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05話 【綺羅星】


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05話 (潮) 【綺羅星】―キラボシ―



果たして五感で最も敏感なのはどこだろう?
目か、鼻か、舌か、手か、それとも――。
私、潮透子は耳で恋をした。
伊神さんの声で、恋に落ちた。

― 3年前 ―

「潮、なんとかしなさい」
有無を言わせない命令が下った瞬間、紙の上を滑っていた私の字は醜く歪んだ。
「る」が「ゑ」になってしまい、「顧客における」という文が「顧客におけゑ」などと、全くもって意味をなさない言葉へと早変わり。
恐る恐る振り返れば、般若の形相をした鬼が私を見下ろしていた。
般若というのは我ながら的を射た表現だと思う。八女チーフは、街を歩けば5人に1人は振り向きたくなるであろう美貌の持ち主だ。
けれどもチーフの特技百面相はとても精巧にできていて、女性誌の表紙だって飾れそうな微笑みを浮かべられるくせに、怒ると般若像に似てしまう。
そんな八女チーフの細長い綺麗な指はいま、部屋の壁、遥か頭上に位置するスピーカーに向けられている。
「シャウト系のBGMって集中力が削がれるのよね」
DJ付きラジオ番組が流れるユナイソン店内のBGM。英語が堪能なDJを起用し、店のお買い得情報を交えながら1時間のサイクルで洋楽を流す。
今日は月初めなので、曲が入れ替わる日だった。
確かに私もシャウト系の曲が流れ始めたときは、『なぜこのチョイス!?』と違和感を抱いたけれど、八女チーフも苦手意識を持っていたようだ。
この部屋にはスピーカーがあるものの、ボリューム調整機能は付いていない。音響に関しては『メンテナンス部』が一括管理しているとのこと。
八女チーフは店内の設備全般や故障を一手に担う部門に内線を掛けた。
「ねぇ、POSルームだけ店内放送の音を下げて欲しいんだけど。……無理ってどういうこと?」
「え? 無理なんですか?」
私が尋ねると、八女チーフは受話器を手の平で押さえ、私に告げた。
「音量はこれ以上下げられないそうよ。社の規則で、音量5以下っていうのは禁じられてるんですって」
店内放送は手堅い通達手段なのだから当然といえば当然かもしれない。火災などの緊急時に店内放送は欠かせない。ここは大人しく引き下がるべきだろう。
「伊神、ちょっとは融通きかせなさいよ。優しいのが貴方の取柄でしょ? ちょっとぐらい目を瞑ってくれたっていいじゃない」
尚も食い下がり続け、その後1分ほどの攻防があったものの、折れたのは八女チーフだった。
「良いわ、もう伊神には頼まないから!」
捨て台詞を吐いた八女チーフは、さながらむくれた小さな子供のようだ。
「伊神のやつ、伊神のくせに。伊神のくせに!」と地団太を踏みならす始末。
八女チーフをここまで悔しがらせることが出来る猛者がいたなんて知らなかった。伊神さんなる人物に、俄然興味が湧いた。
気付けば問題のシャウトソングは終わっていた。
R&Bを歌うセクシーな女性ボーカルの声が八女チーフの端正な顔に似合うなと、ぼんやり思った。


