01話 【Tape Cut!】01話 (―) 【Tape Cut!】 2月21日。 業界や世間を賑わす運命の日がやってきた。 (株)ユナイソンの首脳陣を筆頭に、社員全体を巻き込んだ、大型人事異動施行日である。 他に類をみないこの騒動を、世論は『2.21大異動事件』と呼び合った。 大手総合スーパーであるゼネラルマーチャンダイズストア第2位、(株)ユナイソンの不祥事が報じられたのは、前年9月11日のこと。 社内の多岐にわたるハラスメントが公の知るところとなり、その責任を取る形で事実上のトップであるCEOが退陣を迫られた。 CEO側は渋りを見せ、退陣を拒んだものの、世間からの風当たりは強く、何かせざるを得ない空気に満ち溢れていた。 社内捜査の結果、店長クラスの関連があることも判明したため、関係者全員が3階級の降格と3ヶ月の減俸に処された。 降格処分と、これから指されるであろう後ろ指のストレスに耐え切れず、辞表を提出する者が半数。 『茨の道を覚悟して残留するのも償い方のひとつ』と、処分を受け入れる者も半数。 そんな中、より重い処分を受けた者もいる。被害届が提出され、刑事事件に発展してしまったケースだ。 こうなってしまっては、誰かが責任を取らねばならなかった。その役目をCEOが担ったことで、後任にはCOOが昇進、後釜に据えられた。 * 朝8時。異動のため段ボールや荷物が店売り用の商品と共に溢れかえり、開梱作業に追われる中、新CEO千早為葉によるWeb会議が始まった。 新たな売り場、新たな役職、新しい局面を迎えた社員たちは、最高権力者の話に神妙に耳を傾ける。 「果たしてここは誰の為の会社だろう? 己だろうか。それも確かだが、正解ではない。ユナイソンはお客様のための会社でもある。 我々はもう一度原点に戻らざるを得なくなったが、これを好機と捉えよう。 幸い、ユナイソンには世界に誇れる経営理念がある。これに恥じない社員に、一人一人がなって欲しい。さぁ、開店準備をしようじゃないか。 姿勢を正して二大用語を。『いらっしゃいませ!』『有り難う御座いました、またお越し下さいませ!』」 午前8時7分。全国に点在する(株)ユナイソン事務所内で、全社員が販売員のプロとしての接客挨拶を復唱した。 * 事件の有無にかかわらず、大規模な異動は元々行われる予定だった。 (株)ユナイソンの本社ビルは名古屋市にあり、御膝元には『ユナイソン名古屋店』が据えられていたのだが、老朽化のため3ヶ月前に閉店した。 5kmほど離れた繊維工場跡地に建てられた新たな本丸が『ユナイソン・ネオナゴヤ店』である。 名古屋店の時より敷地面積を大幅に広げ、3階建てのショッピングモールには有名テナントが何百も入るとあって、地域の活性化が見込まれた。 大異動と新規オープンが重なったここが力の入れ所であり、社運がかかっているといっても過言ではない。 上層部が異動希望者を募ると、野心ある者がこぞってネオナゴヤ店への異動を希望した。 新店を任されることは有能社員の証でもあったため、ネオナゴヤ店を希望する社員は多かった。 そのユナイソン・ネオナゴヤ店開店日もまた、2月21日だった。 * 「おはよう、ちぃ」 Web会議終了後。各々が散らばる中、ネオナゴヤ店家電チーフの麻生環がPOSオペレータの千早歴を見付け、背後から声をかけた。 歴が振り返ると、そこには片手を軽く挙げた麻生の他に、「おはようございます、歴さん」と微笑むドライ担当の不破犬君もいた。 開店日ということで、2人とも背広を着こなしている。他の男性社員共々、開店時間が迫った頃合いに制服に着替えるつもりなのだろう。 「おはようございます! 麻生さん、不破さん」 「なぁちぃ、あれどうにかなんないか?」 呆れ顔の麻生が親指で示した方向には、コスメ売り場のチーフである柾直近が不機嫌な顔で、『とある男』と机越しに向き合っていた。 