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24話 【九日話】


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24話 (合) 【九日話】―ココノカノハナシ―


≪01:9月9日、8時31分、ユナイソン岐阜店≫

杣庄は欠伸を噛みころしながら通行証を見せ、従業員通用口を通過した。今日の門番は南雲という60を少しばかり超えた男性警備員。
珍しいことに、いつも物静かな南雲が談笑している。稀有な出来事に惹き付けられた杣庄は、次の瞬間、口をあんぐりと開けて立ち止まった。
南雲と話しこんでいたのは、3年振りに見る伊神十御の姿だった。伊神はあの頃と全く変わっていない。それどころか色男度が増したのではないか。
長さは違えど緩やかなウェーブが掛かっている黒髪は同じ。だが以前より顔の形と肌に合った眼鏡フレームに変わっていた。
繋ぎではなくスーツ姿だから、背の高い伊神はメンズモデルに見える。毎日欠かさずランニングを続けていたのだろう、健康的に肌が焼けていた。
「伊神さん」
「杣庄君! 久し振り。元気だったかい?」
会えて嬉しいと、その全身が物語っている。完全に気を許していることが窺える、満面の笑顔。
礼儀正しく、気さくな一面を持ち、そしてもうひとつの武器である声――。
(そ、そうだ、この声! この人、とんでもない美声の持ち主だった……!)
同性から見てもハンサムかつセクシーな伊神を見て、『こりゃ勝ち目はねぇかもな』と失礼にも不破犬君に同情してしまう。
伊神ことMr.パーフェクトは南雲に手を振りその場を離れると、杣庄の隣りに並んだ。更衣室まで一緒に行くつもりなのだろう。
「伊神さん、ほんと久し振り。元気そうで安心した」
「ありがとう、元気だったよ。杣庄君の方は? 特に恙無く?」
「あぁ、俺も皆も元気だったぜ」
「それはよかった。さっき南雲さんから聞いたんだけど、八女さんが名古屋店に派遣されたんだって? 透子ちゃんはひとりで大丈夫かな……」
どうも伊神の心は歩幅とリンクしているらしい。知ってか知らずか――恐らく無意識だろう――歩く速度が遅くなっている気がする。心配しているのだろう。
「あー。大丈夫だと思うけど……」
実際には、「大丈夫」とは無縁の潮透子だった。
彼女は『どんな顔をして伊神さんと会えばいいのか分からない』と杣庄に零していたし、不破犬君という年下社員についても頭を悩ませている。
一体何から伝えたもんか……と、杣庄は伊神の横顔を見て苦悩する。と、その伊神がぽつりと告げた。
「杣庄君。不在の間、あの約束を……透子ちゃんを守ってくれて、本当にありがとう」
「……ん……あぁ、なんとか都築からは守り通したぜ」
不破犬君という虫はついちまったけどな……、と心の中で付け足す。何となく後ろめたくて言葉にすることは躊躇われた。
「杣庄君にはつらい想いをさせてしまって、本当にすまないと思ってるんだ。だって、そのせいでずっと本命に告白できなかっただろう?」
「!」
往来激しい廊下で、朝っぱらから交わすような内容じゃない。ペースに乗せられてしまう前に話題を変えなければ。
「でももう大丈夫。今度はオレが2人の仲を取り持つからね。でも、そんな事しなくたって、杣庄君なら彼女だってOKを……」
「伊神さんっ」
「うん?」
「着きましたよ、男子ロッカー。さっさと着替えて、とっとと行きましょう!」
杣庄の顔は真っ赤だった。そんなに今日は暑いかな、と不思議に思いながらも、伊神は「そうだね」と素直に従った。
 

≪02:9月9日、9時06分、ユナイソン岐阜店≫

『伊神来たる』。
その最新ネタを潮透子が耳にしたのは、従業員通用口に足を踏み入れた、たった数歩目のことだった。
「伊神君がいると、安心するねぇ」
早速耳にした伊神の名前。ぎくりと肩を強張らせた透子は反射的にバッグの取っ手を力強く握りしめる。あぁ、このまま帰ってしまいたい。
よほど伊神の帰還が嬉しいのか、警備員の南雲は恵比寿顔で他の警備員と談笑していた。
伊神が南雲と懇意にしていた過去を思い出し、この場所は伊神の出現スポット上位になること必須だと気付く。
俯き加減にそそくさと更衣室へ移動し、制服に着替える。更衣室からを出る際の確認も怠らない。右よし、左よし、GO!
こそこそと事務所前まで行くと、窓枠から中の様子をそっと探る。どうやら伊神はいないようだ。
「失礼しまーす……」と断りながら入室する際も、自然と小声になってしまう。どれだけ臆病になっているのか。
壁に掲げられたボードを見上げ、手を伸ばしながら『潮透子』の名札をくるりと引っくり返した。
メンテナンス部を見ると、早くも『伊神十御』の札が追加されており、既に『出勤』になっていた。
(伊神さんが……いるのかぁ……)
実に3年振りの逢瀬――。どうにも不思議な感覚だ。
パスケースを取り出し、社員証を機械にかざす。短い電子音が、透子の出社を認識した。
前日の売上推移表の確認も怠らない。早々に退室したいのは山々だが、骨の髄まで染みついてしまった日課のなせるわざがそうさせてくれない。
事務所を出る際、全身鏡に向かって「いらっしゃいませ」「有り難う御座いました、またお越し下さいませ」を2回繰り返し、30度敬礼の練習。
こうしている間にも、いつ事務所に伊神が来てもおかしくない。ヒヤヒヤしながら退室した。
「……!」
廊下に出た瞬間、早速危険を察知した。伊神がどこにいるのか、手に取るように分かったのだ。
八女芙蓉を欠いた女傑三人衆――馬渕・香椎・黛――に、伊神は囲まれているらしい。
“らしい”というのはつまり、透子本人が見たわけではなく、ただ甲高い彼女たちの声の様子から窺い知れただけの話である。
どうやら積もり積もった香港生活の様子を根掘り葉掘り尋ねているようだ。
(天は私に味方した……! 女傑三人衆が伊神さんを放っておくはずがないもの。もはや強力な拡声器を手に入れたも同然だわ)
成功の秘訣は女傑らを目印にすること。ただそれだけでいいのだからミッションの難易度は意外と低いかもしれない。
彼女たちの声の大きさに気を配りつつ、距離間を維持しながら移動していた透子の背後から、杣庄の呆れた声が降りかかる。
「いつまでそうやって逃げてるつもりだ?」
「んにゃあああ」
小さな悲鳴、という偉業をやってのけながら、振り返りざま素早く杣庄の口を押さえた。
「黙っててよ! 伊神さんにバレるじゃない!」
意地悪く、杣庄はチロリと舌を出した。感触が透子の掌に、まともに伝わる。
今度こそ大きな悲鳴をあげた透子だが、すぐに我にかえった。今の声で伊神たちに気取られた可能性がある。全速力で透子は駆け出した。
女子トイレの洗面所で手を洗い、こそりPOSルームへ入った。疲れた。ただその一言に尽きる。
「でも、杣庄の言う通りだわ。いつまでも逃げ続けるわけにはいかないわよね……」