***

誰より精確に仕事をこなす八女チーフは新人教育の指導者でもある。
新人POSオペレータは全員、八女チーフに面通しされる。ユナイソンPOSの頂点に君臨するのが八女芙蓉様だからだ。
その八女チーフが、本部指示により長野県の支店へ赴いた。今日からひと月のあいだ、新人教育に携わるのだそうだ。
そのためこの店のPOSオペレータは私一人になってしまうというのに、出勤した早々、パソコントラブルに見舞われた。
数字の羅列入力が止まらないという、地味な嫌がらせ。
このままでは仕事にならないため、昨日お世話になったメンテナンス部の内線番号を押す。
「はい、メンテナンス部です」
「……。あ、えっと……あの……おはようございます、POSオペレータの潮ですが……」
「おはようございます。どうされましたか?」
言い淀んでしまったのには理由がある。電話口の相手の声を聴いてビックリしたのだ。
それだけで? と思うかもしれない。いや、待って欲しい。弁解させてもらうなら、こうだ。
POS業務は開店前の早朝から始まるので、人の気配も少なく、建物内は驚くほど静か。
そんな中、受話器の向こうから聴こえてくる声が、もっと聴いていたい、何か話して! と促したくなる、心地良くも落ち着いたものだったのだ。
単に挨拶と用件を尋ねただけのフレーズだというのに、男性の柔らかい声音はあっという間に私の心の中を浸透してゆき、身震いまでさせてしまう。
咄嗟に僧侶という言葉が頭に浮かんだ。この声で何かを言われたら逆らえなくなる。呪をかけることなんて、造作もないのでは……? 
聖なる声を前に呆然としていると、
「もしもし? どうしました?」
改めて問い掛けられ、私は再び現実世界へと引き戻された。
「あ、すみません。パソコンなんですけど、数字の9が延々と入力され続けて、困ってるんです」
今度は受話器を通して笑い声が聞こえてきた。またしても心臓が跳ね上がる。こんなに軽やかで好ましい笑い声を聞いのは初めてだ。
「ひょっとして、ナンバーキーの上に、何か置かれていませんか?」
促され、ナンバーキーを見る。
「あっ」
気付いたらなんてことはない。マウスのコードがナンバーキーの上にあり、その重みで3と6と9が延々と入力され続けていたわけだ。
「そ、その通りでした。もう大丈夫です。ちゃんと止まりました……」
「そうですか、良かった」
「ありがとうございます。えっと……失礼します」
相手の声が聴けなくなってしまうことが名残惜しかった。受話器を置きながら思う。もしかして、この声の主が『伊神さん』、なのだろうか。


***

その数時間後、今度はプリンタの紙が詰まってしまった。なんとか引っ張り出せないものかと足掻いてみたものの、紙が千切れてしまった。
ハサミの先端やピンセットで摘んだりして自分なりに頑張ってはみたもののまだ紙片が残っているらしく、プリンタはエラーのまま。
(またメンテナンス部に電話するのか……)
嬉しい気持ち半分、頼りづらい気持ち半分。でも本音を言ってしまえば前者の方が勝っている。私はいそいそと受話器を持ち上げた。
既に覚えてしまった内線番号を押すと、朝方対応してくれた人とは違う声が返ってきた。
「紙が詰まってしまいましたか。では、そちらに行きます」
「宜しくお願いします」
残念がっているのが自分でも分かった。私の耳は、もう一度あの声を欲している。