その『とある男』に歴は心当たりがあった。業務担当の千早凪は歴の実兄なのだから、見覚えがあるのも当然だ。 「そりが合わないはずなのに、2人で何をしているんでしょうか?」 呟きにも似た歴の疑問に答えたのは犬君である。 「どちらの腕時計が優れているのかを競ってるみたいですよ」 「そんな、腕時計で競い合うだなんて……」 「なぁ、実は仲良いンじゃねーのか?」 「兄も柾さんも、どうして会話しちゃったんでしょう? いがみ合っていたはずなのに」 「で、どっちが優秀な腕時計とやらなんだ? 柾は王道ロレックスだったよな。千早事務長は?」 「凪さんはウブロですね」 「私は腕時計の情報に疎くて……。どちらが優れているんです?」 「そもそも優劣なんてつけようがありません。どちらも歴史と信頼は折り紙付きですよ」 冷静な犬君の言葉に、歴はなるほどと相槌を打った。犬君の言うように、腕時計の優劣で何かが決まるとは思えなかったからだ。 「歴さんが彼らのどちらかに腕時計をプレゼントすれば、勝負は一発で決まると思いますけどね」 「ははは、そりゃそうだ」 「私には、ロレックスやその……ウブロ? 他にも高価なのがあるじゃないですか、オメガとか。そんな高価なもの、買えませんよ?」 「高価な物を買う必要なんてないさ。ちぃがどっちにあげるかで決まるんだよ」 「? よく分かりません」 「……そうか、俺が悪かった」 相変わらずそっち方面は鈍いよなぁと思いながら苦笑した麻生は、自分の腕時計に視線を落とす。持ち場に行かないといけない時間だ。 「さて、俺の腕時計を見るに、そろそろ事務所を出なきゃいけないらしい時刻みたいだが……? あいつらは分かってんのかねぇ」 「どれほど高級な腕時計だろうが、時間に気付かないようであれば、単なる宝の持ち腐れですよ」 「言えてるな」 「では千早さん。僕、売り場に行きますので」 「あ、はい」 「俺も行くわ。じゃあな」 「はい。行ってらっしゃいませ……」 無情にもすたすたと事務所を出て行ってしまったので、柾と凪の間に入るのは、結局歴の役目になってしまったのだった。 * ネオナゴヤ店のPOSオペレータ・八女芙蓉は、Web会議が終わるなり同じ部署の潮透子の手を引いて脱兎のごとく逃げ出した。 行き先はPOSルームである。透子は赤くなった手首をさすりながら、ジト目で上司を見やった。 「痛いです。ひどいです。何なんですか? 私まで巻き込まないでくださいよ」 「いや、その……なんとな~くソマに会い辛くて……」 芙蓉は小さな声で訴える。やれやれと呆れる透子に対し、すかさず芙蓉は反論した。 「潮だって、ずっと伊神とわんちゃんから逃げてるじゃないの。あなただってあの場からすぐ逃げたかったはずよ」 伊神、不破。その名前を耳にした透子は顔を引きつらせる。当たっているだけに、耳と心が痛い。はぁ、と溜息をつく。 「伊神さんと不破犬君が同じネオナゴヤ店って、未だに意味不明ですよ。百歩譲って杣庄は良いです。でも、なんで伊神さんと不破犬君?」 「神さまの悪戯か、気紛れってヤツでしょ」 厄介な職場になってしまったと、2人は同時に溜息をついた。 * 「伊神さん。やっぱり俺、早まっちまったのかなー」 Web会議終了後、伊神・ラジュ・十御は、その顔に優しげな笑みを浮かべながら答える。 「早まったって、告白をかい? 八女さんは照れてるんじゃないかな」 芙蓉の同期である伊神は、それなりに彼女の性格を把握している。杣庄は『そうかな』と疑問に思いつつも、話半分として受け止めておくことにした。 「……伊神さん、最近透子と話してます?」 恐る恐る尋ねる杣庄に、伊神は平然と答えた。 「透子ちゃん? いや、喋ってないけど」 (何考えてンだ、アイツ。