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parmi les jours suspendus

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2013年10月06日
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カテゴリ:日常
ジョバンニ  この汽車、石炭を焚いてないね。
カムパネルラ アルコールか電気だろう。ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。
------古川日出男 朗読劇『銀河鉄道の夜』

Giovanniという名の少年が、Campanellaという名の少年と一緒に不思議な汽車に乗って旅をする話を、翻訳者1はいつになく引き込まれて、読み進めた。/やがて、’The Birdcatcher’と題されたセクションがはじまり、/’Mind if I sit down here?’/と、誰かの声が響いたとたん、翻訳者1のなかで何かが動いた。それと同時に、/「ここへかけてもようございますか。」/という訳文が、何も考えずとも頭に浮かんだ。というより、聞こえてきた。いや、それ以上に、自分がそう言った気がした。
------柴田元幸「注文の多い翻訳者たち」

窓の外は日本で、線路がつづくかぎりどこまでもどうしようもなく日本で、そのことは変えられない。けれどもすべての海が海であり川が川として重なり合うように、想像力は空間や時間の隔たりも、生と死の絶対的な隔たりも、超えてゆくことができるのだ。想像力はその動きを夢から学んだ。
------管啓次郎「三十三歳のジョバンニ」
☆☆
『ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』』(勁草書房)
古川日出男 管啓次郎 柴田元幸 小島ケイタニーラブ CDつき
ミグラード Migrado ------- エスペラント語で「渡り」
☆☆
こうなったのか……
何度かおなじ朗読会にでているし現場をみている。回を重ね、そのたびに少しずつ変化も感じていた。それが最終的にこういうかたちになったのか、と感慨を抱く。感慨、というより、ふぅ、と息が洩れる。
本は4つの部分からなる。
古川日出男による朗読劇、柴田元幸と管啓次郎による文章、そして小島ケイタニーラブの詞/エスペラント語訳とCD。
朗読劇は、詩人と小説家が登場し、『銀河鉄道の夜』をサンプリング/リミックスしたテクストとして声と音響によってたちあげる、というもの。文字として提示されたので誰が演じることもできるが、これまでは詩人=管啓次郎、小説家=古川日出男が演じていたので、ある程度本人自身とかぶっている。
文字で読むことのおもしろさのひとつはト書きにある。古川日出男の小説がそもそも演劇とつながったところ、というより、声を発するところと地つづきであることもあり、分けられた声とト書きはただ分離していない。違うものではあるけれど、ただ朗読=役者や演出家への指示にとどまっていない。もっと有機的だし、端的に「読める」。客席にいる人たちのことも意識しながら、『銀河鉄道の夜』をたどりつつ、註釈し、また書き換えるテクスト。21世紀の、3.11後での再読であり書きなおし。
柴田元幸と管啓次郎の文章も、それぞれ、まったく違ったところで、『銀河鉄道の夜』を読みかえし、ある意味、べつの翻訳を実践している。ここに収められてはいない、不在の『銀河鉄道の夜』のうえに、古川の、柴田の、管のテクストがパランプセストのように、三次元的に交差する。ベンヤミン『翻訳者の使命』において記されている、何度も翻訳が通過する「核」としての『銀河鉄道の夜』。あるいは、見当ハズレは承知のうえで、P.K.ディック『ヴァリス』。
くりかえしになるが、柴田元幸の文章は、翻訳するという行為において、翻訳家のなかで何がおこっているのかを、わずかだけれど、みごとに描きだす。寸描ゆえにあぶりだすことができるもの。管啓次郎の文章は、ときもところも異なるところに転生した『銀河鉄道の夜』の登場人物を、「ぼく」が記述者となり、部分的にその同伴者になる、とでも言ったらいいか。

これを読んだあとで、あらためて、朗読劇にふれられたなら……






Last updated  2013年10月06日 17時31分54秒
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2013年10月05日
カテゴリ:日常
逆説的に聞こえるかもしれないが、専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げにできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に摑んでいなければならない。しかし、現場にいる人の不安や訴えのなかで、自身の判断をいったん括弧に入れ、問題をさらに聴きなおすこと、別の判断と摺り合わせたうえでときにそれを優先させることもしなければならない。ここでは、「この点からは」「あの点からは」という複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。------鷲田清一『パラレルな知性』(晶文社)、「まえがき」