***

急にPOSルームの入り口がざわめき出した。主に、女性の黄色い歓声だ。仕事の依頼でこの部屋を訪れた同期や先輩方が喜んでいる。
(え? なにごと……?)
「ちょっと! 伊神くんじゃない?」
「やったぁ、役得」
女性社員たちを掻き分けて近付いてきたのは、メンテナンス部が着る制服――つなぎの作業服を着た、見慣れぬ男性社員だった。
「POSオペレータの潮さんですか?」
「……!」
真っ先に思ったのは、『まさか』、だった。
午前中に電話をした相手。その声の主だった。聞き違えるはずがない。
「はい、そうですけど……」
どぎまぎしながら肯定すると、相手はホッとしたように微笑んだ。
恐らく『間違ってなくてよかった』という安堵からの笑みだとは思う。
思うけど、人を惹き付けるのに十分過ぎる、とんでもないスマイルだった。その瞬間、自分の顔が火照るのが分かった。
(嘘……でしょ? まさか私……速攻好きになってる……!? 彼に一目惚れ!? そんな……っ)
早くも相手の顔をまともに見ることが出来なくなってしまった。二度目の『まさか』な出来事だ。はっきり言って、予想外だった。
「メンテナンス部の伊神です。プリンタを直しに来ました」
「!!」
(や、やっぱり……やっぱりこの人が伊神さんだったんだ……! ええええ~~~……)
「お、お願いします……」
ぺこりとお辞儀をし、顔をあげたと同時に手首を掴まれた。私を乱暴に廊下に連れ出したのは同期の女子社員だった。
「潮、誰よ! 誰よあの人!?」
「だ、誰って、いま名乗ってたじゃない。『メンテナンス部の伊神です』って……」
「あんな格好いい人、この店に居た!?」
「や……確かに私も初めて見る人だけど……。そもそもメンテナンスの人たちとはそんなに接点がないし……」
「私もよ! だから気付かなかったのね。うわ~、知らなかった。声ヤバイよね。聞いた? すごくゾクゾクする! 
褐色の肌とさ、肩まで伸びた黒髪の緩やかウエーブっぽさが東欧系っぽくない!?
あの風貌にして、あの繋ぎの服! 俄然ワイルドだよね! 今まで知らなかった自分に腹が立つ!
っていうか、何でチーフたち教えてくれなかったんだろ? きっとわざとよ。ライバルは少ない方がいいと思って言わなかったんだわ!」
真偽のほどは分からない。でも、彼女の推理は一理あるような気がした。
だって、話題に上らなければおかしいほどのハンサムだ。見るからに優しそうで、大人の余裕というか、落ち着き払った印象を受けた。
何らかのスポーツを嗜んでいるのか、モデル体型の長身でもある彼の肢体には、程よい筋肉が付いていた気もする。
文系なのか理系なのか、はたまたスポーツマンなのか。どちらも当て嵌まるような、不思議な魅力を持つ男性だった。
本当にあの人が、あの傍若無人な八女チーフを黙らせることの出来る、『凄い人』なんだろうか……?
八女チーフといえば――チーフは伊神さんのことを呼び捨てにしていた。ふたりは仲がいいのだろうか。だとしたら、どれくらい?
(八女チーフ、美人だし……。伊神さんと並んだら、めちゃくちゃお似合いのカップルじゃない……!?)
でも、八女チーフに彼氏がいるという話は聞いたことがない。
(私が知らないだけかも。……それにしても……)
一体、伊神さんはどうやって八女チーフのボリューム調整の要求を拒んだのだろう。
物静かな雰囲気通り、柔らかく「ノー」と言い続けたのだろうか。声を荒げて「駄目だって言ってるだろう!」とは言わない気がする。
(うーん、訊きたい。知りたい)
そんなことを考えていると、「わっ、こっちに来る!」と、同期の女子がおっかなびっくりのていで耳打ちしてくれた。
お陰で、余計なもやもやを引き摺らずに済んだ。彼女に感謝だ。
「潮さん。あの様子だと、分解しないと駄目みたい。時間を頂いてもいいかな?」
「すみません、お願いします」
「いえ、それが仕事だから。じゃあちょっと待っててね」
その顔に笑みを浮かべた伊神さん。この時点で私の心は完全に奪われていた。
私が伊神さんを知ったのは、そんな日常生活のワンシーンだった。