せっかく伊神さんと同じ店だっつーのに) 思わず出掛かった言葉を飲み込んで、杣庄は伊神と一緒に事務所を出た。 いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。 いつかは真正面から向き合わねばならない。 分かっているけど、心の準備がまだ出来ていない。 誰もが同じ悩みを抱えつつ、ユナイソン・ネオナゴヤ店は午前10時、開店を告知するテープカットの瞬間を迎えた。 * 記念すべきオープン初日を迎えたユナイソン・ネオナゴヤ店は、蓋を開けてみればてんやわんやの盛況ぶりだった。 従業員が売り場に出て数歩進めば、困惑した客が助けを求めるように必死に袖口を掴まえ、訴えかけるように尋ねる。 案内を果たしたかと思えば、新たに「ねぇ、ちょっと」と呼び止められ、店内を移動するだけでも一苦労。 潮透子は早くも後悔していた。――POSオペレータはPOSオペレータらしく、大人しくPOSルームに居れば良かったのだ、と。 パソコンの前で少し粘りさえすれば、椅子に座ったまま解決した。その『少し』を惜しんだが為に、透子は複数人の客をさばかねばならなかった。 (酢よ? 1本の酢のJANコード。それを調べに行きたいだけなのに、なんでこんなにも時間が掛かっちゃうの?) 息抜きのつもりでもあった。なにせオペレータは始終ディスプレイと睨み合わなければならない。入力ミスに気を配らなければならないので集中力が必要だ。 その上、今日のPOSルームは人の出入りが激しい。やれ売価を変更してくれだの、やれ新規登録してくれだの、売り上げ個数を教えてくれだの。 俺が先だ、いや私が先よ。待ってくれ、今お客様をお待たせしてるんだ、こっちから入力してくれ! 息が詰まる。空気が淀む。がやがやと騒がしい。だから店内に出た。仕事から逃げるように。 (八女先輩と千早さんには悪いけど。でも、数分のことだし!) その捻くれた考え方と、腐った性根に対してバチが当たったのか、早速透子に災難がふりかかった。 「すみません、店員さん」 声を掛けられたのはこれで4人目だ。透子は声の主を探した。手招きする男性の姿が人混みの隙間から見えた。 人の合間を縫って、透子は男性客の前に出る。スープ・パスタのコーナーだった。 「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」 「彼女を探してるんだ」 彼女? 一緒に来た彼女とやらと、はぐれてしまったのだろうか。確かにこの混雑では見付けにくいかもしれないが……。 「俺さ、ちょうど彼女を探してたんだよね。きみ、潮さんっていうんだ? ね、俺、店員さんが欲しいんだけど」 その欲しいなの!? ていうか――。 (こんな大勢の前でナンパなんかするから、他のお客様が聞き耳立ててんじゃん……!) イラッとしたものの、相手はお客様。気の利いたあしらい方が重要になってくる。自分の為にも、まだオープンして1時間にも満たない新店の為にも。 「生憎私は商品ではございませんので御提供しかねますが、こちらはいかがですか? 入荷したての新製品、野菜ごろごろポタージュ。 明日まで100円もお安く販売しております。お湯を注いで1分。スプーンで掻き回すだけで美味しく出来上がります。濃厚で、パンにも合いますよ」 意外にも、男性客はあっさり引いてくれた。 透子に軽くあしらわれたことで、ナンパが失敗に終わったことを素直に認めたのだろう。透子が紹介した商品を手に取ると、 「へー、俺ほうれん草に目がないんだよね。1個買ってみるわ。ありがと。潮さん、お仕事頑張ってねー」 自分と透子を貶めない方法で円満に解決した点を鑑みるに、なかなか賢いナンパ師だった。 「ありがとうございました!」 笑顔で男性客を見送ると、野次馬も散らばって行った。透子の唇から小さな溜息が漏れた。 (ふぅ……都築のようにしつこい男じゃなくて良かった! ……そうよ、これぐらい処理できなくてどうするの?) いつぞやかのセクハラ親父は不破犬君が助けてくれた。都築基には、伊神十御から助けて貰った。いつも2人が傍にいると思ってはいけない。 (八女先輩だって闘ってきたのよ。自分の身は、自分で守るの) 視線を上げると、通路の向こうから不破犬君が歩いてくるのが見えた。 ネオナゴヤ店の売り場を担当する者が着用する真新しいエプロンは、一流デザイナー・『イッセイ・タチバナ』の手によるもので、話題のひとつでもある。 黒を基調にした洒落たエプロンなのだが、さりげないロゴやワンポイント部分を好きな色で選べる仕様になっている。どうやら犬君は赤を選んだようだ。 初めて見る格好に、思わず視線を注ぎ過ぎ……慌てて目を背けた。 「安心しました」 すれ違いざま、透子にだけ聞こえる声で犬君は言った。カッと透子の頬が染まる。目を合わせようともせず、透子は恨めし気に反論した。 「……見てたのね?」 「ここはドライ売場。言わば、僕の縄張り圏内です。それはそうと、僕のエプロン姿に惚れました?」 「馬鹿言わないで。赤より欲求不満の紫の方が似合うんじゃない?」 「紫って、欲求不満の色なんですか?」 「そうよ!」 すっかり売り場に懲りてしまった透子は、大きな歩幅でPOSルームへと急いだのだった。 * 「潮! こんな忙しい時に、どこへ行ってたのよ!」 透子の姿を見るなり、般若の形相で八女芙蓉は噛み付いた。 (やばい) 芙蓉の怒号には慣れている透子だが、今回はその度合いが増している。これは本気で怒っているサインだ。 「すみませんでした。調べたいことがあって売り場へ行ったら、お客様に色々と尋ねられてしまったんです」 嘘ではない。だが『息抜きをしたくて』とまでは、さしもの透子も言えるはずもなく、真実7割・嘘3割の報告で事なきを得た。 「千早を見なさい! 生理現象も我慢して、ずっと入力一筋なんだから」 芙蓉の指差す先には、ひたすら指を動かす千早歴の姿。カチンとする透子。 (なによ、「千早は、千早は」って。お気に入りだか何だか知らないけど、何でいつも比較されなきゃいけないのよ) 透子が歴の背中を睨むが、ディスプレイに齧りついている歴は知るよしもない。 (そもそも、千早歴はあの千早凪の妹じゃない! 私や伊神さんの仲を裂くためにあくどい手段に出た都築の上司、千早凪の! 八女先輩だって、加納と仲間だった千早凪が憎いはずなのに、何でその実妹を可愛がれるのよ!?) 透子は歴が憎いし、嫌いだ。兄である千早凪の存在も大きいのだが、歴の性格がどうしても好きになれない。 歴のおどおどした態度からは、人に嫌われたくなくて無理に合わせようとしているように見えて仕方ない。 「はい」と答えたり「分かりました」と素直に引き受けるのも、人から好かれたいがゆえの良い子ちゃんを演じているかのよう。 その推測を裏付ける理由の1つが、男性受けが抜群にいい、というものだ。 風の噂によれば、歴には男性ファンが少なくないらしい。それも社内外を問わずというから末恐ろしい。 大方、甘い声で媚びたりしているのだろう、と透子は思う。 (純情そうな振りをして素直にしていれば誰からも気に入られるって寸法ね? 私は騙されないわ。化けの皮を剥いでやる) 最後にまた一睨みをきかせてから、透子は自分の席に着いたのだった。 * 歴は居酒屋を利用するのが今日で初めてだった。未知の空間を前に、彼女は尻込みをしていた。 木造の平屋建て。ブリキの煙突からは物凄い量の煙を吐き出している。こじんまりとしているのに、客の声が店外にまで筒抜けだ。 入口には仲間と待ち合わせをしているのか、柄の悪い男性が煙草をふかしながら乱暴なやり取りをしている。入りにくいこと、この上ない。 腕時計で確認するが、約束の20時まで10分もある。