帯にはこうある-------「専門的知性」と「市民的知性」をつなぐ鍵はどこにあるか? 危機の時代における知性のあり方を問う哲学的考察
さまざまなところに書かれた文章を集めたものだが、各章には「問い1----科学のエシックス」「問い2----大学のミッション」「問い3----コミュニティの問題」「問い4----メディアの役割」そして最後には「右肩下がりの時代に」とタイトルがつけられている。
『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』(ちくま学芸文庫)に収めるため、大阪に鷲田さんを尋ねたのは2011年の春から夏へとかわる頃だった。そのときに「3.11」のはなしをした。本書にはもっと前の文章も収められているけれど、うえに引いた「まえがき」からもわかるとおり、その後、あるいはそれ以前から引き継がれている「問い」が持続し、反響している。ここにはまた、現象学から導きだされた視点、臨床哲学の射程があるのが明瞭だ。どの文章も短いが問いは鋭く、また短いだけに拡散することなく、こちらにむかってくる。






Last updated  2013年10月13日 13時37分02秒
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2013年09月29日
カテゴリ:日常
Rhizomatiks inspired by Purfume@InterCommunicationCenter

久々のICC。
最近のPerfumeのステージングは、Rhizomatiksによるコンピュータによる演出が大きな位置を占めている------というふうな言い方でいいのかどうか、よくわからないのだけれど、いわば、Perfumeのステージにこのグループ?ユニット?の方向性=意味は欠かせないのはたしかで、近作《Spring of life》のPVから、そのステージ上の提示とか、なるほどねぇ、と最近メディア・アートから遠ざかっていた身からは田舎から都会にでてきたおっさんなみに、ほぉ、という顔をしていたんじゃないかとおもう。ま、予定調和ではあるのだが、この情報の多さはすごい。ほとんど誰もPerfumeのステージをみながら、こうしたものの全体を、細部に至るまで、把握できてなどいないだろう。ただ浴びているだけ、なんじゃなかろうか。そしてそれはそれで正しいのだし。
10月20日まで。

http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2013/Rhizomatiks_inspired_by_Perfume/index_j.html






Last updated  2013年09月29日 23時44分04秒
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2013年09月27日
マスコミ的には「ベトナム」なのだろうが、やはり「ヴェトナム」だよな、とおもいつつ、まぁ、通常表記なので仕方がない。

2つのコンサート、どちらも武満徹《弦楽のためのレクィエム》、グエン・チェン・ダオ《ピアノ協奏曲》(世界初演)が共通し、横浜ではベートーヴェン《交響曲第5番》、初台では《交響曲第7番》が違っている。また、アンコールが、前者は日本民謡(ヴェトナムの作曲家による編曲)とヴェトナム民謡があったのに対し、後者ではヴェトナム民謡のみであった。
コンサート・ミストレスが、前者は2曲+1曲で交代、後者は3曲ともおなじ、だったのも記しておくべきか。

ハノイでみたときにもそうおもったのだが、コントラバス奏者の弓の持ち方が、やはりフランスの植民地であったせいか、フレンチ・ボウがほとんど。今回みても、ジャーマン・ボウは1人で、あとはフレンチ・ボウだった。このコントラバス群が、ステージからみて、左の奥に配置されている。だから、というべきか、みなとみらいでは、コントラファゴットがとてもよくひびいた。2つの楽器が隣接していると、どうしてもまじってしまう。こうして分離させるのもいいかも、とあらためておもう。

アジアのオーケストラというと、10月はじめには毎年「アジア・オーケストラ・ウィーク」という催しがあるものの、この列島の西洋志向もあって、いまひとつ客足が伸びない。今回はどちらも満席に近かったのは嬉しいのだが、はて、実質はどうだろう。そんなことはともかく、たしかにオーケストラはヨーロッパが本場ではあるし、それはそれでいいものだけれども、そうしたものを踏まえたうえで、アジアのオーケストラにふれるべき、ともおもう。大抵は故国の作品を含んでいるし、そもそも、ちょっと前まではこの列島もおなじだったのだ、ということを想起すべきだろう。このあたり、たとえば国家がアメリカをむいていて、アジア諸国にむいていないことともパラレルなのではないか。
たしかに、未熟なところはある。間違いも多いし、不安定なところもある。それでいながら、いや、それでこそ感じとれるものがここにはあるのだ。ダオ作品は、アンコールでは、特にそれが感じられるのだし。

