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19話 【五日話】


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19話 (合) 【五日話】―イツカノハナシ―


::辞令::

麻生環 …… 名古屋店 → 本部家電部門バイヤー
伊神・ラジュ・十御 …… 香港店 → 岐阜店
不破犬君 …… 岐阜店 → 本部人事部
柾直近 …… 名古屋店 → 五条川店


≪1:9月5日、8時52分、ユナイソン岐阜店事務所≫

「傑作だな」
辞令を一瞥した杣庄進は鼻で哂った。たった1枚の紙切れには悪夢の始まりを示唆する文言が載っている。
軽口を叩いた杣庄の顔が微妙に強張っていることに八女芙蓉は気付いていたが、窘めはしなかった。
余裕のなさを、わざわざ本人に教える気になれない。なぜならば、本部にいいように振り回され、心を消耗している点では、芙蓉も杣庄と同じだったから。
「さっぱり分からないわ。どうして伊神が岐阜店に戻って来るのかしらね。都築は、潮と伊神を会わせたくないんじゃなかったの?」
「謎だよな。不破の異動は分かるが」
「それこそ、潮と引き裂く魂胆よね。でも伊神の異動理由は理解しかねる。お手上げだわ」
確かに不思議ではある伊神の異動だが、なぜか犬君のように胸騒ぎを覚えない。こちらに戻ってこれば仲間も多い。今度は身近で守ってあげられるからだろうか。
「そういや透子から聞いたぜ。本部の内情を探る件、八女サンも一枚噛むんだってな」
「私だけじゃないわよ。馬渕たちや潮、わんちゃんも力を貸してくれるんですって。……心配してくれてるのよね。ありがとう、ソマ。でも私は大丈夫よ」
力強く頷いた芙蓉を、杣庄は網膜に焼き付ける。杣庄の記憶に刻むに値する、とても美しい微笑だった。
「わんちゃんは頑張るって言ってくれたし、あ、潮もね。だからどこに向かうことになろうとも、ちっとも怖くないわ。絆を信じてる。一緒に頑張りましょ」


≪2:9月5日、現地時間7時55分、香港≫

日課の早朝ジョギングを終えた伊神・ラジュ・十御は、アパートに戻るとドアノブに鍵を差しこんだ。
解錠音がしたのを確認してドアノブを捻る。すると全く同じタイミング、同じ角度で隣りのドアが開け放たれた。
隣人である香港人男性、アレックスが部屋から出てくるところだった。
アレックスの服装と持ち物から出勤スタイルだと気付いたが、それにしてはいつもより早いようだ。
「おはようアレックス。今日は早いんだね」
「ふわぁ~……おはよ~ラジュ……。いや~、冷蔵庫が空だってことを忘れててさ、どこかで朝食を食べてから行こうと思って」
アレックス――これはイングリッシュネームだ――が普段使用するのは広東語と英語のため、2人は出会ったときから英語で交流を深めていた。
眠気に負けそうな声で伊神に応じたアレックスは「相変わらず朝から元気だね。それに健康的だ」とトレーニングウェア姿の伊神を褒める。
「ありがとう。……あのさ、アレックス。きみに伝えたいことがあるんだ」
「え……ちょっと何? 急に改まったりして。怖いんだけど」
「実は、日本に帰ることになったんだ」
間が空いたのは、伊神の言葉を反芻していたからだ。「return home……return home」と小さく繰り返す。
3回目の“return home”を口にしてやっとその意味に気付いたのかハッと顔を上げると、「帰国するのか!?」と詰め寄る。
「今朝起きたらメールが届いていて、開けてみたら転勤命令だった。寂しいけれど、すぐ発つことになりそうなんだ」
「そりゃまた随分と急な辞令だな! ラジュはご飯を分けてくれるから好きだったのに! いや、それだけじゃないけどさ!」
その拗ねた口振りに、伊神は悲しげに微笑んだ。
「また遊びに来るよ。アレックスもいつか日本に遊びにおいで。時差だって、たったの1時間だ」
「そうだな。いつか行きたいよ! ラジュのお陰でインドや日本に興味が出てきたし。いつか近い内に、紅茶を持って遊びに行く!」
「その時は、チャイもお願いするよ」
「ラジュが一番好きな紅茶だな。オーケー、茶葉の厳選は俺に任せろ」
「……」
「どうした?」
急に黙りこくってしまった伊神に、アレックスは尋ねた。視線をどこに向けているのだろうと考える。伊神は遥か遠くの方向を見ていた。
「日本はあっちだね」
「嬉しくないのか? ラジュにとっては第二の故郷だろ?」
「いや……」
伊神はようやくアレックスに視線を戻した。笑みを浮かべ、柔らかい口調で言う。
「日本は第一の故郷だ。オレは日本で生まれたからね。ただ……歓迎してもらえるかどうか、不安で心配なんだ」
アレックスはまたしても驚く。伊神からネガティブな言葉が紡がれることなど滅多になかったから。
「あんたなら、どこでだって受け入れて貰えるだろ。現に香港だってそうだったじゃないか」
その答えに、伊神は虚をつかれたように目を丸くし――次の瞬間には破顔していた。
「アレックス……、多謝晒(ありがとう)」
香港で初めて出来た友人に、伊神は心の底から礼を述べた。