≪03:9月9日、9時16分、ユナイソン岐阜店メンテナンスルーム≫

数年振りの塒(ねぐら)はひどい有様になっていた。
15畳ほどの小さな工房には機械工具が溢れかえっている。万引き防止を目的に設置されたモニターの数も、倍にまで膨れ上がっていた。
メンテナンスを目的とした工具マニアと言えば聞こえは良いが、ここまで度を越せば立派なフェチである。
自分が出て行った時もすごかったが、これは全くの予想外だった。
「これは一体……」
足の踏み場もない。伊神はまず、扉を開けて自分を阻む床に転がったスパナを拾い上げた。
その声に、机の上に座ったまま、はんだ付けの作業をしていた男が振り返る。
「……お? 伊神じゃねぇか! よぉ、オカエリー」
「オカエリじゃないよ、碩人(ヒロト)……。どうしたんだい、この部屋。消防法違反じゃないか」
一歩足を踏み入れるたびに、伊神はコンパスや南京錠、針金、ワイヤーの束を拾い集める。
碩人と呼ばれた男は、その垂れ目を伊神に向けたままニヤリと笑った。
「伊神がいると、やっぱ助かるね~。今のメンテナンス部には整理整頓が苦手なヤツが多くて困る」
「どこに何があるのか、ちゃんと分かってる?」
「分かるワケねーだろ。その都度、売り場まで買いに行ってる。つまり貢献ってヤツだな!」
「領収書を切って提出しているのなら、それは貢献じゃなくて経費って言うんだよ」
やれやれと思いつつも、不思議と憎めないのが碩人たちメンテナンス部の人柄だった。
ここは心地が良い。
碩人たちが工具を酷使し、店内のありとあらゆる物に再び命を吹き込むのだとしたら、その工具に労わりをもって感謝するのが伊神の役目だった。
つまり、伊神はメンテナンスパーツのメンテナンスが主な仕事だ。時間が空けば、店内のメンテナンスも兼ねているが。
壊れた機械の中には、直すのに数日かかる場合もある。
すると、少数精鋭のメンテナンス部の人間はそちらに時間が割かれてしまい、とても自分たちの工具用品のメンテにまで気を配れない。
結局、伊神がいない間は――時間があれば勿論修理したが――工具が壊れるたびに新しいものを買うしかなかった。
「早速だが、仕事が山積みでね。段ボール3箱分『治して』くれ」
メンテナンス部に所属する者たちの共通項として、彼らは壊れてしまった物を、まるで人間の病のように表現する。
そこら中に部品や工具を放りつつも、工具への愛情は最低限備わっているらしい。矛盾している愛の形だが、そんな一面があるからこそ憎めない。
「分かった。早速取り掛かるよ」
「さんきゅ。なぁ伊神、香港どうだった? 香港!」
はんだごての熱で、つなぎの作業着が暑くなったのだろう、碩人はジッパーを下ろすと、上半身だけ両手を引っこ抜いてTシャツ姿になった。
引き締まった腕には、玉の汗がわずかに浮かんでいた。休憩とばかりにペットボトルを手繰り寄せ、ミネラルウォーターを一口煽る。
「楽しかったよ。とにかく夜景が綺麗でね……。料理も美味しかったな」
「なんじゃそりゃ。小学生の夏休みの日記じゃないんだからよ」
「詳しい話はまたゆっくり。今度時間を確保して話すよ。いまは仕事だ」
「へいへい。相変わらず真面目なこって」
口では辟易しながらも、碩人の顔には微笑みが絶えない。伊神が帰って来て嬉しい気持ちが止められないようだ。隠す気もないらしい。
プラスドライバーを右手に持った伊神がじっとその道具を見ながら言う。
「碩人。今日仕事が終わったら、一緒に行って欲しいところがあるんだけど、いいかな」
「へぇ、珍しいな。どこだ? お前の歓迎会でもしようと思ってたんだがな」
「ごめんね、それはまた別の日に。今日行きたいのは透子ちゃんが住んでる社宅マンションなんだ」
「待て待て、突っ込みどころ満載だな? 潮透子なら出勤してるだろうが。ここで捕まえとけ。なんでコブつきで行かなきゃならないんだ」
「実は、ちょっと込み入ってて……」
「……マジか。まぁお前が望むなら俺は構わないが、いいのか? 杣庄じゃなくて」
「あ……そうだね。言われてみれば、杣庄君に声を掛けるべきだったのかな? 透子ちゃんのことなんだし」
「俺に声を掛けたってことは、無意識にそっちの方がいいと思ったからじゃないのか? 何なら杣庄にも声を掛けてみればいいんじゃねぇの」
「そうだね……。うん、そうする。……何だか嫌な予感がして仕方がないんだ」
「胸騒ぎか? どうした。急な異動と帰国で神経過敏になってるのか? それか、まだ時差ボケてんじゃないのか」
「ただの杞憂ならいいんだ。どうも弱腰になってるというか。なんでかな。単に人恋しいのかな、オレ」
照れくさそうに頬を掻く伊神を、碩人は決して馬鹿にしなかった。
「虫の知らせってのは案外当たるもんだぜ。日頃から第六感は研ぎ澄ましておいて損はねぇよ。自分をもっと信じな」
「……ありがとう」


