15:00-17:00
映画については、こちらの公式サイトをご覧下さい↓
http://www.ooinaru-chinmoku.jp
こちらが予告映像です↓
http://www.youtube.com/watch?v=vU9FTzbl6Z0
http://bookandbeer.com/blog/event/20140717_die_grosse_stille/






Last updated  2014年06月21日 11時22分25秒
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2014年06月18日
カテゴリ:広報
早稲田大学戸山キャンパスにて以下の上映会+トークをおこないます。
一般の方でももちろんご参加可能です。
リービ英雄ちらし






Last updated  2014年06月18日 11時25分57秒
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2014年05月15日
カテゴリ:日常
母は
舟の一族だろうか。
こころもち傾いているのは
どんな荷物を
積みすぎているせいか。
(「漢字嬉遊曲」)

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
(「祝婚歌」)

戦争は国が始めたことであった。そして、国のために働いたのが民衆だった。その民衆が戦争の生んだ罪を個々に背負いこんで、それを愛する子供の前で謝罪しているのである。こんな不条理があるものだろうか。/戦争という局面では、最終的に民衆の一人々々に傷や損害を押しつけて、正体を霞の中に長く隠してしまうのが国であり、国の指導者といわれる人々の実態であること、それだからこそ、民衆である私たちは戦争に反対せざるを得ないのだと私には思われる。------吉野弘「中国残留日本人孤児のこと」(1982.3.)
☆☆☆
1月に87歳で亡くなった吉野弘。
若い頃、わたしはこのようにはけっして書けないから、
と、けっしてよい読者ではなかった。
嫉妬と羨望、だったか。

「ユリイカ」6月臨時増刊は「吉野弘の世界」。
何人かによる詩やエッセイがあるほかは、
吉野弘自身の詩、エッセイ、批評で、
ひじょうによく出来たアンソロジーだ。
ところどころに詩人自身の書いた文字で数行掲げられ、写真も豊富。
詩の選択も、高橋順子によるもの、
つれあいと二人の娘によるもの、未刊詩篇とあって、
吉野弘という詩人に「ふさわしい」かたちになっている。

上に引いた「中国残留日本人孤児のこと」は、
作品しか知らないこの詩人の未知な側面だった。
立っているのは詩篇とおなじところ。
おなじところから、
詩にいくとああなって、エッセイではこうなるか、とおもう。
そして、このエッセイがここでとりあげられている理由をおもう。






Last updated  2014年05月15日 09時15分04秒
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2014年04月20日
カテゴリ:日常
すっかり遅れてしまったのだけれど、「みすず」3月号、no.624に目をとおす。
森まゆみの連載『国立競技場の新築は必要か』の第1回、
東京のことをずっと書いてきた筆者が、スポーツ観戦に興味などないというところから始めて、
いつのまにか東京での開催の賛成が圧倒的多数になってしまったことを記す。
そしてまさに子どものときに東京オリンピックがあった事実と、
浮かれてはいたが誰もまわりで実際に競技そのものをみたひとなどおらず、
東京だろうと札幌だろうと、メディアととおしてだったではないかということを喚起する。
槇文彦らがザハ案への疑問を呈したシンポジウムの時期、
筆者は(東京と競っていた1つ)イスタンブールにいて、
かの地の知識人が「おかげでオスマントルコの遺跡が壊されないですんだよ」と語っていたことを伝える。

他方、酒井啓子の『「内なる敵」を炙りだす』では、
かつて、イラクのアルメニア人が、
イラクのクルド人が国籍を変えたことについて「許さない」と言ったところから、
一国内にいる異なった宗教の人たち、少数民族への差別・迫害、
さらには第一次世界大戦中、オスマントルコによるアルメニア人ジェノサイドについて記し、
その背景をあきらかにしてゆく。こうした地域における複雑なさまは難しく、
そう容易にアタマにははいってこないのだけれども、それでも筆者は丁寧に説明してくれて、
ついに最終のページにいたると、
何とはなしにそれまで読みながらぼんやりとアタマに浮かんできたことが、
(案の定)明確に提示される。
すなわち、現在のこの列島での状況について、だ。
そして例として挙げられるのは沖縄独立論であり、
「内なる敵」としてしまうような論調について述べられる。
歴史から学ぶこと、について、こういうことなのか、をあらためて認識させられるような文章がここにある。
そしてこの最後にこう置かれる--------
「「紛争の絶えない中東は、日本人にはわかりにくい」と、いつまで言いつづけられるだろうか。
いつまでも言いつづけられるほどに、日本も紛争と無縁でありつづけられれば、よいのだが。」

http://www.msz.co.jp/book/magazine/201403.html






Last updated  2014年04月20日 20時22分35秒
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2014年04月16日
カテゴリ:日常
親の臨終の場に呼ばれ、人よりも大声で泣く人はきまって、それまで仕事に忙しく、一年に何度かしか帰郷せず、晩年の親とはゆっくり話もしなかった子どもたちだ。--------中原清一郎『カノン』(河出書房新社)