ダオ作品は、某ピアニストを想定して作曲されたものの、演奏困難として放置されていたという。児玉桃という演奏家を得て、この作品が「世界初演」できた、という事実。児玉桃は、ECMで日本人として(こういう言い方はあまり好きではないが)、この秋はじめて「クラシック」の演奏家としてアルバムがリリースされることも想起しておこう。

ダオ作品、3つの楽章からなっているが、どれも昨今のヨーロッパでよくある、マッスとしての音響を扱う作品となっている。第1、第2楽章ではわずかにフルートの叙情的なメロディがあらわれ、第3楽章では、メシアンを彷彿とさせるみごとに天国的な美しい和音がしばし持続する。対して、ピアノはトレモロとトゥリル、そして右手と左手の音域をかなりはなして得られるひびきの違いをクローズアップする。トゥリルしながら、高音域から下降、そしてまた上昇する運動が、オーケストラと乱反射する。そのあいまにひびくのは、金属系打楽器のアタックと余韻が。タムタムは4つ、ゴングが1つ。ヴィブラフォンにマリンバ、テューブラーベル、鉄板、またシンバルをティンパニ上に配置してグリッサンドさせ、ヴィブラフォンの弓弾きも。かといって、無駄な音符はまるでない。それまでの持続を断ち切るようにつよく、ほんとうにつよく、叩きつけられるような音が、たしか、3度ある。すべての楽器の音が余韻をのこし、それが消えさるまで、聴き手は息をぬくことができない。
グエン・チェン・ダオは、わたしが中学生のとき、この列島以外のアジアの作曲家として知っていたごく少ない人物のひとりだった。韓国のユン・イサン、フィリピンのホセ・マセダ、そしてヴェトナムのグエン・チェン・ダオ。マセダとは何度か会ったものだったが、ユンともどもすでにこの世にはいない。ダオを見掛けたのはたしか高校生のとき、武満徹のMusic Todayのとき。あのときからすでに30年近く経っていて、挨拶した作曲家はとても小さく見えた。

オペラシティでは、皇太子がおなじエリアに列席するとのことで、白いリボンを与えられた。「しるしづけられちゃったんですねぇ(笑)」と、ロビーで会った知人にからかわれたりもし。
指揮者の本名徹次氏に挨拶とおもい、楽屋に行くも、殿下と話されているとのことでなかなかあらわれず。久々にお目にかかる方々と挨拶はするものの、時間切れで、退散。

2013年9月21日(土)&27日(金)。






Last updated  2013年09月28日 01時56分05秒
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2013年09月26日
カテゴリ:映画
第1部は、アルバム『夜のアルバム』のメンバー、クィンテットとの「ジャズ・セッション」。
ステージ背後に据えつけられているオルガンの両脇に、丸くライトがあたっている。
ピアノとヴィブラフォンを担当する香取良彦に、「先生、宜しくお願いします」と、「先生」をくりかえすブルーに銀ラメのドレスを着た八代亜紀。ちょっとおかしい。香取氏、恐縮気味。
《サマータイム》では、最初はヴィブラフォンと声だけ。それからほかのメンバーがはいってくるのだが、このデュオは絶品。
ヘレン・メリルと共演したエピソードをまじえながら、《五木の子守唄》と《いそしぎ》を、よく似ているでしょう?と言いながら、入れ子状態にして歌ったり。
一部の終わりは《ジョニー・ギター》。かつては先輩の得意なレパートリーを歌うことが許されないような暗黙の了解があって、歌えなかった曲、大好きな曲と、締めくくりに。
声に息がまじる。そして微妙にポルタメントする。このかんじが、演歌にあるブルース的なもの、ブルースのなかにある演歌的なものを浮きあがらせ、近づける。ヴィブラートは抑えぎみ。そして、喉で息を抑える、とでも言ったらいいか。
多少なりともこの歌手について知っていれば、ジュリー・ロンドンのレコードを父親が買ってくれて、ジャズにはまった。もともとはジャズをやりたかった、というエピソードはごくあたりまえのことで、だから、『夜のアルバム』が昨年リリースされても驚きはないながらも、おぉ、そうか、と妙に納得したりしたのだった。もちろん、ここでのジャズは、おなじジャズでも比較的古いスタイルではある。ヴォーカルはほかの楽器とはやはり違って、保守的なところがあるし、またそれで成りたってもいるのだけれど。
ジャズ・シンガーとしての八代亜紀、とてもいい。いいのだけれど、アルバムで聴いているのと違うのは、その身振りだ。手・腕の動かし方や腰やからだの線の動きが、ちょっと、ほんのちょっとしたところで、永年にわたってなのだろう、馴染んでしまったものの影を帯びている。