≪3:9月5日、9時32分、ユナイソン名古屋店≫

出勤したばかりの平塚鷲は、朝礼の最中でありつつも不満の声をあげた。従業員から視線を一身に浴びても気にする気配は微塵もない。
「嘘だろ? 柾さんと麻生さんが異動!?」
「平塚うるさい。一番後ろに移動しろー」
朝礼進行役の業務副店長から注意を受けた平塚は、やっちまったと首を竦めながらもおとなしく命令に従い、最前列から最後尾に回る。
しかし見えない位置だからこそ出来ることもある。送別会場の確保だ。
業務副店長からは見えないであろう死角に立つなり平塚は素早くスマホを操作した。名古屋駅徒歩5分圏内/19時/大人4名/クーポン使用。
ものの2分で予約を完了させると、スマホをスラックスに戻し、代わりにハンカチを取り出した。
白々しくよよよと泣く真似をしながら目尻を拭ってみせるが、隣りにいた先輩から「やれやれこいつは」とばかりに頭を叩(はた)かれる。
今度はしししと苦笑いで誤魔化す茶番劇が行われているとは夢にも思わない業務副店長が、麻生と柾に別れの挨拶をするよう促すところだった。
「麻生も柾も今日が名古屋店での業務が最後になる。あまりに突然の内示だが、人事部じきじきだから仕方ない。じゃあまず麻生から挨拶を」
「はい。――落ち着いてるように見えるかも知れませんが、この時期の異動に正直驚いてます」
(200店舗を誇るというのに、3店舗のみの異動ってのはどういうことなんだろうな)
麻生の胸中を支配してやまない『疑問』を口にしてみたところで、大人しく耳を傾けている従業員は戸惑うだけだろう。だからそこは口を噤む。
まるで自分にも言い聞かせているかのようだ、と内心失笑しながら。
(この心配はただの杞憂だろう。俺が本部に行くのは昇級試験にパスしたからだろうし、異動願が今になって受理されたんだろうさ。きっとそれだけだ)
異動願を提出したのはストーカーに悩まされていた頃だ。
(だがもう解決したんだがなぁ……。今頃受理されるなんて皮肉な話だ。まぁ異動願を取り下げておくのを失念していた俺が悪いんだが)
「本部に行けるということは、恐らくこの間の昇級試験に受かったということですね。……まだ手元に結果が来ていないのでよく分からないのですが。
本当はチーフ職を経験してからバイヤーになるものだと思っていました。でも、どうやら2ランク一気に昇級できたみたいです。
試験対策のために尽力を尽くしてくださった全ての関係者に感謝を述べたいと思います。ありがとうございます。本部でも頑張りたいと思います」
麻生がお辞儀をすると、全員から拍手が送られた。マイクは柾に渡される。
「というわけで」
柾の導入は接続詞から始まった。
「五条川店へ異動することになりました。今までお世話になりました」
ちらりと部下を見れば、三原が不服そうに柾を見つめ返していた。
彼女の内心が手に取るように分かる。あの目は『そんな。だって今は9月ですよ、おかしいじゃないですか、異動の発表なんて!』と言いたいに違いない。
柾としては複雑な心境だ。時期外れの今回の異動の裏側を、柾本人が知っているからだ。千早凪の思惑は柾と歴を遠ざけること、ただそれだけの理由だ。
「僕の後釜はきみだ、三原君。どうやら僕の後任は来ないみたいだからね。後は任せた」
「でも私にはチーフなんて……」
「出来ないとは言わせない。なんたって試験にはパスしてるんだからね。
ペーパードライバーならぬペーパーチーフなだけだ。必要なのは経験さ。それは日々養い、培うことが出来るから心配しなくてもいい」
「……わ、分かりました。私、頑張ります! 伊達に柾さんの背中を見てきたワケじゃありませんから」
「あぁ」
眩しいものを見るように柾は目を細めた。三原ならば大丈夫。きっと部下たちを牽引していってくれるだろう。まずまず安泰だ。
心配なのは……。
(千早歴)
今日はどうやら休みのようだ。もしかしたらもう会えないのかもしれない。
彼女に想いを馳せた瞬間、柾の瞳が僅かにブレた。
「――以上だ。解散」
朝礼終了の合図と共に、柾が何かの衝動によって踏鞴を踏んだ。犯人は平塚で、片手に麻生の手首を掴まえ、もう片方の手で柾の腕を掴まえ、にひひと笑う。
「平塚、お前――」
「送別会をするので19時に『宮の離れ』まで来てください」
暴走する部下には閉口してしまう。溜息の回数が一向に減らない。
「……強引だ、阿呆」
「だって! 部署内でお別れ会やれるかどうかも怪しい状態じゃないですか。先手必勝です」
「相変わらず口だけは達者だな。メンツは誰なんだ?」
「それなんですけど、五十嵐さんは午後から出張だというので残念ですがまたの機会に参加していただこうと思ってます。その代わり特別ゲストを呼ぼうかと」
「誰なんだ」
「秘密です~。っていうか返事待ちなんです。でもほら、先手必勝ですから。ノーとは言わせません」
麻生は心の中で、まだ見ぬ第3の被害者に対し合掌する。
満面の笑みを浮かべると、平塚はスキップでもしそうな浮かれぐあいで事務所から出て行った。業務副店長が平塚が出て行った方向を見て1人ごちる。
「なんでアイツは異動じゃないんだ」
「引き取り手がいないからでは?」
柾の辛辣な感想に、麻生は苦笑を漏らした。