それは変わらない事実だった。 (早くどちらか来ないかしら。それとも店内にもう居たりするのかしら。あぁ、いっそ逃げてしまいたい……!) 勇気を振り絞って入口に近付くと、ヤンキー座りをした男が「あぁん?」と視線を歴に向ける。 (ごめんなさい、やっぱり帰ります私!) 踵を返した所で、むんずと腕を掴まれた。まずい、さっきの人だろうか? 因縁をつけられたらどうしよう? 「こーら! どこへ行く気?」 振り返った歴は安堵した。そこに芙蓉がいたからだ。だが即思い直す。これで退路は断たれたも同然だ。帰れない。帰してなど貰えない。 パンツスタイルにシンプルなドレスシャツという出で立ちの芙蓉は、腰に手をあて歴を睨みつける。歴は笑った。笑うしかなかった。 「こ、こんばんは。芙蓉先輩」 「帰ろうとしたわね?」 「うっ……」 「今、帰ろうとしたわね? ダメよ。今日は千早の居酒屋デビュー記念女子会なんだから。肝心のゲストが居ないんじゃ、話にならないでしょ」 そう。歴は、つい口を滑らせてしまったのだ。「私、居酒屋って行ったことないんですよね」と。 口は災いの元。油断していた自分が悪い。そんな情報を与えてしまえば、芙蓉が飛びつかないわけがないのだ。 「レッスン1! 居酒屋に可愛いワンピースなんてもってのほか。匂いが染み付いちゃうでしょう?」 早速、芙蓉による講義が始まる。歴はワンピースの裾を摘まむと、しゅんと項垂れた。 「……もぅ! そんな顔しないの。なにやっても可愛いんだから、この子は」 やれやれと溜息をついた所で、「せんぱーい」という感情のこもらない声がした。透子も到着したようだ。 「潮。遅いわよ」 「仕方ないじゃないですか。オープンしたばかりで色々と処理が残ってたんですから。これでも急いで着替えた方ですよ」 ジーンズに肩出しのゆったりニットを着た透子は、慣れた手つきで長い髪を片結びする。その様子を見ながら、歴は透子に向かって言った。 「お疲れ様です、透子先輩」 「別にー」 透子の返事は素っ気ない。 思い返せば、事件のあとすぐに人事異動の発表があった。 表向きはネオナゴヤ店のための異動だったが、その陰で『事件』に関する人物らの左遷も多かった。 11月上旬に異動の旨が伝えられ、建物の完成を待たずにネオナゴヤ入りをしなければならなかった。 新人パートの教育、オープンの為の陳列準備、機械の設置や設定など、時間が足りないほどやる事だらけで、慌ただしい毎日が矢のごとく過ぎ去った。 その期間を含めると、歴が透子と知り合ってから3ヶ月が経過していた。にも関わらず透子は歴と打ち解けず、そのことで溜息をつく回数も少なくない。 (仲良くしたいのにな……) なまじ、透子が不破犬君や芙蓉らとテンポ良く会話している姿を見ているだけに、自分に会話や笑顔が向けられないのが寂しい。 芙蓉は透子に対し「千早へのあの態度はなんなの?」と注意するのだが、改善の兆しは一向に見られなかった。 (透子先輩を怒らせるようなこと、してしまったのかしら……) ないと思う。思うが、人間どこで恨みや反感を買うか分からないから。 気長に付き合っていくしかないな、とも思う歴なのだった。 * 女子会参加者はPOSオペレータ3人。 歴を嫌っていながらも透子が会に参加しているのは、単に芙蓉に狩り出されたからだ。上司命令でさえなければ絶対に不参加だった。 透子は店員から手渡された御絞りで両手を拭くと、適当にテーブルの上に置いた。 ふと、御絞りを丁寧に折り畳む歴の姿が視界に入る。やることなす事が、いちいち癪に障った。 ムカムカと表現するに相応しい感情を抑え込みながら、透子は「それで?」と短く尋ねた。 芙蓉には「それで?」の意味が分かったようだ。長い付き合いなだけある。 「だから、ネオナゴヤOPENを記念しての第1回女子会よ。