***

POSルームの何かが故障するたびに、私は伊神さんの個人携帯を鳴らした。
呼べばいつだって来てくれたから。理由を作らなければ、彼と逢う機会など得られなかっただろうから。
理由は、伊神さんとの接触回数を増やしたいがためだった。
今日はPOSルームに簡易デスクを作って貰う為に来て貰っていた。ただし今回は八女チーフの依頼によるものだ。
「透子ちゃんって言うの?」
「え!?」
緊張気味な私の隣りで、プラスドライバー片手にネジを締める作業をしていた伊神さんが言った。
「潮さんの下の名前。透子ちゃんって言うんだね。綺麗な名前だ」
息が止まりそうだった。その声は余りに心地いいし、男性から下の名前で呼ばれたことなど滅多になかったから。
意識している男性から言われると、それだけで顔や耳朶が火照った。
「はい。トウコです」
胸ポケットぶら下がる名札を、伊神さんに見えるよう持ち上げる。
「オレと似てるなぁ」
「似てる? えっ、伊神さん……何ていうお名前なんですか?」
伊神さんの名札は、フルネーム記載ではない。意味深な彼の言葉に興味が湧いた。
「当ててみて」
彼は、ただ笑うだけ。ふんわりと。細かい作業の時にだけ装着する、眼鏡越しに。
「トウコに似てるんですよね……? ソウゴとか? ユウゴ?」
「惜しい」
「トウゴ?」
瞬間、彼は作業を止めた。わざわざ御丁寧にドライバーを机の上に置き、視線を合わせ、にっこり笑って。
「当たり」
「……やった!」
真正面からその視線を受け止めるほどの度胸がなくて、私は照れ隠しにわざと大きくはしゃいだ。
「どんな漢字なんですか?」
「十の御と書くんだ。『伊神十御』。だから正確にはトウゴではなくてトオゴだね」
「凝ってますね。意味深な漢字……」
「オレの母親はレバノン人とインド人のハーフでね。父と結婚する際、国際結婚を理由に反対されたらしい。
母は必死に日本語と礼儀作法を覚えて、やっとの思いで祖父母の許しを得たんだって。
十御という名前は、そんな母が父や祖父母と一緒に考えて、付けてくれたんだ」
「苦労なさったんですね」
「日本という異国に一人で嫁ぎ、頑張ってくれてる母には感謝している。今のオレがこうしてあるのも、母の努力のお陰だから」
そこでまた柔らかい笑みをたたえると、伊神さんはドライバーを掴んで、作業に戻る。
「オレと似た名前の透子ちゃん。手を出して」
「あ、はい」
言われた通り、素直に左手を差し出す。
「これ、プレゼント」
伊神さんの手の温もりを感じる。私の手の平には、工具用のナットが1つ。……なんだろう、これ。
「スペアで予め余分に入ってた部品だよ。経費外だから気にしなくて大丈夫」
「……伊神さん、ナットなんて貰っても女性は喜びませんよ」
「あはは」
「もっとイイのが良かったなぁ」
「そうだね、透子ちゃんにロックナットは失礼だったね」
伊神さんが、返してくれる? と手を差し出す。伊神さんは、まるで女心というものが分かっていない。
例えナットでろうが、好きな人から受け取ったものは、二度と手離したくないのだ。
「駄目ですー。返しません。これは私が貰ったんですから」
真鍮製の幅の薄い六角形のリングは、遠目で見たらアクセサリとして通用しそうだ。
(今日仕事帰りに手芸屋さんでチェーンを買ってこよう。ネックレスにするんだ!)
「困ったな……本気かい? 怒らせたんなら謝るよ。ごめん……」
「じゃあ、これからも、透子ちゃんって呼んでください」
別に怒ってなんかいなかったけど、つい我侭を言いたくなってしまう。
伊神さんはキョトンとしていたけれど。
「……うん。分かったよ」
微笑みを浮かべ、頷いてくれた。その優しさが、切なくなるほど嬉しかった。


***

伊神さん。私と似た名前を持つ貴方。
今でも私は身に着けているの。あなたから貰った、工具用のナットを。チェーンに繋いで、毎日、肌身離さず。
周りは経緯や理由を知らないから、「何ソレ」って呆れるけれど。私にとっては何より大切な、伊神さんと私を繋ぐ媒介。私の宝物。
――透子ちゃん。
心の中に、あなたの声が響くよ。一番心地良く呼んでくれる、あなたの声が。
今でも大好きだ。今すぐ逢いたい。伊神さんに。
穏やかな微笑み方も、丁寧な動作の1つ1つも、伊神さんを形成する上で、欠かせない特徴。
春の陽だまりのような人。それが伊神さん。優しい紳士。過去形にしたくない。
今でも大好きなあなた。



2008.04.17
2019.02.01
2023.02.17


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