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創作ノート


キャラ設定


《Gentleman》


登場人物一覧表


年表


千早 歴


柾 直近


麻生 環


千早 凪


潮 透子


不破 犬君


八女 芙蓉


杣庄 進


伊神 十御


青柳 幹久


志貴 迦琳


Gentleman


01話 【禁忌遊び】


02話 【騒き戻り】


03話 【鬼畜計画】


04話 【恋愛遊戯】


05話 【貴顕紳士】


06話 【萌え出づ】


07話 【姿情追い】


08話 【感情待機】


09話 【恋ふらし】


10話 【片趣なり】


11話 【匂ひ包み】


12話 【余裕無し】


13話 【特別扱い】


14話 【小心翼翼】


15話 【女郎回廊】


16話 【客観解析】


17話 【止事無し】


18話 【決別狂騒】


19話 【興味津々】


20話 【惑い出づ】


21話 【運命の女】


22話 【君知らず】


23話 【露の世に】


24話 【禁断の匣】


25話 【捲土重来】


26話 【夜半の嵐】


27話 【幕引きへ】


28話 【記憶の鎖】


29話 【告げる声】


Gentleman2


01話 【分岐点】


02話 【入社式】


03話 【一年目】


Gentleman3


01話


02話


03話


04話


05話


06話


07話


08話


09話


10話


11話


12話


13話


14話


15話


16話


17話(旅行編T1)


18話(旅行編L1)


19話(旅行編T2)


20話(旅行編L2)


21話(旅行編T3)


22話(旅行編L3)


23話(旅行編T4)


24話(旅行編L4)


25話


26話


27話


28話


29話


30話


31話


32話


33話


34話


35話


36話


37話


38話


39話


40話


41話


42話


G3日常編


番外編01


番外編02


番外編03


番外編04


番外編05


番外編06


番外編07


番外編08


番外編09


番外編10


番外編11


番外編12


番外編13


番外編14


番外編15


番外編16


番外編17


番外編18


番外編19


番外編20


番外編21


Gentleman4


1話


2話


3話


4話


5話


6話


7話


8話


9話


0話


日常編1


日常編2


日常編3


日常編4


gentleman*


0101★柾直近


0104★平塚鷲


0205★児玉絹


0205★児玉玄


0314★不破犬君


0322★麻生環


0213★姫丸二季


0601☆レオナ・イップ


0602☆児玉菫


i NeeD Me


01話


02話


03話


04話


05話


ENSLAVE


01話


02話


03話


04話


05話


06話


07話


ワクプラ!


ファンタジー100


全49件 (49件中 1-10件目)

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2018.11.08
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03話 (犬) 【一年目】―イチネンメ―




それは僕、不破犬君が2ヶ月に及ぶ新人研修を終え、岐阜店に配属されたばかりの2日目、昼休憩中の出来事だった。
本来ならば、同じ部署同士の従業員は時間をずらして休憩を取ることになっている。
しかし、まだ右も左も分からない新入社員をひとりにするなど無謀というもの。
仕事に慣れるまでは、昼休憩や休日などに関しては、直属の上司と同じサイクルで動くことが決まった。
その日も当然、上司である青柳(あおやぎ)さんと一緒に、13時に食堂へ向かった。
「お前もドライ売場の社員なんだから、ゆくゆくはチーフ、果ては食品部門全てを担う食品副店長を目指すことになる。よほどのことがない限りな。
今はドライ売場だけ担当しているが、パンもデイリーも精肉も鮮魚も食品部に含まれるからには、全てに目を光らせなければならない。
今の内から視野を広げておくことが大切だ」
少し気の早い青柳さんのレクチャーを受けながら、僕たちは食券を食堂のおばちゃんに渡す。
「あらぁ、青柳くん、今日も良い男っぷりねぇ。おばちゃんの目の保養になるわぁ。ほらこれ、にしん。1尾サービスしちゃう!」
「有り難う御座います、平内さん。いいか、不破。上は『売り上げを作れ』と言うが、本当に大事なのは粗利だ。粗利あっての黒字だからな」
「ですね。経営学で習いました」
「あらあら、前途有望な子を連れているのね。キミには、つみれを2個サービスしちゃう」
「え? あ、ありがとうございます」
勝手に増えていくトレーの中身を携え、僕と青柳さんは適当に空いている席に座った。
「……って、カレーににしん? ラーメンにつみれ?」
「よくあることだ。気にするな」
よくあることだって? これが日常茶飯事なのだろうか。どこかずれている青柳さんと食堂のおばちゃんである。
青柳さんは、にしんを福神漬と一緒に食べながら、尚も講義を開いてくれる。昼休憩だというのに、わざわざ熱心に。
恐らく早く僕に巣立って欲しい一心に違いない。その期待に応えなければと、僕はラーメン丼の横にメモ帳とペンを置いた。
青柳さんは既にドライのチーフ職に就いており、有能な社員だと周りは言っていた。彼から得るものはきっと多いだろう。
「……辛さが足りないな」
ルーを舐めた青柳さんが、しかめ面で呟く。徐にテーブルに置かれた七味を満遍なく振りかける。明らかにかけ過ぎだ。
「……よし」
メモ帳には書かなかった。だがインパクトが強過ぎて、勉強より真っ先に頭に入ってしまった。“青柳さん、味覚音痴、或いは辛党”。
青柳さんからレクチャーを受けながらラーメンを食べ終わった頃、食堂の中央から騒がしい声が聞こえて来た。
どうやら複数の男が言い合っているらしい。その喧しさに、ふと顔をあげた。
「おい、不破。ちゃんと聞いてるのか?」
青柳さんはそんな僕をたしなめた。この騒ぎに気付いていないのだろうか。
「いえ、ちょっと騒がしくて、青柳さんの声が聞き取りにくかったので」
僕の言葉でやっと青柳さんは気付いたようだ。食堂の騒がしさに。
僕たちは同じ場所を見ていた。即ち、威勢のいい啖呵を切る、江戸っ子みたいな男性社員がいる方向を。
「ふざけんな! 俺が許すわけねーだろ!?」
「別にお前の彼女じゃないだろ! 何でいちいちお前の許可がいる!?」
白昼堂々、痴話喧嘩でもしているのだろうか。だとしても、こんな所で泥沼劇を繰り広げるなんて、どういう神経をしているんだ。
「誰かと思えば、またあいつか……」
青柳さんは、やれやれと眉間に皺を寄せると、問題のテーブルへと近付いて行った。
「杣庄! またお前か。今度は何をやってるんだ」
熱が入っているのか、杣庄と呼ばれた男は片足を椅子の上に置いていた。青柳さんはその足をぺし、と叩く。
「青柳さん……。いや、こいつがさー……」
杣庄と呼ばれた男は、言い争っていた相手に親指を向けて文句を垂れた。
「透子を合コンの頭数にしたいなんて言うから」
「合コンぐらい許してやれよ」
呆れた口調で青柳さんは言った。
「しかも頭数なんだろ? ……んー……。頭数という言い方もどうかと思うが」
今度は『合コンに誘いたい』と言っていた男の方に、青柳さんは呆れた視線を向ける。
「なんにせよ、合コンなんて言語道断だ。俺が許さねぇ。つーかそんなに合コンの人数が足りないなら、俺の妹連れてきてやるよ!」
「お前の妹になんざ来て貰わなくてもいいっつーの! どうせお前に似て、がさつで口が悪いんだろ!?」
「んだとこのやろー言わせておけば……っ」
「やめておけ、杣庄。……それよりお前、まだあんな約束を守ってるのか?」
「守りますよ! 当然でしょ!? ちっ、これじゃあ埒があかねーや」
杣庄なにがしとやらは、やにわに靴を脱ぐと椅子の上に立ち上がる。両手を口元に宛がい、メガホンよろしく大声で宣言した。
「いいか! 潮透子に手ェ出すなよ!? 特に今年の新入社員! まだ言ってなかったから、今言っておくぜ!」
入社2年目以上の社員はハイハイと空返事をし、中には失笑を漏らす者さえいた。
潮透子? そもそも誰なんだ、そのひとは。
青柳さんに尋ねると、「この店にいる女性社員だ」と教えてくれた。
「どこの部署の人なんですか?」
「POSオペレータだ」
それなら知っている。昨日挨拶回りをして会ったばかりだ。
心の中で、あんな女性のどこがいいんだか、と杣庄さんの趣味の悪さを笑った。
印象としては、つっけんどんな女性だった。そんな彼女が恋愛対象だって? 問題外だ。論外だ。
「あの杣庄さんというひとは、よほどその潮さんという方が好きなんですね」
「……あぁ、凄く凄く大切にしているようだ。さ、行くぞ」
青柳さんは興味がないのか席に戻ると、空になったトレーを持って返却場に向かった。
ただ、その途中で一度だけ振り返り、「不破」と言う。
「何ですか?」
「杣庄の肩を持つわけではないが、俺からも上司命令だ。潮透子、彼女だけは好きになるなよ。……あぁ、あと、八女芙蓉もな」
「……え?」
そんな上司命令があっていいのか? そもそも、どうしてそんな牽制を? それも、僕に?
けれどもここで釘を刺すからには、ユナイソン岐阜店のなかに『暗黙の了解』というやつが存在しているのだろう。
(潮透子の彼氏が杣庄さんで、八女芙蓉なる女性の彼氏が青柳さんってことなのかな)
そう考えるのが一番スマートだろう。だとしても引っ掛かるものがあった。
(待てよ? 確か杣庄さん、『別にお前の彼女じゃないだろ』って突っ込まれてなかったっけ? 一方的な片想いなのか?)
何にせよ、どちらの女性にもなびかない自信があったので、「了解です」とだけ答えておいた。
入社早々、面倒ごとにだけは巻き込まれたくない。絶対に。


***

午後の業務が始まった。僕と青柳さんは、従業員入口に近い≪検収≫と書かれた部屋にいた。これから伝票に関して学ぶのだ。
「伝票は、」
と発し始めた青柳さんのスマホが鳴り出す。僕に断りを入れると、青柳さんは相手と短いやり取りをし、再び謝罪を口にした。
「悪いな、不破。名古屋からのヘルプで、明日のチラシに掲載するマフィンの発注を落としたんだそうだ。
幸いウチに在庫があるから、今から名古屋店まで持って行く」
「発注を落としておいて、取りに来ない、ですって? それ、おかしくないですか?」
「今日は人手が足りないんだそうだ。困った時はお互い様。だろ?」
僕が押し黙っていると、青柳さんは真剣な顔でゆっくりと、言い聞かせるようにこう言った。
「不破、いいか? 人は多かれ少なかれ、誰だってミスをする。本当だ。ミスをしない人間なんて、絶対にいない。絶、対、だ。
人間は過ちを犯す。その間違いを指摘し、叱る人間も必要だが、軌道修正する人間もまた必要なんだ。つまり仲間だ。分かるな?
俺たちはユナイソンという大きなチームであり、仲間だ。だから助ける。俺は助ける力を持っているから、困った人を助けることが出来る」
「……助ける力? つまり、この場合は……『マフィンと言う名の在庫』?」
「そうだ」
「……青柳さんの説明は、すっごく分かりにくいです」
「2日目で上司否定とは、お前は器がでかいな。俺なんて1週間かかったぞ」
「普通、上司は否定しちゃいけないものだと思うんですが」
「どの世界にも、無能な先人はいるものだ」
2日目にして部下から指導に難アリのレッテルを貼られたと思い込んでいる青柳さんはしかし、大して気分を害した様子もなく伝票の作成に取り掛かる。
椅子にも座らず中腰のまま作業する青柳さんの背中に、僕は声をかけた。
「でも、青柳さんの心って、めちゃくちゃ温かいから、すっごく尊敬します」
「ん? 上司認定? 俺もまだまだ捨てたもんじゃないな」
満更でもないようで、青柳さんはにやりと笑う。
「言ってて下さい。ところでその間、僕はどうすればいいですか? 一緒に名古屋行きですか?」
「いや、俺ひとりで十分だ。残っててくれ。だがバイト経験者とはいえ新米社員だからなぁ。
売り場に出て面倒を起こされても困るし……。そうだな、POSルームに行って、売価変更作業を教えてもらってこい」
「それ、僕に必要なスキルですか? 何のために専門のオペレータがいるんです?」
「何でも一通り出来ないと、後々困るのはお前だぞ。
いつ、どんな店に飛ばされるか分からん。POSオペレータがいない店だってあるんだからな」
「そうなんですね。分かりました。POSルームに向かいます」
「……あぁ、不破。行くのはいいが、俺がさっき言ったこと。あれだけは忘れるなよ」
青柳さんは至極真面目な顔で、厳かに念を押すのだった。


***

1階の従業員通路をひたすら歩き続けると、やがて左手に≪POS ROOM≫なる部屋が見えてきた。
この部屋に入るにはドアに付随しているテンキーパネルにパスワードを入力しなければならないとのことだった。
青柳チーフに教えてもらった数字、0806を入力するとドアが開き、同時に中から騒がしい声が耳に入ってきた。
「香椎! 根も葉もない噂ばっかり立てないでったら! 名誉棄損で訴えるわよ?」
「あらん。芙蓉ってば何を怒ってるの? 香椎の言うことに間違いなんてないわ」
「いいこと? 私が小学生低学年男子相手に色目を使ったなんてデマ、これ以上吹聴しないでちょうだい。 
迷子が無事に母親と合流できたから、よかったわねという意味でウインクしただけじゃない」
「じゃああんなにも色っぽいウインクしないでくれる? 芙蓉」
「ぷっ」
「そこ! 潮! 笑うな!」
「すみませ~ん」
空気を読む。取り敢えず、ここは退散すべきシーンだった。
踵を返した瞬間、「あらぁ?」という調子外れの声さえなければ、僕の人生は以後も安泰だったに違いない。
だが、出会ってしまった。と言うより、見付かってしまった。
「新入社員の不破犬君クンね? どこ行くの?」
「うそ。もう新入社員の名前覚えたの? さすが、歩く辞書の香椎ね」
「いぬき? 変わった名前ねぇ。わんちゃんか。おいで~、わんちゃん」
帰りたい。
一体何なんだ、ここは。女性だけで井戸端会議でもしているのか。
「……不破犬君です。青柳さんからPOSの指導を請うよう言われました」
「1時間でPOSの何を教えろって言うのかしら。青柳の無茶振りはいまだに健在なのね。
ま、しょうがない。青柳に免じて仕事しますか。ほら、香椎、黛、馬渕も。さっさと出て行って。昼休憩は終わりよ」
どこの売り場担当なのだろうか? 呼ばれた3人は部屋を出て行くと、右に左にと散って行った。
「そして私は今から事務所で作業、っと。そんなわけで潮! わんちゃんはアンタに任せるわ」
「ちょ……八女先輩!?」
それまでどんなに騒がしくても机に向かってPC作業をしていた潮さんが、慌てて八女さんを振り返る。
「ゲラ刷りからチラシのアイテムを書き出してくる作業と、新人クンへのレクチャー。どっちが良い?」
そう問われた潮さんの顔はどちちも嫌だと語っていた。それでも後者を選んだようで、八女さんの机から椅子を引き出すと、僕に座るよう促す。
「じゃあ、後はよろしくねー」
香椎という人が指摘した八女さんの悩殺ウインクは、確かに魅力的ではあった。


***

「人に教えるのは初めてなので、分かりにくいかも知れませんが」
潮さんはそう前置きすると、椅子を若干左に寄せた。もっと近くに(つまり、右だ)寄れと言うことらしい。
1つの画面を2人で見ながら、勉強会は始まった。
「これはパソコンです」
「……」
「あっ、じゃなくて、値段を変更する為のソフトを搭載したパソコン、です」
これまた、えらい端折りようだ。僕は前途多難を予感した。
「岐阜店には今、このパソコンが3台あります。八女先輩のが親機。子機はこれと、あっちの1台。
この機械で、1階から3階全ての直営フロアの売価を変更する事が出来ます。というか、それが仕事です」
「……まぁ、そうでしょうね」
「例えば、この万歩計。先ほどスポーツ売り場の方から、この商品の登録を頼まれました。
商品の新規登録の場合、トップ画面からまず≪売価変更≫をクリックします。次に≪単品登録≫をクリック。
バーコードをこのハンドスキャナで読み取って、次に商品の名前を入力。ここはレシートに明記される箇所なので気を付けて下さい。
次に群番。スポーツ売り場は223群。品種は24。値段は2,280円」
とにかく無愛想な女性だった。ただひたすら淡々と話し、相手の理解度を無視して自分のペースで先に進む。やりにくい事この上ない。
僕が開始15分でリタイアしたことを知らない潮さんは、尚も説明し続ける。僕は潮さんの横顔を観察することにした。要は、暇だったのだ。
「このM&Mは厄介で、」
潮さんの髪は栗色で、緩やかに波打っていて(毎日コテであてているのだろうか?)、それを片結びにして纏めている。
左手首にはシルバーの時計と、同じくシルバーの、細いブレスレット。
水色の半袖カッターシャツの上には指定の黒ベストを羽織り、胸は……C? いや、これは……。
「……不破さん?」
「Bかな……」
「Bではなく、Eです」
「E? そんな馬鹿な!」
話が噛み合わないと思ったのだろう。潮さんは僕を見て(正確には、僕の視線の先を見て)、怒りに震える。
「不破……っ、さんっ……!」
「あ……」
「あ、じゃない! どこを見ているのかと思えば……!」
「ほんっとーにごめんなさい」
潮さんの鋭利な視線は、暫く僕を突き刺していた。が、1つ大きな溜息を吐くと、再びレクチャーに戻った。
「……つまり、ここはEです! 忘れずに終了日も入力するように」
今から聞けと言われても、何が何だかさっぱり分からない。
残り時間を確かめる為に、自分の腕時計に視線を這わす。後20分。
すると、その視界に潮さんの足が入って来た。足を組んでいるのでスカートから太股が露わになっている。素敵にエロい。素晴らしい眺めだ。
「一律の場合、2つの入力箇所があるので先に日付を打ちます。その次に値段の方を」
「潮さんって、お幾つですか?」
「入れてから、――仕事に関係ない質問はしないで下さい」
24~26ぐらいだろうか。
潮さんは無意識に足を組み換えた。ワザと? ……いや、絶対無意識だ。というか、シチュエーション的にそう信じたい。
「あっ」
「出力方法は……今度は何ですか?」
「いえ、その部分をもっと詳しく……」
と上手く話をはぐらかしたが、僕が見付けたのは潮さんの脹脛部分のストッキングの伝線である。
小さな切れ込みから、徐々に徐々に上へと綻んでゆく。
(ちょ……ヤバイな、これは……。僕の理性的に)
思わず目を逸らし……「伝線してますよ」と伝えるべきか逡巡し……その言葉を飲み込む為に口元を手で覆い……でも顔が赤らむのは抑えられなくて……。
はぁー、と思わず溜息をついていた。
「……何?」
「何でもありません。POSって難しいなと思いまして」
迷わず即答。この場は取り敢えず、エロスを拝ませて頂くことにする。
潮さんには申し訳ないが、こうして60分のレッスンは終わったのだった。


***

POSルームの電話が鳴り、その電話を取った潮さんは、受話器に戻しながら僕に告げた。
「青柳さんが帰ってみえたそうよ。キリがついたら、ドライのバックヤードまで来るように、とのこと」
「1時間、ありがとうございました。でも実は、開始15分以降は全く聞いていなかったので、近い内にまた教えて下さい」
その言葉を聞いた潮さんが、烈火の如く怒り出したのは言うまでもない。
「4分の1しか聞いてないじゃない! あとの45分間、何を聞いてたの!?」
「潮さんを見てました」
「は!?」
怪訝な顔で、気持ち悪そうに僕を見る潮さんである。
「伝線したストッキングがやらしかったから、ずっと魅入ってました」
「でん……?」
潮さんの目は、僕の視線の先を辿る。
「あっ……あぁーーーーーッ???」
左足の脹脛を見る為に「く」の字に曲げた、
「その格好もエロい」
「エロい、じゃないわよ馬鹿ーっ! な、何!? ずっと知ってたの? ちょ……やっ……嘘でしょー!?」
「御馳走様でした」
「サイッテー! 二度と顔見せないで!」
「それは仕事上ムリですよ」
「どっ、どうしよう、私、ストッキングの替えなんて持ってないわ」
「僕が買って来ますよ。何色です? サンドベージュ? ライトベージュ? チョコレートモカ?」
「あああああんたはストッキングフェチか!? おね……お願いだから、余計なことしないで!」
からかい過ぎたかもしれない。既に潮さんは半べそ状態だった。
その時、ガチャリとドアが開いた。入って来た男に見覚えがあった。昼に大演説をかました男である。
「そ……そましょぉおーーーーー!」
潮さんがその場に蹲り、涙声で男の名を呼ぶ。
杣庄。そうだ、そんな名前だった。あ、でも確かこの男って――。
「……透子を泣かせたのはお前か、糞餓鬼1年。あァ?」
黙っていれば、正統派アイドルとして通用するであろう杣庄さんの端整な顔が、迫力を伴ったお陰で般若に早変わりだ。
あぁ、2日目にして早くも面倒臭いことになった……。まぁ、自業自得だが。
「イエローカード1枚だぞ。3枚目にはどうなるか……分かってンな?」
「あなたが潮さんの彼氏?」
その質問に、相手は絶句した。……何だ? 変なことでも聞いたか?
「恋人? ですよね? だから怒ってるんでしょう?」
杣庄さんと潮さんを交互に見ると、2人とも困った顔をしていた。が、
「~~~あぁ、そうだ。だから、透子には手を出すな!」
まるで、『そう答えるのが一番手っ取り早いから』とばかりに杣庄さんは言い切る。
腑に落ちないものを感じたものの、ここは引いた方がいいという直感に従うことにした。
情報はその内、勝手に集まってくるだろう。それに、いま敵を作るのは利口とは言えない。
「分かりました。あと潮さん、すみませんでした。改めてまた、お詫びに来ますので」
「詫びなんざいい。それより二度と来ンな」
杣庄さんのアッカンベーを無視し、僕は憂い顔の潮さんを見納めると、青柳さんが待つバックヤードへと歩を歩めた。
この岐阜店、……色々とおかしいぞ?