≪4:9月5日、19時17分、『宮の離れ』≫

「すみません。7時に平塚の名前で予約してあったと思うんですが……」
そう尋ねる人物に、受付のスタッフは微笑を浮かべた。
「はい、承っております。既に3名様がお見えですので、お部屋へご案内致します。どうぞこちらへ」
朱色がここのイメージカラーなのか、暖簾も朱色なら、従業員らが着る着物や割烹着も朱色で統一されていた。
店の雰囲気に圧倒されつつ、しげしげと周りを見ながら、後をついて行く。やがて襖の前に店員が座した。
「こちらになります」
部屋に向かって最後の来訪者を告げると丁寧に襖を開けた。「ごゆるりとどうぞ」
開け放たれた襖の先には金と黒と朱色の世界が広がっていた。不安を感じながらも独特な和室に足を踏み入れる。
先客たちが顔を上げる中、平塚が代表して声を掛けた。
「久し振り。元気だったか不破」
座敷に通された不破犬君は、その凝った内装を目の当たりにして呟いた。「凄いな……」
それを聞き逃す平塚ではない。「だろ!?」と得意満面に鼻の下をこする。我ながら2分で検索した割には上出来なチョイスだったと思いながら。
「これで全員揃ったな。ではご紹介しまーす! 岐阜店の不破犬君くんです。不破、そんな所に突っ立ってないで早く座れって。
んでな、不破。こちらが名古屋店の麻生環さんに、柾直近さん」
「こんばんは。不破犬君です、よろしくお願いします」
緊張気味に名乗る犬君に、麻生と柾は相好を崩し、よろしくと返事をした。それだけでも犬君は安堵を覚える。
「ねぇ柾さん。不破も例の新入社員代表の演説を聞いて、柾さんに心酔した口なんスよ」
へぇ、と相槌を打った柾はしかし、僅かに眉根を寄せる。そして自分の正面に座る犬君を改めて見返すと、
「あぁ……、きみのことは覚えてる。入社式が終わった後に声を掛けてくれたね」
「……はい! 覚えててくださったんですね。光栄です」
少しばかり緊張した面持ちで犬君ははにかんだ。
「珍しい~。お前が一度会ったきりの男性社員の顔を覚えてるなんて。それにしても、伝説の演説か。俺も拝聴したかったぜ」
柾は発言主である麻生を横目で見やった。若干呆れながら。辟易もしている。柾としては、そんなに気張った記憶もない代表挨拶だったからだ。
原稿を用意していかなかったのは単に書く時間すら確保できず、ぶっつけ本番で臨むしかなかったからだし、時間内に纏まったのもただのまぐれだ。
「尾ひれがつきまくってるな。とうとう伝説にまで格上げか。あれをもう一度やれと言われても無理だぞ」
「まぁまぁそう言わず。またどこかでご披露してくれ」
2人がそんなやり取りをしている間、平塚はメニューに目を通しながらテーブル据え付けのタブレットで料理をオーダーしていく。
まずは酒類が届き、それから続々と料理が運びこまれた。肉まみれのメニュー。決して嫌ではないが、こう偏っていては胃がもたれてしまいそうだ。
現に麻生はまだ序の口であるにもかかわらず既に音を上げている。後から犬君が頼んだ刺身盛りを見ると手放しで喜んだくらいだ。
「俺の未来は安泰だなぁ。これから本部で一緒に働く仲間がこんなに気が利いてるなんて、マジで嬉しいよ」
麻生の笑顔に反して犬君の顔が曇った。目敏く変化に気付いた平塚は、咀嚼もそこそこに肉塊を飲み込んだ。
「どうしたんだよ不破? 暗いなぁ。本部だぞ? 嬉しくないのかよ。変なヤツだなぁ」
「ひょっとして――きみは知っているのか?」
柾が犬君を見据える。一体2人は何の話をしているのか。麻生は平塚と顔を見合わせた。
「……僕の異動は、人事部からの嫌がらせです。従わなければ、とある人が標的にされるから、素直に受理せざるを得ませんでした」
「……はぁぁ? 嫌がらせ? お前一体何やらかしたんだよ。人事部に目を付けられたのか?」
箸の手を寸止めし、平塚は訊ねる。若干ムッとした顔で犬君は反論した。
「そもそも、先にけしかけてきたのは人事部の方だ。潮さんと八女さんは、ずっと虐げられる側だった」
「潮? 八女? ……誰?」
「岐阜店のPOSオペレータだ。そうだ平塚、いつだったか書類の封筒に誤ってプリクラが入ってたろ? 僕の隣りに写っていたのが潮さんさ」
「あぁ、あの人か」
「込み入った事情がありそうだな。よかったら聞かせてくれないか?」
柾の真剣な眼差しを前に居住いを正すと、犬君は語り始めた。