≪04:9月9日、17時51分、ユナイソン本部人事室≫

愛知県三河地方を中心に数店舗巡ることになっていた犬君が日帰り出張を終えた足で本社人事室へ戻ると、物思いに耽る凪の姿があった。
ノックをしたにも関わらず、凪は一切の音に無頓着のようで、犬君の入室にも気付かなかったようだ。
「只今戻りました。……千早さん? そんな思い詰めた顔をして……一体どうしたんです?」
その問い掛けでやっと犬君の存在に気付いたのだろう。顔をあげた凪は言うか言うまいか逡巡し、それでも言いにくそうに言葉を絞りだした。
「都築が来ない」
「来ない?」
「昨日帰国したはずなんだ。その電話は貰ってる。だが、ちっとも出社してこない。それどころか、いくら連絡を取ろうとしても応答がない」
「連絡が取れないんですか? ……まさか……」
犬君は僅かに上ずった声で、推理であって欲しいことを口にする。
「……今日は伊神さんの復帰日じゃありませんでしたか?」
「……そうなんだ。私もそこが気になってる」
帰国したその足で、お礼参りに行ったとでも言うのか――。俄かには信じがたいが、その線を捨てきれない程度には都築への心証は悪い。
何せ勝手に携帯の電話番号を調べたりと、嫌がらせ相手と接触を果たしたくて仕方がない性格だということは既に判明済みだ。
逆恨みが高じて矛先が透子や伊神に向かってもおかしくないし、それどころか午後になっても出社して来ない辻褄が合ってしまうではないか……。
「あの、千早さん。僕、岐阜店に行きたいんですけど……」
じっとなんかしていられない。杞憂で終わるならそれでいい。この埋め合わせはきちんとするから――そう瞳に訴えかける。
若干迷う素振りを見せた凪だったが、不安を拭い切れない想いは犬君と同じだったのだろう。会社用ではなく個人的なスマホを取り出し、1本の電話を掛けた。
主語を省いてのやり取りだったため、相手が誰なのかは分からない。それでも犬君はCOOの秘書である鬼無里火香だろうかと当たりをつけた。
やがてノックして入って来たのは、凡そお堅い会社では浮いてしまうような白のセクシーワンピースを着たオリエンタル美女だった。
誰だろうと不思議に思っていると、凪は女性に向かって「因香さん」と声を掛ける。
「大至急、ここにいる不破君と一緒に、岐阜店へ行って貰いたい。……可能だろうか?」
「何のために?」
女性の質問はまるで、ここで答えを誤るようでは従うわけにはいかないと言わんばかりの口振りだったが、凪は言葉を選ぶ時間すら惜しいとばかりに即答した。
「過ちを糺すためだ。歴を救うためでもある」
「オーケー、従いましょ。じゃあえっと? 不破クンだっけ。一緒に行こうか」
「あとひとつ、お願いがある」
「なぁに? もう! 注文が多いわね。忘れたの? 今のあんたは私たちの敵なのよ、敵! 馴れ馴れしくしないで欲しいわ」
(私たちの敵? どういう意味だ?)
意外な言葉に驚きつつ、犬君は凪を盗み見る。一瞬苦々しい表情をした凪はしかし、事情が事情だとばかりに頷いた。
「あぁ、分かってる。だが今は……とにかく今だけは力を貸して欲しい」
駄目押しの一言は、因香にとって甘い蜜に相当した。射竦めるように凪を見て、はっきり言い切る。
「凪。明日、その首を差し出しなさい」
「……!」
(それってつまり……千早さんの悪事について、『自ら謝れ』ということか……?)
女性は、たじろいだ凪に容赦しなかった。手加減を加えることなく、徐々に追い詰めていく。自分の立場を思い知れ、と現実を突き付けるかのように。
「凪、もういい加減観念した方がいい。ジジも、とっくの昔に気付いてる」
(ジジ……? 誰だ?)
「もう限界でしょう? そっちのバランスが崩れてることは、凪、あんたが一番よく知ってるんじゃない?」
「私は……」
「明後日、あんたたちのボスであるCEOが出張から帰って来る。今度こそ私たちが完全にCEOの息の音を止める! 経営者としてのね」
「あり得ない。出鱈目を言うな。CEOが話し合いに応じるわけがない! COOからずっと逃げているというのに」
「その『お殿様』は情けなくも逃げ回っていたから、外堀から埋めて行ったのよ。CEOの秘書を介してね」
「馬鹿な! 彼が寝返ったというのか!? 一体どうやって」
「彼に『正義』を思い出して貰っただけよ」
(CEOの秘書は男だったのか。それより……CEOの経営者としての息の音を止める? まさか千早さんたちの願いを叶えてくれるというジーニー役は……)
「……私もここまでか。……分かった。明日、この首を差し出そう」
「千早さん……!?」
揺らぎない相貌が因香を見据えていた。どこまでが本心なのだろう。犬君がそう考えあぐねていると、
「そう即答されると、かえって疑わしいわね。今から一筆書いて貰おうかしら」
「悪いがそんな悠長にしている暇はないんだ。お願いだ、因香さん。今すぐ不破君と岐阜に向かって欲しい。谷城君も連れて行って貰いたい」
切羽詰まった凪の剣幕に気圧され、今度は因香は首を捻った。凪のオーダーはどこまでも理解不能だ。
「はぁ? 谷城クン? 何で???」
「万が一の為の保険さ。彼の出番がいらないなら、それに越したことはない。私から連絡を入れておくから、下で合流してくれ」
「一体何を恐れているって言うのよ……。……分かったわ。行きましょう、不破クン」
「感謝するよ」
さっさと歩き出した因香の後について行こうと、犬君も踵を返す。その背に向かって凪は言った。
「不破君。駐車場に向かってくれ。公共交通機関を使うよりも、因香さんの運転の方が早いと思うから」
「僕の見間違えでなければ、10cmのハイヒールだったように思うのですが」
「因香さんに常識は通用しないよ。或いは、そこらへんにもうハイヒールが脱ぎ捨ててあるかもね。見付けたら回収しておくよ」
「……行って来ます」
(『因香さん』が何者なのかは分からないままだけど、とにかく一刻も早く岐阜へ行かなければ。透子さんが危ないかもしれない……)
犬君は後を追うように走って行く。
犬君と因香が抜けた人事室で、凪の深く、長い溜息が広がった。
自分を裁くギロチン台が、とうとう目前に運ばれて来たのだ――。
(だがもう逃げない)
意を決した凪は、籍がなくなる未来を予測し、私物の整理に取り掛かった。