改2018.11.07

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Last updated  2018.11.08 21:34:52
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02話 (犬) 【入社式】―ニュウシャシキ―



入社式における式典は社長の挨拶と祝辞に始まり、入社辞令授与、新入社員による答辞と、恙無く進行していた。
とはいえ、そろそろ気だるいムードが訪れる、いわゆる魔の中弛み時間に差し掛かり、場内は確実に緊張感に欠ける空気になりつつあった。
私語がそこかしこで囁かれ、ちょっとこれは雰囲気的にマズいんじゃないか? と思い始めた頃。
舞台上手側の袖幕から、綺麗に背広を着こなしたひとりの男性社員が現れ、中央の演台へと歩を進めて行った。
ひとを惹き付ける能力というものが存在するのであれば、まさにこの男性に備わっていると断言してしまってもいい。
不思議なことに、ざわつき始めていた私語はぴたりと止み、しんと静まり返ってしまったのだから。
そして皆の視線はといえば、壇上に上がったその男性にだけ、向けられている。
(まだ何も喋ってないのに……。どうしてこんなにも惹き付けられるんだ? 何者なんだ、このひとは?)
好奇心を掻き立てられる。だが、それが何故なのか? までは分からない。判断材料がないからだ。
きっと皆も、理由が分からないまま熱視線を注いでいるのだろう。
容姿は……確かにいい。スタイルも……抜群だ。だが、それだけでここまで観衆の心を一瞬で奪えるものなのだろうか……。
或る者は呆け、また或る者は固唾を飲む。そんな中、演台に着いた男性は、その第一声をあげた。
「新入社員の皆さん。本日は入社、誠におめでとうございます。皆さんの入社を、心より歓迎いたします。
社員を代表いたしまして、ユナイソン名古屋港(ナゴヤコウ)店、柾直近が歓迎の挨拶をさせて頂きます」
『名古屋港店?』『それって新しく出来た大型店舗じゃん!』『え、じゃああのひと、超優秀社員ってこと?』『っぽいね』
情報を交換し合う小声でのやり取りが、そこかしこで始まる。それでも視線だけは壇上の柾直近さんに釘付けの状態だ。
原稿などない。アドリブで話し続けている柾さんは、絶妙なタイミングで新入社員たち1人1人の顔を見つめ返している。
粛々とした舞台。言い淀まぬスピーチの中、時折挟み込まれる手の仕草は流れる水のよう。全てが流麗だった。
校長の挨拶然り、社長の挨拶然り。普通『スピーチ』と言えば、退屈極まりない工程ではなかったか? 
少なくとも、自分にとってはそういうものだった。
それなのに、このスピーチだけは。柾さんだけは違った。
内容は重複したりせず、指示代名詞である『こそあど言葉』が一切ない。
だからとても聴き易く、何よりずっと聞いていたい声音なものだから、心地良くて仕方ない。
恐らくはここにいる新入社員たちのほとんどが柾さんを尊敬の対象と見なしたに違いない。そんな僕は、とっくに柾信者である。
柾さんは、しごくナチュラルに自身の腕時計に視線を落とした。
何故時間の確認を? と思ったが、そうだ、スピーチには終わりがある。延々とは続かない代物だ。
僕も膝の上に置いていた左手に視線だけを這わし、腕時計を見た。
(なんてこった! 既に5分を切ってるじゃないか!)
もっと聴いていたいからこそタイムリミットの存在が惜しく思え、また残念でもあった。
残りあと2分。それでも唐突に終わる様子はなく、まとめに入るその過程すら鮮やかなものだった。
終わり10秒前。9、8、7、6、5秒前、4、3、2、1、
「以上です。社員代表、柾直近」
ジャスト10分。柾さんはマイクの電源をオフにする。
数拍の間があり、やがて割れんばかりの惜しみない拍手喝采が、暫く場内を支配し続けていた。
「すげぇな……」
隣りの椅子に座っていた同期が感嘆を呟き、いまだに賛辞を浴び続けている目映い照明下の柾さんを食い入るように見つめていた。
確か、平塚といったか。
僕の視線を感じ取ったのか、平塚がこちらを向く。色素の薄いブラウンの瞳が珍しく、思わず魅入ってしまう。
「えっと、おたくは? 不破くんね。不破くんはどこの店に配属されたんだ?」
僕のネームプレートを見て苗字を確認し、一切の人見知りをしない平塚は右手を差し出し、握手を求めてきた。
まさか声を掛けられるとは思わなかった。社会人としての第一歩。僕も握り返す。
「不破でいい。岐阜店だ」
「お! 近いじゃん。俺、名古屋店なんだ。売り場は?」
「ドライ」
「一緒じゃねーか! へへっ、これからよろしくな! 不破」
社会人にあるまじき、単語のみの返答だったにも関わらず、平塚は気にしていないようだった。
必要以上に話さなかったのは早くこの場を退散して岐路につきたかったからなのだが、平塚はお構いなしに話しかけてくる。
「あの柾さんって人、凄かったよなぁ。いつかあのひとの下で働いてみたいな!」
それは僕も同感だった。
「そうだな」
賛同の意を伝えたところで司会者から解散の号令が出た。どうやら式はここで終わりのようで、各々自由行動となった。
帰る者もいれば、早速同期の仲を深めようとしている者もいる。
平塚は既にフレンドリーなスキルを発揮し、他の同期に声を掛け、談笑していた。
出口に向かおうと歩を進めたところで、タイムリーなことに柾さんを発見した。
ここまで背広が似合い、仕事も完璧にこなすビジネスマンがユナイソンにいたなんて。
気付けば「あの!」と柾さんを呼び止めていた。
「なんだい?」
心臓が高鳴る。一瞬で雰囲気に呑み込まれてしまった。圧倒的な存在を前に、僕は絞り出すように言うのがやっとだった。
「えっと……、その……柾さんのような社員に、僕もなりたいです……!」
彼は僅かに目を見開いた。そして、ふっと笑う。
「やめといた方がいい。ろくな社員にならないから。……だが光栄だ。頑張れよ」
「はい!」
最後に僕の肩を1回叩いてから、柾さんは会場から姿を消した。
「くぁ~、かっけ~! なんだよあの大人の雰囲気! 切り返し方! 絵になるなぁ」
いつの間に背後に来ていたのか、柾さんの後ろ姿を見送りながら息巻く平塚である。
(柾……直近さん……)
尊敬出来る上司が同じ会社に居ると知った。
何があっても頑張れそうな気がして、僕は力強く拳を握った。
ぶるりと身体が震える。それでも口角が自然と上がったのは、未来に対しての武者震いに違いなかった。



改2018.11.07

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Last updated  2018.11.08 21:31:18
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01話 (―) 【分岐点】―ブンキテン― 



――こんなの卑怯だよね。でも君にしか頼めないんだ。オレがいなくなった後、透子ちゃんをお願いできるかな?
――あなたが卑怯者じゃないってことは誰だって知ってるさ。それに、安心しなよ。透子は俺が守る。
――本当にごめん。君の本命を知ってるくせに、こんな無茶なお願いをしてしまって……。
――いいんだ。向こうは俺のこと、子供扱いしっ放しだからな。全然恋愛対象として見ちゃいねぇしさ。
――そうかな? ……やっぱり駄目だ、こんなこと。やめよう……。
――怖気付いちゃダメですって。俺だってひとのことは言えない。振られるのが怖くて、告白しなくて済む口実が欲しいんだ。
――君なら大丈夫だと思うけどな……。情けないよ。自分がこんなに弱かったなんて……。
――失うことへの恐怖です。でもどう考えてもこれは、俺たちにとって最良の保険なんです。だから――いきましょう、この方法で。
――つらい役目を担わせてしまって……本当にごめんよ?
――何言ってンすか。本当につらい思いをしているのはあなたでしょう? ……××さん。


2018.11.08


←0話┃ ● ┃2話→






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≪ Gentleman2 ≫


何てことだろう!
私の恋は、上手く行かないように出来ている?


●オリキャラと作者さんに50の質問● 
【潮 透子】編 ┃ 【不破 犬君】編 
【八女 芙蓉】編 ┃ 【杣庄 進】編 ┃ 【伊神 十御】編

(潮)潮視点 (犬)犬君視点 (芙)芙蓉視点 (伊)伊神視点 
(杣)杣庄視点 (―)複数視点or三人称 (合)G1・G2共通






01話 (―) 【分岐点】―ブンキテン― 今ならばまだ、他の選択肢も選べるけれども。

02話 (犬) 【入社式】―ニュウシャシキ― 社会人としての船出に出会ったのは。

03話 (犬) 【一年目】―イチネンメ― 早くも怪しい雲行き。










Last updated  2018.11.08 21:23:36
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2018.10.06

←28話┃ ● ┃30話→


29話 (―) 【告げる声】―ツゲルコエ― 



■歴

4日前。
労働基準法の遵守に力を入れ始めたユナイソンは、休日出勤や時間外労働に鋭く目を光らせるようになった。
『休みを取れ』という至極もっともなオーダーだ。でも。では。なにゆえ勤務時間を飛び越えて仕事をしていたのか?
時間内に終わらないからこその『残業』だ。その分のつけは、日々の業務の方へとギチギチに組み込まれてしまった。
柾さんなどは、まさにその筆頭。
「見方を変えれば、ON/OFFがはっきりしてありがたいことかもしれないな」と言っていたけれど、私は聞いてしまった。
「膨大な仕事量で疲れている」と。そんな弱音が彼の口から飛び出たこと自体が衝撃的だった。
いつだって弱音も吐かず、愚痴のひとつも零さない柾さんだから。
ふと垣間見えた弱気な部分に触れ、乙女心を揺さぶられていた。そんな私の胸の内など知るよしもない柾さん、
「さすがにこれ以上はもう無理だ。午後から半日年休を取得する」
――そう宣言した通り、その日はお昼の12時に仕事を切り上げている。
あの時は疲労困憊のていで元気がないみたいだったけれど、それでも私に対しては優しかったように思う。

3日前。
忙しい日ではなかったので、自身への誕生日プレゼントとして休みを取得した。
敢えて用事も作らず、流れに身を任せ、気の赴くままにのんびり過ごせれば幸せだなと思って。
それがまさか朝の早い時間帯に、何の前触れもなく現れた兄と一緒に過ごす展開になるとは思わなかったけれども……。
この機会を逃がすまいとばかりに、心配性な兄は「親しくしている男性はいるのか?」と探りを入れてきた。
知りたいのは交際相手の有無に違いない。いないと答えると、明らかにホッとした様子でしきりに頷いていた。
「うんうん、歴はまだまだ子供だからな。お前を好きになる男が現れるのも数年先の話か」
そうのたまっておきながら、「しかし……」と兄は続ける。念には念を入れるつもりのようだ。
「本当か? ほんと~にいないんだな?」
「本当よ。でも、とてもお世話になっている男性なら」
「いるのか? 職場に? 世話になっている男性が!?」
食い気味に質問を被せてきたので、私としては、つい苦笑いを浮かべてしまう。本当にもう。心配症なんだから。
「仕事でミスをしてしまった時に、フォローして下さるの。いつもからかってくるけど、性根は優しいひとよ」
一転、兄は『面白くない』表情になった。
「そいつはお前に気があるのか?」
「まさか。善意に決まってるじゃない。出来の悪い部下を、根気良く指導してくださってるだけよ」
「善意……。善意ねぇ……」
納得がいく答えではなかったのか不服そうな目で私を見るも、それ以上暴き立てる真似はせず、詮索はそこで終わった。
あくまでも『私の誕生日』で『お祝いを』という日。兄なりに、その一線を越えないよう、大切にしてくれたのだろう。
母が贈ってくれたケーキを分け合いながら、ゆっくりとスパークリングワインを空けては飲み。
夜は、兄が手配してくれたお店で舌鼓を打った。高層ビルから見える夜景が綺麗で、晴れてくれたことを心から天に感謝した。

2日前。
朝礼の場で柾さんを見掛けた。
『業務上の関係で、本部からひとが来る頻度が増える』、という店長のことばを聞きながら、私の目は柾さんを探している。
ようやく見付けたものの、距離が離れていたためか、目が合うことはなかった。
以降、柾さんは部下を通じて仕事を依頼してくるようになった。
いつも柾さん自身が訪れていたこの部屋には、「仕事を依頼するよう頼まれた」部下が訪ねてくる。
日課となりつつあったPOSルームへの訪問がぷつりと途絶えたことを残念に思っている自分がいた。
よそよそしさと寂しさを感じてしまって、妙に落ち着かない。
私は何を期待していたのだろう? 柾さんは多忙な人で、これが本来の姿なのだ。
(避けられているなんて考えすぎよ。少なくとも、向こうには毎日私と会う必要も、理由だってないのだから)

昨日。
たまたま社員食堂で昼食をすることになった。トレーを運ぶ途中、柾さんとすれ違った。
「こんにちは、柾さん」
勇気を振り絞った割に、待ち望んでいた返答はなかった。
代わりに、小さな笑みだけくれた。

そして今日。
「この通信障害、いつごろ直りますか?」
被害が大きかったため、途方に暮れてしまった私の質問に、エラーを発したパソコンを弄りながらメンテナンスの社員は首を振った。
「なんと言ってもサーバー側のエラーだからね。いつかは分からないなぁ。
言い方は酷だけど、千早さんの出番はないよ。俺が契約会社と連絡を取って復旧を目指すから、それまでは他の仕事でもしてて」
ネット回線が使えなくなってしまったのは痛い。明らかに業務に支障を来たすため、まずは各売り場に電話をし、その旨を伝える。
手配を終えると、後藤田店長に事情を説明した。「それは仕方ないな」と理解は得られたものの、じゃあこれをしなさいという指示もない。
このまま何もしないわけにもいかないので、仕事を見付けようと思った。ところがである。業務課、売り場、ともに追い返されてしまった。
「人手は欲しいが、慣れた自分がやった方が効率が良い」と論破されてしまっては、おとなしく引き下がるしかない。
諦めきれず、藁にもすがる思いで出勤ボードを見てみる。誰かいないだろうかと名前を追っていくと、麻生さんのプレートが目に入った。
居ても立ってもいられず家電売り場に向かった。働かせてくださいと懇願してみたものの、麻生さんの答えは「ノー」だった。
「……どうしてもですか?」
「あぁ、駄目だ」
取り付く島もない物言いに、尋ね方もぎこちなくなってしまった。
「あの……どうしてでしょうか?」
顔色を伺うように尋ねると、麻生さんは書類を閲覧しながら言う。
「もうじき無限電機の羽生が商談に来るからだ」
無限電機の羽生さん? 首を傾げると、「もう忘れたのか?」と麻生さんの呆れ声。
「おたくに抱き付いた不届き者だ。自分を襲おうとしていた人間を、簡単に赦してんじゃねぇ」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないが、ただ、あれからまだ日は浅いしな。だから今日は駄目だ」
「……はい」
一通り書類を読み終えた麻生さんは高さ1メートルの小さな作業台にそれを置くと、そのまま頬杖をついて私を見やった。
「ちぃは真面目だなぁ。理由が理由なんだし、半休取っても良いんだぞ? こういう時ぐらいしか取れないだろ」
「確かにいまは仕事がない状態ですけど、いざ復旧したときに私がいないと、仕事が回らないと思うので……」
「えらいえらい、ちぃはいい子だ。……あぁ。そう言えば、俺のメールはちゃんと届いたか?」
さきほどより幾分軽い口調で、麻生さんは自分のスマホを振りながら言った。
思い当たるのは1つ。誕生日を迎えた私への、バースデーメッセージの件に違いない。
「メッセージ! はい、ありがとうございました。とても嬉しかったです」
「はっはっは。そうだろそうだろ。なんせ俺が人の誕生日を覚えるなんて滅多にないからな!」
得意げに話す麻生さんに、私は疑問を投げかけた。
「ご謙遜を。だって麻生さん、柾さんの誕生日にはメッセージカードと花束を贈られましたよね?」
「何か言ったか?」
満面の笑みで返され、速攻で「いいえ!」と返す。どうやら麻生さんにとっては不名誉な賛辞だったらしい。
「あの日は特別だったんだよ。俺が来たことをあいつに教えてやりたかったからな。
もう二度と野郎相手にカードと花束なんて贈らねぇぞ。つか、そもそもあいつの誕生日はインパクトがあり過ぎて忘れようがない」
「そうですね」
「柾といえば、やつの部署には声を掛けなかったのか? それこそ諸手を挙げて『千早さんなら大歓迎』って言いそうなもんだが」
「えーと……」
実はここ数日、柾さんに避けられている気がするんですと言ったら、麻生さんはどんな顔をするだろう?
「まだ……です」
もごもごと言葉少なく伝える私をよそに、麻生さんはスマホを操作し始めた。
どこに電話を……まさか……。
「おぅ、俺だ。なぁ、千早さんいらねぇか?」
やっぱり! 柾さん宛てだ! スマホを奪おうと、慌てて手を伸ばしたけれど、背の高さで敵うはずもなく。
やり取りが終わるまでチャレンジし続けた無駄な抵抗――小さなジャンプを繰り返す――は徒労に終わった。
麻生さんはスマホを背広の内ポケットにしまうなり、ニヤリと笑う。
「行き先が決まったぞ。柾んとこだ。即答で『欲しい、くれ』だってさ」
そんな、まさか。あり得ない。だって柾さんは数日前から私を避けていたはずだもの……。
(そう思うのなら確かめてみたら? きちんと、自分の目で)
虎穴に入らずんば、ということなのか。
そんな経緯から、私は柾さんが統括するコスメ売り場へ向かうことになった。


***

コスメ売り場に足を踏み入れた瞬間、美意識に長けた、全身煌びやかなオーラを放つ女子社員方から視線の集中砲火を受けた。
「千早さん、歓迎するわ」
代表して皆川さんが声を掛けてくれたものの、接客業ではあり得ない無愛想。歓迎されていないことが滲み出ていた。
「時に千早さん? 麻生さんとお食事をなさったようですけど、お付き合いをしているの?」
「皆川、やめないか」と、柾さんのたしなめる声。どうやら皆川さんの不機嫌は、そこに起因しているらしかった。
「麻生さんと私が? とんでもないです」
その言葉に、氷点下だった空気が少しだけぬるくなった気がした。
柾さんがこっそり「すまない。うちの部署の女性たちは、麻生贔屓なんだ」と耳打ちをして教えてくれる。
ここでは麻生さんネタは禁句のようだ。迂闊なことは言えない。
「三原、早速彼女に仕事の説明を。以上だ」
柾さんの鶴の一声で解散となった。各々持ち場へと戻り、柾さんも、私に「頑張れよ」と労ってから自分の仕事を再開した。
私はその場に残ってくださった三原さんに軽くお辞儀をする。
「お忙しいところ申し訳ありません。宜しくお願いします。精一杯頑張ります」
「そういう堅苦しいのは抜きでいいわ。あなたがしっかりしてることは分かったから」
三原さんは腕時計に視線を落とし、私の挨拶を遮った。
いつだったか柾さんが三原さんを高く評価していると聞いたことがある。彼女も有能な社員に違いない。
その三原さんが、じっと私を見ていた。
ひょっとして三原さんも皆川さんと同じように麻生さんを狙っている口で、釘を刺す言葉でも考えあぐねているのだろうか。
「千早さん」
「は、はい」
「私とどこかで会ったことあるかしら?」
何を問い質されるのだろうかと身構えていたのに、予想もしていなかった斜め上の質問だった。
「三原さんとは職場が同じですから……幾度となくすれ違ったと思います」
「違うわよ! 私が言ってるのは、職場じゃなくて外! 外と言うか……以前と言うか……?」
どうやら記憶が曖昧な状態らしく、デジャヴュめいた物言いだった。
「こういうのってイライラするわね!」
三原さんは自身に対して怒っているのだろうか。それとも私が怒られている場面なのだろうか。
「えぇ、会った。あなたと会った。そう決めた! さぁ、どこで!?」
「えっ……」
『そう決めた』ってなんの冗談? 『どこ』ってどういう意味? 
私は答えを持ち合わせていないし、そもそも私はどこかで三原さんと会っただろうか? 少なくとも私は気付かなかった。
それにしては三原さんからは私への苦手意識がうかがえ、『出来れば会いたくなかった』というオーラを発しているような気がする。
何かしでかしたとしか思えない。そうでないと、この状況は説明が付かない。でも記憶を手繰ったところでやはり見当もつかないため、
「すみません、よく分かりません」
素直にそう告げると、三原さんは肩透かしを食らったかのように押し黙り、苦虫を噛み潰したような百面相をしてみせた。
「……良いわ。いまのは忘れて」
二進も三進もいかない現状を憂いた体の三原さんは、そこで私語を打ち切ったのだった。


***

私に与えられた仕事は、新作に追いやられた旧作の商品値段を見切る、というものだった。
3割引シールを専用の機械で何十枚と発行し、商品名が書かれている部分をうまく避けながら貼り付けて行く。
こういう作業は苦にならない。作業台を一台借りて流れ作業を楽しんだ。
「……来たわよ」
なんの前触れもなく、突然女性たちの会話が始まった。彼女たちは一つに固まり、ある一点に視線を注いでいた。
「いい加減にしなさいよ、あなたたち」
たしなめるというよりは、部下たちの野次馬根性に三原さんは呆れている様子だ。
「だってー、全然懲りてないんですもん」
「そうですよ。ずっと柾さんにべったり。お菓子の差し入れに、自社の新作コスメをふんだんに盛った、気合いバリバリのメイク」
「柾さんが出勤の時にしか来ないし、陳列だって柾さんが居る時しかしないし。それに露骨なボディタッチがすっごく目障り」
彼女たちの視線の先には一人の女性が立っていた。
黒いスーツを細い身体に纏い、ダークブラウンの髪をゆるやかにカールさせ、腕には銀色の腕時計。
お洒落な出で立ちで、小さな顔は雑誌から抜け出したモデルのように可愛らしかった。
「柾さ~ん!」と明るい声で名前を呼びながら、女性は柾さんに近付いていく。柾さんは皆川さんと店頭POPの確認をしている所だった。
近日公開されるハリウッド映画。主演女優が使った口紅が大々的に市場に出回るとのことで、タイアップ準備に勤しんでいるらしい。
「瀬戸さん。そうか、もうそんな時間か」
柾さんは腕時計で時間を確認した。
「柾さんに会いたくて、少し早めに来ちゃいましたぁ」
「早過ぎても遅過ぎても困ります。時間は厳守して頂かないと」
柾さんの代わりを務めたつもりか、はたまた嫌味という形で牽制しておきたかっただけなのか、皆川さんがジロリと女性を睨む。
女性は柾さんからは見えない位置に立つと、皆川さんを睨んだ。柾さんがいなければ、一触即発だったに違いない。
「すみませぇん! でも、前回の商談が7割しか進んでなかったんですよね~。残りの3割の打ち合わせをしないといけなくて」
「前回は済まなかった。瀬戸さん、丁度今からキミの会社の口紅を並べるところでね」
「陳列お手伝いしますっ!」
皆川さんを押し退けるように、女性は前に進み出た。柾さんは女たちの無言の争いに気付いていないのか、助かるよと笑う。
「今度の映画、絶対成功すると思うんですよ。女優はアミカ・リムーノを起用しているし、ルージュだって我が社一押しですから!」
「あの映画は気になるな。監督も8年振りにメガホンを取るとあって、力を入れてるみたいだし」
「映画に行く時は誘って下さいね。そういえば、この前名刺をお渡ししましたけど、持っててくれてますかぁ?」
「あぁ、持ってるよ」
「嬉しい~」
端から見れば、既に二人の世界だ。
お邪魔虫は引っ込んでるわよ! とばかりに、女性社員たちは面白くなさそうにそっぽを向いた。


