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以前、受けたセミナーの中で聞いた言葉がよみがえります。
子どもが虐待されるケースのなかに、母親の再婚したケースが 結構ある、ということです。 念のため断っておくと、 逆については、いえません。再婚した場合、必ずこうなる、 ということは当然いえないということです。 事件が起こっている背景をみると、似通った環境があったという ことです。 再婚した相手も、子どもがいることを承知で相手と付き合っているわけだから、 最初から「殺してやる」とは思っていないはず。 それでも、普通では考えられないような悪さをされたりすると 「どうしてそうなんだ!」と大人のほうの限界がくる。 セミナーでは、「里親制度」や、「施設」などでの子どもたちの 様子を聞きました。 事情があり実親ではないところで生活をするようになったりするとき 子どもが、とてつもない悪いことを繰り返すということ。 障子をやぶったり、モノを壊したり。 それは、悪気というよりは、 「この相手は、どのくらい自分を受け入れるか」ということを 試しているというのです。 いつもの子育てでもそうですが 子どもというのは、そういうものだ、という若干の予備知識があれば こちらも、「ああ、そういうものだ」と少し、余裕が持てるけれど それが分からなければ、なかなか大変なのでは。そして 「自分の子のように、大切にしたい」と思っている人ならばなおのこと 子どものひどい行動に「どうして」と疑問をもってしまうのはごく 自然のことだと思うのです。 *** 虐待事件がおきても、世の中では虐待についての市民の知識 、理解などについて、ほとんど進歩していないのではないか? 暴力を理解するのは難しいかもしれない。楽しいことではないし、 関らずに済むならそのほうがいいと思ってしまう。 まずその壁になっているのは 暴力について目を向けたくないという無意識下の意識。 誰でも多かれ少なかれ、自分が加害者であったり 被害者であったりする日常があるからではないだろうか。 とうぜん、そうであると、暴力に関して目を向けることは 自分が苦しむ。見ずに、そういうことの批判だけしていれば 自分は楽。 他人事として 「世の中にはひどい親がいる」という一言で片付けるだけでは 何も変わらない。 起こったことを非難し、批判はするけれど、 「虐待なんておこるのはおかしい。自分には関係ないことだ」と、嫌なこと、 見たくないものからは目をそらす。 そういう人たちのいるところから、虐待はなくならないと思う。 *** そういえば、DVがテーマの回に、講演の後のワークショップで 「こんなことが世の中にあるわけがない」といっていた女性がいましたっけ。 信じられない、とのこと。信じたくない、目をそむける。否認。 たいていの人は、様々な問題を「無視」という形で「否認」して 生きているのだろうと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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