海馬を移植することで他人になり、生き延びることができるようになる近未来。この列島で二例目の手術がおこなわれようとしているところから作品は始まる。
手術がおこなわれるためには多くのチェックがあり、そのための委員会も設けられている。そうしたこともこの作品の問題系のひとつだが、中心となるのはその一対の人物たちとその周囲ということになる。男性と女性、58歳と30代、つれあいとの、子どもとのつながり、そして友だち。
男性は膵臓がん。女性はといえば、だんだんと記憶がなくなってゆく、いまでいう若年性アルツハイマー(ここではジンガメル症候群という名称が与えられている)である。その母親はこんなふうに言う------「ペンティメントっていう言葉があるんです。主人が死んで、わたし、趣味で油絵を始めたでしょ。そこで覚えた言葉なの。昔の画家って、材料があまりなかったから、下絵に重ね塗りをして、別の絵を描くことが多かった。でも、うんと長い時間が経つと、上絵が透明になって、下絵が表れてくる。それをペンティメントって呼ぶそうなの。あの子も、そのペンティメントになるのよね。」
考えようによっては、ある種のSFとか、「いれかわり」の物語は書かれてきた。だが、ここではより現実的に、そしてより「人間的」(という語がいいかどうかはわからないが)に描かれてゆく。
生について、身体について、が記されるが、また「心」についても対話があったりする--------「心って、渚みたいなものではないでしょうか。」
すでに単行本となっているが、積み上げていた雑誌掲載で読んだから、もしかするとすこし変更が加えられているのかもしれないけれど、この58歳の男性が子どもだった時期の台所の描写は、いささか過去「すぎる」ようにもおもえる。近未来のGPSなどの描写はさもありなんと違和感はないのだが。
タイトルは、女性の名からとられている。
音楽用語としてのカノンともつながっているとみていいだろう。時間的なずれ、そして、おなじテーマがそれぞれの声部で、という意味で。
『北帰行』から37年、外岡秀俊が中原清一郎名で発表した長篇小説。外岡秀俊、そう、朝日新聞の記者としてさかんに書いていた人物である。






Last updated  2014年04月16日 21時59分12秒
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2014年04月15日
カテゴリ:日常
つまり、イジチュールの詩人にとっては、ぼくたちの行為だけでなく、言葉もまた病んでいる。それでも、ぼくたちが自分たちを治すための解毒剤か薬を、あらたな何かを、未知なるもののなかでのみ見つけることのできるその何かを探すあいだ、ぼくたちはセックスを、書物を、旅を探求し続けなくてはならない。たとえそれらがぼくたちを、偶然にもその解毒剤を発見することのできる唯一の場所である深淵へと導くことが分かっていても。--------ロベルト・ボラーニョ「文学+病気=病気」in 『鼻持ちならないガウチョ』、白水社 p.139)

ボラーニョ晩年の短篇と講演原稿を集めた小著にはたっぷりの毒とユーモアが。
作品を書きながらも、その行為そのものへの距離がまた秀逸なのだ。
はっきりとボルヘスを下敷きにし、しかもアルゼンチンのパンパやガウチョを文字上でしか知らないがゆえに21世紀のドンキホーテを演じてしまう『鼻持ちならないガウチョ』(登場するのは牛ではなく、ウサギだ。しかもけっこう獰猛な)。「どちらかというと広告代理店の社員のような作家たちの一団がいた」(p.43)なんて一文もある。
カフカの「ヨゼフィーネ」を下敷きにしつつ、なんとも可笑しく不穏な、つまりはブラックユーモアともいえる『鼠警察』。
一作家の短い伝記のようにも読め、「すでに知られているように、いかなる文学の燦然たるホープであっても、一日だけ咲く花にすぎず、たとえその一日が文字どおり束の間であっても、あるいはその一日が十年、二十年と続いたとしても、最後には枯れるのである。」(p.82)なんて書かれもする『アルバロ・ルーセロットの旅』。
また、2つの講演『文学+病気=病気』と『クトゥルフ神話』が抱腹絶倒。後者について、解説で青山南さんが、ボラーニョはゴシップ好きにちがいないと書いているのだが、まさに。そうそう、青山さんには『小説はゴシップが楽しい』という名著があったっけ。
『野生の探偵たち』や『2666』の前に、まず、ここから足慣らしをしておくのもいいだろう。






Last updated  2014年04月15日 13時43分23秒
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2014年03月27日
カテゴリ:日常
「女性は自分の体のことがよくわかっていません------それは科学的知識がないからだとわかってきました。科学が足りないのです。女性の体の仕組みについてもっとわかっていれば、この話題も恥ずかしいことではないのです」(p.131)

女性がオーガズムに達するかどうかは基本的な神経のつながり方によるだなんて、聞いたことがない。これは女性のセクシュアリティについての、曖昧なところのない価値ある情報だった。(p.28)
-------ナオミ・ウルフ『ヴァギナ』(桃井緑美子訳、青土社)

