花が枯れるのは・・
私は、花が好きで狭い庭にプランターをたくさんおいて、花を育てています。暑い季節には、毎日、朝夕水をあげます。挨拶しながら・・。お花がいっぱい咲く季節には、できるだけ毎朝花殻摘みをします。花に語りかけながら・・・。「咲いてくれてありがと~^^」「今日もきれいやぁ~^^」といいながら・・・。私が花を愛し、花にたくさん話しかけていたら、花はよく咲いてくれる。花の世話をし、毎日手をかけていたら、花は元気でいてくれる。のだと思っていました。感じていました。また実際そうだったのです。。手をかければかけるほど、花はよく咲き、愛を注げば注ぐほど、美しく大きくなったのです。だから、気持ちに応えてくれるのだと思っていました。でも、私が花の世話に気持ちを向ける余裕がなくなったり,余り外へ出なくなって、花に語りかけることが少なくなったり・・・・勿論、水やりがあまりできなくなるせいもあるのだけど、そんなとき、お花は いつの間にか枯れてしまうのです。あれは お水をもらえないせいばかりではなく、愛や関心を注がれなくなったせいだと思っていました。でも、違うのですね。。愛を注がれていたのは私。苦しいときも、寂しいときも、いつもお花は私に勇気をくれていたのです。自分の生命のエネルギーを送ってくれていたのです。私が花の世話を怠るときは、私がパワーを失いがちなときでした。だから お花は枯れていたのです。そうです。たしかに、私はお花に救われたことがあります。もう十年近く前のこと、私は心身ともに疲れ、自分を見失ったように茫然としていました。そんなとき、庭に咲いた朝顔の花をつぼみを幼い娘と一緒に、毎朝かぞえました。今日はいくつ咲いたね。これとこれは明日咲くつぼみだね。おぉ・・もうこんなに蔓が伸びたよ。。・・・真夏の朝顔は、生育力が盛んで、毎日毎日蔓を伸ばし、葉をつけ、花を咲かせました。私はその生命力に感動し、そのみずみずしい息吹が自分に流れてくるのを感じました。あのたくましさ。あのやさしさ。あの・・・・何ともいえない、力、ぬくもり。。懐にいだかれていたように感じていました。。その大きなあたたかな懐の中で、私は、また生きる力を回復し、新しく生まれたのでした。そうでした・・・。そのときだけではありません。私は「もらっている」ことを、いつも感じていたのでした。。花の世話をしてあげているのではなく、生きるパワーを花たちからもらっていることを私は 確かに感じていたのでした。そして、それは、猫のぴっぴにも言えることです。ぴっぴは、私に何にもしてくれず、手をかしてくれることもなく、エサも水もあたたかい布団も提供するのは私・・のはずなのですが、私は、ぴっぴからもらってばかりだといつも感じているのです^^ぴっぴがそこにいてくれるそれだけで、私は十分なものをもらっていると感じるのです。。そして、それは、子どもたちも同じなのかも知れません^^あるいは、ひょっとすると もしかすると (そこまで言うか>自分)(爆)、夫も・・、そうなのかもしれません。。なかなか、心の底からそう思えないのですが・・・。(^^ゞ笑もしかすると・・・・・世界はそのようにできているのかもしれません。与えていると思っていても、本当のところは、すべてまわりから与えてもらっているのかも。。。いえ、与える与えられるではなく・・・・最初っから世界はそのようにできているのでしょうね。。すべては備わっているのです。。お花のように「与える存在」は、尊いし、本当に美しいものですね。。花の美しさの秘密。。花の気持ち・・・ほんのすこうしだけ 見えたような気がしました。***「与える」という表現は、ちょっと違和感があるのですが、よい日本語が見つからないのです。。「受け取る」あるいは「求める」の反対は何でしょう?