***

シール貼りの作業をこなしていると、メンテナンスの社員がわざわざ売り場まで来てくれた。
『千早さん、通信障害が直ったぞ』という、ありがたい連絡だった。お陰で私は1時間そこそこで復帰することができた。
溜まった書類を片付けていると、突然荒々しくドアが開き、強張った顔をした柾さんが入って来た。
入室早々「千早さん、匿ってくれ」とは穏やかではない。
職場で何か起きるたびに避難場所扱いされているのがこのPOSルームだった。現に今、この部屋には私と柾さんしかいない。
ひとけがないため、込み入った話もできると踏んだ私は、「どうしたんですか?」と尋ねる。
一瞬の間が空いたのは、言うかどうかを躊躇ったからに違いない。
それでも柾さんは、部屋を借りるからには事情を説明しなければと思い直したのだろう、ぽつりぽつりと話してくれた。
要は、“瀬戸”なにがしさんが問題を起こしたようで、無事に商談も終わった頃、ひとがいない隙を狙って柾さんにキスを迫ったのだという。
柾さんはそれを拒み、逆上した彼女は「意気地なし!」「ふざけないで!」などと騒ぎ始めたそうだ。
女性の剣幕に驚いた客や従業員が『なにごとだろうか』と訝り、声の発生源である2人の元に集まりかけたので、
「何でもない。業務上の、ちょっとした意見の相違だ」
などと平静を装って誤魔化しているうちに瀬戸さんはどこかへ行ってしまったという。
「鞄もなくなってたような気がしたな……。きっと会社に戻ったんだろう。
とてもじゃないが、僕もその場に留まっていられなくてね……。売価変更を理由に、そそくさと退却して来た」
――というのが、いま私の目の前にいる柾さんの弁だった。
「そ……それは災難でしたね」
呆気にとられながら柾さんを見る。一時期流行した、愛憎にまみれた昼ドラのような凄惨たる出来事に、驚きを禁じえない。
聞けば、言葉での攻撃はあったものの、頬をぶたれたとか、そういう外的被害はなかったらしい。それだけが不幸中の幸いだった。
「彼女の唇が近付いてきたときは本気で焦ったな……」
そう言えば、拒んだと言っていたっけ……。好奇心がむくむくともたげてしまい、気付いたときには尋ねていた。
「どうやって拒否の意思を示したんですか?」
「手だよ。手で塞いだんだ」
「……そうですか。手で……」
瀬戸さんの肩をもつわけではないけれど、その拒まれ方はショックだったろうなと思わないでもない。
「どうして避けるんですかって聞くから、その気はないと言った。
瀬戸さんのアドレスは『御社の代表』という意味で登録させて貰っていると、そう言った。愚かだの、意気地なしだのと叫ばれたが」
柾さんは、目を細めて微かに笑った。その顔には、やれやれといった疲れも滲んでいるように思えてならない。
「怒ってらっしゃいますか?」
「怒るって? 彼女に?」
「彼女の……その……心ない発言に対して」
「怒ってないよ。僕は何とも思ってない。……だが、結果的に彼女に恥をかかせてしまった。さぞかし居心地が悪い思いをしていることだろう。
これからどうするのかな、瀬戸君は……。恐らくは適当な理由をでっちあげて、担当を替わって貰ったりするんだろうが……」
「ご自分のことより、相手の心配をなさるんですね」
「……以前の僕なら、馬鹿のひとつ覚えで『据え膳ラッキー』と喜んだかもしれないな。だが、いまはキミが居るから」
柾さんの静かな声が、同じ空間を共有している自分の耳朶にだけ届けられる。
思わず柾さんの目を覗いてしまい、すぐにしまったと後悔した。巧妙に張り巡らされた糸めがけ、率先して絡まりに行ったも同然だ。
「私が……?」
身勝手な勘違いかもしれない。自惚れが過ぎる。
(きっとまたいつもの、柾さんの悪戯だわ。深い意味なんてない。本心なんかじゃない)
それなのに、本気に受け取ってしまいたくなる愚かな私。嬉しくて、喜んでしまった。
つらい。糠喜びは、もうごめんだ。一喜一憂の波が押し寄せ、その落差で疲弊してしまう。
「どうして……そんなことを仰るんですか? からかわないで下さい」
「からかう?」
どういう意味だとばかりに柾さんの眉根が寄った。言うなら今だ。今しかない。
「どうせ……どうせ、手持ち無沙汰の余興なんでしょう? お願いです、もう私で遊ばないでください……」
言った。とうとう言ってしまった。
それを聞いた柾さんは、驚きに目を瞠った。居心地が悪くなるほどの間をたっぷり取り、ただただこちらを見つめ返している。
「本気でそんなことを言っているのか、キミは」
柾さんは心外だとばかりに、唸るように低く言った。まるで、聞き捨てならない言葉を耳にし、それを咎めるかのような声で。
微妙な空気を察知した私に去来したのは、戸惑いだった。
「……確かに出会った当初はキミとの駆け引きを楽しんでいたが、今は違う」
「違うんですか?」
「……分からないのか? 鈍感も、ここまでくると罪だな……」
駆け引きなんて、私には出来ない。そんな高度な技を駆使できるような大人の女性ではない。
私は男性の愛し方を知らないし、愛され方も知らない。柾さんにとっては面白みのない、子供のようなものだろう。
「僕は大分前から駆け引きなんかしていなかったぞ」
小さく掠れた声で、柾さんは言った。
訊ね返すのが恐かった。その意味を解釈することが恐かった。平衡が崩れたとき、私は自我を保てる?
柾さんは不思議そうに私を見る。「……千早さん? なぜ泣いてる……?」
泣いてる?
まさかと思いつつ手で目元に触れると、生温かいものが頬まで伝っていた。見られたくなくて、私は上半身を背けた。
やだ、どうして涙なんか。柾さんに指摘されるまで、一切気付かなかった。
「ご、ごめんなさい。自分でもよく分からないんです。
でも、ホッとしました。ここ数日、なんとなくですけど、避けられてるような気がしてたから……」
そうじゃないのかもと、一縷の望みを抱く。涙が零れたのは、張り詰めていた気が緩んだせいかもしれない。
(私……そんなに凹むほど、柾さんに入れ込んでいたの? 彼を想っていたの……?)
想いの深さを問われると答えられない。
「いや……。避けていたのには、……理由があったんだ」
その言葉に、がつんと頭を殴られた気がした。避けられていたのは、気の所為じゃなかったのだ。
「私……本当に避けられていたんですね」
ショックだった。足が震える。心なしか、声も。
本人から告げられることがこんなにも怖いことだなんて、思いもよらなかった。
柾さんは「理由があった」と言った。どんな理由にせよ、私を遠ざけたかった。距離を取りたかったのだ。その事実は不変だ。
「キミを傷付けていたなら謝る。すまなかった。僕は……」
柾さんの手が、私の肩に触れた。
その瞬間、電撃めいたものが体内を駆け巡った気がして、
「! ゃっ……」
反射的に身体をよじり、距離を取っていた。
真顔どころか蒼白な顔で柾さんを見てしまったことを、私は後悔することになる。
拒否を態度で示したと思われても仕方ない。現に、柾さんは困惑顔だった。
(取り繕える? 今から? 今さら? 無理だわ、そんなの。だって、柾さんが傷付いた顔をしているんだもの)
「あの、その……私……っ。違うんです、今のは……」
弁解。弁解したい。させて欲しい。とにかく謝らなければ。
「悪かった。……やはりキミの傍にいない方がいいみたいだ。キミに宛てた不快な言葉や行為を忘れてくれると助かる」
実際に謝ったのは柾さんの方だった。突然の撤回宣言に、頭が真っ白になる。思考がまとまらない。
(忘れる? 忘れたくないのに? 貴方とのことを、忘れなければならないの?)
(当たり前だ。だって、私は拒んでしまった。柾さんが撤回したくなるのも当然だ)
言わなければ。何か言わなければ。
「柾さん、あの……聞いてください」
ピリリリと鳴り出したのは私のスマホだった。
着信を無視して柾さんと話し合おうと思った。その誠意を酌んでくれたのか、柾さんは「いいから、出て」と言ってくれる。
電話が終わるまで、待ってくれるつもりのようで、私としてはそのチャンスに縋るしか道がない。
画面を見る時間も惜しかった私は、耳に当ててから、着信相手が兄だったことを知った。開口一番、兄は本題を切り出した。
「やぁ、歴。たまたま今、ユナイソン名古屋店の近くにいてね。どうだろう、今晩一緒に夕食を食べないか? 
人気店だから席だけでも確保しておきたいんだ。OKなら早速予約を入れるつもりだ」
「……ごめんなさい。今夜はちょっと……」
予定があるわけではない。兄には申し訳ないけれど、出掛けたところで楽しめないだろうなと思い、断った。
柾さんのことをアレコレ考え過ぎて、知恵熱が出そうだったし。
「なんだ、先約があったのか。分かった、今度にしよう。美味しい店だからな、期待していいぞ。疲れも吹っ飛ぶ」
兄が優しい口調で言うものだから、自分勝手な事情で無碍に断ってしまったことが忍びない。
仕事で疲れた私を労ってくれているのだ。その優しさには報いたい。
「待って。やっぱり行くわ。ありがとう、誘ってくれて」
「決まりだな。何時に上がる? 店の駐車場で待ってる」
「18時に終わるわ。でも私……」
「ディナー代なら心配いらない。気にするな」
私のことなどお見通しだとばかりに、兄は先回りして言う。
仕事しかない日はお金を持ち歩かないことを、兄はとっくに見越していたのだ。
結局何だかんだ言って、兄が全額払ってくれている。私だって社会人なのだし、毎回抱っこにおんぶでは申し訳ない。
「そんな。困るわ。この前だって……」
言い掛けて、気付く。こんな会話、今したって仕方がない。柾さんを待たせてしまっている。
「つ……続きは後にしよう?」
「そうだな。待ち合わせの場所だが、北側の駐車場は分かるか? H1の区間で待ってる」
「北側駐車場のH1ね。分かったわ。じゃあ、また後で」
「あぁ」 
通話を終えた私は、待機させてしまったことを謝ろうとして柾さんを見、思わずぎくりとした。
柾さんは口を真一文字にし、強張った顔で私を見ていた。何ですか? と尋ねてよい雰囲気ではない気がする。
通話が終わるまで待っててくれていたにも関わらず、何も言わずスッと。横切る音だけが耳を掠めた。靴音を鳴らして素通る。
どうして……。どうして……? 怒らせた? 怒ってた? 怒ってた。彼から伝わってきた気配は怒りだった気がする。
(……うそ……嫌われた……?)
貴方の優しさが好きだった。笑顔が好きだった。声、仕草、一挙一動。
触れられるたびに、胸を締め付けるほどの痛みをくれた人。
でももう二度と、貴方の手が私に触れることなどないのですか?
柾さん……。
滲んだ涙で、貴方が見えない。見える景色がもはや何なのか、見当もつかない。


■凪

愛用の腕時計に目を落とすと、時針は18時を、分針は10分を指していた。
携帯電話は聞き逃すはずのない音量にしていたはずで、だとしたら未だに歴から連絡がこないのは妙な話だった。
こちらから電話を入れてみようと思いスマホを握ると、ちょうど着信ランプが点滅した。歴からだ。
「歴! 買い物でもしてるのか? 荷物があるなら運ぶが」
「……何も買ってないわ」
「どうした? 何かあったのか?」
「ううん。いま着替え終わって、そっちに向かうところよ。……お腹空いちゃった。兄さん、どこに連れて行ってくれるの?」
どこか様子がおかしい。受話器から聞こえてくる声が、とても弱々しいのだ。それでいて、無理に明るく努めようとしている。
「ひょっとして泣いているのか?」
「なに言ってるの? そんなわけないじゃない」
ユナイソンにいる限り、歴に正体がバレるのも時間の問題で。
俺は、何らかの拍子に妹を事件に巻き込んでしまうことを危ぶんでいた。
任務を遂行する上で、多少の嫌われ役は仕方のないことだと覚悟を決めたつもりでもいた。
それでも。
いざこうして弱っている姿を見れば、どうしたって心が揺らいでしまう。
何よりも、誰よりも大切な妹。彼女は俺の弱み。出来ればずっと、何も知らず、知らされず、蚊帳の外で笑っていて欲しかった。
歴がユナイソンなんかに入社しなければ。何度……そう、何度そう思っただろう? だが何の因果かユナイソンに入社してしまった。
ユナイソンに籍を置きながら、俺が動いていることを妹は知らない。俺の仕事内容、立場、身分、一切合財。
現在鋭意建設中の大型店オープンにかこつけて同時進行している、水面下で蠢めき始めた『黒い計画』の存在も。
やがてそれらがどんな形となって展開していくことになるのかも、彼女は知らない。
(それでいい。歴は何も知らなくていい。寧ろ知らない方がいいんだ。しっかりしろ、凪)
自分に言い聞かせながら、腹の底から声を出す。
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。ごめんね、すぐそっちに行くから。じゃあ」
通信が途絶えた後も、今ならまだ引き返せるんじゃないかと揺らいでいる自分がいた。
……いや、この計画、直接的には歴とは無関係。当初の予定通り、このまま押し進める。


■歴

兄は、私が落ち込んでいたことに勘付いていた。この様子では、根掘り葉掘り訊いてくるに違いない。
本当のことを伝えれば兄のことだ、私を案じる余り、何らかのアクションを起こすことは目に見えている。
兄に児童の保護者のような立ち振る舞いをさせるわけにはいかない。
私だってそこまで馬鹿ではない。むざむざ柾さんのことを――男性の存在を――仄めかすような発言はしない。
仕事上のミスで叱られた。そういう路線で、うまく凌げるはずだ。
深呼吸をして再び歩きだす。指定された駐車場に着くと、車が1台だけ止まっていた。兄の車だった。
H1という区間は、ユナイソンから遠く不便な位置にあり、誰も止めたがらない。
私が近付くと、兄が車から降りてきた。
「お帰り、歴。元気がないようだが……?」
やり取りは、いきなり質問から始まる。
「心配かけてごめんなさい。仕事でミスをしてしまって、上司に注意されてたの」
「それでしょぼくれていたのか。……まぁ、ミスに関してはお前が悪いのだから、しっかり反省するんだぞ」
「……はい」
「だが、お疲れ。早速お店に行こうか」
私を気遣ってくれているのか、その声はどこまでも優しかった。


■柾

電話の相手が男だと気付くのに、時間は掛からなかった。
会話の内容までは分からない。けれども、漏れてくる声のトーンはどう見積もっても若い男のそれだった。
(恋人がいたのか……?)
千早に男の存在がいることを、何故想定していなかったのだろう?
恋愛に奥手だからと勝手に決め付けていたのは、確かに僕だ。のほほんとお気楽に構えていた自分に腹が立って仕方がない。
何より堪えたのは、その男に対し、僕とは比べようがないほど砕けた口調で話していたことだった。
よほど親身かつ気心が知れた相手なのだろう。千早の言葉から推察するに、デートの誘いだったに違いない。
一度は断ったものの、相手が繰り出した魔法のワンフレーズで、見事に態度を改めている。
(僕の手は拒んだのに、恋人からの誘いは受けるのか?)
何をどう考えたところで、結局そこに行き着いてしまうのだ。女々しい自分がほとほと嫌になる。
恋人がいるかもしれない相手に、告白めいた物言いをし、挙句の果てに触れようとした。
さぞかし困惑したに違いない。或いは迷惑だったかも。
あの時僕は――言おうとしたのだ。彼女を数日間避けていた理由を。
『隣りにいれば報告される。近付けば告げ口される。千早さんと居たい。だから、僕は千早さんから距離を取る』と。
――結局、言えなかった。
(これではまるで、心ごと離れて行きそうだ)
腕時計に目を落とす。18時。千早は……待ち合わせ場所に向かっている頃だ。
思ってから、苦笑する。
なんだ柾。そんな事を逐一覚えたりしているのか? そんな予定、スケジュールには載っていないだろう?
……そうだ、載ってなんかいないさ。ただインプットされている。この頭の中に。
馬鹿か。そんな情報、もう要らないだろう。
「柾、そっちのオレンジのファイルを取ってくれ」
「あぁ……」
「これじゃない、そっちだ。……それも違うって。ピンクじゃなくてオレンジだ」
「あぁ」
「取ってくれよ頼むから……。柾? おい、お前起きてるか?」
「あぁ」
「……何かあるのか?」
「あぁ」
「ふざけてんのか? 上の空すぎだろ。柾」
「あぁ」
「……柾!」
「……何だ? って、麻生?」
「このファイルじゃねーよ! オレンジの! 新品のファイルだっつってんだろ!」
ファイルでひとの頭を小突くと、入社以来の悪友は悪態をついた。
「お前! 俺がここにいたこと自体、いま気付きやがったのか?」
「あぁ」
「……よりによってまた『あぁ』かよ、くそっ。……心ここに在らずだな。帰れ。お前なんかいなくても会社はやっていける」
「は? ひどい言い草だな」
社に貢献していると自負していただけに、麻生のことばは辛辣に思えた。とはいえ、図星なので反論もできやしない。
「言い換えれば、お前がいなければやっていけないヤツもいるってことだ」
麻生が本当に言いたかったことは後者なのだと気付き、我に返る。
「帰れ。問題が解決するまで会社なんかに居んな、馬鹿たれ」
「……麻生」
「なんだ」
「愛してる」
「おま……とうとう壊れやがったな!」
「壊れたついでに告白してやる。愛してる。それはもうどうしようもなく深いほどな。例えるなら世界一深い湖が」
「早く行けー、阿呆」
「……感謝する」
もうお前とは話したくないとばかりに、麻生は手だけをひらひら振って僕を追い払う。
麻生。もしかしてお前が僕にとっての神なのか? まさか現状の打破を、お前がしてくれるなんてな。
お陰で道が決まった。
千早の性格だ、約束をしたからには出掛ける準備をしているに違いない。だから僕は彼女を迎えに行く。
その後のことは彼女自身が決めればいい。僕は気持ちに従い、想いを行動に移すだけだ。
(記憶が正しければ、彼女は北側駐車場のH1へ向かったはず……)
間に合うかどうかは怪しいが、全力でそこを目指す。
やがて、西日に照らされた1台の車が視界に入った。その近くには千早と、肩を並べている男の姿があった。
走るのをやめ、息を整えながらネクタイを緩める。その頃には、向こうも僕の姿を認めたようだった。
「千早さん」
「柾さん……?」
僕の出現に驚いていることが、声の調子で判明した。数時間前にひどい別れ方をしたのだから尚更だろう。
だというのに、彼女は僕を無視することもなく、それどころか心配気に尋ねてきた。
「どうしたんですか? 何か会社でトラブルでも?」
「あぁ、急を要する」
千早は躊躇っていたが、やがて隣りの男の方を向き、様子を探る気配を見せた。
一方、まるで視線で殺そうとしているのか、憎しみに燃えた目をこちらに返す男。
こいつが千早の恋人か? 一体誰で、どういう男なんだ。
ふと男が千早を見たとき、おかしな感覚を覚えた。なぜか2人の横顔が重なるのだ。
輪郭ではない。だが似ている。彼女と男の雰囲気が。顔のパーツ、仕草……? 何となくだがこれは……。
恋人のそれではないと、直感が告げている。
(恋人というより、近親者に近い……?)
千早の砕けた口調、態度。そこから導きだした答えは――『兄』だった。


■歴

「千早さん」
私は耳を疑った。そして目を。柾さんだ!
『何故?』というより『駄目!』と叫びかけた私の肩を、兄さんは力強く押しのけ、柾さんと対峙する。


■凪

そこには履歴書に添付されていた写真そのままの顔があった。
なるほど、小売業界において最も重要視される、清潔感溢れる人物のようだ。
(これが柾直近か)
俺は柾の全身を矯めつ眇めつ、都築から入手した情報を思い出していた。
入社当時から優秀な社員であり続け、その反面数々のゴシップを作り、あろうことか妹の歴に懸想しているという。
真っ白なカッターシャツ、シンプルな緋色のネクタイ、細い腰に巻かれたベルト、汚れのない靴、腕に光る時計、ネクタイピン。
ブランド品をさり気なく、嫌味にならないよう身につけている。俺でさえ見惚れてしまう着こなしに、嫉妬を感じた。
(そこに歴のことも加わるのだから、お前に対する心証ははっきり言ってすこぶる悪いぞ、柾)
歴を背後に隠しながら、キミは? と形ばかりの応答を試みる。柾の顔が、『そっちこそ何者だ』と語っていた。
だが、そういう切り返し方はしてこないという気がした。この男からは、自ら現状を把握し、打破する姿勢が窺える。
「ユナイソン名古屋店コスメ部門担当の柾です。間違っていたら申し訳ない。あなたは彼女のお兄さんですか?」
そら見ろ、思った通り。僅かな時間で俺の立ち居振る舞いから情報を掻き集め、推理を構築し、答えを導きだした、というわけだ。
なるほど、これは一筋縄ではいかないと直感が告げる。歴のことがなければ、計画遂行のためにも咽喉から手が出るほど欲しい人物だ。
「あぁ。お目にかかれて光栄だ」
向かい合って初めて分かることもある。女性が放っておかない美貌を、彼は持っている。そのうえ仕事が出来るとなれば……。
(まさか歴も、この男に懸想している……?)
「柾君だっけ。何か用かな?」
「彼女に用が」
「構わないよ。いま言ってくれないか」
隣りに兄がいては、さしもの柾だろうと口説けやしないだろう。俺はそんな計算をしていた。
柾は冷やかな視線を俺に注ぎつつも、逡巡しているようだった。
だが俺から視線を外すと、伏せた歴の顔を覗き込み、視線を交わした。まるで2人だけの世界のように。俺など存在していないかのように。
「さっきは逃げたりしてすまなかった。このままフェイドアウトしてしまってもいいのかと自問した。答えはノーだ。
これだけ言っておきたい。僕は、キミ以外の女性とデートの約束を取り付けたり、淫らな行為や愛のやり取りはしたくないんだ。
キミの前では誠実でありたいと思った。僕が誘いたいのは、いつだってキミだけだから」
「「!」」
馬鹿な。兄の前で、堂々の口説き文句だと!?
一語一句をハッキリと、歴の瞳を見て言い切る柾に、俺も歴も唖然とし、絶句せざるを得ない。
だが柾が歴に近付いたところで我に返る。柾の胸板を、俺の右手に力を入れ、ぐぐぐと引き離す。
「俺の目の前で口説くとはいい度胸だ。会話は許したが、誘惑行為は認めてないぞ」
「おたくの前じゃなければいいんだな」
「そんなわけないだろう!」
「……シスコンめ」
「なんだと? 俺には歴を守る理由と権利があるんだ。お前が俺に刃向かうなら、俺にだって考えがある」
「彼女は成人済みだぞ。いくら身内だからと言って、あなたが決めるのはどうかと思う。彼女の意見を尊重すべきだろう」
「関係ないな。特に、お前には。二度と歴に近付かないでくれ」
「兄さん! ねぇ、もうやめて……!」
よりにもよって、歴がかばった相手は俺ではなく、柾だった。瞬間、口から勝手に言葉が出ていた。
これから長い戦いになるであろう、その『きっかけ』となった瞬間が、まさにここだった。
「……。ユナイソン本部、人事統括部人事部所属・千早凪の命により、只今をもって柾直近に異動を申し渡す」
「……なんだと?」
「兄さん! 何を言っているの!? ユナイソン本部付けってどういうこと!? 一体いつからユナイソンに!?
それより、今のあんなやりとりひとつで目くじらを立てるなんて、どうかしてるわ! 取り消して!」
「俺はもともと、歴か、この男のどちらかを異動させるつもりだった。決めたよ。やはり彼は歴から離れるべきだ。
異動先は後日、正式な文書として通告する。……行くぞ、歴」
「いやよ! こんなのいや! 柾さん!」
抗うなら今しかない。これ以上、関係をこじらせたくない――。歴の全身から、対峙する意思が漲っていた。
「なぜこの男にすがる? この男が裏で何をしているか知らないんだな」
「何を言い出すの? これ以上柾さんに失礼な態度を取るのはやめて!」
「いつまでそうやって見て見ぬ振りや、耳を塞いでいるつもりだ? この男の女性遍歴は、それはドス黒いもんだ。
この男に惚れているならよすんだ。離婚調停問題や、親権問題、他の女性社員に手を出しては問題になっている」
「知ってるわ!」
「知ってるって、お前……」
信じられず、呆然と歴を見つめる。
「裏で何かをしているのは兄さんの方じゃない! 
ユナイソンにいるってどういうこと? 本部って? どうして人事部にいるの? 私、何も聞いていないわ!」
「それは……」
「言えないのね? じゃあ私も、兄さんを信じることなんて出来ない」
「歴!」
咄嗟に歴の腕を掴んだが、すぐさまその手を振り払われてしまった。
「そうやって何度、私の行く手を阻むの? 思いやりも、度を超せば不快でしかないわ。これ以上は耐えられない」
「待ってくれ、歴」
「……柾さん!」
行きましょう、と促し、エントランスから駐車場へと向かう。
俺が掴みそこなった腕を、柾が掴む。歴は振り払おうとはしなかった。
2人は駆け足で車まで向かい、車の持ち主は歴を助手席に座らせた。
運転主も乗り込み、エンジンを噴かした後、車体は滑らかに動き出した。
「……くそ!」
歴が座ろうとして開けっぱなしだった助手席のドアを力任せに閉める。
決意は揺るがない。歴が頭を下げてきたって、撤回する気はない。