親睦を深めるためのね」 「3人で一緒に働き出してから3ヶ月ですよ? 今更だと思いますけど」 「誰のためだと思ってるの? まったく。勝手に不貞腐れてなさい!」 とは言え、ビール(歴はウーロン茶)が揃ったら乾杯するのが世の常。透子の意思に関係なく、3つのジョッキが宙で合わさった。 「ねぇねぇ。千早って、彼氏いるの?」 この手の質問を、出だしから直球で投げるのが芙蓉の天然なところだろう。歴はウーロン茶でむせそうになるのを必死で堪えた。 「……え!?」 虚をつかれた歴に対し、透子が悪態をつく。 「異動が決まってから今日まであれだけ忙しかったのに、恋愛する余裕なんてあるんですか? 不破犬君ですら、私にちょっかいを出せないほどの忙しさだったんですよ? 社員全員、そんな余裕はなかったと思いますけど」 「相手がネオナゴヤ勤めなら恋愛愛する余裕はなかったでしょうけど、他の会社に勤めていれば出来るわよ。ねぇ、千早?」 同意を求められた歴は、曖昧に「いえ……はぁ……」とウーロン茶で濁す。その様子を見ていた透子は、フンと言いながら視線を外した。 (異動が決まってからは、柾さんや麻生さんと話す機会なんて全然なかったっけ) どの部署も激務を強いられていた。加えて柾も麻生も、課の責任者職に就いているのだから、歴以上の多忙を極めていたに違いない。 「潮に進展が無かったのは知ってるけどね~」 芙蓉の言葉に、透子は頬を引きつらせた。 「あの。私じゃなくて、千早さんの話をしましょうよ?」 「この際だから言わせて貰うけど、せっかく伊神が帰国したのに、どうしてくっ付かないの?」 「そんなの、私の勝手じゃないですか……」 「オープンを迎えて一段落ついたことだし、わんちゃんもまた潮にモーションをかけてくるでしょうね。それが嫌なら早く伊神と付き合いなさい」 「私は私で何とかします。先輩こそ、杣庄のこと、どうなさるおつもりで?」 思わぬ反撃に、芙蓉が怯んだ。その隙を逃すまいと、透子は攻撃を続ける。 「杣庄は、ずっと先輩が好きだったんですよ。でも私に悪い虫が付かないようにって、ボディガード役を買ってくれていて……。 その任も解かれたんですから、杣庄は自由です。幸せになっても良いはずです。先輩今フリーなんでしょう? 杣庄はホントに良い物件ですよ」 「それこそ放っておいて頂戴。自分のことは自分でちゃんと捌・け・ま・す!」 この手の話題は自分以外の誰かに矛先を向けるべきだと気付いた芙蓉と透子は歴を見る。圧を感じた歴は顔を引きつらせた。 「な、何でしょう……?」 「恋人が居ないなら手伝ってあげるわよ、千早?」 「千早さんは誰が本命なの? 私の知ってる人?」 「どうなの? 千早の彼氏、ネオナゴヤに居るの?」 「せ、先輩、目が据わってます……! これが絡み酒?」 「まだ酔っちゃいないわよ! そうね、素面のままだと、言えるものも言えないか」 「先輩、千早さんにもお酒を飲ませるべきですよ」 「いいいいいい要りません!」 立派なアルハラである。話題を変えるには、と歴は咄嗟に口を開いた。 「私にはあの兄が居るんです! しかも同じ勤務地に! 恋愛なんて、どだい無理な話です」 『兄』という言葉に、透子の耳がピクリと動いた。憎き千早凪。歴の頭からビールを引っかけたくなる衝動を、透子はなんとか抑えた。 「千早の親族には過保護が多いからねぇ」 苦笑する芙蓉。 「えぇ、過保護なんです。やたら細かいですし。ダメな所だらけなんです」 「部下を使って枕営業させたり、人の恋路を邪魔させたり? ほんっと、いけない兄よね?」 口に出すつもりはなかった。しかし、気付けば毒を吐いていた。 しまった、と口を押さえたが、一方で言いたいことが言えてスッキリした自分がいる。一方、言われた本人は顔面蒼白で、今にも泣き出しそうだ。 「潮!」 般若の顔で、芙蓉が平手の型を作った。