第2部は「八代亜紀 meets 新日本フィル」。指揮は竹本泰蔵。ステージの前にはピアノがあって、編曲を担当した光田健一がつき、その脇で香取良彦がヴィブラフォンを叩く。ピンクというかオレンジというかにラメのはいった衣裳の八代亜紀。
「演歌じゃなくて、映画音楽ですから」と歌手自身が言うように、「映画音楽」あるいは「大河ドラマの音楽」のようなオーケストラ・サウンドで、持ちうたが演奏される。壮大なイントロ部分、これは何だ?とアタマをめぐらせ、うたが始まって、そうか、これか、と腑に落ちる。思い掛けないアレンジ。一種のアンバランスもあくまで演出というか、意図であったろう。部分的に武満徹や池辺晋一郎の(映画音楽における)弦の重ね方があり、また、バカラック風のサウンドがあったりする。
《愛の終着駅》では、第1部にベースを弾いた河上修、そして香取良彦のヴァイブのソロがあり、また2人がからみあうみごとな中間部を持つ。
1曲ごとにMCがはいる。当日は台風が東京に来るかもしれないという状況にあったので、はじめのほうで、八代亜紀はこんなふうに言っていた------「ほんとに、お願いしたの、来ちゃだめよ、って。そうしたら、わかったよ、って」。そして、アンコールには、第二部の2曲目か3曲目にも歌った《雨の慕情》をあらためて。

会場は年齢層が高い。やはり八代亜紀は若い層には知られていないのだろうか。とはいえ、自分(たち)にとってこの歌手は、子どものときに新人でデビューしているわけで、以来、歌謡番組ではごくごくふつうに聴いてきたのだし、有名なものは、たとえタイトルと曲が一致しなかったとしても、大体知っている。

当日は、グエン・チェン・ダオ《テン・ド・グ》(打楽器協奏曲)が稲城で演奏されることになっていて、それはぜひ聴きたかったのだけれど、位置的に難しいところがあり、こちらに足を運ぶことに。9時から大学で、いささか疲労、どちらもこっちさえやめてしまおうとおもったのだったが、何とかたどり着け、一睡もせず。
気分は晴れて、終演後はタクシーで東銀座へ。ラ・ヌイユでワインを。

2013年9月26日(木)19時@すみだトリフォニーホール






Last updated  2013年09月27日 15時53分52秒
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2013年09月25日
カテゴリ:日常
菩提寺から歩いてすこしのところにある板橋区立美術館では、『狩野派 SAIKO!』展。館蔵品展なので入場無料。
すでに何度もみている作品『酔李白図/飲みすぎですよ、李白先生』(/のあとは新タイトルとして、この美術館が親しみやすいようにつけているもの)があ り、また、大きな伝・狩野探幽『風神雷神図屏風/風神&雷神』と狩野了承『秋草図屏風/秋風にそよそよと』がそれぞれの部屋の奥に対照的にならべられてい る。
前者では、たとえば、あまりに有名な尾形光琳の作品では、風神と雷神のみがクローズアップされているけれども、ここでは雨にうたれている人、風に吹き飛ばされそうな人が描かれていて、あたかも「北風と太陽」みたいでおもしろい。ちなみに、ポスターになっている骸骨の絵は、河鍋暁斎『骸骨図/ホネ・骨・ロック』である。
それぞれの絵については、タイトルを検索するとネット上でもみることができるだろう。
地味な展覧会だが、ちょっとの時間を過ごすのにはもってこい。
それにしても、この美術館、「隠れ家系」なんだな(笑)。たしかに、ちと、不便ではあるのだが。