≪05:9月9日、18時15分、JR東海道本線名古屋→岐阜行き列車内≫

香港から帰国した都築は、自分の周囲が目まぐるしく動いていることを何1つ知らなかった。
昨夜は奇しくも伊神と同じ便だったことも、加納が血眼になって都築を探していることも、水面下で起こっているそれら以外のことも。
好きでもないレオナ・イップの相手をさせられ腹の虫がおさまらない。それもこれも、伊神がレオナの誘惑を撥ね退けたからだ。
だからお鉢が自分に回ってきてしまった。しかも今日はその伊神の異動後初出勤日。
(最悪な気分だ)
伊神の異動理由がレオナによる自分への個人的復讐だと知り、イライラが止まらない。
揺れる電車が昨日の自分と重なる。自分の上で揺れていたレオナ・イップ。
彼女はとうとう最後まで歓喜らしい声のひとつもあげず、それどころか見下すような目で自分を見下ろしていた。
向こうから「相手をしろ」と言ってきたくせに、満足した様子を一切見せることなく、かといって都築のテクニックに不満を言うわけでもない。
何を考えているのか全く読めず、それがかえって不気味で、『早く終われ』と何度願ったことか。
(あぁ、吐き気がする。こういう役は、色狂いの加納が担えばいいんだ)
昨日からずっと、都築は何度も何度もそう考えていた。元より「性を取り引きの材料にしよう」と言い出したのは加納だ。
凪は加納の考え方に最後まで否定的だった。だから別に千早凪を責めようとは思わない。勝手に暴走し始めた加納が憎かったし、輪を掛けて伊神が憎かった。
(だから奪いに行く。いや、正確には返して貰う、か)
岐阜駅から出るとタクシーに乗り込み、目的の場所を告げる。10分もしない内に社宅マンションへと到着した。
(彼女は間違いなくここにいるはずだ)
セキュリティなどちゃんちゃらおかしい。自分は本部の人間だ。社員証が免罪符代わり。誰も疑わずエントランスに招き入れてくれる。
(今から何をするのか知っていたら、誰もボクなど通さなかったろうに――)
自嘲気味な笑みを浮かべながら、都築は目的階まで上がって行った。


≪06:9月9日、18時52分、社宅マンション≫

その男を見た透子の顔がみるみる内に強張り、血の気が引いたように青ざめていく。それでも上擦った声で、何とか声を絞り出した。
「つ……都築さ……」
数年振りに見る都築は、透子を見て満足気に笑う。いや、笑うというより、もはやそれは嗤いだった。端整なその顔が醜く歪んでいる。
都築は強引に室内へと侵入した。
透子がドアを開けてしまわないように、都築は彼女の肩を強く押すと、部屋の淵へと追いやった。もがく力を無に帰す、圧倒的かつ一方的な腕力で。
「やぁ、久し振りだね。愛しい愛しい透子さん?」
都築はいとも簡単に片手で彼女の両手を頭上まで挙げ、壁に固定してしまう。耳元で囁く声に、透子は吐き気と屈辱を味わった。
誰が下の名前で呼んで良いって言ったのよ!? 出掛かった言葉は、都築が首に唇を添わせたことで霧消した。
触れるか触れないかの、まるでローレンツ力を用いたリニアモータ―カーのような間隔を空けて、都築の唇は透子の鎖骨をゆっくりと往復する。
じわじわと、けれども確実に、都築の唇は透子の肌へと密着していったが、突然ブラウスの襟を乱暴に引き下ろすと、露わになった鎖骨にキスをした。
咽喉を中心に、愛撫する場所を何度も変える。そのたびに、キスマークを付ける淫らな音が、透子の羞恥心を煽った。
手は使えない。唯一使える足蹴りも、大の男が相手では、いまいち迫力と攻撃力に欠けた。
「どうしてっ……」
「知りたいのは、ボクがここにいる理由? それともキミを襲っている理由? そんなの簡単さ。キミが欲しいからだよ」
空いている片方の手で透子の顔を撫で、都築はくっと嗤った。
本当に逃れられないの? 透子は考え抜いた挙句、今度は膝で思い切り都築の腹を蹴り上げた。
「キミの攻撃なんて僕には効かないよ。そんな威力じゃね」
痩せ我慢をしているようには見えない。涼しげな顔が優男を連想させたのだが、その実、鍛えていたりするのだろうか? 
透子が抗えば抗うほど滑稽で仕方ないらしい。余裕の笑みを浮かべている。
それでもめげずに何度も膝を叩きこんでいると、今度はその膝を掴まれた。透子の片足が、あがったままの形で。
「横着い足だね。お仕置きだよ。……あぁ、なんて際どい格好だろうね?」
これ以上ないほど透子は赤面した。
両手は壁に押し付けられ、ブラウスは胸が見える位置まで開いてしまっている。
鎖骨付近はキスマークで鬱血しているし、脚が上がっているからスカートから下着が見えている状態だ。
悔しい。いやらしい。気持ち悪い。憎たらしい。怖い。大嫌い。張り倒したい。色んな感情が綯い交ぜになって、透子を震えあがらせる。
「胸、大きくなった? D寄りのCかな。嫌いじゃないよ。そのワインカラーのブラも似合ってる」
「あんたの好みなんて知らないわよ! この下着、超お気に入りだったのに! あんたに見せるために着けてるわけじゃないんだから!」
再び首に吸い付こうとする都築に、そうはさせじと彼の首に噛み付いた。その痛みに都築は顔をしかめる。
「……そういうプレイが趣味なのか? だったら付き合ってあげようじゃないか」
瞳に怒りを宿した都築は、握る手首に更なる圧を加えた。軋むような痛みに透子はつらそうな悲鳴をあげた。