今にも透子に向けて振り下ろされんばかりのその右手を、立ち上がった歴が掴んだ。 「やめて下さい、芙蓉先輩! 透子先輩の仰る通りですから!」 突如始まった険悪なムードに、なにごとかと周囲の視線が歴たちのテーブルに向けられるが、歴は意に介さなかった。 今大切なのは、周囲の好奇な目から逃れることではなく、事件の犠牲者の1人である透子への、心からの謝罪だ。 「兄のしたことには私にも責任があります。どんな言葉も受け入れる覚悟です」 「でも千早、あなたは何が起こっていたかなんて知らなかったじゃないの。潮の言い分すべてに責任を感じなくてもいいでしょうに」 「駄目ですよ……。これは『知らなかった』の一言で済ませられないんです。済ませてはいけないんです……!」 歴の苦痛に歪んだ顔を見た透子は思わず絶句する。 (……驚いたわ。なかなか言えるものじゃないでしょうに。もし私が千早さんの立場だったら、私、どうしたかしら?) きっと歴のようには答えられなかったと思う。 自分が罪を犯したわけではない。だから咎められる理由もない。それでも難癖を付けてきたら、「私に言わないで」と言ったに違いない。 あんたの兄は最低よね、と言われて、素直に「ごめんなさい」と言える歴は、人として出来ていた。 「……正直な話、今ので私、千早さんを見直したよ。謝るのは私の方だ。ごめんなさい。さっきの発言は撤回させて貰うね」 完全に歴の性格を読み違えていた。どこまでも予測不可能な子だ。大人しそうに見えるのに、信念の火は場面に応じて炎色反応を引き起こす。 「えーっと、なに? つまり仲直りしたのね? っていうか、一方的に潮がムクれてただけっぽいけど、そういうことで良いのかしら?」 アルコールが微妙に効いてきたのか、芙蓉は米神を揉みながら確認する。 「えぇ」と透子は言い切り、頷いた。 「問題ないです。お2人にはご迷惑をおかけしました。でもせっかくですから、腹の内を全部曝け出しますね。なんたって親睦会ですから? 私、千早さんの性格が嫌いでした。ウジウジしていてハッキリしないし」 さすがに、ウジウジしていてハッキリしないから嫌い、という露骨な物言いには歴もグサッときたらしい。泣く気配こそないものの、喉元が大きく動く。 「千早さんモテるみたいだし。きっと腰をくねくねさせながら『違います~』とか『そうなんですか~?』なんて媚びてるんじゃないかって。 おまけにお兄さんは例の事件の首謀者だと言う話ですし。だから嫌いだったんです。ぶっちゃけると」 透子の止まらない毒舌に、芙蓉はハラハラと歴の様子を見守った。凹んでいるのか、眉がすっかり『ハ』の字になってしまっている。 「潮……ぶっちゃけ過ぎよ、それ……」 「言ったでしょう? 嫌いだったって。過去形です。安心して下さい。 話を聞いているとなんだか千早さん格好良いし、考え方が大人だし、逆に自分の醜さ加減を改めて浮き彫りにされちゃったなーって。 私、極度の根性曲りで捻くれちゃってるから、余計黒い人間に見えちゃってますよね」 「えぇ、これ以上ないほどの勢いでね……。ごめん、フォロー出来ないわ、潮」 「良いんです。こんな人間なんです、私って。だから、伊神さんがこんな私をまだ好きでいてくれているのか、自信ないんですよね。 不破犬君にしたって同じ。私を好きな理由、一向に教えてくれないんです。こんなドス黒い女の、どこが良いんだろ? 伊神さんにも、不破犬君にも向き合えない、中途半端な立ち位置にいるんです。自分の恋愛が上手くいかない鬱憤や、ヤッカミも混じってた」 そこまで言うと、透子は真正面から歴を見据えた。不安がっている歴に対し「ごめん」ときっぱり伝え、握手を求めた。歴も芙蓉も目を丸くする。 「仲良くしてもらおうなんて、そんな都合のいいことは思ってないよ。