Last updated  2013年09月27日 15時57分02秒
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2013年09月24日
カテゴリ:広報
プーランク没後50年でおこなわれるコンサート2つについて、
「一個人ブログ」で書いています。

ひとつは、
歌曲からピアノ曲、室内楽曲の第1部、
オーケストラと独奏楽器、
オーケストラと合唱による第2部とあるコンサート。

もうひとつは、
オペラ《カルメル会修道女の対話》、コンサート形式。

アドレスは以下となります。
http://www.ikkojin.net/blog/blog19/502.html






Last updated  2013年09月24日 14時30分01秒
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2013年09月23日
カテゴリ:日常
菩提寺から歩いてすこしのところにある板橋区立美術館では、
『狩野派 SAIKO!』展。
館蔵品展なので入場無料。

すでに何度もみている作品『酔李白図/飲みすぎですよ、李白先生』
(/のあとは新タイトルとして、この美術館が親しみやすいようにつけているもの)があり、
また、
大きな伝・狩野探幽『風神雷神図屏風/風神&雷神』と狩野了承『秋草図屏風/秋風にそよそよと』が
それぞれの部屋の奥に対照的にならべられている。

たとえば、あまりに有名な尾形光琳の作品では、風神と雷神のみがクローズアップされているけれども、ここでは雨にうたれている人、風に吹き飛ばされそうな人が描かれていて、あたかも「北風と太陽」みたいでおもしろい。
ちなみに、ポスターになっている骸骨の絵は、河鍋暁斎『骸骨図/ホネ・骨・ロック』である。

それぞれの絵については、タイトルを検索するとネット上でもみることができるだろう。

地味な展覧会だが、ちょっとの時間を過ごすのにはもってこい。
それにしても、この美術館、「隠れ家系」なんだな(笑)。
たしかに、ちと、不便ではあるのだが。

http://www.itabashiartmuseum.jp/art/schedule/now.html






Last updated  2013年09月24日 14時32分39秒
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2013年09月22日
カテゴリ:日常
建畠晢 『死語のレッスン』(思潮社)。
わかるようでわからず、わらかないようでときに妙にすんなり読めたりもするのが、この詩人の特徴であるようにおもう。そして、行分けなしの詩文と行分けの詩文とのあらわれもおもしろいところで、この詩集でも、「轟云々、下駄云々」のような行分け詩-------もっともページ数としてはある作品かもしれない------は、しかし、ただ行分けというだけではなく、1行の短さ、「下駄」という音、そして1行あけの空白がこの長さを要請し、読みの時間=持続もそれによってつくりだされる。

建畠晢 は1991年、処女詩集『余白のランナー』-------偶然、依頼されて「図書新聞」に書評を書いたものだった------以来、賞に恵まれている詩人だが、この本もまた、第21回萩原朔太郎賞を受けたというのは、ごく最近知ったばかり。

冒頭におかれた「葉桜の町」と、それにつづく数篇はすっとはいっていけるし、水や眠り、振動といったイメージも明確だ。だが、詩集の中心は、タイトルともなっている「死語」をめぐる部分。わかりやすいのは、翻訳をめぐっての省察ともなっている以下の部分だろうか。

翻訳者の交代については誰も話そうとはしない。何も町の秘密というほどのことではないはずだが、入れ替わる翻訳者たちがどこから来て、どこへ去っていくのかは誰も話題にはしないのである。そう、翻訳者とはもとより亡霊のようなものであるのかもしれない。俺たちは言葉を蘇らせては葬り去る職人、手際のよい死語の更新の名手であり、仕事にいそしむその姿がどこか亡霊のように見えることは、当然といえば当然のことなのだ。この時代遅れの大学町の鉄錆の匂いがする駅に歴代の翻訳者たちが降り立った時、彼らはあらかじめ亡霊然としていたはずである。(翻訳者の死)

もちろん、以下のように、ふとこぼれる言葉に惹かれないわけにはいかない。

ああ、おまえは詩を嫌うが、私はもはや詩人ではない
私は落ちて来た死語の刺客だ
おまえが誰からも離れた時間であるように……(ボスポラスの秋)

最近詩集を手にとるのはツラいのだが、これはすっとはいっていけた良書、かと。
http://www.shichosha.co.jp/newrelease/item_982.html