その場にいた3人の食事の手と口を止めた、非現実的な社内のスキャンダル。話し終えるとしばらく沈黙が横たわった。
平塚でさえ何かを言おうとして、その度に出掛かった言葉を唾と一緒に飲み込んでいる。
麻生は犬君のグラスに日本酒を注ぐと、優しく告げる。
「大変だったんだな。俺でよければ力になるぜ。だからもう少しだけ踏ん張ってみないか?」
「麻生さん……。ありがとうございます」
「そうだぜ、元気出せよ。だってさー、仮にお前が辞めたところで、潮さんがちょっかいを出され続けるのは目に見えてるだろ? 
店では伊神さんや杣庄さんにガードして貰ってさ、お前は人事部にいながら都築を見張ってれば良いんだ。何も辞めるコトはないって」
「確かに潮さんの件は、平塚の言う通りなんだろうな。僕も、伊神さんたちに任せた方がいいんじゃないかと思った。でも……」
――出来れば彼女は僕が守りたい。
言いたいことを的確に汲んだ柾は軽く頷いた。
「辞表をしたためたと言ったが、きみが辞表を提出したところで何も変わらない。無駄な手段だ。勿体ない」
そう言い切ると、焼酎を一気に煽った。
「そもそも、なぜきみが辞めることが潮くんを助けることに繋がる?」
「僕は最後まで屈伏しないつもりです。でも、気持ちだけでは……。なにせ相手は人事部。自ら首を切られる覚悟で臨まないといけない、厄介な相手です」
「人事権を振りかざすからか?」
「えぇ。都築は嫉妬などという、実に下らない自分勝手な理由で僕と潮さんの仲を裂こうとしてます。都築の思い通りにだけは、絶対にさせたくない」
「辞表を提出したらどうにかなるとでも?」
「僕の辞表には交換条件も含まれています。もう二度と潮さんにちょっかいを出さないで欲しいという、直談判の意味合いが」
「愚策だ。都築がそんな条件を飲むわけがない。そんな心構えでは潮君を守ることなど到底できやしないし、潮君がきみに振り向く確率も低いだろうな」
「な、なぜですか?」
「僕がきみの立場だったら、僕は戦う。たとえ戦場が離れていても、僕は、僕を縛り付ける場所で戦い抜く」
「柾さん……」
「人事部の罠がどんなものであれ、辞めるな。それとも現実を直視できないほどの臆病者で、『辞めたい』と言うなら止めはしないが」
柾の言葉に、犬君は苦笑した。尊敬する上司から手厳しい発破をかけられた犬君は、まいったなと呟く。とてもじゃないが、敵わない。
「なぁなぁ、辞めるって聞いた時の潮さんの反応はどうだったんだ?」
「今朝、仕事の依頼をしにPOSルームへ行ったんだ。潮さんは既に異動の紙を見た後だった。
僕が刺し違えに失敗したら辞表を出す覚悟だと言ったら、『馬鹿なこと言わないで』って凄い剣幕で怒られた。でも、泣きそうな顔はしてたかな」
弱々しく、犬君は笑う。
「男冥利に尽きるじゃねぇか。泣きそうになってまで止めてくれるなんて」
「何かと言うとすぐ泣いちゃうような人なんだ。泣き虫な性格なだけで、僕に対して特別好意を持ってくれているわけじゃない」
「そうと知っていても、彼女を守り続けていくつもりなんだろう?」
麻生の問いかけに、犬君は頷いた。
「えぇ」
「――平塚」
柾は厳かに平塚の名を呼ぶ。呼ばれた当人は柾の目を見ただけで己に課せられた使命を察した。
了承の意を込めて頷くなり、立ち上がり、犬君に近付いた。――正確には、犬君が壁際に置いた鞄に。
矢庭に平塚の手が伸びたかと思うと、ビジネスバッグから長方形の封書を取り出す。
「は? 待て平塚、何する気……」
目を瞠る犬君の前で、平塚は茶色い封書を縦一直線に破り捨てた。効力を失った退職届が、花弁のようにハラハラと床に舞い落ちる。
(あぁ、これで僕の進退は断たれたわけだ。つまり、もう前に進むしかないってこと……)
不思議なことに、怒鳴り散らしたい気分はいつの間にか潰えていた。
都築の電話を受け取って以来、犬君の心は揺れ続け、決心は鈍っていた。本心ではこうやって誰かに引導を渡して欲しかったのかもしれない。
いまはかえって清々した気分だ。ありがたい。その代わり、一般常識が頭をもたげ始めた。
「……そんなことをしたらお店に申し訳ないだろ。1回破ればいいものを、そんなに細かくしやがって……。ちゃんと片付けろよ、お前」
「お犬様を止められるなら、それぐらいお安い御用だっつーの」
やっと不破らしさを取り戻したことが嬉しくて、平塚はにやりと笑った。