≪07:9月9日、18時55分、社宅マンション≫

伊神たち3人が最寄りのバス停で降りると、街は暗くなりかけていた。そのまま社宅マンションへと向かう。
伊神がいなかった間に流行した出来事などを話している内に、そびえ立つ建物まで辿り着いた。
碩人は何気なく、ある一棟に視線を移した。黒い塊のようなものが動いたのを、視界の端で捉えた気がしたのだ。
塊はやがて2人の男女だと分かった。仲睦まじく抱き合う光景を目にし、『誰と誰だよ』とほくそ笑む。あの部屋の住人は誰だろう。
「なぁなぁ、あそこ見てみ? 誰と誰が抱き合ってると思う?」
「俺そんなに目ェ良くないっすよ」
そう言いながらも杣庄は碩人が親指で指し示した方角を注視する。
「……は? 透子じゃねーか!」
尋常ではない声に、伊神と碩人がハッと顔を見上げる。言われてみれば、女性の方は透子に見える。男の方は背を向けていて分からない。
「なぁ……、潮、あれ……嫌がってねぇか?」
碩人の疑問文を耳にした途端、伊神が走り出した。碩人と杣庄も駆け出す。
走りながら杣庄は携帯電話をONにし、電話帳を繰る。か行『鬼無里』。
「ちっくしょ、出ねぇ……」
留守番電話サービスに繋がり、それでも何かしないわけにはいかず、文言を吹き込んで通話を切った。すぐに気付いてくれればいいのだが。
或いはもう一件。警察に通報すべきかもしれない。指が119を躊躇った瞬間、「まずいぞ」と言う碩人の声がして、意識をそちらへ戻した。
「おい、2人はどこだ!?」
3段飛ばしで階段を上り切った先、目の前に広がる光景は悪夢以外の何物でもなかった。
さっきまでは通路にいたのに、2人の姿はない。透子の部屋に入ってしまったのだろうか。
幸いドアに鍵はかかっていなかった。伊神がドアを開けると、男に手首を抑えつけられ、懸命に抗っている透子の姿があった。
複数の足音に気付いた透子と都築が反射的にドアを見た。闖入者を確認した都築が毒づく。その顔は憎しみによって醜く歪んでいる。
雪崩込むように透子の部屋に入った杣庄が、都築めがけ走り出す。
「都築、てめぇ!」
杣庄が繰り出した右ストレートは、いとも簡単に掌で受け止められてしまう。透子の声を遮るかのように、都築は彼女の口を掌で覆う。
「少し大人しくしていてくれよ、透子さん。今からこいつらお邪魔虫を懲らしめてやるから」
今度は杣庄の拳が都築の腹に入り、手が緩んだ隙に透子は離れた。咄嗟に杣庄は背後に透子を隠す。
「形勢逆転だな、都築」
杣庄の後ろで、はだけてしまった胸元を隠すように、透子は身を縮めた。その目には涙が溜まり、悔しさで唇を噛みしめる。
ブラウスのボタンを留めようとするも、震える手では1箇所留めるだけで精いっぱいだ。それでも何とか2箇所目も留めることが出来た。
後は私に何が出来る? 透子は必死に考える。とにかく都築を何とかしなければ。こうして仲間も来てくれたのだ。もうひと踏ん張りしなくては――。
「透子ちゃん、もう大丈夫だよ」
伊神のその優しさが嬉しくて、切なくて、悲しくて、透子は嗚咽を漏らした。涙で視界が霞み、伊神が歪む。けれどそこにはちゃんと伊神がいた。
面白くなさそうに都築は伊神を見返した。今や怒りの矛先が全て伊神へと向けられている。杣庄や、透子すら、始めから存在しないかのように。
「っは。『大丈夫』ってどこが? これでもボクシング部だったんだよ」
攻撃が来る。悟るより先に本能が働き、伊神は慌てて2歩ほど下がる。
都築が繰り出した素早いパンチからは運良く逃れることが出来たが、果たして二回目以降そんな奇跡が起こるかどうかは未知だ。
「やめて! もうやめてよぉっ……!」
透子は、庇うように伊神の前に躍り出る。両手を広げ、行かせまいと。
「透子ちゃ……っ」
「危ないぞ、透子!」
「いやよ、どかない! 絶対伊神さんを傷付けさせやしないんだから……!」
肩で息をする都築は、虫けらを見るように伊神を見やる。
「……伊神。お前のせいでボクがどんな目に遭ったと思う?」
血走った目は、伊神を捕らえて離さない。
「レオナ・イップの誘いを断っただろう。サーシャ・チェンの名前も知らないとは言わせない。サラ・コリーも。そうさ、お前が悉く誘いを退けてきた女だ」
「……」
「お前があの女どもを満足させなかった所為で、とばっちりがボクに回ってきたんだよ!
どうしてボクがあいつらの玩具にならなければならない!? どうしてお前の尻拭いをしなければならない! 
どうしてあいつらと寝なきゃならないんだ! 答えは簡単だ。お前の所為だ。全部お前の所為なんだよ!!」
透子の耳がぴくりと動く。
「『あいつらと寝なきゃ』って一体何のこと?」
都築が伊神を執拗に狙い続けた理由がそこにあると気付いたからだ。
「……だったら、加納を止めれば良かったんだ!」憤りを隠さず、杣庄は続けて怒鳴りつける。「悪いのは加納や人事部だろうが! 伊神サンじゃねぇ!」
「ぅるっさいなぁ! さっきから何なんだよ! 関係ない人間は引っ込んでろ!」
都築が杣庄と対峙している隙を縫って、今まで身を隠してタイミングを探っていた碩人が都築の背中を蹴りつけた。
膝から床へ崩れ落ちながらも、蹴りを入れた碩人ではなく、伊神を凝視する。あくまでも伊神憎しということなのか。
「効かないって言ってるだろ?」
伊神を庇う透子、その透子を庇う杣庄。『動けるのは自分しかいない』と碩人は悟る。
だがボクシング経験者である都築相手では歯が立たない。次の攻撃が綺麗に入るとは、到底思えない。数だけ多くても、こうも無力では――。
「じゃあ杣庄から行くか。散々名前をおちょくって貰ったお礼もしないとね」
都築が腰を落とす。――来るのか?
「杣庄、逃げろ」
言いながら、いや、逃げるのは悪手だと碩人は思い直す。
杣庄が動いてしまえば、背後の透子や伊神が危ない。杣庄自身もそれが分かっているから動きようがない。
万事休す。今度は背後から首根っこを捕まえるしか方法はなさそうだが……。
とその時、玄関のドアが開いた。外気から入ってきた生暖かい風が動く。
「僕に任せて下さい」
静かに流れたその声は、透子や杣庄にとって耳馴染むものだった。でも、どうして。どうしてここに。
「本部のひとって本当に人遣いが荒いですよね。とっくに時間外労働ですよ。透子さんの為じゃなきゃ、とっくに帰路に就いてました」
「不破犬君……!?」
「な、なんで不破が」
「何故ここに……お前までいるんだよ、不破ァ!」
都築の標的は犬君に移る。
その犬君はと言うと透子を見やり、すぐ視線を眼前の敵に戻した。
「やってくれましたね、あんた。一切容赦しませんから」
す、と前へ。都築の腕を掴み上げ、犬君はそのまま背負い投げを決める。まともに床に叩きつけられた都築の口端から苦悶の声が上がった。
一体何が起きたのか。
やられた側も、見ていた側も、ただただ瞬時の出来事に唖然としている。
ただ一人、不破犬君を除いて。