Last updated  2013年09月27日 15時56分03秒
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2013年09月19日
カテゴリ:映画
『楽隊のうさぎ』、鈴木卓爾監督作品。
「約1年をかけて子どもたちの成長とともに完成した、奇跡の吹奏楽映画」、とある。
原作は、いわずと知れた中沢けいの小説。
小説を愛好し、文章も書いたことのある身としては、やはり原作とは別もの、と言わざるをえないのだが、もとがあり、それを改変して別ものにした、という例はいくらもあるわけで、これはまぁ、しょうがないのだろう。
小説を読んでから映画をみると、あれ?とおもうが、逆に、映画をみてから小説を読んでもらえたらいいのかな、と。

小説には、主人公が親の実家に滞在し、ある覚醒があり、演奏が変化するというのが重要なポイントになっているし、それが、大勢で音楽をやる、演奏がコミュニケーションになるわけだが、それが欠けている。みながら、拙著『オーケストラ再入門』(平凡社新書)には、遠く、この小説と交差するところがあったことを想いだしたりしていた。
また、用いられている音楽として、小説ではレスピーギ《シバの女王ベルキス》が吹奏楽レパートリーとして重要な意味を持っているのだったが、ここでは中学の先生のオリジナル曲となっているのも、かなり違う。
主人公はときどき「うさぎ」をみるのである。それがタイトルにもなっているわけだ。幻想といってはつまらない。自分のなかにある何か、もうひとつのキャラクターとでもいうか、だ。それが、ここでは着ぐるみの女の子で登場する。ま、それはそれで悪くないが、やはり、小説でのホンモノ(ヘンな言い方だが)のうさぎとは違う。みえないものをみさせてしまうこと、での、難しさがここにはやはりある。
とはいえ、このうさぎが、吹奏楽部の定期演奏会がおこなわれているとき、音楽室でたったひとり(一匹?)ぽつんと椅子にさわったり、たちすくんだりしているのだが、そこは、とてもいい。風の音や鳥の声がしている。吹奏楽を演奏する、個別に、あるいは全員で練習をして音楽-らしきものが多くなっている映画のなかで、ここは人為的でない音=音楽を、映画をみている/きいているものに感じさせる部分になっているのだから。

けっこう、この中学の吹奏楽部の編成はおもしろい。テューバが3人とかいて、バス・クラリネットとやバスーンがいたりする。もちろん通常どおりのフルート、クラリネット、サックスから、トランペット、トロンボーン、ユーフォニウムは複数いるのだが。

それにしても、みんな、ヘタ、なのである。
でも、それがだんだんと、それでいいんだ、これは、という気になってくる。
先生役を演じる宮崎将は、青山真治『EUREKA ユリイカ』の兄役でデビューした俳優だが、かれでさえが何かぎこちない。それは、じつは、演技なんじゃなかろうか、と。
そして、最終的にこのヘタさでこその映画だと腑におちる。

オーディションによる46人の子どもたち、という。
この映画は、彼らが1年をかけて成長する記録でもあるという。
出演者の名をみていくと、随分、旧来のこの列島に生まれ育ったのとは異なった名が多いのに驚く(実際、パーカッションをやっている1人の女の子は、知り合いの子によく似ていたのだが、その知り合いの子はアメリカの血がはいっていたのだったっけ)。

監督の名は、もしかして知らなくても、『私は猫ストーカー』の監督といえば、わかるだろうか(あの蓮實重臣のテーマ曲は絶品だった)。

音楽監督は磯田健一郎。
映画のなかでひびいているもの、アレンジなども含めて、悪くない。中学校の現実というのはこういうふうかも、と、納得できるものでもある。
だが、エンディングの音楽、メロディーやフルートの重ねもまあまあではあるものの、ハープの書法はいただけない。あんなふうに和音で拍をとらせるようなことをえんえんとやったり、凡庸なアルペッジョをならべるようでは……。エンディングくらいは、1ランク上であるべきではないか?

公開は12月14日(土)より 渋谷ユーロスペース、新宿武蔵野館、浜松シネマイーラほかにて。
http://www.u-picc.com/gakutai/






Last updated  2013年09月20日 00時06分44秒
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