≪05:9月5日、19時58分、名古屋市某所≫

タクシーが名古屋駅を出発してから10分が経とうとしていた。車は既に住宅街の中にある。
やがて運転手が迷いもなく、とある一軒の門扉の前に車を止めた。
後部座席に大人しく座る客に「着きましたよ」と声を掛けた。道中、世間話を交わそうとするも、徒労に終わってしまった女性に。
およそ話し掛けられる雰囲気になかったその客は、車に乗り込んだ時と同様、顔をこわばらせていた。心なしか悪化している気さえする。
ただし、退くに退けない決意を宿した双眸だけが異彩を放ち続けていた。
「……ありがとうございました」
声に震えを帯びている気配を感じとったのは、運転手の聴き間違いではないはずだ。
見る者に異様な威圧感を与える閉ざされた数寄屋門を見て、運転手は思った。この中に入らなければならない理由があるのだな、と。
「あのこれ、タクシー代です」
おずおずと差し出されたか細い手には運賃メーター通りの紙幣が握られていた。その震える手を見て確信した。彼女は恐れおののいている。
女性は深呼吸を繰り返し、締め括りに顔をパチンと叩いた。気合いを入れるように。
「よぉぉしっ……!」
腹の底から声を出した女性は、開け放たれたドアから颯爽と舞い降りた。
その背に、「……頑張って。……あ」事情など分かりもしないのに、つい声を掛けてしまっていた。
女性は運転手を振り返ると笑った。
「ありがとうございます! ……行ってまいります!」
さっと身を翻した女性は、年季の入った門をゆっくりと、しかし躊躇わず一気に開け放つ。
敷地内に入ったことを確認して運転手は再び車を走らせた。
女性が足を踏み入れたのは千早邸――別名『千早御殿』。この近辺では一番有名な私有地である。