■歴

車好きとは聞いていたけれど、まさか外車を乗り回しているとは思わなかった。
外観デザインは猛禽類をイメージさせ、内装もスポーティだった。近未来的なメーターパネルが色っぽさを醸し出している。
革の匂いに混じる匂いは、私と柾さんが使っている香水、ヒストリアだ。
落ち着かないのは乗り慣れていないせい? 否、色々な出来事が重なったせいだと思い直す。
勢い任せでこうなってしまったものの、どこを見て、何を話せばいいのか分からない。所在なさげで居た堪れない。
ステアリングを握る柾さんを盗み見ながら思う。この車はどこへ向かっているのだろう。
「ユナイソンに戻るんですよね? さっき、急を要するって言ってませんでしたっけ」
「そんなのは口実だ」
「口実……」
「さっき言いそびれた話をさせて貰う。構わないか?」
「……はい。さっきはごめんなさい。柾さんさえよければ、聞かせてください」
神さまは、私が望んだ『チャンス』を与えてくださった。だから覚悟を決めて、真摯に向き合わなければならない。
車の助手席だけれども、私は居住まいを正した。そして柾さんの言に耳を傾ける。
「数日前から本部の人間が名古屋店に出入りしていることは、キミも知ってるだろう」
「はい。店長もそう仰ってましたね。私には、どこの部署のひとまでかは分かりませんけ……ど……」
言い掛けて、尻すぼみしていく私の言葉。なんとなく分かった気がしたのだ。
(本部の人間、人事部に所属していると告白した兄、突然の異動――。まさか)
「……顔を見せていたのは、人事部の方々?」
「そうだ。他部署の人間もいたが、主に人事部だな」
「なぜ名古屋店に……」
私がうろたえていると柾さんは数秒ほど黙りこくり、これは推測でしかないが、と一言断ってから先を続けた。
「名古屋店が閉店する話、キミは知っているか?」
「え!? え……知りません。初耳です。そうなんですか?」
寝耳に水だった。私が本気で驚くと、柾さんは嘆息する。
「キミと同じ空間にいるときは、仕事の話ではなく、出来ればロマンチックな話題をしたいというのが僕の本意だ。
だが、そうも言ってられないな。いまは職場の上司として話すから、キミは部下として聞いてくれ。
新入社員気分も、そろそろ返上した方がいい。これは業界向けの新聞や経済面にも載っていることだ。
ユナイソン名古屋店は閉店する。その代わり、市内に新しい複合商業施設ができる予定だ。そこと統合する」
暗に新聞ぐらい読めと注意されてしまったようで恥ずかしい。身が縮こまる思いだ。
「そうだったんですね。すみません、これからは流通系の新聞も読むようにします」
「いちいち買わなくても事務所に置いてあるから、昼休憩のときに読むといい」
「分かりました。ありがとうございます。……ひょっとして人事部は、その新しい店舗の人員を探しているんですか?」
「その通り。察しが良くて助かる。当然、新店舗には優秀な人材を揃えておきたいはずだ。
だからチェックしているのは名古屋店だけではなく、他の店舗も見ているに違いない。近隣の岐阜店とかな」
優秀な人材の査定。もしそれが行われたとしたら、名古屋店で名前があがるのは柾さんか五十嵐さん、麻生さんが候補にあがるだろう。
3人は間違いなく出世街道を進むことができる人材だ。
それなのに、私との一件で人事部に――兄に――最悪な印象を与えてしまった。なんてことをしてしまったんだろう。
「私があんなことを言ったばかりに柾さんの心証が……。私、今から兄に謝って来ます! 今ならまだ間に合うかも――」
「いいんだ」
焦る私とは対照的に、柾さんはゆっくりと制した。
「いまの僕の望みは、新店舗に行くことでも、ましてや他店に異動することでもない」
「……」
「どうした? いまさら遠慮なんていらないぞ。正直に言ってくれ」
「失礼を承知で言わせて貰います。上を目指さないのは柾さんらしくないな、と思ったんです。向上心に溢れた方だとばかり」
「見くびってもらっては困る。栄転だけが全てじゃないと気付いただけだ。それに、世の中にはタイミングというものがある」
きっぱりと断言する柾さんは頼もしかった。
『いまの望み』というからには、柾さんには既に歩む道、目指すゴールが定まっているのだろう。
柾さんは大人だ。私は、自分の心配をすればいい。課題だらけだと思い知らされた1日でもある。
「着いたぞ」
心の準備もしていなかった。慌てて顔をあげ、そこがどこか確認する。見慣れたマンションがそびえ立っていた。
車はガレージへと入って行く。決められた位置に車を止めると、柾さんは助手席のドアを開けた。
何も言わずに降り、何も言わずにドアを閉め、何も言わずに歩く。ただ、柾さんの後について。
やがて柾さんの足が止まった。そこは私の部屋の前。
もしかして部屋の前で兄が待ち構えていやしないかと危惧していたけれど、その心配は杞憂だった。
兄どころか誰の気配もない。柾さんの顔を伺うと、彼も私を見ていた。
「今日は振り回して悪かった。ゆっくり休むんだ。いいね?」
「……」
それ以上のことばも、触れ合いもなかった。
あぁ、本当に1日が終わったのだ。長かった1日が。
「……はい、お休みなさい」
「お休み。じゃあ、また明日」
私が鍵を開けるのを確認すると、柾さんは踵を返した。去り行く背中に向かって、私は「あの……!」と本日最後の勇気を振り絞る。
「今日は……色々とごめんなさい……! 私、柾さんと仲違いなんてしたくありません!」
きゅ、と革靴が止まる音がした。柾さんがその場で振り返る。
「あの……その大きな誤解だけは、私……どうしても早い内に解いておきたくて……その……」
一体どんな情けない顔で訴えているのだろう。恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
それでも、伝えなければならないことがあるのだから、四の五の言ってなんかいられない。
柾さんはこちらに2歩3歩と歩き始めたものの、そこで足を止めた。
この数歩は心の距離を表しているのだろうかとぼんやり考えていると、柾さんはその場で言った。
「僕もだ」
それはまるで、信じて欲しいという強い念が込められた『断言』だった。
「キミの口からそのことばが聴けるなんて、夢のようだ。嬉しいよ」
柾さんは最後に「ありがとう」と言い添え、微笑んだ。見るひとを優しい気持ちにさせる、柔らかい笑みだった。
再び歩きだし、今度こそ遠くなる背中を見送りながら思う。夢のなかにいるのは、私の方かもしれないと。
また話し合える仲に戻れたことが嬉しかった。この平穏を二度と壊したくない。失いたくない。
(兄さんが何を仕掛けてきても、受けて立つわ)
兄の魔手は、いつ迫ってくるのだろう。
来たるべき対峙に向けて強くならなければと、私は心に固く誓った。


記 2006.11.09 - 2008.12.25
改 2018.10.06






Last updated  2018.10.06 22:32:51
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2018.05.28

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28話 (歴) 【記憶の鎖】―キオクノクサリ―

 
1:今


鉛色に塗りたくられた世界の中で、ひとりの少女が泣いている。
泣き声とともに聴こえてくるのは遠雷の音だろうか。
少女が静かにこちらを見た。歳の頃は10くらいのようだ。
思わず手を差し伸べたいと思った。
だって、ここには彼女の他に、私しかいないから。
彼女を慰めてあげられるのは、私だけしかいない。
「ねぇ、どうして泣いてるの?」
「……怖いの。お兄ちゃん、どこ? お兄ちゃん」
「もう泣かないで。泣きやんで……10歳の歴(わたし)」
 
そんな夢を、見た。
 
 
***
 
流れる涙が原因で目が覚めた。鼻が詰まってしまい、うまく呼吸が出来なくて。
夜中も風を感じていたいという理由でわずかに開放していた窓からは、叩きつけるような雨音が聴こえてくる。
その雨粒が部屋の中まで吹き込み、床をじわりと濡らしていた。慌てて窓を閉め、応急処置として濡れた箇所をティッシュで拭きとった。
作業を終えると、寝起きでまだけだるい状態にある身体に活を入れて洗面台に向かった。顔を洗って、さっぱりしたかったのだ。
タオルで顔を拭きながらベッドへ戻り、照明を控えめな色にし、時計を見る。針は5時を指していた。
咽喉の渇きに気付いた途端、コーヒーが恋しくなった。自分を慰めるには甘さも必要で、作り終えたマグカップの中身はカフェ・オ・レ。
ちびりちびりと、舐めるように、少しずつ口内へ。まろやかさを味わいながら、しばらくベッドの端に腰掛けていた。
夢の内容を、敢えて思い出そうとは思わない。夢を見ながら泣いたのだ。大方、切なくなるような内容だったのだろう。
夢の中では誰かが泣いていたような気もする。それが誰だったのかは曖昧模糊としていて、記憶を手繰り寄せるのに苦労しそうだ。
それよりかは、雨の音、カフェインの味、ゆっくりと時が刻まれて行くのを、五感で味わっていたかった。
どれくらいの間、そうしていただろう? 気付けばマグカップの中は空。
ふと視界にチカチカ光るものがあり、そちらに目を向けると、携帯電話の着信メールを知らせるランプが点っていた。
マグカップをテーブルの上に置き、携帯電話に手を伸ばす。2件のメールに共通する『HAPPY BIRTHDAY』なる件名。9月1日、私の誕生日。
「あ、そっか……」
我ながら、間の抜けた独り言だった。
メールを1通ずつ確認する。
0時に麻生さん。デコメをふんだんにあしらったポップな仕様に、思わず「わぁ……!」と感嘆の声が漏れた。
そして、驚いたことに同じく0時丁度に柾さん。簡素ながら、丁寧な文章で祝福のメッセージが並んでいる。
会話口調と掛け離れているので、こういうやり取りは、なんだか少し、くすぐったい。
二人から送って貰えるとは思わなかったから驚いた。まさに嬉し過ぎる誤算だ。どうあっても心が浮き立ち、顔が緩んでしまう。
今度会ったら、お礼を言わなければ。その前にメールも返したいところだけど、時間が早すぎるので、もう少しだけ待とう。
「……そう言えば、今日はお母さんがケーキを送ってくれるって言ってたっけ」
ふと、ノイズ掛かった記憶が頭を掠めた。
ケーキ――10歳の頃の私。
「……!」
そうだ。私が見た夢は、これだったのだ。
たんに夢を見たのではなく、昔の思い出を、夢という手段で回顧していたのだ……。
 
 
2:過去
 
9月1日は小学校の始業式だった。昼前には行事が終わる。
鍵っ子である私は、普段から夕方まで小学校の隣りに建てられた児童館で過ごすようにしていた。
18時頃、いつものように兄が迎えに来てくれた。
兄の歩く速度は早く、後ろをついて行くのがやっとだ。たまに小走りにならないと追い付かないときもある。
そんなとき、「お兄ちゃん、待って」と呼び掛けるのだけど、兄は煩わしいのか、舌打ちをしつつも足を止めるのだった。
その日も特に会話らしい会話もなく、帰路についた。年が離れているせいもあるし、異性の兄妹なので共通点も少ないのだ。
ただし、帰宅してからは違った。
キッチンに母が用意したであろうチョコレートのホールケーキが置いてあったのだ。
板チョコには≪れき10才おめでとう!≫と、白い文字が書かれている。
私のためのケーキ。年に一度だけ許された、自分のためのケーキだ!
「わぁぁ……! ねぇ見てお兄ちゃん! これ、私のお誕生日ケーキだよ! お願いした通り、チョコの! ふふっ、嬉しいなぁ」
「ケーキ? あぁそっか。お前、今日誕生日だっけ」
部活帰りで疲れ果てていた兄は、ケーキを見るなり家族の人数分に切り分けることすらせず、いきなりケーキにフォークを突き刺した。
私は「ダメ」と鋭く言って、ケーキを取り上げた。睨み付けると、兄も負けじと睨み返してきた。
「別に良いだろ。今日は始業式が終わってからずっと部活やってたから、腹減ってるんだよ」
「ダメなの! みんな揃ってから食べるの!」
「そんなこと言ったって、母さんも父さんも帰りは遅くなるって言ってたぞ」
「イヤだ! 私、待ってるもん! お兄ちゃんも待つの」
「強情なヤツだな! 良いんだよ、待たなくて。待ってたって、9時とか10時にしか帰って来ないんだぞ」
「イヤなのー!」
「強情だな。貸せよ!」
「イヤイヤ! これは私のだもん!」
「俺の分ぐらい良いだろ!?」
「一緒に食べるんだもん! 一緒に食べなきゃ美味しくないんだもん!」
「味なんか一緒だ! この……っ、分からず屋!」
カッとなった兄が、私の肩を押しのける。
片や、空腹の極限にいた高校男児。力加減など頭にない。
私はよろめいてバランスを崩した。その拍子に、必死に庇ったケーキが床に落ちる。
綺麗なマーブル模様を描いていたチョコレートケーキ。板チョコに書かれた私の名前とメッセージ。全てが一瞬にして原型を失くした。
兄の、息を飲む音が聴こえた。成人を迎えた今ならば、そのとき兄が感じたであろう『後ろめたさ』を汲み取れただろう。
けれど、当時の私はやっと二桁に届いたばかりのおさなごだった。兄の行為は許せるものではなく、惨めな己を憐れむだけで精一杯だった。
「ふぇ……っ。ふえぇ」
どうしてこんなことになってしまったんだろう。ただみんなと一緒に食べたかっただけなのに。同じ時間を共有したかっただけなのに。
それら全てを踏みにじったのは、年の割に幼稚だった兄の軽率さと、貪欲なまでの食欲のせいだった。
「いやぁぁ……っ」
突き付けられた現実は到底受け入れがたく、否定したかったのだろう。「いやだ」とか「なんで」とか、そんな言葉を呟いていた気がする。
呪詛という名の矛先は兄に向かった。だって、兄が悪いのだから。
「お兄ちゃんのばかっ! どっか行っちゃえ。大っきらい! 返してよ! 私のケーキ、返して……っ!」
力の限り叫んだ。喚いた。泣き散らした。憎んだ。悲しんだ。負の感情が兄を責める。
兄は何も言わなかった。私に対してなだめもしなければ、怒りもしなかった。謝罪の言葉もない。ただ無言のまま、突っ立っていた。
「うわぁぁぁん」から「ひーん」という泣き方に変わった頃、兄は動いた。
腹に力いっぱいの拳を食らったかのような苦痛な表情をしたかと思うと、踵を返し、家から飛び出して行ったのだ。
一人取り残された私は、そのまま泣き続けていた。こんな不幸な10歳児はこの世に私だけだろうと、世界から見たらとても傲慢な不幸を感じていた。
ケーキが勿体なくて、食べれやしないかと手を伸ばした。板チョコは粉々に割れ、苺は潰れてしまっている。どだい無理な話だった。
唯一無事だったのは、机の上、袋に入ったまま置かれていたロウソク。色とりどりの細長いロウソクの数は、全部で10本だった。
19時を過ぎても兄は帰って来なかった。父と母は今日に限って仕事で遅い。
兄が帰って来ないことを両親に伝えるべきなのだろうが、ケーキの残骸が頭にちらつき、「電話などしてやるものか」と意地を張った。
浴槽に湯を張り、入浴を済ますと、既に20時を回り、さすがに不安になってきた。
兄が塾に通う日などは、私一人で留守番をすることもあった。けれど今回は勝手が違う。兄は、私との喧嘩が原因で家を飛び出したのだ。
このまま二度と帰って来ないのでは? そんなことはない、兄は帰って来る。そんな問答を延々と心の中で繰り返していた。
さらに1時間が経つと、今度は心細くなってきた。失うのはケーキだけで十分。兄もだなんてイヤだ……。
両親へ電話をしようと受話器に手を伸ばすと、ゴロゴロ……という地響きが家の土台を駆け巡った。私が最も苦手とする雷である。
どうしようどうしよう怖いよお兄ちゃん助けて!
べそをかきながら、心の中で叫ぶ。受話器を持つ手が震えた。パリ、と乾いた音を立てながら、比較的近くに落ちる雷。
もはや電話どころではなかった。部屋の移動もままならない。その場にうずくまるしかなかった。
兄はどうしているのだろう? 傘は持っているだろうか? 雷が直撃してやいないだろうか? 最悪のシチュエーションが頭をよぎる。
「……ゃん、おにーちゃぁん……っ」
はちきれんばかりの恐怖におののいて、私は泣いた。
 
 
3:今
 
あの頃の私は、兄がいなければ何も出来ない弱虫な少女だった。常に兄の背に隠れて行動し、おどおどしていた。
クラスの男子の意地悪に、見かねた兄が助け舟を出してくれたことだって、数え切れないほどある。
兄がいてくれたからこそ、私はやってこれたのだ。その兄に見放されてしまったら、私は自分の殻に閉じこもったままに違いなかった。
あの雷の日――私はどうしただろう? 今思い出そうとしても、To be continuedと打たれた映画のように記憶が曖昧だ。 
結論から言えば、兄は生きている。雷雨の中、無事に帰って来た。
今になって、「夢」という形で在りし日の悪夢を思い出したのは、兄に何か遭ったからだろうか? これは虫の知らせなのだろうか。
携帯電話で兄の項目を選び、発信ボタンを押す。コール音。こんな朝早い時間だ、無視される可能性は高い。案の定、応答はなかった。
それに、昔のことを思い出したからと言って胸騒ぎを覚えるのもどうかしてる。
考え過ぎだろう。そう思い直して電話回線を切ったその時、耳が異音を聴き取った。
玄関の方から何かが擦れる音がしたような気がして、私は玄関に向かう。
外、だろうか。試しにドアを開けてみると、ドアの横、もたれかかるように体操座りの姿勢で頭を垂れている人物がいた。
(だ……誰っ!?)
よく見れば、背広姿だ。恰幅から察するに男性だろう。
具合が悪くて突っ伏しているというより、単にその姿勢のまま寝ているように見える。
こんな所でどうしたのだろう。まだまだ残暑厳しい9月とはいえ、このままここにいたら、風邪をひきかねない。
勇気を奮い起し、小声で「あのぅ……もしもし? 大丈夫ですか?」と尋ねてみる。
「……ん……?」
男性はゆっくり頭を上げると、私に視線を絡めてきた。
私を認識するなり相好を崩し、満面の笑みでこう告げる。
「あ……。やぁ、おはよう、歴」
「!!」
来客の正体を認識した瞬間、私の頭の中に、鮮やかなビジョンが流れてきた。
あの夢の続き。すなわち――雷に怯えていたシーンの、続編だ。
 
 
4:過去
 
またもや近くに雷が落ち、このまま無事に一夜を過ごせないかもしれないと、不安でどうにかなりそうな時だった。
「レキちゃん!」
いとこがもどかし気にカッパと靴を脱ぎ捨てながら駆けつけ、私を抱き締める。
「大丈夫だった!?」
「お、おねえちゃん? どうしてここに?」
「もう大丈夫だからね、安心して。お姉ちゃんが来たからもう大丈夫よ。一緒にいるからね」
いとこの存在がどんなに心強かったことか。――否、気が緩んだせいで、涙の量は俄然増してしまったけれど。
「ヒカおねえちゃん……。あのね、お兄ちゃんがお家を出て行っちゃったの……どこかに行ったまま、帰って来ないのぉ」
「大丈夫よ。ナギ君ね、私の家にいるから」
「おねえちゃんのお家?」
私の身長に合わせてしゃがみ、下から覗きこみながら、いとこは優しく言った。
「すごーく反省してたよ。ものすごく悲しい顔してた。レキちゃんに悪いことしちゃったって、本人も気付いてるんだよ」
私に対し、分かりやすい言葉を選びながら、お姉さんは兄をフォローしたものだった。
お姉さんが言うには、兄は家を飛び出して行った後、2キロ離れた場所にある従姉妹の住まいまで走ったとのことだった。
部活をこなした後だと言うのに、そのスタミナの残量には驚かされる。よほど我武者羅だったに違いない。
急な訪問こそ異変の証拠。
違和感を察知したいとこは、無言を貫く兄を追及したりせず、まずはタオルと温かい飲み物を与え、落ち着かせる時間を与えた。
20分経った頃、兄がおもむろに口を開いた。「妹の誕生日を台無しにしてしまったのだ」と。
事情を知ったいとこは、雷雨の中、私を心配して自転車で駆け付けてくれたのだった――。
「私、もう怒ってないよ。お兄ちゃんに会いたい」
「じゃあ仲直りだね。今から私のお母さんに電話して、送って貰うね」
「うん。おねえちゃん、ありがとう……」
「どう致しまして」 
1時間後、おばに連れられ帰って来た兄は、目を少しだけ赤く腫らしていた。うさぎさんみたいだ、と子供ながらに思った私である。
兄は私を躊躇いがちに見た。私は気まずさを感じていた。大丈夫だと聞かされてきたものの、怒られるのでは? と恐れたのだ。
おばに「ほら」と促された兄は、渋々と私に小さなブーケを寄こした。白い花びらが特徴の、鼻腔くすぐるカモミールの束だった。
「歴ちゃん。カモミールの花言葉はね、『仲直り』なのよ」
おばがこっそり教えてくれた。
 