≪08:9月9日、19時05分、社宅マンション≫

立ちあがらせまいと、今度は杣庄が都築の首に腕を回し、ホールドする。苦痛で呻いている間に、碩人は都築の両手をがしっと掴まえた。
機転を利かした透子は、勝手知ったる自分の部屋からビニール紐とハサミを取りに走り、簡易的に都築の手首を幾重にも縛った。
連携プレイで捕らえ終えたところで新たな来訪者が現れた。到着するなり、背の高い美女は腕を組んで屹立する。
「観念なさい、都築」
都築は貫禄に満ちたアルトボイスを聴いただけで美女の正体を悟ったようだった。瞳孔を見開き、呻くように罵る。
「なぜ鬼無里因香がここに……っ! 場違いだろう」
憐れむように都築を見やった来訪者は、その魅力的な唇に笑みを浮かべると全員を労った。
「私はユナイソンの専属経営コンサルタント、鬼無里因香よ。都築を捕まえてくれてアリガト! 身柄は私が貰い受けるわ」
因香の手が都築の腕を掴む。その瞬間、都築が唾を吐いて因香の白いワンピースを汚した。全員が悪魔の所業に慄いたが、因香は平常心を保っていた。
――かに見えた。
余裕綽々に女神の微笑みを浮かべたかと思うと、因香渾身の一撃が都築の左頬を打ち叩いた。都築はよろめき、その膝はガクガクと笑い始めている。
「さっさと来なさい!」
因香に引っ立てられ、都築は力なく従う。
「杣庄クン、さっきは連絡ありがと。最初は岐阜店に向かおうとしててさ。お陰ですぐ方向転換してこっちに来ることが出来たってわけ」
「マジで助かりました。感謝します。心底留守電に伝言を残しておいてよかった……。これからどうするんすか?」
「今から本部に戻って上司に説明するわ。警察署へ行くのはそれからになるね」
警察の二文字に目を剥いたのは都築だった。「なぜボクが」と取り乱す都築に対し、「当然っしょ」と言い切る。
「立派な暴行未遂事件。有耶無耶にしたら世間から何を言われるか。それに女性を見縊らないで頂きたいわね。私は潮さんの代わりに怒ってんの」
「ふざけるな、お前にそんな力……」
「言っておくけど、私の目を盗んで逃げようったって、そうは問屋が卸さないよ。
あんたボクシング部だったんですって? だから一緒に連れて来たの。かつてアマのミドル級で優勝した経験のある、本部の人間をね」
「まさか、谷城チャンプを――」
それが合図だった。のっそりと玄関に姿を現したのは、小麦色に肌を焼いた筋肉隆々の三十路男性だった。
両耳に紫色のピアスをしており、かなりの個性派だ。
その半面、綺麗に背広を着こなしており、その胸には因香と同じ、本部所属を表す紫色の社章バッジが留められていた。
「一般人や、あまつさえ女性に暴力を振るうとは何事だ。ボクシングを汚すな、馬鹿野郎。お前はボクサー失格だ。経験者を名乗ることすらおこがましい」
谷城は眼力だけで都築を射竦めてしまった。完全に手綱を掴んだことを確認した谷城は自身の背広を脱ぐと透子の肩越しにふわりとかけてやった。
「あ、ありがとうございます。私なら大丈夫です。自分の部屋なので服ならありますし……。お返しします」
谷城を見上げ、透子はしどろもどろ言う。因香は透子の耳に唇を寄せ、小さな声で伝える。
「いいから。『いま』必要なものでしょ」
透子は驚いて目を丸くした。確かに男性が6名もいるではないか。透子は頬を染めながらもこくんと頷いた。
「ありがとうございます……」
「ふふっ。どう致しまして。それと、よく頑張ったね」
いいこいいこと言いながら透子の頭を撫でる。その優しさが温かくて、透子はぽたぽたと涙を流した。
「ほらほら、泣かないの」
口ではそう言いながらも、あやすように優しく抱き締める。とんとん、と背中を叩くことで落ち付いてきたのか、透子は次第に泣きやんだ。
「取り乱したりして、すみませ……でした……」
「いいのいいの。もう怖くないからね。都築はちゃんと法で裁いて貰う。私、優秀な弁護士とも仲がいいんだ」
「それはとても……心強いです」
「うん。だから、もうちょっと頑張れる? 証言とか欲しいの。少ししんどい思いをさせちゃうかもしれないけど、やれそう?」
内心、透子は怖気付いていた。
都築の魔の手から逃れられることは嬉しい。だが、もう関わりたくないのも事実だった。出来るだけ無関係でいたい。
(でもそうなると、八女チーフはどうなってしまうんだろう?)
一緒に戦うと誓ったのだ。あの誓いに二言はない。それに――。
透子は「杣庄、不破犬君」と2人の名を呼んだ。「どうした?」「何ですか、透子さん」と尋ねる声は、慰めてくれた因香と等しく優しい。
ちらりと因香を見たことで、2人は透子の心を瞬時に悟ったようだ。
「大丈夫だ。鬼無里さんは味方だから」
「信じていいですよ」
誰よりも信じられる同僚らから太鼓判を貰ったことで、尻込みをしていた透子の意志は固まった。
「鬼無里さん。私でよければ、力をお貸しします」
励ましてくれた因香へ恩返しもしたい。その為なら、もう少しだけ勇気を奮ってみようと透子は思ったのだ。
「よしよし、偉いぞ。一緒に頑張ろうね」
目を細めて笑う因香に、つられて透子も笑う。
因香に感謝しているのは透子だけではなかった。全員が仲間である透子に笑顔を取り戻してくれたことを心から感謝していた。