≪05:9月5日、20時04分、千早御殿≫

門から玄関までの道のりが、やけに長く感じられた。
それでも勢いに任せ、大股で歩く。そのたびに敷き詰めてある砂利が、しゃく、しゃく、と小気味のいい音を立てるのだった。
門構えも立派だが、ライトアップされた本宅そのものも圧倒させる木造りになっており、一瞬怯んだものの、かぶりを振ってチャイムを鳴らした。
来訪の旨は伝えていない。こんな時間に押し掛けられたら誰だって迷惑だろう。だがそれも承知の上だった。尋ね人は起きているに違いないのだ。
案の定、応答があった。インターホン越しではなく、直接出迎えてくれるつもりらしい。曇りガラスの向こうにシルエットが浮かんだ。
解錠する音が聞こえる。やがてPEACH JHONのナイティを着た長身の女性が現れた。意外な来訪者に、女性の眉が楽しそうに動き、声を弾ませた。
「誰かと思えば歴じゃん!」
切り揃えた前髪に、腰まで伸びた黒い髪。彼女は歴をより妖艶にした容姿をしており、血縁者であることは一目瞭然だ。
「夜分申し訳ありません、因香(よるか)さん。やんごとなき事情があって、どうしてもお逢いしたく、馳せ参じました」
「相変わらずテンパると時代劇みたいな言葉を使うね。てかさ、私以外誰もいないんだけど? それぞれいつ帰宅すんのか分かんないよ?」
「因香さんだけですか」
「そ。もうすぐ父の三回忌だっていうのに姉は出張先から帰って来ないし、ババと母は懸賞に当選して東北まで温泉旅行中。ジジと妹はまだ会社」
言われてみれば、やけにしんと静まり返っている。普段は賑やかな6人家族なのに、因香がひとりきりで留守番をしてるからだろうか。
「そうですか……。でも、私がお話したかったのは因香さん、あなたなんです」
真剣な眼差しで見つめられた因香は虚を突かれたように呆けつつも瞠目する。
「珍しいじゃん! 歴が私を訪ねてきたなんて、人生で初めてのことじゃない? いいよ、入って」 
頼られたことがよほど嬉しかったのか、さらに上機嫌になり、歴の肩に馴れ馴れしく腕を回すと家の中へと導いた。
どこで拵えたものなのか日本武将の甲冑が置かれ、その隣りには古伊万里の花瓶に活けられた生花が寄り添っている。そんな廊下を2人は歩いて行く。
中にはかつて歴と凪が教わった書道界重鎮による手蹟が飾られていたりと、さながら小さな美術館だ。
しかし、悠長に魅入っている場合ではない。実際、因香は歴の話を聞きたくてうずうずしているのか、心なしか速足になっている。
やがて案内されたのは縁側だった。庭の景色が一望でき、ひとを駄目にするソファーが無造作に置いてあるので、長話をするには打って付けの場所だろう。
歴が持参した菓子折り――栗の羊羹――に、因香が淹れた温かい焙じ茶がお盆に載せられ、2人はまず舌鼓を打つ。
その間に歴は考える。どう切り出したらいいものか。ちらりと盗み見る相手こそ、歴の従姉妹にあたる『鬼無里三姉妹』の1人、鬼無里因香だった。
「それでそれで? 私に話ってなになに?」
好奇心を抑え切れずに身を乗り出して因香は尋ねた。歴は相変わらず迷っていた。タクシーに乗ったときからずっと同じことを考えている。