 
5:今
 
「兄さん!」
驚く私の目の前で、すっくと立ち上がったのは実の兄だった。
長身痩躯の背広マン。
六四分けの前髪――四割が右目に少しかかる位置、残りの六割は左目を鋭く見せるため後ろへ撫で付けられている――は黒く艶めいている。
ブランドの小物を愛用するところも変わっていないようだ。
兄は中学・高校時代と硬派な野球男児だった。趣旨替えは大学を入学してから。女性を意識し始めたのか、急にお洒落になった。
「歴、誕生日おめでとう」
友人に「あの笑顔を独占したい」とからかわれた曰くつきの顔で兄は笑う。同時に差し出されたのは薔薇の花束。
「あぁ、あと、これもプレゼントだ」
スエード調の小箱をスラックスのポケットから取り出すと、私に押し付ける。
「ちょっと待って! えぇっと……これってどういうことなの??? 取り敢えず……そうね、あがらない?」
「いいのか?」
「いいも何も、こんな場所で立ち話なんて論外だわ。入って」
心なしか、部屋に上がれて喜んでいる気がしないでもない。興味津々とばかりに部屋を見渡している。
「兄さん、何か飲む? コーヒーでも淹れようか?」
「あぁ、お願いするよ」
兄は私のベッドがある方をちらりと見た。まるで誰かいないか探るかのように。
やれやれ、過保護さは未だ健在のようだ。
「まだ6時台よ。突然どうしたの?」
「どうしたなんて心外だな。お前の誕生日だから会いに来たっていうのに」
「会いにって……。一体いつからそこにいたの?」
「30分くらい前じゃなかったかな。チャイムを鳴らせば両隣の部屋の住人に迷惑が掛かる。そう思ったら鳴らすのも気が引けてね。
まぁプレゼントを渡したかっただけだから、お前が部屋から出てくるまで待てばいいかと思って待ってたんだ。
最初は壁にもたれかかってたはずなんだけどな……徹夜が続いていたもんだから、睡魔に襲われて、寝てしまってたらしい」
我が兄ながら、自分勝手なのか、思いやりがあるのか、よく分からないひとだ。
「せめて電話の1本でも入れてくれれば良かったのに」
「ただ会いたい一心で、お前の都合を考えていなかった。すまない」
私の返答次第で一喜一憂するところも変わらない。雷事件以来、私に対して随分甘くなったと思う。そして気遣うようにもなった。
やたら私の異性関係を気にし始め、服装にもチェックを入れるようになった。
いつだったか私がスカートを穿いて出掛けようとすると、兄は「丈が短いから着替えた方が良くないか?」と言い放つこともあった。
「お前のシスコンは重症だな」とは、近くでそのやり取りを見ていた兄の友人の弁だ。
シスコン――。私には兄がそうなのかよく分からないけれど、周りからすればそんな風に見えているのだろうか。
考えながらもコーヒーを淹れる。さっき作ったお湯がまだ冷めていなかったので、沸騰するのも早かった。
カップを兄に渡しながら、私は尋ねた。
「今日は有給を取ったの。もし良ければ一緒にランチしない?」
誕生日とは言っても、母が贈ってくれるはずのケーキを食べて、ゆったり過ごすつもりだった。
「本当か? いいね。そうだ、『蔡庵』に予約しよう」
兄はさらりと言ってのけるが、ひとり2万を超える高級料理店だ。私は卒倒しかけた。
「当日予約なんて無理よ。それにそんな高級店、気遅れしちゃうわ。私が作ります」
「でも誕生日だぞ? わざわざ家事なんかしなくても……」
「この部屋の方が寛げるでしょう? 料亭は作法だけで疲れちゃうもの。一緒に食材を買い込んで作るの。どう?」
「歴がそのつもりなら構わない。ケーキで思い出したんだが、昔、お前に酷いことしたな……」
「でも、お詫びにカモミールの花束をくれた。あれね、凄く嬉しかったのよ」
「……そうか」
「ワインも買いましょうね。そうだ、ところで、兄さんは1日オフなの?」
「あぁ、休みだ。何の予定もない」
「そう」
ふと、兄から渡された薔薇と小箱が目に入った。包みを開けると、細いデザインの指輪が入っていた。
ピンクゴールドは好きなので喜ばしいけれど、贈り主が兄という点が引っ掛かる。その指輪は左手の小指にピッタリ嵌まった。
薔薇の花束は豪華だった。購入の折、「恋人への贈り物ですか?」「いえ、妹です」などというやり取りがあったかもしれない。
前者ならば、店員はさぞかし困惑しただろう。それほどまでに情熱的で瑞々しい、見事な薔薇だった。
「あの時のカモミールは可愛かったけれど、こっちは怖いほど綺麗ね」
なぜ今まで忘れていたのか不思議なぐらいだ。苦い思い出以上に、温かい記憶もあったというのに。
まさか、兄の急な訪問には注意が必要だとでも――?
馬鹿ね、考え過ぎだわ。
年を重ね、また新たな日々が始まろうとしている。待ち受ける未来がなんであれ、乗り越える勇気が欲しい。
スマホを手に取り、ふたりから届いた誕生日メッセージを再び読み返した。
応援してくれる人、寄り添ってくれる人がいる。その事実を改めて確認した私は、これからだって頑張れる気がした。
 

2007.09.10(MON)
2018.05.28(MON)



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2018.05.26

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27話 (―) 【幕引きへ】―マクビキヘ―


【1:5月25日―ユナイソン本部】
 
「では、きみの抱負を聞かせて貰おうか」
「青二才がと思われるでしょうが、遥かな高みを目指しております」
「もう少し噛み砕いてもらえるか?」
「はっきり申し上げると肩書きです。上役であればあるほどいい」
「私は『抱負』を尋ねたはずだがね。それは寧ろ、『野心』と言わないか?」
「どう受け取って頂いても構いません。私には越えねばならない壁があり、凌がねばならない波濤があります。ですので肩書きと答えました」
「臆さないな、きみは。なるほど、やつの血を引くだけのことはある。壁に波濤、か……。ふん、為葉(いちよう)をそう呼ぶか」
「……」
「きみを業界第1位のhorizonから引き抜いたのは、きみと私の利害関係が一致しているからだ。それは話したな?」
「えぇ、大丈夫です。私は、己の敵が祖父だからと言って、手を緩めたりはしません」
「3度目の説明にはうんざりか? くどいと思われても仕方ない。ことはそれだけリスキーなんだ。足場を慎重に確保し、確実に歩を進めたい」
「会社のナンバーワンたる貴方が、ナンバーツーであるユナイソン代表取締役社長兼COOの失脚を望んでいるわけですから当然でしょう。
下手をすれば貴方はワンどころかゼロになってしまう。ゼロという、無の存在に」
「あいつにはほとほと呆れるよ。なんてやつだ。いまどき正統派を貫くんだからな。とんだ処世術もあったもんだ。 
正しいことを本気で正しいと信じ込み、コツコツと積み上げてきた馬鹿正直者。
清く正しく美しくを地でゆく千早。よくここまでまぁ、振り落とされることなく登り詰めたもんだと、ほとほと感心するよ。
一方、私は手を汚すことも厭わずここまで来た。私と為葉はまるで正反対だ」
「だからこそ、彼が眩しく、疎ましい、と?」
「眩しい……? なるほどな。そんな表現の仕方もあるか。今や、やつは私の地位を脅かし、取って替わろうとする、目の上の瘤だ。
害は取り除く。そのためにきみを呼んだんだ。破格の待遇を用意してな。教えて貰おうか、為葉の弱点を」
 
 
***
 
弱点。それはこれしかない。媚びだ。
有り体に言えば、彼には根回しが出来ない。
実直、誠実、その塊りともいえる祖父は、昔から政治的駆け引きが苦手だった。
分かり易く言えば、おべっか、よいしょ、歯の浮くセリフ、そういった類のもの。
だから祖父は、上司や同僚からことごとく「お前は気が利かない」と眉根をひそめられてきた。
中には「まぁ仕方ないか。お前みたいな男が1人ぐらいいてもいいのかもな」と脱力した者もいるという。
そんな祖父を幼い頃から見てきた俺だから知っている。千早為葉に挑むなら、彼が絶対に取らない行動を取れば効果的だ。
根回し。つまり、接待。
人の心を巧みにくすぐり、相手の心証を良くする。加えて、金で信頼を買う。
そのパイプを繋げていく。より強く、より太く。
我らがCEO様の地位を盤石なものにするため。時には自分のために。或いは、祖父を取り巻く忠実な部下をこちら側に取り込むために。
そうして始まったのが、接待の強化だった。
ひとたび高級の宴席を設ければ、誰もが有り難がった。回を重ねる。美味い汁を啜る者は着実に増えてゆく。見渡せばほら、たちまちCEOの信者だらけ。
簡単だった。
 
 
【2:8月30日―ユナイソン本部】
 
「高級コールガールを呼んだ?」
「しっ! 声が大きいですよ、凪さん」
咎め口調で窘める都築に構ってなどいられなかった。ソファーに深々と座り、悠長にアラミドコーヒーに舌鼓を打つ加納を見下ろす。
おい、それは俺の豆だぞ? ブルーマウンテンより希少価値の高い珈琲を、こいつ、いけしゃあしゃあと――いや、そんなことより。
「どういうことだ? 昨日はブランドン氏を接待したんだろう?」
逸る鼓動に静まれと言い聞かせながら加納に尋ねる。キザったらしいイタリア仕立てのスーツに身を包んだ加納は足を組み替えた。
「したさ。ブランドン氏に、気持ちのいい接待をな」
カッと、頭が沸騰しかけた。それは怒りだった。
「性の接待はしない。そう取り交わしただろう!」
「そういう約束だったかな。だが、氏のリクエストに応えないと、契約がね。それでは君が困るだろう?」
「リクエストだと……? あんたがそそのかしたんじゃないのか? ブランドン氏が何と言ったのか、一語一句違わず言って貰おうか」
「あぁ、そういえば……。今にして思えば、私の勘違いだったかもしれないな」
「? 突然何を……」
「私のリスニング能力が低かったから、解釈を間違えて、氏が望んだものだとばかり思ってしまったようだ。――悪いね、凪」
なんというわざとらしい言い訳だ。TOEIC700点越え、レベルBが御自慢だったんじゃないのかよ……! 
思わず出掛かったその言葉を飲み込む。
「枕営業は禁止。そういう取り決めだった。こうなったらCEOに頼んで……」
「私に処分を下す、か? 馬鹿を言うな。どちらもそう変わらん。同じ穴の狢だと思うがな」
「違うだろう! 全く違う」
「何をそんなにムキになる? 君だけだぞ、そんなオメデタイ思考回路の持ち主は。いつかは性の接待が横行する。これは時間の問題だった」
「その一線を越えるべきではない」
加納はうっすらと笑う。俺を説き伏せられないと知っていて、だったらせめて煽るだけ煽って楽しんでやろう。そんな魂胆が見え透いていた。
「性抜きの接待の何が楽しいんだ。酒、肴、女。それを抜きに接待などあり得ない。君のそれはまるでチェリーボーイの発想だな。そうなのか?」
「私のプライベートは関係ない。……話を戻すぞ。不味いことになったと言ってるんだ」
「そうは思わない。美味しい蜜を吸ってるんだ。誰も口外したりしないさ」
「いつかは露見する。それでは遅いんだ」
「止められるかな? 既にあちこちで横行しているみたいだぞ」
悪夢まがいの報告に、全身から汗が噴き出す。
「馬鹿な……」
「君の耳に届いていなかっただけのようだな。指揮を取っていたようで、実際には除け者にされていたとは、とんだお笑い草だ」
「……っ!」
「知ってるよ。知ってる。君が性接待に反対している本当の理由をね。君の可愛い妹君が、ユナイソンに入社しているそうじゃないか。
その毒牙にいつかかるか、気が気でないんだろう? 大切な妹を巻き込みたくない。だから枕営業は阻止したい、撲滅させたい。違うか?」
「妹? 何のことだか」
「しらばっくれなくてもいいだろう。ネタは上がってる」
くそ、首根っこを押さえられたか。こうなったら異例の人事異動妹をしてでも、どこか安全な場所まで引き離してしまおうか。
人事部に所属する自分が出来ることと言ったら、この手の方法が一番手っ取り早くて堅実だ。
誰だ、妹の入社を許可したのは? 顔も知らぬ人事部相手に舌を打つ。
「傷心の君に教えてあげよう。素晴らしい逸材を見付けたんだ。名古屋店の柾という人物でね。これがとんだ色男らしい。
成績優秀に加え、その容姿で女性社員を次々と陥落しているんだとか。CEOの計画に相応しい人材だと思わないか? 是非欲しいね」
女性問題(スキャンダル)を抱えている? それはつまり、その柾とやらに魅力が備わっていることの裏打ちに他ならないではないか。
「彼なら」、と都築が言った。
「何度か話したことがある。最近だと、入社式の祝辞を依頼したときだったかな。素晴らしいスピーチを披露していたから労ったよ」
都築が手放しで褒めるのも珍しい。よほど優秀なのだろう。
加納は乗り気のようだった。
「男だけが性接待を望んでいると思ったら大間違いだ。女だって男を欲している。
とはいえ、都築が用意した男は何の役にも立たなかった。そんな奴より、女性の相手ならば、その柾という男の方が打って付けだろう」
「別にぼくは加納さんのために『あの男』を用意したわけじゃありませんよ。ぼくの恋路を邪魔する厄介者だったから左遷しただけで」
心外だとばかりに口を挟む都築。加納は「勝手にのたまっていろ」とでも言いたげに鼻を鳴らしている。相変わらず癪に障る男だ。
それよりも――くそ……くそ! 俺に出来ることを探すしかない。見付けるしか。まず手始めに、柾だ。
「その柾という人物の、詳しい情報が欲しいな……」
「いいよ凪さん。ぼくが調べる。他に調べたいこともあるし」
「なんだ、都築。また恋路の邪魔を企んでいるのか。今度は誰を飛ばすんだ?」
背中を向けた都築に、加納はせせら笑い。都築は振り返り、発言者の加納を一睨みしてから部屋を出て行った。
「さて、私も行くとするか。ご馳走様。楽しい結果を待ってるよ、凪」
人の金で珈琲を啜っておきながら、ソーサーもカップも洗わずそのまま席を立ち、退室するさまに、もはや出る言葉などあろうはずもない。
 
 
【3:8月31日―ユナイソン名古屋店】
 
ユナイソン名古屋店店長・後藤田は、ユナイソン本部≪人事統括部≫人事部所属・都築の姿を見るなり最上級の笑みでもてなした。
後藤田は都築の肩書きを恐れている。
ゆえに、干支にして二周りほど離れている都築に対し、自然と上目遣いになってしまうのは仕方のないことだった。
「これはこれは! 都築さん。ご無沙汰しております」
「後藤田店長、突然申し訳ありません。アポもなしに」
「とんでもない。しかし、貴方が来られたということは、何か問題でも?」
「いえ、少しばかり伺いたいことがありまして」 
都築の言葉に、後藤田の顔が強張る。
この店に、都築の機嫌を損ねる危険因子が存在しているとでも言うのだろうか。となれば、誠意を見せるに限る。
うまくいけば後藤田の出世だって夢ではない。都築にはその力がある。正確には『都築の人脈が』、だが。
「なんなりとお尋ね下さい」
「ご助力に感謝します。実は、柾について、なのですよ」
「は――。柾、ですか?」
「えぇ。優秀な社員ということは知っています。売り上げだって伸ばしているし、比較的早いペースでチーフ職に就きましたよね。
そういった能力面でなく、人物像を知りたいのです。聞けば、女性問題を抱えているとか?」
「……否定はしません」
「それは、彼が女性から慕われるタイプだから、でしょうか?」
質問の意図を測れずにいる後藤田は、とくに捻ることなく、素直に答えた。
「確かに魅力的な男かも知れませんね。事実、彼に振られた女性がその場の勢いで退職願を届け出たこともあったぐらいです」
「そうでしたね、そういう報告は上がってきてます。ではこれも一応訊いておくとしましょう。いま彼が親しくしている女性はいますか?」
「いや、最近は、とんと聞きませんね。どうも自分からガールフレンドを切ったようですよ」
「おや……。そうなのですか? それはまた、どうして」
初耳なのか、都築は僅かに目を丸くした。
「離婚をスムーズに行うためだと本人は言ってましたがね。なるほどそういうものかと、特に疑問は持ちませんでしたが」
「つまり、身辺整理をしたがっているんですね。ふむ。でもそれって……」
都築には、どうしても繋がってしまう推理がある。
「本命を見付けたから、早々に離婚したがってるのでは?」
「あの柾が……本命を? はは……っ、はははは……あ、いや、申し訳ない」
「いえ、店長のその反応で、私の推理が間違っていたことが分かりました。必要以上に穿ってはいけませんね。お恥ずかしい限りです」
「今年の元日に、彼の同期が着任しましてね。彼とは馬が合うようで、なんだかんだ言いつつも楽しそうですよ。以前に比べれば大人しいもんです」
「同期とですか。それは色々と刺激がありそうですね。職場の同期と言えば、仲間や友人という位置付けの他、ライバルでもありますからね」
「そうですな! ……あぁ、でもそう言えば、その麻生と一緒に、『彼女』といることも多いなぁ……?」
ぽつりと呟いた、後藤田の何気ないことばに、都築は引っ掛かるものを感じた。
「彼女? どなたです?」
「いやいや、そういうのじゃないです。まだ入社したての新入社員ですよ。ミスが多かったので、柾が指導している場面も多々ありました。
その延長で、いまも仲がいいのだと思うんですがね」
「柾は面倒見もいいんですね。ちなみに、誰なのですか、その女性は?」
「POSオペレータですよ。千早と言います」
「――千早? 千早ですって?」
あまりに耳に馴染み過ぎた苗字に、都築は反射的に鸚鵡返す。
「後藤田店長。……ちょっと失礼しても?」
「えぇ」
断りを入れてから、自身の鞄から薄いPCを取り出す。
人事課だけが入れるネットワークにアクセスし、検索をかける。調べる対象はもちろん『千早』だ。
検索対象者の性別を“女”に絞ると1件だけヒットした。その項目をクリックする。
『千早歴』のページが現れた。そこには履歴書、入社試験の結果など、彼女が提出したものや、あらゆる関連書類が紐付けられていた。
その中から履歴書を選び、顔を確認する。
艶めいた黒髪が特徴的な女性だった。だがそれ以前に、その表情に引き込まれた。
履歴書のため、微笑んではならない写真だというのに、それを差っ引いても慈愛に満ちた、柔らかい表情をしている。
恐らくこれが彼女の自然体なのだろう。
(これが千早歴……)
自分が知る人物と同じ苗字。だが、その人物の、こんな表情は一度として見たことがない。
(似ている……。凪さんに。彼が笑えば、こんな風かもしれないな。……もう少し調べてみるか)
履歴書を閉じると、次に住所や近親者の情報を見るため、検索画面に戻った。
検索内容:“千早”“男”。2件ヒット。
調べていくと、そこには都築が予想していた通りの結果が横たわっていた。
(まさかこんな繋がりがあったとは……。加納が言っていたのは本当だったのか。千早歴は凪さんの実妹。しかも、名古屋店のPOSオペレータ……)
『千早為葉』『千早凪』『千早歴』。
(彼女もまた、千早一族の者――)
キーマンとなる『千早為葉』をクリックし、今度は秘書の項目を見る。第一秘書、『鬼無里火香』。
(……そうだったな。鬼無里三姉妹のひとりが、千早為葉の秘書だった)
どこまでも繋がる符合に、背筋を冷たいものが伝う。
(これも運命なのか?)
PCを片付けながら、都築は最終確認として後藤田に念を押した。
「柾は……千早歴さんと懇意なわけですね?」
「男女の仲ではないと思いますが。それこそ穿ち過ぎというものかと」
「……なるほど、よく分かりました」
都築はその答えに納得したようだった。満足気に微笑み、席を立つ。
「後藤田店長、今日はとても有意義な訪問になりました。感謝します」
一方の後藤田は拍子抜けだ。てっきり名古屋店の抜き打ち視察に来たとばかり思っていたのに、蓋を開けてみれば柾の件。
それでも、本部の人間の機嫌を損ねるような失態をせずに済んだことに安堵した。
都築を丁重に見送ったあと、後藤田は呟いていた。
「彼の目に留まったか。柾の異動も近いな」
 
 
【4:8月31日―ユナイソン名古屋店】
 
「柾君、今期の売り上げ推移表を見せて貰ったよ。コスメ部門、前年度の147%とはね。うん、上々の出来だ」
「恐れ入ります」
「あれ? あまり嬉しそうじゃないね」
「まさか。会社に貢献できて嬉しいですよ。金一封が出るとの話でしたし」
笑みを浮かべた僕に、人事部の申し子、都築始の目が光った。
金一封など建前で、業績を残そうが会社に貢献しようが、僕の心が晴れていないことなどお見通しの様子だ。
なるほど、本部にも侮れない人間がいる。
「何か浮かないことでもあるのかい?」
「会社に不満はありませんよ」
嘘八百。会社には不満だらけだ。
代わり映えしない社員食堂の献立、因縁をつけるモンスターカスタマー、やっかみを隠そうともしない社員。
だがそんな悩みは多かれ少なかれ誰しも抱えている。どの業種、いつの時代だろうが、改善されることはないのだろう。
ただひとつ、ここ最近の風潮を受けてか、労働時間に関する項目だけは劇的に改善されてきている。
休日返上業務はなくなり、残業時間が減ったのは、本部が見直しをしたからだろう。その点はありがたかった。
「あまり自分を追い込むなよ」
その言葉こそパワハラに似た重圧だと思うのだが。
とはいえ彼なりに気を遣ってくれているのだろう。素直に頭を下げておいた。
「この調子だと、君が本部に来るのも時間の問題かな」
「光栄です」
「……大嘘つきだな」
苦笑する彼には、何もかもお見通しのようだ。
「そうですね、確かに」
首を竦め、僕は本音を吐露した。
「どうせ本部で僕を扱き使う気でしょう? これ以上の激務なんて想像もつきませんよ、都築さん。出来ればまだ現場にいたい」
「本部は君に期待しているんだよ。特に、女性の心を掴むコスメ部門でこれだけ成績を伸ばし続けていればね」
「単に僕好みのアイテムを棚に並べただけです」
「はは。謙遜がうまいな。君にこの部門を任せたのは大正解だった」
「女性スタッフを充実させて下さった都築さんには感謝してます。彼女たちの力があったからこその数字ですから」
「女性スタッフと言えば――名古屋店では急に退社した者がいたとか? 色々あるだろうが、身体を壊さない程度に頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
「これ以上、イレギュラーな人事異動を増やさないためにもね」
意味ありげな視線を寄越すからには、全てを把握しているのだろう。
三木奈和子と間宮七朝が立て続けに会社を辞め、その穴を埋める形でイレギュラーな異動があった。
都築がそのことを言っていることは、火を見るより明らかだった。
恐らく今日の接触は、僕にひとこと物申すためだったのだろう。やはりこの人は侮れない。いや、本部がか。
「気を付けた方がいい。君は有能だからね、君の昇進を妬む人間がいるんだよ。足元をすくわれないように」
「覚えておきます」
「君が異動するか、千早歴が異動するか。それは君次第だ」
「千早歴? 誰ですか、それ?」
「そうそう、その調子。その『答え』で合ってるよ」
都築はにこりと笑うが、なぜここで彼女の名前が挙がるのかが理解できず、僅かながら動揺してしまう。
ポーカーフェイスを装えたかどうかは分からないが、知らぬ存ぜぬで押し通した方がいいと直感が告げていた。
が、否定し過ぎれば余計怪しく思われるだろうと思い、ひとことだけ添えておくことにした。
「まぁさすがに『誰ですか?』というのは冗談ですが。千早はうちの店のPOSオペレータ。当然知ってますよ」
「じゃあこれは知ってるかな。彼女が誰かってこと」
「誰か、とは? どういう意味です?」
「彼女はね、物凄いお金持ちの御令嬢なんだ。もし彼女と結婚すれば、逆玉間違いなしだね」
何を言い出すかと思えば、随分と俗物的なことを。
身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
「わざわざそんなことを伝えるために、遠路遥々お越しに? お疲れ様です」
「怒ってるのかい? それとも呆れてる? 私は君の敵じゃないんだけどな。むしろ本部に来てくれればいいと願っている側だからね」
「本気でそう思っているなら、僕を上に引き上げてくださいよ」
「ははは、そんな気など、これっぽっちもないくせに。でも可能性は高い。覚えておいて」
「……はい」
「あぁ、そうそう。明日からしばらく、僕や本部の人間が引っ切りなしに出入りすると思う。よろしくね」
「それはまた、どういった理由で?」
「さぁ? 俺は下っ端だからね。言われた指示に従うだけさ」
煙に巻くように笑うが、その微笑みの下に、一体どんな本性が隠れているんだか――。
それはそうと、上層部による監視が付いたのだろうか? 
(予想もしていなかったな。これで雁字搦めというわけだ)
彼女と離れてしまっていいのか? 答えはノーだ。千早の近くにいたい。
僕が何かを恐れているとしたら、それは千早を失うことに違いない。
そのためにも、これ以上勘ぐられない方がいいな。
(様子を見るか。本部の影が見えるうちは、彼女との接触を控えよう)
 