≪08:9月9日、19時21分、社宅マンション≫

「申し訳ないけど、全員から詳しい事情を聴いておきたいから、近い内に本社に来てくれない?」
「いいですよ」と二つ返事で頷いたのは杣庄だった。「今から本部へ戻るなら、俺も一緒に。その方が手っ取り早くて済みますよね? あ、でも……」
杣庄が透子を見る。杣庄の言いたいことが分かったのだろう。因香は「潮さん、ちょっとこっちに」と手招きした。
男性陣から離れた部屋まで誘導させ、傷の有無を確認する。
「アザが数ヶ所あるわ。病院行く?」
「いいえ、大丈夫です」
「無理しないで。費用はこちらで負担するし、遠慮しなくていいよ」
「日にち薬ですよ。でも、その申し出には感謝します」
「そう? 気になるようなら我慢せず病院へ行くのよ。保険の件も絡むから連絡して」
「そう仰っていただけると助かります。約束します」
アフターケアの提案はとてもありがたい。ひとりで抱え込まなくてもよいのだと思ったら、少しだけ心が軽くなった気がした。
「ついでに、服を着替えない?」
因香の頭の回転の速さには舌を巻く。その為の隔離でもあったのかと納得した透子は、ワードローブから新しい服を取り出すと素早く着替えた。
2人は3分と経たない内に玄関へ戻る。谷城は因香に顎をしゃくった。指示をくれ、の合図だ。
「そうね、出来れば本部にまだ人がいる内に、都築を連れて行きたいわ」
因香が厳かに進言すると、そうだなと谷城も同意した。今ならまだ本部に人がいる。事情を説明するなら早い内がいい。
「杣庄クン以外に今から本部へ行けるのは誰かしら?」
問いかけに「はい」と答えたのは全員だった。驚いた因香は「いいの?」と一同に念を押す。
「ありがとう、助かる。でも私の車4人乗りなのよね」
「俺が車を出します」
碩人が小さく手を挙げた。社宅の駐車場には共有車が数台ある。この時間なら数台は空いているはずだ。
因香の車に谷城、都築、杣庄。碩人の車に伊神、透子、犬君が乗ることになった。
「じゃあ行きましょ」
ドアを開けた先にはひょっとすると騒ぎを聞きつけた野次馬がいるかもしれないと危ぶむ者もいたが、拍子抜けするほどフロアはしんとしていた。
先駆けを杣庄が務め、次に谷城、引っ立てられるように都築が続く。簡易ロープが見えないよう谷城のネクタイで隠してあるが、不自然さは否めない。
そちらに興味がいかないよう念には念を入れ、しんがり役の因香はぴったり寄り添い、何とか一行は階下まで降りて車まで辿り着くことが出来た。
車体を見た杣庄は「マセラティ・グラントゥーリズモかよ」と呟いたきり、閉口してしまった。因香の車が醸し出す、異様な雰囲気ゆえだろうか。
「曰くつきの中古品でね。なんと5分の1以下の値段で買えたのよ」
「その理由を聞いちまったら、乗れなくなる気がするなぁ」
因香は「賢明な判断よ」と口角を上げ、助手席のドアを開けた。「さ、本部へ戻りましょう」
助手席には杣庄。後部座席には不貞腐れた都築、そしてお目付役の谷城。因香は行きと同じ時速でアクセルを踏む。会話はない。
否、もし言葉を交わしたとしても、舌を噛んだりすれば洒落にならない速度だ。
トライデント・エンブレムを掲げた銀のマセラティは名神高速道路を突っ切って行く。
ポツン、ポツン、と一粒ずつ窓に叩きつけられていた雨が本降りになる過程を、杣庄はウインドウ越しに眺めていた。