「その……どう切り出したらよいものか……」
「ありゃ、そんなに深刻な話? 大丈夫、いつまでも待つわよ!」
因香の反応に、歴は『あら?』と思う。こんなに話しやすい相手だっただろうか。
鬼無里三姉妹の中でも断トツの妖艶さを誇り、既に学生の時分から『容姿も性格もラテン系美女のようだ』と評されてきた次女。
そんな因香が歴は少しだけ苦手だった。性にも開けっ広げで、昔はよく歴の異性関係を根掘り葉掘り聴き出しては奥手過ぎると叱られたものだ。
苦手意識が働き、因香と距離を置いてきたりもした。だが、こうして因香と会話を交わしていても自然と対応できている自分自身に、歴は驚いてもいた。
「兄の……ことなんです」
「あいつがどうしたの? あ、ひょっとして歴の好きなひとが凪にバレて、仲を引き裂かれそうになって困ってるーとか?」
違う、と言おうとしてハタと気付く。いや、違わない。端的に言えばそういうことじゃなかろうか。
歴の口が『ち』の形のまま止まったことを確認すると、因香は「わー、当たったー」と棒読みで歴をからかう。……前言撤回。苦手なままかもしれない。
だからと言って、尻込みしたままではいられない。それではちっとも成長していないことになってしまう。
そもそも因香を訪ねたのはプライベートとしてではなく、彼女の『肩書き』を頼ってのことだった。歴が唯一縋れる『一縷の希望』が彼女なのだ。
「因香さんは、兄が……ユナイソンにいることをご存知ですか?」
質問を受けた因香が目を細めると、獰猛類のそれに似る。見つめ返した歴は、まるで夜目に光る鷲のようだと思った。
「知ってたよ」
「……!」
「姉も妹も知ってる。寧ろ知らなかったのは歴だけじゃないかな。っていうか……その様子からすると、凪はあんたから逃げてたのかしら」
「……ショックだと言ったら変ですか?」
「凪がユナイソンに転職したことを黙ってたこと? それとも、知ってた上で私たちが伏せていたこと?」
どちらだろう。どちらかと言えば、前者だろうか。だとしたら凪は、因香の言うように『歴から逃げてた』ことになる。
「ハッキリ言うとね歴、凪はいま、私たちの敵なの」
「て……。……え? 何です?」
「敵。正確には、ジジのね」
ジジ――祖父の敵? 
「あの……、話が全く見えません。どういうことですか? 兄がお祖父様の敵って、どうしてそんなことになってるんです?」
因香は髪を後ろに凪ぐと、距離を詰め、歴の瞳をじっと覗き込んだ。唇と唇が触れ合うか触れ合わないかまでのギリギリの位置で、因香は言葉を紡ぐ。
呆気にとられながらも、歴は身動ぎひとつしなかった。いや、出来なかったのだ。因香から発せられたそれには、金縛りの魔力が宿っていた。
「私たち三姉妹はあんたが大好きよ」
「あ……りがとうございます……?」
「歴を傷付けたくないの。頑丈で、キラキラ眩しい装飾があしらわれた、それはそれは見事な鳥籠の中で、汚れた部分を知らないまま過ごして欲しい。
だから私たちはひたすら沈黙を貫き通す。どんな汚い真実も、綺麗な『嘘』にくるめばあんたは傷付かなくて済むし、この世の穢れを知らずに済むじゃない?