 
【5:8月31日―ユナイソン名古屋店~ユナイソン本部】
 
― では、まだ柾の離婚は成立していないのか?
― 戸籍上では、まだのようですよ。
― 彼には2人の子供がいたな。親権はどうなる?
― 柾と子供の間に、血は繋がっていないようです。奥方の連れ子だそうで。
― なんだって? 前夫との子だったのか。
― 凪さん、柾を味方につけるのは、やめた方が得策かもしれません。
― 何故だ?
― さきほど接触してみて分かりました。柾は、あなたの妹を好いている。
― 何だって?
― こうなると、柾の扱い方を考え直さなければいけませんね。あなたからすれば、妹君から引き離した方が良いのでは?
― 俺個人としては引き離したいが、既に計画は動き出している。柾が使えないとなると……。
― では、この名前は御存知ですか? 麻生環。同じく名古屋勤務の社員ですが、彼は柾と仲が良い。アキレス腱かも知れません。
― 麻生? 何者だ?
― ストーカー被害を受けてからは出世から遠のいてましたが、元は優秀な社員。彼を確保しておきましょう。役に立つかもしれない。
― そうだな、念のために。こういう言い方は何だが、駒は多い方がいい。
― この計画……本当に遂行するつもりですか? 道を間違えた場合、ぼくやあなたは勿論、妹君の経歴にも傷がつきかねませんよ。
― それを言われると耳が痛いな。だが私だって上には逆らえない。性急な軌道修正も仕方あるまい。都築、上手くやってくれ。
― えぇ、岐阜店の件はお任せ下さい。お互い上手くやりましょう。
― あぁ、互いにな。
 
 
【6:8月31日―ユナイソン本部】
 
調べた結果、柾という男の女性関係は真っ黒だった。
本当に考えて結婚したのか? と思える相手と初婚を果たしておきながら、離婚間近だと言う。
泣かした女性は数え切れず。その上、あろうことか歴の同僚、しかも歴に懸想?
名古屋店から異動させるのは歴ではなく、柾の方が適任だ。
しかしヤツを本部へ持ってこれば加納は当初の予定通り、柾に枕営業をさせるだろうし、ここは俺の一存で手早く引導を渡すしかない。
加納には異動宣告する権限がない。そこを突いての、微かな反撃。小さな反抗だが、多少の打撃ぐらいは与えられるだろう。
さてその柾だが、異動先にどこを選べば良いのか。
そこで目を付けたのは五条川店だった。
柾の担当であるコスメ部門が東海地区最下位。
成績を上げられず苦悩するか、奇跡を起こし(手腕を発揮し)売り上げを伸ばすか。
どちらに転んでもらっても構わない。俺自身には痛くも痒くもない。
前者ならば柾個人の査定に響くだけであり、後者ならば「よくぞ五条川に柾を!」と、俺の人を見る目が称えられるだけのことだ。
何より歴から柾を引き離せるのだ。これに尽きる。
候補はいわば、切り札だ。まだ使わない。必要になった時のために取っておく。
自分の進むべき道、方針が定まったところで、描いたフローチャートに落とし穴がないか何度もトレースする。
俺は……もしかしたら、こののち、ユナイソンにスカウトしてくれた現CEOの足を引っ張る『特異点』になるかもしれない。
展開次第では、飼い主に牙を立てる猛犬へと変貌するとも限らない。
情報を得れば得るほど、守るべきものが出来てくるのは当然だし、計画に変更が生じるのも仕方がない。
どこに比重を置くかで、人は意見を変えるものだ。それは俺にも言えることだが。
ピッと腕時計が鳴った。19時を告げる音。
明日になれば月が変わる。9月1日。妹の誕生日。
……しまった。まだプレゼントしか用意していない。
花束も欲しい。花屋で、今年は年の数だけの薔薇を包んで貰おうか。
動く。とにかく今は、動かなければならないことだらけだ。
車に乗り込む。駅周辺に向かいながら、俺は、遂行させるべき最終考察を頭の中でなぞり、車体を暗闇の中へ――。
 
 
2006.11.09(THU)
2018.09.09(SUN)


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2018.05.23

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26話 (―) 【夜半の嵐】―ヨワノアラシ―



【1:麻生(1)】

目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。上体を起こすなり怖気が走り、くしゃみを連発してしまう。
古来の迷信に則れば、くしゃみ三回は惚れられているんだったか。
(――はっ。そんなわけあるか。誰から想われてるんだって話だ)
苦笑し、布団を見やる。
まだ寝足りないのか頭がぼんやりするし、二度寝するため布団にもぐり直す。と、耳元でメールの着信音がした。
(誰だ、こんな朝っぱらから……)
『名前:邑 用件:忘れるな!』
(邑? 忘れるなって……何を?)
不思議に思い『邑』の項目を選んで電話を掛けるも、『電源が入っていないため、かかりません』と告げられてしまう。
メールを送るだけ送っておいて即電源を落とすとは、いかにもあいつらしい。俺に対しての立腹アピールのつもりなのだろう。
「……何の用だったんだ?」
いぶかしむ暇もなく、今度は無神経にもドアを叩く音がした。
(おいおい、ちょっと待て……! 両隣りに筒抜けちまうんだよ、このドアは……!)
隣人から苦情が来ないことを願いながら、この騒音を止めるため、慌てて玄関へ向かう。
ドアの小窓から覗くと、『邑』本人が立っていた。
(うわ、想定内とは言え、めっちゃ怒ってる)
まるで俺が小窓から覗いていることを知っているかのように、その猫のような釣り目は、小さな覗き穴を凝視していた。
(やれやれ……)
俺は、長い1日が始まることを覚悟しつつ、観念してドアを開けた。


【2:歴(1)】

非番の今日は、可燃ゴミの収集日でもあった。
社宅マンションなので、いつ誰に会うとも分からない。身なりを整え、集積所までゴミ袋を運びに行く。
(これでよし)
来た道を戻る途中、見覚えのない女性が階段を下りてくる場面に出くわした。
ステップを踏むごとに、肩まで緩く巻かれた茶髪と両耳のピアスが、跳ねるように揺れる。
走るにはロングスカートの裾が邪魔なのか、せっかくの白くておしゃれな召し物を厄介者扱いしているように見えた。
陸上競技に劣らない本格走行に、見ている私の方がはらはらする。
悪い予感は的中してしまい、彼女はステップから足を踏み外してしまった。
反射的に目を閉じるも、嫌な音が響き、彼女が落ちたのだと知る。
そろりと目を開け、恐る恐る現場の方を見やる。足首を抑えているところを見るに、打撲か、或いは捻ったのかもしれない。
慌てて駆け寄ると、女性は苦痛に顔を歪ませていた。
「いったああ……。もうやだ、ほんっと最悪……」
「あの! 大丈夫ですか!? 立てますか?」
「え……? あなた、誰?」
「ここのマンションの者です……けど」
(前にもこうして階段から落ちた人を介抱したっけ……)
そんなことを思いつつ、その腕を取り、立たせようとした。
彼女は恐々と立ち上がったものの、膝から出血したようで、白いスカートにべったりと付着してしまっていた。
「大変! 手当した方がいいですよ。うちに来て下さい」
「いいよ、大丈夫だから」
捨て鉢気味に、女性は言った。
「駄目ですよ、黴菌が入っちゃいます。その姿で街を歩いたら、何事かと思われますよ。だって……」
だって、階段から落ちる以前から、泣いていたし……。
その言葉を、私は呑み込んだ。傷の理由はともかく、泣いていた理由に踏み込んでしまってはいけないような気がして。
「消毒しましょう? 私の部屋、2階なんです。少しだけ我慢して貰えれば、すぐですから。ね?」
下から覗き込むように言うと、女性はこくりと頷いた。
彼女のペースに合わせ、ゆっくり部屋へと戻る。
ソファーに座って貰い、救急箱を用意した。
消毒を終え、ガーゼを患部に当てるまで、私も女性も無言のままだった。
最後に「ありがとう」と、小さく、だけどはっきりした声で彼女は言った。
「どう致しまして。……そうだ、そのスカート……」
本来なら、すぐ水洗いすれば少しは落ちただろう血染み。けれど患部の消毒の方が先だったため、後回しになってしまった。
すっかり染み付いてしまった血を洗い流すには、プロに任せるしかないかもしれない。
「あぁ……うん、クリーニングに出すよ。心配してくれてありがとうね」
「よかったら、私の服を着ませんか? 61ですけど……」
「あ、一緒だ。……ごめんね、お願い出来るかな……」
「勿論! 待ってて下さいね、すぐ持って来ます」
タンスからジーンズを引っ張り出してくると、彼女に手渡した。
幸いカジュアルなトップスだったため、ジーンズでも何ら違和感はない。
「うん、丁度いい。何から何までありがとう。あなたがいてくれて良かった。あ、私は邑(ゆう)っていうの。よろしく」
「千早歴です。よろしく。えっと……邑さんは、ユナイソンの社員でしたっけ?」
「ううん、違う。今日は兄に会いに来ただけなんだ」
(お兄さんに会いに来て……泣いていたの?)
そんな質問、しちゃいけないんだろう。とはいえ、気にはなる。
「遊びに行く約束してたんだけど、電話しても繋がらないから直接迎えに来たの。でも、今日のこと忘れてたみたい」
「そんな……」
「あ、そんな顔しないで。これが彼氏だったら修羅場だったろうけどさ、相手は単なる兄貴なんだし。
向こうから『行くぞ』って誘ってきたのに、約束の時間になってもちっとも待ち合わせ場所に現れなくて。
仕方ないから直接迎えに来たんだけど、『今日だったか?』だの『まだ準備出来てない』だの言うから腹立っちゃった。
もういい! って怒鳴りつけて帰ろうとしたら、このざま。迷惑かけて本当にごめんね。服さ、洗って返すから」
「邑さんさえ良ければ貰ってやって下さい。私、ジーンズよりスカート派なんです。そのジーンズ、穿く機会がなくて」
「本当に? 綺麗な青色だから、一目見て気に入ったんだよね。じゃあお言葉に甘えちゃう。ありがとう」
「どう致しまして」
「それじゃそろそろ、おいとまするね」
「あ、はい。下まで送らせて下さい」
邑さんの歩幅に合わせて階下まで降りる。若干傷口をかばっているのか、その足はたどたどしい。
「大丈夫ですか? タクシー呼びましょうか」
「そんなオーバーな。これくらい平気だって。駅だって近いし、地元着いたら親呼ぶし」
「そうですか? それならいいんですけど……。本当に気を付けて下さいね。また遊びに来てください」
「うん。ありがと。お言葉に甘えて、また来るから。それじゃあね」
邑さんが手を振った時だった。『邑!』と彼女の名前を呼ぶ声が、頭上から降ってきた。
馴染み深いその声に、心臓がどきりと高跳びしてしまう。
「待て、邑!」
(この声、麻生さん?)
「げ、お兄ちゃんっ」
(お兄ちゃん? 麻生さんが!?)
「そこから絶対動くなよ!? 今そっちに行くからな!」
邑さんはその言葉を聞くなり、天の邪鬼よろしく駆け出した。
その突飛な行動も予想済みだったのか、麻生さんは舌打ちしつつもすぐに三段飛ばしで階段を降りてくる。
私も邑さんの後を追ったけれど、角を曲がった瞬間に見失ってしまった。
普段はのんびりしているとか大人しいなどと言われている私だけど、走りには自信があっただけに、虚を突かれてしまった。
その場で呆然としていると、追い付いた麻生さんから、「さっき一緒にいたやつ、どっちに行った?」と尋ねられた。
私は挨拶と質問の答えを全て端折り、単刀直入に訴えた。
「実はね麻生さん、邑さん、そこの階段から落ちて、膝から出血を……足を怪我してるんです」
「そうなのか? だとしても、ちぃが気に病むことなんてないからな。あいつは昔からそそっかしいんだ。それより自転車あるか?」
「折り畳み式のが部屋に」
「走った方が早いな」
「自宅に帰るようなことを言ってましたし、駅に向かったんじゃないかしら」
「サンキュ」
麻生さんは再び走り出し、邑さんを探しに行った。
私がこの場に留まっていても仕方がない。とはいえ、あんな場面を見てしまっては、部屋でのんびり寛ぐ気にはなれなかった。
しばらくマンションの出入り口で待っていようと思い、エントランスに設置された数人掛けのベンチに腰を下ろすことにした。
これなら麻生さんが戻って来てもすぐに気付けるからだ。
10分も経たないうちに、麻生さんが戻って来た。驚くことに、邑さんも一緒だ。
「ちぃ……千早さん、どうしたんだ?」
麻生さんが私の呼び方を替えたのは、邑さんの目があったからに違いない。
「あー……いえ、特に理由はないです」
私がここで待っていたのは、言わば個人的理由からだ。単に私が待ちたかったから。それだけ。
『麻生さんと邑さんが心配だったから』。そんな本心は、相手からしたら重いような気がして、言えなかった。
「気分的にその……紅茶が飲みたくて」
私が指し示した方向には自動販売機がある。もちろん紅茶がラインナップされていることは把握済みだ。
ただし今日は買っていない。そこだけがダミーだった。
「こいつ、隣りの公園にいたよ。おい、邑。千早さんに迷惑をかけたこと、ちゃんと謝りな」
厳しい声で麻生さんは言った。邑さんの心中を思うと、それはちょっと酷なような気がして、
「麻生さん、私は全然……」
気にしてません――。そう固辞する私に、麻生さんは首を振る。
まるで、『こういうことこそ、きちんとしないと』とでも言うように。
「ごめんなさい、歴さん」
「色々と迷惑を掛けてすまなかった。それに邑も。元はと言えば、俺が約束を忘れていたのが原因だったんだよな。ごめん」
「……もういいよ。そんな素直に謝られたら、許さないわけにはいかないじゃん」
いまや邑さんの顔は、出会ったときの悲しげな表情とは違っていた。
(麻生さんの言葉ひとつで、ここまで一喜一憂出来るなんて。本当に仲のいい兄妹なんだな)
麻生さんは邑さんの足を気遣いながら、ゆっくりとエレベータに乗り込んだ。手を振りながら、私はふたりを見送った。


【3:歴(2)】

夕方になり、麻生さんから私のスマホにメッセージが届いた。
足の怪我によって遊園地へ行けなくなった邑さんは、麻生さんの部屋でケーキや料理を作ったのだそうだ。
その報告の最後に、『ちぃ、今から俺の部屋に来れるか?』と問い掛けがあった。『はい』とだけ送る。
すると今度はメッセージではなく、電話がかかってきた。
「邑が張り切って、結構な量作っちまってさ。一緒に食べてくれると助かるんだが……」
「私でよければ、喜んで伺います」
「助かる。それと、悪いがもうひとつ頼みをきいてくれないか? 柾を連れて来て欲しいんだ」
「柾さんを? 分かりました」
「一緒に来てくれると助かる。ほんとに凄い量なんだ。もう仕事終わってるはずだから、家にいると思うんだ」
「じゃあ、柾さんに声を掛けてから伺いますね」
時計を見ると19時少し前。早番か中番なら、帰って来ているはずの時間だった。
自分の玄関を施錠し、目的地に向かう。すると柾さんの部屋のドア前で、驚くような光景が目に飛び込んで来た。
柾さんと、見知らぬ美女の組み合わせだ。柾さんは女性の首に両手を回していた。
そのままの状態で、ふたりが見つめ合っている。
「やだ、こら、直っ! くすぐったいって言ってるでしょ?」
「恭子が暴れるからだろう。まったく、自分からせがんだくせに……」
溜息をつきつつも、彼の両手はなお女性の首に絡んだままだ。
(嘘……。こんなところで……キスシーン……!?)
見付かってはまずい。慌てて身を隠す。
逸る鼓動を押さえていると、柾さんが「これで満足か?」と確認している声が聴こえてきた。
「えぇ、上出来よ」
(な、何が満足で、何が上出来なの……!? キスがってこと!?)
刺激が強過ぎて、頭がどうにかなりそうだ。  
柾さんを連れて行きたいのは山々だけれど、のこのこ姿を現していい雰囲気じゃないことぐらい、私にだって分かる。
そもそも情けないことに足が震えてしまっている。こんな状態では麻生さんのオーダーに応えるなんて土台無理な話だ。
(一体、彼女は誰……?)
艶めかしくゴージャスで、身に着けている貴金属も、小振りなものながら高価なように見えた。
しかも名前を呼び合う仲なのだから、俄然気になって仕方がない。
(モヤモヤしてソワソワする。なんだか落ち着かないわ)
「ちぃ、こんなところにいたのか。遅いからどうしたかと思ったぞ」
背後から声を掛けられ、思わず飛び上がりそうになった。いつの間にか麻生さんが私の隣りに立っていた。
「え、あ、す、すみません……!」
私が遅かったから、わざわざ様子を見に来てくれたのだろう。そう思うと申し訳なくて、頭を下げた。
「いや、待て待て。謝らなくていいんだ。それよりどうした? そんなところに突っ立って。柾はいなかったのか?」
「あ、いえ。その……」
歯切れが悪いのを不審に思っただろう。麻生さんは「ほら、柾んとこに行くぞ」と私を促す。
(や、やだ……行きたくない……。見たくない……!)
私の思いなど知るよしもなく、麻生さんは曲がり角を進み、柾さんの部屋へと向かってしまう。
「なんだ、いるじゃないか」
そう言い掛けた麻生さんの言葉が止まった。と同時に、柾さんも私たちに気付いたようだ。
「麻生? に、千早さん……?」
「あら、麻生君! お久し振り。元気だった?」
(え……。このひと、麻生さんとも知り合いなの……?)
「……恭子さん……。御無沙汰してます。今日はどうしてここに?」
穏やかな笑みを浮かべ、麻生さんは尋ねる。
一度も見たことのない、ゆったりした麻生さんの挨拶の仕方にどきりした。おとなの男性の表情、仕草が拍車をかける。
私にはそんな顔も対応もしてくれたことがないのに。残念がった自分に気付き、一瞬焦った。
「今から友人の結婚式の二次会なんだけどね、会場がここから近いから、ついでに会いに来たのよ、直に。
お酒飲むから今夜は泊まらせてって頼んだら、断られちゃった。薄情よねぇ」
意味深な笑みで柾さんを見る美女は、あまりにも柾さんにお似合いだ。自分が場違いなように思え、惨めさを覚えてしまう。
「ねぇ直、そちらの可愛らしい女性はどなた?」
「紹介するよ。同じ職場の千早さんだ。千早、彼女は恭子。僕の……」
「えぇ!? 信じられないわ。本当に単なる同僚なの? 直の恋人じゃなくて?」
言うなり、恭子さんの顔が近付く。とても芳しい香りに恐れ戦いてしまう。
「かんわいぃ。こんな妹が欲しい」
「恭子。彼女に失礼だから」
「ふふふ、ごめんなさい。じゃあ、そろそろ行くわね。またね、麻生君。千早さんも」
「は、はい」
「恭子さん、また」
(『また』? 麻生さん、恭子さんに会うつもりなの……?)
言葉ひとつひとつに、心が掻き乱される。
(私……どうして……)
ざわめく心には蓋が必要だった。何かに気付いてしまう前に、早く閉じてしまわなければ。


【4:歴(3)】

「驚いたな。すごい種類だ」
「私の悪い癖なの。作り始めたら止まらなくて。柾さん、たくさん食べてくださいね」
楽しく料理を分け合う邑さんとは大違い。柾さんをまともに見ることが出来ない。
恭子さんの存在が、気になって仕方ない。締め付けられるように心が苦しい。
(柾さん、あの美女とどういうご関係ですか? そんな風に訊ける勇気が私にあれば……)
「姉がすまなかったな」
柾さんがサラダを自分の皿に移しながら、ひとり落ち込んでいた私に言う。
「姉?」
「長女の恭子。僕の姉だ」
「おね……さん?」
反芻する私の声は、少し掠れていた。
私が見た、泣きぼくろが印象的な、日本人の体型とは思えない美女が長女の恭子さん。科学者なのだそうだ。
他にも姉がいるらしく、上から順に繋げると『きょうこ→こはる→るいな→なおちか』と、名前でしりとりが出来ると聞いて、更に驚いた。
柾家は少し特殊な環境にあるのかもしれない。
「少しは安心して貰えただろうか」
そう言って、静かに微笑む柾さん。
安心……には、まだ至らなかった。
「で、でも……! 柾さん、恭子さんの首に手を回していて……。『これで満足か?』って……。それってつまり……」
「?」
柾さんから『何を言ってるんだ?』という目で見られる。
それでも、私のことばの意味を理解するべく、柾さんはしばらく考え込んでいた。
「……あぁ、そういうことか」
腑に落ちたのか、柾さんは相好を崩して私に言った。
「ネックレスを付けてあげてたんだ。あの小さな輪っかが苦手らしくてね。科学者のくせに細かい作業が苦手なんておかしいだろう?」
「ね、ネックレス」
言われてみれば、なんてことはない。すべてのつじつまが合ってしまう。
「ひょっとして、僕がキスしてると思った?」
「!」
ぼん、と顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「なるほど、そう解釈されてもおかしくない流れではあったかな。
しかしそれを指摘してくるということは、千早さん、あのとき僕を意識してくれてた?」
「あ、あの……そ、それは……」
微笑する柾さん相手に、私はたじたじだ。
「嬉しいよ」
「……っ」
とどめの一撃に、私は二の句が出せずにいた。
(どうせからかわれてるんだわ。いつもみたいに……)
柾さんの謎は解けた。けれど、まだ麻生さんの問題が残ってる。
恭子さんは麻生さんを知っていた。いつからの付き合いで、どれほどの仲なのだろうと勘ぐってしまう。
「……っくしょん!」
思考を遮断するかのように聴こえたのは、麻生さんのくしゃみだった。間もなくしてドンという鈍い音。
「お兄ちゃん!? しっかりして、お兄ちゃん! 柾さん、歴さん、お兄ちゃんが倒れた……!」
「麻生さん!?」
「熱いな……。熱があるのか」
麻生さんの額に触れた柾さんが症状を確かめ、麻生さんを背負ってベッドまで運ぶ。
こうなってしまっては、夕食会どころではない。3人で手分けして、洗面器やタオル、パジャマなどをかき集め始めた。


