「ごめんなさい」が言えない人
これまで出会ってきた人を思い起こしながら長年つきあっても、最終的にどうにも関わりが難しくなった人には特徴があることに気付きます。それは自分の非を認められないというものです。つまり、ごめんなさい、が言えない。自分が悪くもないのにやたらめったら謝罪する必要はないと思うのですが多少なりとも自分に非がある可能性があることについてごめんなさいが言えない人 というのは、まず、自分の非を自分で受け止められない弱さがあるのだと思います。それは自分に自信がないから。そのうえで目の前で指摘された「非」について受け止めてしまったらその人の自尊心が崩壊してしまうのかもしれません。だから、受け止める事ができないし、受け止めたうえでの謝罪ができない。いい大人が謝れないのか、と思うシーンがたまにありますがそれは「私は弱い人間だから謝ったら死ぬ」病なのだと思うことが多くなりました。謝れる人は、自分の間違いや弱さを受け止められる強い人なのかもしれません。***ごめんなさいが言えない人は、自分の非を認められない。と仮定してそういう人は、似たような目線で…他人のすごさを認められないという特徴もあわせもっています。言い換えると「他人をほめたら死ぬ」病かもしれない。これまで私が濃厚めに関わってきた人に、上記の特徴を持つ人がいてそういう人は、常に自分に自信がないので、自分より力を持っていそうな人を「脅威」に感じるのではないかと思います。自分に持っていない何かをもっている人、近くにいるその人をそばで「搾取」する。その人の力は自分のもの。たとえば社会的立場で自分の配下にあるような人のばあい、その人の力をさも自分の力のように取り込み、語る。搾取される人は、それを感じていながらその場から動くことができないことからその場所に居続けて、「陰で支えることへのやりがい」みたいなことを感じている。その「陰で支える」というのはたとえ自分がどんなに優れていたとしても、なにか力を持っていたとしても「自分の評価」にはならないのです。それに日々晒される。自分の頑張りのはずなのに、それを具体的に評価する人はいない。自分のそばで搾取する人は、力のある人を評価することはせずそこで搾取した力をさも「自分の力である」かのようにふるまう。それも目の当たりしている搾取された人はどうなるか…。自分の人生を振り返ると、搾取され続けてもう無理だ、とぺしゃんこになったことがある。その理由を考えてみたら、やはりそこに行きつくのです。***「ほめる」ことはしないとしても、日々の小さなあれこれに感謝の気持ちを述べるということは、健全な関係の人同士なら交わされるであろう当たり前の「礼儀」であろうと思われますがそれができない人もいる。いかに多くの人と「社交的な会話」ができようとごく身近で支えてくれる人に感謝を述べることができない人。なんというのか本当の意味での「品性」について…考えさせられるのです。