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カテゴリ:ライヴ/コンサート
予想よりはやく5限の「中央図書館ツアー」が終わったので、
かなり降っている雨のなか、タクシーをつかまえ、上野へ。 創造の杜’10 藝大21 クセナキス ---音の建築家--- 18:30開場のつもりだったが、すでにひとがなかにはいっている。 見回すとM.S.が中央あたりにいたので、その隣に席をとる。 18:15からプレトーク(はじまるまで知らなかった)。 福中冬子による「運動する音:クセナキス作品のダイナミズム」。 流暢ではあるが、そこにいる人たちにとってはおそらく多くのことは既知で、 本人も「ご存知でしょうが」を何度かくりかえしていたのだけれど、 特にポイントとして聴き手に届けたいというものは感じられない。 もし中沢新一や今福龍太だったら、と、こちらはいつしかまるでべつのことを夢想しはじめている。 エッシャーの絵をスライドで映しながら、この画家のことを「マンガ家」と呼ぶところがあって、 おもわずわたし、M.S.と顔をみあわせる一場面も。 指揮は、ジョルト・ナジが予定されていた。 しかし、 アイスランド火山の噴火のせいで航空便がキャンセルとなり、来日が不可能となる。 かわりに日本滞在中のダグラス・ボストックが台にたつ。 ピソプラクタ/PITHOPRAKTA(1955-56) イオルコス/IOOLKOS(1996)-日本初演- メタスタシス/METASTASEIS(1953-54) -- intermission -- シルモス/SYRMOS(1959) デンマーシャイン/DAMMERSHEIN(1993-94)-日本初演- クセナキスのオーケストラ作品をこれだけコンサートで聴くのははじめて。 意外だったのは、聴きなれている《メタスタシス》《ピソプラクタ》が、 とても瀟洒に、繊細にひびいたこと。 やはりレコードやCDで、耳を近寄せながら、かなりの音量で、 というのがあたりまえになってしまっているので、 逆に、音のヴォリュームの点で、ライヴだと、物足りなくなってしまうのだろう。 音量、というより、音圧、だろうか。 それに、もっと大きな音をたてるオーケストラ曲に、 あるいはロックに、電子音響に、わたし-たちは日頃からかこまれている。 ただひとついえるのは、 うちこまれるウッドブロックの緊迫感、は、この演奏には欠けていた。 妙におずおずとしていなかったか。 逆にわかるのだ、聴きなれたレコード/CDが、 もちろんフランスでは賞をとったものではあったが、 やはり「いい」演奏だったのだ、と。 おもいのほか、 90年代、つまり晩年の《イオルコス》《デンマーシャイン》における 音の重ね、 それぞれの楽器の運動量はずっと少ないけれども、 弦のひとつひとつ、木管・金管のひびかせる、文字どおりの「音響」が じつにうつくしかったのは発見だった。 前者におけるテューバの目立ちと動きをずっと耳は追っていた。 プレトークで語られたように、 クセナキス作品を、ライヴで、演奏者が弾いているのを「見る」のは また音響だけと違った情報が、音楽のいとなみのありようが、「わかる」のも 事実ではあろう。 とはいえ、如何にも拍を、休符を数えている、 ひとつの発音をどこかしら躊躇していたり、妙に気負っていたり、というのも こちらが注意してしまうと、よくわかってしまう、ということだってある。 つまりは、視覚的に演奏がどうなのか、が「わか」りもするのだ。 何度か、そういう意味で、ひっかかるところがあったのも事実。 演奏は、よくやっている、しかし、個人的にはどこかしら不充足、であった。 そんなことを言ったとしても、 これだけのプログラムをこなしたことは評価されていい。 指揮者が替わって、あまりリハーサルだってできなかっただろうし。 ロビーにでると、「現代音楽」を専門にする人たちを見掛ける。 会場は8割程度うまっていたが、いいほうだったのだろう、きっと。 これだけの雨、そして芸大オケという、一種特別な団体だったのだから。 司会・進行は松下功。 2010年4月22日(木)19:00開演、東京藝術大学奏楽堂 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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