【5:麻生(2)】

全身が燃えるように熱かった。特に顔が半端なく、首を伝い続ける何かが、とてつもなく気持ち悪かった。
それが何てことはない、自分の汗であることに、俺は思い至る。
気だるい肢体、火照る肉体、朦朧とする意識、三半規管の異常。ひどい耳鳴りがする。
重たい瞼をむりやりこじ開ければ、そこにあるのは一切の闇。
俺は一体どうしたんだ? 目が見えなくなったのか? 
……そうか、夜中か。だから何も見えないのか。
ホッとひと安堵するも、咽喉が渇いて仕方なく、唇を開ける。やばい、咽喉が痛い……。
水を飲みに立とうとして、違和感に気付いた。
どうやら自由が利かないほど熱があるようで、すぐにふらりとベッドに倒れ込んでしまった。
マジかよ……。そういえば、起きてすぐにくしゃみを連発していたっけ……。
諦めよう。水は諦める。今は眠りたい。けど、着ているものが汗を含んでいて気持ち悪い。着替えたい。
何を言ってるんだか。水すら飲みに行けない状態なのに、立てるはずがないんだ……。
そのとき、相変わらず続く耳鳴りとは別に、聞き馴染んだ男女の声が隣りの部屋から聴こえてきた。
「あとは僕が診ているから、キミはもう部屋に戻りなさい」
「私は休みですから大丈夫です。柾さんこそ、今日も出勤ですよね?」
「徹夜は慣れてるさ」
「でも終電を逃した邑さんを送るために遠路遥々関市まで送ってくださったばかりですし、お疲れのはずです」
「平気だよ」
「駄目です。お願いですから、少しは休んでください。私なら、隣りの部屋で仮眠させて貰ったお陰で大丈夫ですから」
「そうか? じゃあお言葉に甘えて、少しだけ部屋に戻って仮眠してくる。悪いな。後から交代しよう」
「はい。お休みなさい」
柾なのか……? 一体、誰と話してる? そもそも、どうしてここにいる……?
駄目だ、頭が重い。瞼も。
閉ざされる視界。そして、現の世界。


【6:歴(4)】

「失礼します。入りますね、麻生さん」
返事はない。近くに寄ると、麻生さんはうなされていた。
怖い夢でも見ているのだろうか。それとも、高熱が彼を苦しめているのか。細かい汗が浮き出ては、つつと流れ落ちる。
見えるところはその都度拭いていた。見えない箇所も拭いてあげたいのだけど、何度も躊躇してしまう。 
(でも、麻生さんは苦しんでいる患者なのよ。汗まみれだし、気持ち悪い思いをしているに違いないわ)
「……麻生さん、失礼します。勝手にごめんなさい」
意を決して掛け布団を捲る。邑さんが羽織らせたパジャマは、既に汗によって湿っていた。
(歴、落ち着いて。彼は病人。これは看病よ。早く汗を拭いてあげないと)
自分に言い聞かせながら、震える手でパジャマのボタンを外してゆく。露わになった上半身は、華奢めいていたものの、雄雄しかった。
男性的なその身体を前に、心臓がどうにかなってしまいそうだ。私の頬が熱いのは、麻生さんの熱がうつったからだろうか。 
(恥ずかしがってる場合じゃないわ。早く終わらせなければ、悪化させてしまう)
意を決し、かたく絞った冷たいタオルでまずは肩を拭く。次は腕を。手首、胸板、脇腹も。
「寒……い……」
小さな声が聴こえた。
(そうだ、早く着替えさせなければ)
柾さんが置いてくれたのか、男物のTシャツがすぐ近くにあった。苦労しながらそれを着させ、布団をかぶせる。
「麻生さん、大丈夫ですか?」
返事なんて期待してない。それでも。
夢と現を何度も何度も行ったり来たりする、そんな夜に。
(私の声は、届いてますか?)
「さっき――柾さんと恭子さんとの仲を疑ってしまったけれど、ふたりがご姉弟だと知って、心から安心しました。
でも、だったらどうして、麻生さんと恭子さんの仲がこんなに気になってしまうの……?
私は柾さんが好きだったはずなのに、いつから……? 私の心のなかに、麻生さん、貴方もいる……」
呟いてから我に返る。聞かれていないとはいえ、恐ろしい言葉だったことには変わりない。
これは本心。心にわだかまっていた、悩みの塊、そのもの。
柾さんだけじゃない。麻生さんもなのだ。いつの間にか麻生さんに吸い寄せられている自分がいる。
(私は卑劣な人間だわ。……ごめんなさい、麻生さん。弱音を吐いてしまいました)
言葉に出来なかった台詞。その上に被さってきた言葉は、
「……ちぃ、なのか?」
「……!」
「俺……あぁ、何だ、夢を見てるのか……。ちぃの手、冷たくて……気持ちいい……」
(今の言葉、聞かれてた――!? ううん、そんなハズは……そんなハズない)
「ちぃがいてくれるなら……安心して寝られるな。……役得だぜ。ざまーみろ、柾」
「麻生さん……」
「夢、でもいい。いや、夢……だからこそ言える。今だけは……傍にいて欲しい……。行くな……」
「――もちろんです。私はここにいます、麻生さん」
お願い。繋ぎ止めていて下さい、柾さん。柾さんを好きなままでいさせてください。私から、麻生さんを背かせて。
(でも、今日だけは……熱が下がるまでは。貴方の隣りにいるわ)
これは夢だから。朝が来れば、忘れるの。心が揺らいでしまった、今夜のことは。


【7:麻生(3)】

誰かの冷たい指先が、火照った頬を伝う。
もっとその感覚を味わっていたいのに、朦朧とする意識がそれを許さない。
余韻に浸り、理性を制御し、そして夢を見る。
夢の中で微笑む彼女は、なぜだかとても悲しそうだ。
見たくないから消えてしまえ。
そう願うのに、いやだ、行かないでくれと切願する自分がいる。
夢ならとっとと覚めてくれ。近くにいるのに遠く感じる悪夢など、さっさと終わってしまえ。
眠りたい。夢など見る暇などないほど深く、深く、深く眠ってしまいたい。
最後に見たのは涙を浮かべた彼女の顔。
あんたは夢の中でさえ泣くんだな。
やめろよ。俺なんかのために泣くんじゃない。
「おやすみなさい、麻生さん」
ポタリと落ちた涙の雫が、やけに温かいなんて。
あぁ、本当に。本当に、変な夢だ。
でも、幸せに思うんだ。


2007.10.26
2018.05.23


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Last updated  2018.05.23 21:37:08
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2018.04.19

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25話 (柾) 【捲土重来】―ケンドチョウライ―



16時台のコスメ売り場には学校帰りの女子高生の姿が目立つ。
一風変わったデザインは、名の知れた有名な進学高の制服だ。二三人の友達連れが何組か、売り場を行き来する。
「これカワイイ」「あれも欲しい」「でもお金が足りない」と一喜一憂する彼女たち。
もう化粧をする年頃なのかと驚いたのは、この売り場を任された昔のことだ。いまではすっかりそんな光景にも慣れていた。
商品の新規陳列レポートを確認しながら売り場を廻っていると、1人の女子高生が商品を手に取っているのが目に入った。
彼女は躊躇いもなく、それを制服の上に羽織ったグレーのカーディガンポケットに忍ばせる。
(――ちっ。万引きとは、またイヤな場面に出くわしたものだ)
やれやれと思いつつも、≪万引きに関するマニュアル≫に則り、しばらく様子を見ることにする。
ひとつ腑に落ちない点は、彼女の態度だ。どことなく目がぼんやりしていて、切羽詰まった様子は見受けられない。
ひとの気配や監視カメラを警戒しながら盗るのが定石なのに、彼女は周囲などものともせず、堂々と盗みを働いた。
(常習犯か?)
そんな考えも一瞬頭をかすめたのだが、長年の勘が『彼女は常習犯ではない』とシグナルを発している。
何にせよ、見張り続ける必要があった。
やや離れた位置から彼女を尾行する。歩く速度は早くもなければ遅くもなく、恐ろしいぐらいに普通だ。
僕以外の者がいまの彼女を見たところで、こんな有名進学校生が万引き犯(仮)だとは、誰も夢にも思うまい。
例えポケットに入れてしまったとしても、あとで商品を戻せば見逃せるのだが、一歩でも外に出れば万引きの成立だ。
(さて、彼女はどうするのか)
呆気なく店から出た。こうなるともう、彼女を庇う理由はない。
PHSで容赦なく保安係の投入を要請し、万引きの現行犯として、保安室まで連行してもらった。


***

「どうなった?」
件の少女を任せた保安員に経過を尋ねると、およそ保安員には見えないミニスカートを穿いた女性は軽い溜息をついた。
「大人しいもんよ。素直に犯行を認めたわ。初犯だから警察も呼ばなかった。学校にも連絡はしない。
ただ、母親には連絡したわ。母子家庭だそうで、勤め先からこちらに向かってる最中よ。厳重注意で終わりそうね」
「注意だけで済みそうなのか?」
「反抗も、抵抗もしないし、反省してる。
母親が来たら、管理職立ち合いのもと、盗んだ商品を買い取って貰って、誓約書にサインして貰うことになるわ」
「彼女、まだ隣りの部屋に?」
「えぇ、いるわ。母親が来るまであと50分はかかるそうよ。それまでここでモニタの監視してるしかないわ」
「商品のことで彼女と話がしたいんだが、可能か?」
「構わないわ」
保安員はどうぞとばかりに手の平を保安室のドアに向け、僕の入室許可を出した。


***

18時。時間を確認してから保安室に入る。狭くて殺風景で、簡素なものしかこの部屋にはない。
彼女は椅子に座ったまま微動だにしなかった。
誰が出入りしようが自分には関係ないとでもいうような心の断絶を感じた。
机の上には、彼女が盗った口紅が置いてあった。はっきり言って、全く人気のないシリーズだ。
「やぁ」
さっきまで保安官が座っていたであろう椅子に腰掛けると彼女に話しかけたが、反応はない。
(こんな調子で本当に会話が成り立ったのか?)
名前や年齢を尋ねても、彼女は返事を寄越すどころか視線すら動かさなかった。取り付く島もないとはこのことか。
机に置かれていたファイルに目を通す。要注意人物リストの一番上には既に彼女の名前と写真がファイリングされていた。
『神木彩/カミキアヤ/17歳/名古屋市×××高校在学』云々。
前髪が邪魔をして表情は見えないが、染めていない髪、短くないスカートなどは、生徒手帳に記載された規定そのものだ。
「神木さんとやら。なぜこれにしたんだ?」
その問いに、神木さんは微かに顔をあげた。僕を見る目にはマスカラも無塗布で、僅かに震える唇はグロスも注していない。
「キミが盗んだこの商品は、僕が言うのもなんだけど、何で置いてるんだろうっていうぐらい全く売れないものなんだ。
どうせ盗むなら、高価なものや、人気の高いものの方がいいに決まってる。だからそれを選んだキミが不思議でならなくてね」
ようやく彼女は、蚊の鳴くような小さな声で「知らない」とだけ告げた。
「知らない? 何を知らない?」
「他の商品なんて知らない。メイクの仕方なんて、分からない」
ちらりと視線を動かせば、机の上にはファイルとは別に、高価そうな参考書や問題集が累々と積み上げられていた。
どうやら保安員は身体検査に加え、鞄の持ち物検査もしたらしいが、それがそのままの状態になってしまっている。
(しかしこの量とは……。さすが、県内でも優秀な進学校なだけあるな)
ファイルの犯行動機の項目には『なんとなく』や『よく覚えていない』という曖昧なことばしか並んでいない。
こうなると邪推するしかないのだが、学業に励むあまり、参考書を買い続けてコスメを買うお金がなかった口だろうか。
あるいは有名な進学校の生徒だ、成績のことでムシャクシャしていたのかもしれない。
勉強ばかりでオシャレのおの字も知らず、今回たまたま魔が差した――。そんなところだろうか?
(ふむ)
「ここで待っていてくれないか」
僕の問いかけに、神木さんは不安げな顔で小さく頷いた。
ドアを開けると、隣りの部屋で監視モニタを凝視していた保安員が尋ねてきた。
「あら、柾さん。話は終わった?」
「悪いが、もう少しだけ話がしたいんだ。いいかな?」
「変なことさえしなければね」
「恩にきる」
保安員はなおもモニタに視線を送り、店内に異常がないか、全神経を研ぎ澄ませている。
その横を突っ切ると、コスメ売り場に向かった。


***

机の上に、新品のコスメ類を並べていく。
いまやメーカーの顧客争奪戦は苛烈の一途をたどり、いかに一瞬にして目を引くかを意識して作られている。
結果、凝ったデザインの容器が多いわけだが、彼女も例外ではなかった。
彼女は僕の予期せぬ行動に唖然としていたものの、目の前に散乱する見慣れない『宝石』の美しさに目を瞠った。
中でもペン状のようなものを見つけ、不思議そうにしている。
彼女にとってはさながら参考書にラインを引くためのマーカーペンにしか見えないのだろう。
「蓋を開ければ違いに気付くと思うが、パッと見ただけではまず分からないデザインだろう? それはアイラインだ」
「……名前は聞いたことがあります。アイラインってこんな形をしてるんですね」
やっと感嘆めいたことばを引き出すことに成功した。
「顔をあげて」
「?」
「十分綺麗な目だ。左目を閉じて」
驚いた彼女は、身をよじろうとした。
「動くな。じっとして」
「!」
そんなつもりはなかったのだが、彼女には鋭い声として響いたかもしれない。彼女は怖々と椅子に座りなおした。
じっとしていることを確認してから左目にラインを施す。続いて右目も同じように。
「鏡はあるか?」
キャップを閉めながら聞くと、彼女は首を振った。化粧とはとことん無縁なのだろう。綺麗な肌をしているだけに意外だった。
「じゃあこの手鏡を持って。これがキミだ」
手鏡を渡すとおずおずと自分の顔の前に近付けた彼女は、己の姿を確認するなり「これが?」と驚き、何度も目を瞬かせた。
まるで固い意志を持ったようだろう? と聞くと、首肯する。
「鏡を置いて、顔をこっちに向けて」
一瞬逡巡した彼女だったが、言われた通り鏡を机の上に置くと、身体をこちらに向けた。
「次はアイブロウ。エキゾチックな顔立ちだし、オレンジゴールドが映えるかもな。単に僕の好みだが。
今度は口を少し開けて」
恥ずかしそうにしつつも微かに開いた唇に、スパチュラで切り取った口紅をリップブラシに付けながらなぞっていく。
「ティッシュを軽く噛んで」
きゅっとティッシュを噛ませ、はみ出た箇所は拭ってやる。下唇の中央にだけグロスを施し、これで唇は完成だ。
「さて、アイシャドウはどれにする? 選んでみるか?」
戸惑っている彼女は、ふるふると顔を横に振った。降参のポーズのつもりなのだろう。
「神木さんはイエローベースだからな。ここはカーキにしてみようか」
パウダーアイシャドウを瞼に乗せ、グラデーションを作っていく。多少時間はかかったが、その分綺麗に塗れたと思う。
「ほら、どうだ?」
手鏡を彼女に向けてやる。
普段の自分とかけ離れた姿を見て戸惑ってはいるものの、瞳の奥に宿った喜びの光は隠し切れていない。
(あぁ――そうだった、僕はこの瞬間が好きなんだ)
生かし切れていない魅力を引き出し、自分は綺麗なのだと気付かせてあげる手助けをしたくてコスメ売り場を希望した。
初心に戻れた気がして、胸に熱いものが込み上げてくる。これはしばらく味わっていなかったもの――『手応え』だ。
(まさかこんな感情が再び芽生えるなんて)
チーフになってからは統括業務に忙しく、美容部員の仕事から完全に手を引いていただけに、純粋に楽しく思える。
(今度、最新の知識を吸収しに、化粧品会社のメイク勉強会に参加するか)
最近はまんねりなルーチンワークが祟り、勤務意欲の乏しさにどうしたものかと危機感を抱いていたところだった。
だから今回、目標ができたことが嬉しくもあり、まだまだ向上心を失っていなかった自分が誇らしくもあった。
「これが……私?」
「キミだよ。間違いなくね」
「嘘みたい。だってこんなの……いつもの自分じゃない……! まるで雑誌に載ってる子みたい……」
「綺麗だ」
「お、お世辞は結構です……」
急に顔が真っ赤になり、慌てた様子で伏せるように手鏡を机に置く。
「お世辞じゃない。勉強もお洒落ももっと楽しめばいい。誰も止めやしない。綺麗な子が増えれば世の男が喜ぶ。それだけさ」
「でも……! お母さんが……お母さんが、勉強を疎かにしてはいけないって。
私、お金を使うたびにお小遣い帳の記入をしなくちゃいけないんです。でもメイク道具なんて買ったら絶対怒られる。だから……」
しゅんと項垂れるところを見るに、それが動機の根幹に繋がっているのかもしれないと僕は思った。
おしゃれに憧れる一方で、母への期待を裏切るわけにはいかないジレンマ。
『うつつを抜かしている場合ではない』と己を叱咤するも、煌びやかな売り場は年頃の少女にはいささか刺激が強すぎた。
心に閉じ込めていた羨望が溢れ出し、今回万引きという手段に手を染めることになってしまったのだろう。
「お洒落をすると、勉強が疎かになるのか? 院まで行ったが、そんなおかしな方程式は知らないな」
彼女がハッとした顔で僕を見返した。そんな考え方もあるのかと、初めて気付いた様子で。
「逆にその発想がよろしくない。そんなに堅く考えてしまうと、ますます自分を追い込むことになるぞ。さっきのキミみたいに」
「……ごめんなさい」
深く反省しているようだ。決して涙は見せず、歯を食いしばって、自分がしたことの罪の重さを認識しているようだった。
きっと彼女は大丈夫だろう。そんな根拠のない自信が、なぜか僕の胸を満たした。
(今回は警察に通報しないケースだったな。その場合だと、学校に報告するかしないかは生徒の任意次第、だっけか)
「……あぁ、そうだ」
危うく忘れるところだった。一緒に持って来たクレンジングシートを手渡す。
「これでメイクを落とすんだ」
「え……でも……」
せっかくの変身が解けてしまうことを残念がっていることは、手に取るように分かった。
だが彼女の場合、それではいけないのだ。僕は懇々と説き伏せる。
「じきにお母さんが見える。その時にそんなメイクをしていたら、心からの謝罪も嘘臭く聴こえてしまうぞ。
名残惜しいだろうが、いますぐそのシートでメイクを全部落とすんだ」
「で、でも……せっかく……貴方が……褒め……褒めてくれたのに」
(なんてことだ。ここで泣くのか?)
万引きの説教時には涙すら見せなかったというのに。
彼女に女性としての片鱗を見たような気がした。蝶は羽化したことで羽根を広げ、羽ばたきたがっている。
ならば僕はその手助けをするより他に道はない。
「2週間後の土曜日、午後15時、コスメ売り場だ。どうだ、来れそうか?」
彩はきょとんとしていたが、次の瞬間、こくんと頷いた。
「よし、いい子だ。しばらく辛い日々が続くだろうが、2週間後にまたメイクをしてあげるから。頑張れるね?」
「……はい!」
「もし売り場に僕の姿がなかったら、近くのスタッフに『柾を訪ねてきた、アポ済みだ』と言えばいいから」
「分かりました。柾さんですね。……柾さん、今日は本当にごめんなさい。でも……ありがとうございました」
「あぁ。じゃあな。2週間後に会おう」
この約束が彼女にとっていい方向へ向かえばいいと願わずにいられない。
僕はコンコンとドアを叩き、隣りの部屋を開ける。
「あら。もう用は済んだ?」
「あぁ、済んだよ。ありがとう」
まだ仕事が残っているし、これ以上ここに留まるわけにはいかない。保安員にお礼を言い、退室した。


***

2週間があっという間に過ぎ、約束の土曜日午後15時になった。
そろそろ来る頃かと思い、売り場で陳列の作業をしていると、彩は時間通りに現れた。
今日は私服姿だ。白いワンピースに、黄色のカーディガンを羽織っている。
「あの……柾さん、こんにちは。その節は、本当に申し訳ありませんでした」
まっすぐに僕の目を見、頭を下げる。
「神木さん、髪切ったんだな」
指摘すると、頭を上げた彩は照れくさそうにボブカットの毛先に触れた。
「はい。あれから親にこっぴどく叱られて、私が悪かったこと、ちゃんと反省していることを伝えました。
学校にも報告して、……優秀な君が? って驚かれちゃったけど……もう期待を裏切る真似はしないと誓いました。
謹慎処分や退学処分を覚悟してたんですけど、ずるいことに反省文5枚の提出だけで済んでしまいました。
髪を切ったのは、私なりのけじめです。できれば、学校にはもっと重く罰して欲しかった……」
「誠意が伝わったんだ。上辺だけじゃなく、心の底から深く反省していることが。ありがたいことじゃないか」
「はい。もう私、二度とぐれたりしません。親も学校も私を気にかけて、心配してくれていることも分かりましたし。
それもこれも、柾さんのお陰です」
「僕の?」
「そうです。柾さんが私の気持ちを肯定してくれたこと、本当に嬉しかったんです。
勉強の大切さも否定せず、その上でおしゃれすることもこれから頑張れって仰ってくださいましたよね。
必死に机に齧りついてきた今までの私の行為は決して無駄なんかじゃなかった、そう思ったら報われたような気がしました。
柾さんの言葉が、ストンと胸に落ちてきたんです」
「そう言って貰えて、僕こそ嬉しい」
彼女の目は既に前を向いていて、きらきらと眩しかった。
これなら本当に大丈夫だろう。
「今日キミに来て貰ったのは他でもない。キミさえ良ければ、メイクをしていかないか?
今日は、特に腕のいい美容部員が出勤してるんだ。彼女はあらゆる賞を総なめにしているほどの実力者でね。
普段は指名客によって予約が埋まってるんだが、15時から16時まではスケジュールを空けて貰った。
キミがメイク体験を望むなら、いますぐ彼女を呼び出すよ」
店内用のPHSを取り出し、短縮番号を押せるようにスタンバイする。
「あの……それは……、メイク体験はとても魅力的で……ぜひお願いしたいです。でも……」
「うん?」
「あの……せっかくですけど……その女性じゃなくて……あの……出来れば柾さんがいいです。……駄目ですか?」
「僕?」
「私、出来れば柾さんにもう一度お願いしたいです……!」
顔を真っ赤にしながら彩は訴えた。まさかそんな提案をされるとは思わず、僕は虚を突かれる。
「いや、だが僕はそんなに巧いわけでは……。多忙を理由にメイク講座の受講もさぼっていたし……」
「でも、この間の柾さんのメイク、私、とても好きだって思いました。だ、だから……」
たどたどしく自分の想いを綴る少女に対し、これ以上ノーと抗い続けることは、僕の美学に反した。
「――光栄だ。分かった、僕で良ければ」
「はい! 柾さんがいいです」
ホッとしたように、くしゃりと笑う。笑顔は満開のひまわりを彷彿させるほど明るい。
「きっと、もっと綺麗になるんだろうなぁ」
「え?」
「いや、何でもない。じゃあこっちに来て」
いやはや、恐れ入った。本当に、女性が花を咲かすのは早い。あっという間だ。
彩はこれからどんどん綺麗になっていくことだろう。


