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2008年05月21日
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ライヴで聴くのは10数年ぶりである。
スティーヴ・ライヒの《18人の奏者のための音楽》。

そこに音がある。
音楽が生成している場にいることのよろこびがここにある。
やはり生演奏で聴いてこそ、この作品はおもしろい。
日本初演の《ダニエル・ヴァリエーションズ》も良く出来てはいるし、
魅力的なモメントもある。
そして、ライヒの集大成的な作品だと感想を述べるひとがいるのもわかる。
しかし、ここにあるものはすでにかつての作品にある。
それに、
作曲家が作品を書いて、誰かが演奏する、という比較的「古風」な作品観がある。
それに対して、《18人》の新鮮さはどうだ。
ここでは、70を越えたライヒ自身もピアノで参加していたが、
はるかに自らもアンサンブルのなかに参加して「音楽」をつくる、
手作りの、共同体性が、生きているではないか。
指揮者をたてず、誰かがとりあえずのキューをだし、
他の演奏家が発している音を「聴い」て、音楽を進める。
そこに、わたしはライヒの音楽の共同(体)性を、音楽のあり方を探る姿勢をみたし、
今日もそれを確認しつづけていた。

そもそも、《18人》は見ていての発見も多い。
これはすでに日本初演されたとき感じたことだし、
まさに拙著『ミニマル・ミュージック』は、この演奏に接したから、
それを契機として書かれたものだった。
演奏家が、ひとつところにとどまらず、譜面を持って移動する。
おなじ楽器を、す、っと、交代する。
一台のマリンバをヨコに2人、逆側から1人、3人で演奏する、その様子、
色の異なったマレットの色彩と運動。
バス・クラリネットのプレイヤーがキューをだし、
デクレッシェンドでは、女性歌手たちがマイクをだんだん遠ざけてゆく。
ここには、ちょっと聴くとディジタルかもしれないけれども、
徹頭徹尾、アナログな演奏行為が生きている。
ドンカマを使っているわけではもちろんない。
1時間にわたって、ヒトが一定のテンポをキープするのだ。
そのヒトのワザ、ヒトのやれることに、感じいるところがある。
織りなされる音のテクスチュア。その精妙なひびき。

会場は満員御礼。若い人たちがいっぱいである。
アイドルのコンサートやロックのライヴでは、
ここにいる人たちは自分より若いな、と思うことがふつうになっているが、
こうした「現代音楽」の、あるいはオペラシティでやるコンサートで、
年齢が「上のほう」であることを実感することは稀だ。
しかしそれは事実としてある。
若いつもりでいたけれど、とんでもない。
わたしは齢をとった。

先に記した以外に気づいたこともある。
気づいたというよりは、自分なりの新しい聴き方とでも言ったらいいか。
《ドラミング》において、アフリカやアジアといった要素を「綜合」する方向性がある、
と『ミニマル・ミュージック』でも記したし、
『魅せられた身体』でも、ちょっとだけ、触れた。
さらに今回、
《18人》にあるのもやはり複数の音楽文化の綜合ということがあらためてわかったのだ。
そして、とても混血的な音楽なのだ、と。
つまり、アフリカであり、ガムランであり、ミュージカルでありクレズマー。
もうひとつ加えれば、ヨーロッパ中世か。
アメリカのミュージカルの多くはユダヤ系作曲家によって作られたことを想起しておこう。
その意味では、ミュージカルもクレズマーもユダヤ由来といえる。
もちろんライヒとクレズマーはあまり縁があるとはいえない。
しかし、もしかしたら、その音色的な好みとしてあるのではないか。
他の管楽器よりもクラリネットを多く利用しているところに
そんなものを見るのは誤っているだろうか。
ガムランの色合いについては、
そのテクスチュアや、各パートの動き、その相互補完性から感じられる。
いや、ガムランだとわかったような顔をして言うことはかつてもあった。
でも、それが今回はもっとリアルに感じられたのである。
そこにはコリン・マクフィーの音楽に、著作につきあったせいもあるだろう。
ライヒはマクフィーの『バリ島の音楽』を熟読した。
それがこの作品にもしっかり生きている。
わたし自身は熟読どころか、斜め読み程度しかしていないけれど、
それでも、《18人》にそれを聴きとることはできる。
その意味で、あらためて、マクフィーをめぐる本を書くことは、
ライヒという側面、武満という側面、両方から必然的だったのかもしれない。
「わたし」のなかで、ライヒと武満が、マクフィーをとおして、つながる。

《18人》をはじめて聴いたのは、いつだったろう。
ECMの録音は1976年。日本盤のリリースはいつだったか。
正確にはおぼえていないが、まだ高校生のときに聴いたのではなかったか。
当時、上浪渡さんが解説していた「現代の音楽」で放送された印象ははっきりおぼえている。
ものすごく衝撃を受けた。
その後すぐLPを探したのだ。
だから、知って、聴きこんで30年。
自分で言うのも何だが、気が遠くなるほどだ。
今年はちょうど、高校を卒業した連中と同窓会をやる予定になっているのだけれども、
その前哨戦として顔を合わせた連中が「これは、誰?」というくらいおっさんで、
言葉を失ってしまった。
要するに、それだけの歳月が経っており、それだけ聴いていることになる。
会場にいる人たちの多くが自分よりはるかに若かったのは当然といえば当然だ。

今年2008年のオペラシティ・タケミツ・メモリアル
「コンポージアム」の招待作曲家はライヒである。
演奏はドイツのアンサンブル・モデルン。
その1日目が今日だった。
3月に『ミニマル・ミュージック』の増補新版をだし、
そこでライヒに対して感じる近年の距離を、違和感を記したのだったが、
そう、たしかに近年の作品にはそう感じるのだが、かつての作品の新鮮さは変わらない。
この作品は明日もプログラムに載っているから、聴くのだろうが、
何度でも生演奏なら聴きたい。聴きつづけたい。
一生で、あと、何回、聴けるだろうか。
どれだけ機会があるだろう。
そのときは、誰が演奏しているだろうか。






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Last updated  2008年05月22日 00時38分18秒
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