でも、同じ部署の仲間だし、避けないでくれたら嬉しいな」 「と、透子先輩……」 正面切っての意思表明は思いがけないもので。頬を真っ赤に染めた歴は、縋るように芙蓉を見た。 芙蓉からは、意味深なウインクがひとつ。つまり『受け取れ』、という解釈でいいのだろう。 「私こそ……よろしくお願いします!」 両手で、包み込むように、差し出された透子の手を握り締めた。その温かさが気恥ずかしかった透子は、あらぬ方向を向く。耳まで真っ赤に染めて。 「武者小路実篤も言ってたわ。仲良き事は美しき哉ってね。あぁ、今夜はお酒が美味しいわ~」 ビールジョッキは既に下げられ、大吟醸を開けている芙蓉を見て、「いつの間に……」と透子は呆れる。 「あ~あ、先輩ってばこんなに呑んで……。知りませんよー、明日どうなっても」 「大丈夫だいじょーぶ。ほらほら千早、さっきの続き! 好きな人いるの? だぁれ?」 アルコールが回ってきたのか、目をとろんとさせた芙蓉はいつも以上に大人っぽく、艶めいている。同性から見ても蠱惑的だった。 「私はあの……、柾さんと麻生さんが気になってて……」 「2人!? 2人なの、千早!? どっちが本命よ!?」 歴に想い人がいること自体意外なのに、『迷っている』というのだから驚きだ。 一方、柾と麻生の名前は知っていても、人のなりを知らない透子は残念な表情を見せた。 「残念。よく分からないわ」 「生憎私もよく知らないんだけど、これから一緒に働くことだし、知る機会はあるわよ」 「それを言うなら、私も不破さんや……伊神さん、杣庄さんを知ることができるので、今からとても楽しみです」 「伊神さんはMr.パーフェクトよ。駄目な所なんてありませんから!」 「恋は盲目ねぇ」 「その点、不破犬君は駄目な所だらけね。エロいしドSだし年下のくせに生意気」 「そ、そうですか? 不破さん、良い人だと思いますけど……」 「で? 潮。結局あなたが好きなのは伊神なの? わんちゃんなの? 一途さを求めるわー」 「聞くまでもありません。それより先輩、杣庄は? どうするんです?」 「いちいちソマの名前を出さないでくれる?」 「杣庄ってば魚臭いですもんねー。高嶺の花と呼ばれる八女先輩には眼中にないですかねぇー」 「一所懸命仕事してる人に向かって魚臭いって何よ? 本気で言ってるの? 怒るわよ」 「本気なワケないじゃないですか。今まで私を守ってきてくれたナイトですよ? こんなの、先輩の本心を探る為の方便に決まってます。 でも、面白いほどまんまと引っ掛かってくれましたね。何だかんだ言っても杣庄のコトが好きなんじゃないですか」 言葉を詰まらせた芙蓉が、話題転換とばかりに歴を見る。 「千早は他にないのかしら」 「えと……えぇーっと……、皆さん、格好良い所が駄目だと思います!」 支離滅裂だ。 「………………結局、私たち3人とも、素直になれってこと?」 ぽそりと呟いた芙蓉の言葉に、潮はテーブルに突っ伏し、歴は膝に視線を落とす。 「……このままでは駄目なんだと思います」 「そうね、千早さんに1票」 「私も。千早の意見に賛成だわ」 「……あぁもう、とんだお笑い種! 男性陣の駄目出しから自分たちの駄目出しになるなんて」 的を得た透子の言葉を、芙蓉も歴も素直に聞いていた。やがて、ぽつりぽつりと本音が零れ始める。やっと出て来た本音だ。 「私、どっちが好きなんだろう……」 「……伊神さんよ。伊神さんに決まってるんだから……。不破犬君が入り込む余地なんて、どこにも無いのよ」 「良い子よね、ソマ。分かってはいるのよ……」 「「「でも……」」」 定まらない恋心。認めたくない本心。 しかし微かに1歩だけ、踏み出し始めていた。 2009.12.03 2019.12.01 改稿 ジャンル別一覧
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