イヴ・エンスラー『ヴァギナ・モノローグ』が木内みどり、中川安奈、北原みのりらによって上演される。もともとの本は、岸本佐知子訳で白水社刊。舞台はといえば、常田景子の翻訳。4月4日(金)@東京芸術劇場でただ1回の公演(問い合わせはアムアーツ 070-6553-6267)。
あわせて、というわけではないが、制作のMに本を貸すので、ナオミ・ウルフ(桃井緑美子訳)『ヴァギナ』(青土社)を再読。原題は「Vagina, A New Biography」。
著者は自らの身体的でありつつ情緒的な不調から医師にかかる。そして知ることになる事実から、女性の身体にかかわることどもが調査される。医学的、生物学的から始まるその射程はとてもとても広いのだが、その根本には女性の身体がある。それは男性よりはるかに複雑であり、そこからふりかえってみれば、歴史的な問題や暴力もかなりクリアにみえてくる。
シャーロット・ブロンテ、ジョージ・エリオット、クリスティーナ・ロセッティ、ガートルード・スタイン、ジョージア・オキーフといった人たちの作品が引かれ、シェークスピアの作品の部分的な分析があり、黒人ブルース歌詞の検討がある。基本的には西洋文明・文化が中心となりつつも、インドのタントリズムや中国の金瓶梅への言及もある。そうしたところは文化論として読むことができるが、それはあくまで例示であり、最終的には女性と男性とがおなじ地平に立つことが述べられる。
もちろん女性が読むほうが抵抗は少ないだろう。だが、それ以上に男性が読むことの意味はかなり大きいようにおもう。タイトルにめげず、オープンに接すれば、だけれど。






Last updated  2014年03月27日 23時07分50秒
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2014年03月18日
カテゴリ:日常
悲しみは一種の謎である。
というのも、進化論的な観点からすると、それに適当的な利点があるとはとても思えないからだ。
そもそも、繁殖の相手を見つけるのに役立つわけではない。
おそらく喪に服することは、亡き者にいま一度敬意を払うために集まった仲間同士の靭帯を強化するのではないかと言う学者もいる。
それは、いったん弱体化した絆を一度に結び直し、グループの結束力を強化するのに役立つのかもしれない。
いずれにせよ、その意義が何であれ、悲しみは、幸福と悲哀の源泉たる、仲間への献身的の代価なのである。
マーク・ベコフ『動物たちの心の科学(The Emotional Lives of Animals)』(高橋洋訳、青土社、p.116)

多くのエピソードに満ちた本。そうした部分だけ読んでも充分おもしろい。
でも、けっして単なるエピソード集で終わってはいない。
動物の「心」------筆者は情動(emotion)と感情(feeling)というような言い方をする------について、ひとはよく知っている。
実際にふれていれば誰だってわかっている。
しかしそれが科学としてどうなのか、客観性を持ったものなのか、そのあたりはいつもまた疑問だし、よくわからない
(というか、ヒトの「心」だってわかっていないのだから推して知るべし)。
科学者にしてからがそうなのだ。カクテルパーティで自分の愛犬の行動について楽しげに語る学者が、
壇の上ではまるで逆の立場をとるエピソードが本書にもあらわれている。
「心」があることによって、わたしたちはどうするか? 動物をどうとらえ、どう面するか? これが本書の問いである。

そもそもひとは、日本語であろうと外国語であろうと、動物を語るとき、「擬人化」する。
「よろこんでいる」「かなしんでいる」というふうに言う。
これが正しくない、と考える科学者はいる。ならば、動物独自の語であらわすことができるのか? 
ここで想いだすのは、ジャック・デリダの「白の神話」で、
ここで哲学者は「哲学から修辞学が。」という一文から、
言語としておなじところに立脚していることを、哲学と修辞学の不可分性をあらわにしてみせるのだが、
これはまた、動物を語る擬人化にも重ねられることではないか。

先にも記したように、
本書ではさまざまな実例が、ダーウィンからローレンツといった古典の延長上で記される。
そのうえで、よくアクチュアルな問題にはいっていく。
つまり、動物に「心」があったなら、わたしたちはどうするか、どうしたらいいのか、という問いだ。
そして、「心」があることによって、ヒトが困ってしまう、対処できなくなってしまうことどもがある。
さまざまな実験動物や動物園、食肉施設の環境。
そうして、筆者自らはヴェジタリアンであることが明かされる。
ともすればイデオロギー的なものに感じられなくはないのだけれど、それを全面的に押しだそうとはしていない。

そこでわたしたちは考える。食べること、について、だ。
生きているものと食べる
--------わたし自身は、そうしたなかでやはり砂漠育ちの一神教ではなく、
やはり仏教の姿勢を想起するわけだし、そこではあらためて食物連鎖をふかく思考した宮澤賢治の存在が浮上したりもする。

訳者は2012年に『魚は痛みを感じるか?』(ヴィクトリア・プレイスウェイト著、紀伊國屋書店)を翻訳している。
あの本も刺戟的だったっけ。

以下、結びの文章-------「情動は私たちの祖先からの贈り物であり、人間も動物もそれを受け取っているのだ。このことを絶対に忘れないようにしよう。」(p.263)






Last updated  2014年03月18日 15時26分58秒
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