これが私たち三姉妹の願いであり、愛の形よ」
「……」
大人しく聴いていれば、随分と歪んだ愛を告白してくるものだ。
「凪の件、教えるワケにはいかないなー。あいつはとんでもなくエゲツナイ事をしでかしてくれた。ひょっとしたら一族の汚点になるかもしれないわ」
つい今しがた歴に甘い顔をした因香が、今度は厳しい現実を突き付けてくる。金縛りは一向に解けない。因香に翻弄されっ放しだ。
(一族の汚点……は、さすがに刺さるなぁ)
愛されている割には、ぼこぼこに蹴られているような気がして、歴はずんと落ち込んだ。
「勿論凪のことだって愛してるわ。かわいーかわいー従姉弟だもん」
「……残酷な愛だわ。この世で一番タチの悪い愛です」
「あれれ? どうしてそう思うの?」
「汚れた部分を知らないまま過ごして欲しいと言った時点で、私に『その存在』を教えているじゃありませんか」
「あぁ! なるほどね! そういう考え方もあるか。でも凪が『何をしでかしたのか』を教えることは出来ないな。教えたくない」
「何故ですか?」
「そもそも歴は知りたいの?」
「本当は知るのが怖いです。でも兄は沢山の人を傷付けているみたいですし、実際に傷付いてしまった人を知っています。妹の私には知る権利があると思います。
それに……考えたくないけれど、私の知らない所で巻き込まれた人だっているはずだわ。知りたくないなんて言ってられない」
「知る権利、か」
「私には権利がないとでも?」
すかさず歴は切り返した。そのスピードの速さは効果的で、因香は歴を頭の先から爪先までじっくり見ると、真面目に告げた。
「やっぱり言えないな。ごめんね」
「因香さん……! 因香さんはユナイソン専属の、経営コンサルタントじゃないですか。このままユナイソンが傾いてゆくのを静観し続けるおつもりですか!?」
歴の目尻にうっすらと涙が浮かぶのを、因香は見て取った。
その顔に弱いんだよねと呟いた因香は歴の頭に手を乗せると、そのまま自分の胸へと引き寄せた。
「……私たちの愛の形、歴には分かんないかなぁ? だから今、妹とジジが話し合ってるの。どうにか凪を真っ当な道に引き戻すために」
「!」
反射的に歴は因香を見上げた。目を見張る歴に、ふわりと笑う因香。
「言ったでしょ。私たちはあんたが大好きなんだって。悪いようにはしないわ」
因香にだって、出来ることと出来ないことがある。寧ろ、本部に籍を置く者だからこそ、制限がかかってしまうことの方が多いだろう。
それでも精一杯の譲歩をしてくれると約束してくれたのだ。
因香から離れると、深く深く身体を折り曲げ、お辞儀をした。
「ありがとうございます、因香さん……!」
このご恩は絶対に忘れません。そう続けると、因香は「じゃあ今度一緒にパフェ食べに行こう」とピースサインを作り、妖艶に微笑んだのだった。


2009.02.23
2019.07.26
2023.09.11


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