≪09:9月9日、19時28分、社宅マンション≫


「本部に異動した不破がどうしてここにいるんだ?」
「……一廼穂さんですか」
今にも舌打ちしかねない無愛想な顔で犬君は碩人を見た。メンテナンス部=伊神という構図があるので、そこに所属する人間というだけで苦手意識が働く。
なので「不届き者を連れ戻しに来ただけです」と説明する犬君の言葉は、ポイントを押さえるのみで素っ気ない。
「僕からも一点。確認ですが、ひょっとして『彼』が……」
犬君が顎をしゃくった相手は、自分たちの先を歩く伊神だった。
「あぁ。伊神ことMr.パーフェクトだ。以後お見知りおきを」
「あの人が『伊神』さん……」
「お前には酷なシーンだよな。伊神王子様の御帰還だぜ。恋敵と『同乗』しなきゃいけないなんて神様は意地悪だよなぁ。『同情』するぜ」
「あなたの寒い冗談に付き合っていられるほど暇ではないんですよ」
嘆息する犬君に構わず、碩人は続ける。
「なぁ、さっきの嘘だろ」
「さっきのとは? 何も嘘などついていませんが」
「『不届き者を連れ戻しに来ただけ』ってやつ。違うだろ。潮を守りに来たんだろ?」
「どう違うんです? 同じでしょう」
「息せき切って駆け付けたのに、とうのお姫様は伊神王子様に付きっきり。嫌ンなるよな?」
「そう言いつつも、貴方は伊神さんの味方なんでしょう。僕を笑いたいんですか? 悪趣味ですよ」
「勘違いして貰っちゃ困るなぁ。俺は伊神の味方であって、潮の味方ではないぞ」
「それもどう違うんです? やっぱり同じことでしょ」
「同じじゃないだろ。もっと咀嚼して考えてみろよ」
「貴方との会話は疲弊を増幅させますので――失礼します」
これ以上話すことはないとばかりに頭を下げると犬君は車のドアの前に立った。
どの座席にするか。考えるまでもない。透子と伊神は後部座席一択だ。そう判断を下し、犬君は助手席へ乗り込んだ。
車が走り始める。静かな車内での第一声は、伊神の「透子ちゃんが無事で良かった」だった。
「こんな時にまで私の心配なんて……伊神さんは相変わらず優しいなぁ」
言葉とは裏腹に、透子は伊神の気遣わし気な視線から逃れる。伊神の顔が曇った。
「透子ちゃん……」
「……こんな再会……最悪すぎるよ……」
手の甲で涙を拭き、透子はしゃくりあげる。伊神は片方の腕で透子を抱き寄せた。シートベルトがあるせいで、ほんの少しだけれども。
「ごめん……なさい……」
「何を謝るのさ? 透子ちゃんが謝ることなんて、何もないよ」
「都築に……」
「シー」
透子の耳元で、伊神は静かに囁いた。本人の口から語らせるなんて、忍びない事この上なかった。
「私……汚れてなんかいないよ? 本当だよ!」
黙っていられないとばかりに、透子は訴えた。伊神には本当の事を知っていて欲しかった。何が起こり、何が起こらなかったのかを。
伊神は戸惑った顔で透子を見つめる。
「そんなこと……思うわけないじゃないか」
「確かにブラウスのボタンは3箇所くらい外されちゃったし、首に唇を押し付けられたけど、それだけ。キスもされてない」
透子の首の辺りには、鬱血した痕が多数見受けられた。伊神は透子の心情を慮ると、やるせない気持ちでいっぱいになった。
「……今度こそ、透子ちゃんを守りたかったんだけど……」
「伊神さんはちゃんと守ってくれたよ!? 私にとって、ナイトだったよ! だからそんな顔しないで……」
「透子ちゃん……」
隣りには伊神がいる。それでも足りないと透子は感じた。何かが足りない。でも一体、何が足りないんだろう?
(こうして大切な伊神さんが帰ってきたというのに。やっと悪夢から解放されたというのに。大好きな伊神さんの隣りにいるというのに)
大好きな人との再会。なのに、今もなお心に隙間風を感じるのはなぜだろう。まだ気が昂っているからなのか。
碩人がバックミラー越しに2人を見やる。せっかくの再会だというのに、お世辞にも伊神と透子の距離が縮まっているとは言えない。
それどころか、ぎこちない空気が漂っている。
都築のやり方も、まんざら的外れでもなかったようだ。
歯車は、噛み合わなくなってしまっている。
一方、犬君はと言うと、誰にも気付かれないよう深呼吸する。
そうでもしないと、都築の所業に腸が煮えくり返りそうだ。しかも恋敵の存在も大きい。
「透子さん」
犬君の呼び掛けに、透子は目をぱちぱち瞬かせると、瞬時に伊神から距離を置いた。
バックミラー越しにびくっと身体が小さく跳ねたのは見間違いなどではないだろう。その心境も分からなくもないな、と犬君は内心溜息をつく。
大方、『居たの、不破犬君!?』と思っているに違いないのだ。犬君の胸にチクッと痛みが走ったのは何だろう……嫉妬なんだろうか。
「大丈夫ですか?」
「うん、平気……そうだ。さっきはアイツを投げ飛ばしてくれてありがとう。スッキリした」
「いえ、どう致しまして。僕としてはもっと懲らしめてもよかったんですけどね」
「やり過ぎよ」
「……あれだけでは足りませんよ、全然。……全然」
「2回言った……」
「さて、本部に到着するまでまだ時間があります。車内で休んでていいんですよ?」
気を取り直したのか、気遣うように犬君は言う。
「透子さんが無理をしていることぐらい、僕にはお見通しですから」
「し、してないよ、無理なんて。大丈夫だって言ってるじゃない」
伊神に心配を掛けまいと虚勢を張っているのもバレバレで。
「その健気さに涙が出そうです」
「な、何言ってるの!? ……かしらっ?」
(うわーーーーお、なにこの修羅場ーーーーー助けてよ杣庄ーーーーーー)
少しでも早く目的地に着きたい。その一心で碩人はアクセルを踏み込んだ。


≪12:9月9日、22時00分、メール配信≫

一斉配信のためBCCで失礼します。
このメールを受け取った者は、大変恐縮ですが9月10日午前10時を目安にユナイソン本部までお越しください。
各店長には本部より説明済みですので、抜ける際の報告等は一切不要です。
尚、9月10日が休日になっている場合は、後日休暇を付与させて頂きます。ユナイソンCOO



2019.08.29
2023.06.08


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