***

彩の帰り際、重いけど持てる? と、コスメケースを渡した。
「こっちの勉強も、後々必要になってくるから」
「これは……?」
「僕からのプレゼント。自分で研究してみるんだ。こればかりは、実践あるのみだから」
中を開けると、彩の口から感嘆の声が零れた。
ケースの中には化粧水から乳液、クレンジングオイルに始まり、メイク道具が一式詰め込んである。どれも新品だ。
実は千早歴が好きなブランドのラインで揃えてみたのだが、それは僕だけの秘密だ。
「でも、こんなに沢山……! とても素敵だと思います。めちゃくちゃ嬉しいですし。でも、何だか申し訳なくて……」
「キミを数時間拘束してしまったお詫びと、勝手に女の子の肌に触ってしまったお詫びだ。もう無茶はするなよ」
「ありがとう……ございますっ……! 本当に……本当に、ありがとう、柾さん!
せめてもの罪滅ぼしというか、お礼に、私、これからは柾さんがいるところで化粧品を買いますね。
こんなに良くして頂いたのに、それぐらいのお礼しか出来なくてごめんなさい。また相談に乗っていただけると嬉しいです」
「いつでも歓迎するよ」
僕のことばに、彩は二度目の笑みを見せた。心強くも未来を信じている顔だ。
おめでとう、新たなる彩り豊かな女性の誕生だ。


改稿2018.04.19


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Last updated  2018.04.19 10:50:56
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2018.04.14

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24話 (―) 【禁断の匣】―キンダンノハコ―



■女子更衣室内

「柾さんでしょ」
その一言に、歴のブラウスボタンを留める手が止まった。
誰の声かは分からないが、ロッカーを隔てた室内のどこかで繰り広げられているのは柾の話題のようだ。
なんの話ー? と、別の位置から参加者の声がする。歴も興味が湧き、つい耳をそばだててしまった。
途中参加者にも聞こえるような声量で話してくれているのが救いだった。
「この店で、誰が最高の夜を演出してくれるかの話」
「ちょっとー」「朝からどんな話題よ~?」などといった呆れ声、たしなめる者がいる一方で、
「衣料の五十嵐さんに一票」「私は麻生さーん!」とノリ良く加わる者もいる。
柾の名前が断トツ多いが、負けず劣らず麻生の名前があがり、二分するほどの人気の高さに驚いた。
(確かに『麻生さんと食事をし隊』という会は存在してるけれど、これほどだなんて)
なまじ女性を苦手としているだけに、浮いた話は一切聞かない麻生である。
本人も「ここ10年ほどは彼女がいない」と明言しているし、その言葉を疑ったことはない。
女性の影が見受けられないだけに、下世話にも『最高の夜を演出』することなど出来るのだろうかと、
(いぶかしむなんて、私ったら失礼にもほどがあるわ。でも、麻生さんが本気を出したらどうなるのか……)
それ以上は考えてはいけないような気がして、歴は慌てて雑念を振り払う。
他にも知った名前がちらほら列挙され、しばらくは、やんややんやと盛り上がっていた。
やがて他店の男性社員の名前まであがるようになり、これでは埒があかないという理由で投票は打ち切られた。
「案の定、柾票が多かったわね。今でこそ彼の周囲も落ち着いたけど、噂の数なら彼に軍配があがるものね」
「どうしたってその差は大きいよね。そういえば柾さんと同じ香水買ったの。これがまた良い匂いなのよ」
「『ヒストリア』だっけ。最近その香水使ってるひと増えたよね」
話題にのぼった香水は、歴が柾の誕生日にプレゼントしたものだった。
もともと歴が、自分の名前を彷彿させるからと愛用していたものだ。
柾が同じものを所望したため、お互い『お揃い』の最中である。嬉しい反面、次はどうなることやら。
(私は『ヒストリア』をリピートするつもりだけど、柾さんはどうかしら。きっと違うものを選ぶわよね)
少しだけ寂しい気持ちになりつつ、歴はハンガーに私服を掛けた。

女子更衣室。
そこでは恥じらいも芳しい香りもまやかしだ。その匣の中では日々、赤裸々な告白が横行する。
歴は自身のロッカーに鍵を掛けた。そして、秘密にしておきたい会話にも鍵を。心の内に、カチリと施錠。
「今日も頑張ろう」
小さく拳を作り、ドアを開ける。
女子更衣室の秘め事は、門外不出につき、取り扱い注意。


■男子更衣室内

土足厳禁と書かれた紙が貼られたドア。恐らく過去に土足であがる不届き者がいたのだろう。
凌ぎ合い、駆け引きし、騙し合う。
そんな権力のシーソーゲームを楽しむ、多くの女性にとっては未知の世界。男子更衣室。

従業員出入口の自動販売機でミネラルウォーターを買った柾は、自身のロッカーに着くなりキャップを開けた。
のどを盛大に鳴らしながら、そのまま一気に煽る。早くも既に半分近くが体内へと流し込まれていった。
「おーおー。うまそうに飲むねぇ」
「さすがに一気に飲みすぎじゃないスか?」
各々感想を述べたのは、柾と同じ通路にロッカーがある麻生と平塚だ。
更衣室とはいえ、上着を脱ぐだけでことが済んでしまう彼らは、室内にいるときはほぼ自由に過ごしていた。
現にいま麻生は商品説明の糧になるならばと≪必読!最新デジカメはここが違う!≫と書かれた雑誌を読んでいる。
一方で、平塚はピコピコとアナログな音を出しながら昭和のレトロゲームアプリの記録更新に勤しんでいた。
柾はキャップを閉じると溜息をついてから弁解した。
「軽い二日酔いだ。安い酒をしこたま飲んでな」
「安酒? 昨日は一人で飲んだのか。珍しいな」
「えーそんなー。一声掛けてくれたら、俺も一緒に飲んだのにー」
残念がる平塚に「また今度な」と応じると、胸やけが治まらないのか再び水を煽る。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
今まさに到着したての声の主は五十嵐 資である。彼もまた、同じ列のロッカー使用者だった。
低く落ち着いた声音からは品性がうかがえ、同性が聞いても心地よい。
日々の運動を欠かさない、がっしりとした体躯は、ほどよく日に焼けている。
そんな体つきとは不釣合いな気もする五十嵐の優しい顔は、彫りの深さと垂れ目がインパクトを与える。
茶雑じりの黒髪は珍しいほど綺麗で、日本人離れした彫り深い顔によく似合っていた。
穏やかな性格と気配りの細かさから、女性からは目下『紳士』と囁かれている好人物だった。
「おはよう、嵐。ちょっと下手な呑み方をしただけだ。大丈夫だよ」
「ならいいけど、無理はするなよ」
「あぁ、ありがとう」
「五十嵐さん! おはようございます」
「おはよう。今日も元気だな、平塚」
「お陰様で!」
会話がひと段落したところで平塚は五十嵐に挨拶をする。
平塚が皆から好かれている理由は、こうした分け隔てなく平等に声を掛ける姿勢にあるのかもしれない。
五十嵐にとっても、この入社3年目のやんちゃ坊主が可愛い存在であるらしく、何かと気に掛けては面倒を見ている。
「嵐、おはようさん」
「おはよう、麻生。朗報だぞ。従業員特権で、今日から月末まで≪セブンス≫のコーヒーが無料なんだそうだ」
うきうきと報告する五十嵐を見た麻生は、本気で驚いたようだった。
「……驚いたな。嵐がコーヒーの無料サービスで喜ぶなんて……」
どちらかといえば五十嵐は、サービスを提供することで喜びを見い出すタイプだ。
クーポンをかざして割引を受けたり、『今なら半額!』といった、受け取る方には無頓着だったはずだが……。
その視線に気付いたのだろう、五十嵐は照れくさそうに苦笑いをした。片頬を指先で掻きながら言う。
「実は、妻が入院してしまったんだ。少しでも出費を抑えようと思ってね」
二重に驚いたのは麻生だ。
「殺しても死にそうにないキャロルが??? 入院???」
「ははは、驚くとこはそこなの? キャロルが聞いたらSIGで撃たれちゃうよ、麻生」
苦笑する時でさえ、五十嵐の所作は上品だ。握った拳を優雅に口元に近付ける。
「あんたの嫁はまた新しい銃を手に入れたのか。これ以上権力付けてどうするんだ?」
「麻薬取締局なんて、麻薬を持っていなければち~っとも怖くないよ」
「そりゃそうだが……」
「凄い……! 五十嵐さんの奥さんって外国人なんですか?」
目を輝かせた平塚が問う。スマホを持っていないところを見ると、ゲームアプリを停止させたようだ。
「あぁ、アメリカ人だよ。キャロラインっていうんだ」
にこにこと説明する五十嵐に、麻生は「どうして入院したんだ?」と怖いもの知りたさで訊ねる。
訊かれたからには、優しく説明するのが五十嵐だ。
「犯人と格闘した際、左腕を撃たれてしまってね。幸い、弾は綺麗に貫通したようだから、傷跡は残ら……」
「わー、俺が悪かった! それ以上はいい! やっぱお前の嫁、こえーよ。あとで見舞いの花束渡すから」
「ありがとう、きっと喜ぶよ。……やけに静かだと思ったら柾、どうした? やっぱり具合が悪いんじゃないか?」
「平気だ、生きてる。僕も花を贈らせてもらうよ」
ロッカーに背を預け、もたれかかる柾は、とてもじゃないが『平気』そうには見えない。
一体、何がどうして、そんな変な呑み方をしたのやら。
「何かあった? そういえば、最近は浮いた話をとんと聞かないが……大丈夫か?」
「おい、柾。まさか『その所為で』夜な夜な安酒に溺れてるなんてこと言わねぇよな?」
「2人とも、どんな心配の仕方だ? そんな理由じゃないから安心しろ」
2度目の溜息は、同期に対する呆れによるものだった。そんな憂い顔を、平塚がまじまじと見つめながら、
「その顔と身体を使わないなんて、ほんと勿体ないな~。俺が柾さんだったら毎晩繰り出してますよ~」
「夜遊びはやめた。そんなに楽しいもんじゃないぞ」
「うわー、おとなの発言。一通り試しての結論だからか、説得力あるなぁ」
「平塚がハーレムを囲うのか? うーん、まったく想像できないな」
と五十嵐が言う。
王様気取りの平塚の姿を想像するのは難しい。平塚が女好きだとは思えないからだろう。
だが、平塚には野望があるのか、へへへと鼻の下を軽く掻きながら言った。
「俺だったら、まずは千早さんから声をかけるかな」
「「!?」」
その瞬間、柾と麻生の顔色が変わった。
彼女の名前が真っ先にあがる理由が分からない。平塚のタイプなのだろうか。
2人が心をざわつかせている隣りで、五十嵐だけが「はて?」と首を傾げていた。
「千早……?」
「POSオペレータの千早歴ですよ。最近めきめき綺麗になって高嶺の花になりつつあるんですけど、知りません?」
「あぁ、彼女か。確かに何度か耳にするようになったかな」
今のところ、仕事の依頼もないため、五十嵐と歴には接点がない。すれ違ったときに挨拶をする程度だった。
「そうなのか? どんな話を?」
麻生に尋ねられ、五十嵐は記憶を辿った。
「『合コンに誘ってみたいんだよね』って話を聞いたことがあるよ。
あとは、『部屋が近いのを口実に、実家から送ってもらった米を差し入れしたんだ』とかね。
彼女、社宅に引っ越したんだってね。彼女会いたさに用を作って部屋まで行ったって話をいくつか耳にしたよ」
「……やれやれ。麻生があれほど釘を刺したというのにな。あれだけでは足りなかったか」
ぼそりと柾が呟く。
『知らない人がチャイムを鳴らしても気安く出るんじゃないぞ。夜中のチャイムは全て無視』――。
歴が引っ越す前、麻生が口を酸っぱくして言ったことばが蘇る。
あのとき柾は麻生に対し『過保護過ぎるんじゃないか?』とたしなめたものだが、今となっては麻生に同調せざるを得ない。
千早歴には危機感がなさ過ぎるのではないか?
「そうなんですよ、なにげに狙ってるひとって多いんですよね~。
でもガードがめっちゃ固いらしくて。恋愛系の話題を振っても反応が薄いから、心が折れそうって誰かが言ってました」
「そんな難攻不落な子を手始めに選んじゃ駄目だろう」
「ですねぇ。千早さん天然っぽいから余計難しそうだし、考え直します。あ、柾さんは?」
「何が」
急に話題を振られ、わずかに身構える。
「千早さんと艶っぽい関係になれそうなのって、ユナイソンだと柾さんぐらいかなーと思って。
そうそう、更衣室のロッカーが隣りだっていう子が言ってました。千早さんって着痩せするタイプらしいですよ。
下着の色まで教えて貰っちゃいました。聞きたいですか?」
「「平塚」」
「な、なんですか、2人揃って……」
気迫に負けた平塚がぱちくりと目を開け、柾と麻生を交互に見つめる。麻生は空咳をして平塚をいさめた。
「阿呆。今のはセクハラだぞ」
「あ、ごめんなさい。そうですね」
失言を素直に謝る平塚に、五十嵐は若いっていいなぁと目を細める。一方、本日3回目の溜息をついたのは柾だ。
「下着の色まで知れ渡っているのか……。なんだか可哀想だな」
「想像するなよ、助平」
「するか」
そう言いながらも、どの下着が似合うだろうかという妄想はどうしたってしてしまう。
ただ、今はそのときではない。頭からむりやり雑念を振り払っていると、どこからともなくメロディーが流れてきた。
すぐに五十嵐が反応し、スラックスからスマホを取り出しながら、通話の邪魔にならないようロッカーの端まで移動した。
「平塚。さっきどうして『千早さんから』、なんて言ったんだ?」
柾がさりげなく尋ねると、平塚は力なく笑った。
「いやー、その。見栄っていうか」
「見栄?」
「実は先日、岐阜店の同期が、書類と一緒にプリクラを送って来たんですよ」
「それがどうしたんだ?」
麻生も聞き返さずにはいられない。
「一緒に写ってた女の人がめっちゃ可愛くて。俺も対抗して、千早さんと一緒に写ったプリクラを送りたいんです」
「……なぁ、お前さ、確か彼女いたよな? その子はどうしたんだ?」
「ううう、最短でふられましたよ! それが何か!? ちっとも面白くない話っしょ!?」
「まぁ面白いかと聞かれれば、別にという感想しかないな。そんなことより千早さんとプリクラなんて言語道断だ」
「面白いかと聞かれてもそもそもお前に興味がない。それより千早さんとプリクラなんて論外に決まってるだろう」
「俺に対する扱いがひどすぎますよ。そもそも千早さんとプリクラを撮るのに2人の承諾なんていりませんよね?
この件は、俺が正式に千早さん本人に尋ねたいと思います。……あ、そうだ!」
「今度はなんだ」
「じゃあ、柾さんが俺と一緒にプリクラ撮って下さい! 千早さんは諦めますから」
「待て。『じゃあ』の意味が分からない。それに千早さんの件は完全却下という判決が出たことを忘れたのか」
「そいつね、柾さん崇拝者なんですよ! 俺が柾さんと仲がいいのを知ったら、絶対悔しがりますって」
「くだらない」
「あー、ひどい!」
「何がひどいものか」
「自分を崇拝している後輩を『くだらない』なんて、ひどいですよ!」
「僕が言っているのはそこじゃない。対抗することがくだらないと言っている」
「それはやっぱり俺に対してひどい!」
「なぁなぁ平塚、それって本当に意図的に入れられたものなのか?
たまたま何かの拍子でそのプリクラが書類に紛れ込んじまったとは考えられないか?」
「ええー? そんな馬鹿な。有り得ないですよ。そんな事故って、あります?」
「分かんねーぞ? もしかしたらお前の手に渡っていることすら気付いていないかもなぁ。
だって、いくらなんでも会社の書類にそんな個人的なもの、入れたりしないだろ」
確かにそうなのだ。そこまで大胆不敵なことを仕出かすような男ではないはずなのだ。
しかもプリクラはワンシートのまま、丸ごと入っていた。
麻生の言葉に『もしかしたら』と思い始めた平塚は、己の短絡的思考を恥じ入ったようだった。
「そ、そうかも……? 俺、ダメですね……。麻生さんの言う通りだ」
「お前の猪突猛進なところは時に短所になり得るが、指摘した時点で反省する点は偉いと思うぞ」
麻生の大きな手が平塚の髪を豪快に掻き回し、やんちゃ坊主は照れ笑いする。
そこに柾が加わった。
「お前と、お前の同期に謝りたい。頭ごなしに否定して悪かった。麻生の発想は頭になかった」
「柾さぁん」
「や、やめろ……。男に抱きつかれて喜ぶ趣味はない」
「なぁ、お前がライバル視しているその同期って、どんなやつなんだ?」
麻生の問いを通じてその人物を思い出したのか、平塚は苦虫を噛み潰すような顔をした。
「重箱の隅をネチネチつつくような男ですよ。女に対しても情け容赦ない、ドSです」
「でも柾を崇拝してるってことは、上昇志向に溢れてんだろ?」
「『期待の星』やら『ホープ』やら、あいつのあだ名はそんなきらきら眩しいものばかりですよ」
どうやら平塚はそれが面白くないようだ。だから尚更見返してやりたいと思ったのだろう。
「麻生さんと柾さんを見ているとね、同期というライバルも必要なのかなって、たまに思うんです」
「麻生とライバルになった覚えはないが?」
「柾は黙ってろ」
「そいつ、本当に嫌味なヤツなんです。でも気になっちまうっていうか」
「ライバルだな」
「やっぱそうですかね? でも、俺がライバルなんて言うのも、おこがましい話なのかも。
この前俺、パンを千個発注したんですよ。結果は見事にハマっちまって、200個しか消化できなかったんです。
そしたらそいつ、『僕なら500個さばける。こっちに送れ』って豪語してマジで500個全部売っちまったんですよ。
3年目の段階でこうも水を開けられるとほんと、俺の存在意義ってなんだろって思っちゃいます」
困った顔で、平塚は笑う。複雑な心境なのだろう。
「残りの300個はどうしたんだ?」
「近隣の4店舗に事情を説明して、60個ずつ送らせて貰いました。うちは60個見切った形でなんとか売り切りましたよ。
プリクラの件は居酒屋にでも連れて行って吐かせようと思います。麻生さんが言うように、事故だったかもしれないし」
「あぁ、それで良いんじゃないか?」
「話したらなんだかスッキリしました。ありがとうございます。だから麻生さんって大好き。あ、柾さんも好きですよ」
「男に好かれても嬉しくない」
「あはは、そう言わずに。あ、俺15分からなんで、そろそろ行きますね」
賑やかな者が退場すると、こんなにロッカールームは静かなものなのかと、改めて気付かされる。
そんな中、麻生は小さく呟いた。
「ライバルねぇ」
「あながちライバルと言えなくもないな。ある女性を引き合いに出せば、僕たちはそんな関係になる。違うか?」
空気がピンと張りつめた。麻生の頬が若干引きつるのを、柾は目の端で捕らえていた。
「敢えてあやふやなままにしておいた境界線を、朝っぱらから壊しにかかるか。少しは空気読めよな」
「それは『認めた』と受け取っていいんだな」
「なぁ、いい加減、俺をつつくのはやめてくれ。俺はお前を応援する。それでいいじゃねぇか」
「誰もそんなことは頼んでない。ただ自分に素直になれと言っているだけだ。お前は滅多に本心を曝け出さないからな」
「……本心?」
「丁度いい。昨日の安酒の余韻も残ってるし、悪酔いの延長とでも思って聞いてくれ。
通常、素面では言えない赤面モノだ。一度しか言わないから、よく噛み締めるように」
「既にその前振り自体が気持ち悪いんだが?」
肝臓や胃はおろか、脳機能にまで悪影響を与えてしまうような呑み方だったのだろうか。くわばらくわばら。
とはいえ、悪酔いの延長と前置きしたにもかかわらず、柾は至って真面目な表情だ。それだけ本気なのだろう。
「僕はお前を全面的に信用している。友人だと思っているからこそお前の手助けがしたい。出来る限り全部だ」
「へー。ふーん。じゃあ何だ、仮に俺が千早さんを好きだと言ったら、お前は彼女を諦めるのか?」
柾からの返答はない。麻生は「あのなぁ……!」と自分の髪を掻きむしった。
「出来ないことは言うな。したくないんだったら最初から提案してくるな。
そもそも、何でそうなる? それはちぃが選ぶことだろ? 身を引くだの、男側がごちゃごちゃ言うことじゃねぇよ」
「そう……なんだろうな。だが、こんな感情を持ったのは初めてのことで……。正直分からないんだ。
何せ恋愛は先手必勝だと思ってきたし、どんな障害が横たわっていようが、欲しいものは手に入れてきた僕だからな。
だが、お前に出会って……なぜかお前には心を許せるようになったんだ。特別な存在で、この関係を壊したくない。
それは彼女に対してもだ。ここまで真剣に惚れた女はいない。生まれて初めて、こんな厄介な葛藤に苛まれてる」
柾にしてはいつになく饒舌で、どこまでも赤裸々な告白だった。麻生は両手で真っ赤に茹で上がった顔を覆った。
「そういう本音を素面のときに言って貰えるのは光栄だと思うべきなんだろうな。それだけ真剣ってことなんだから。
感服したよ。敬意を表して、俺も正直に言わせて貰おうか。本音を言えば『分からない』、だ。
言っておくが、逃げてるわけじゃないぞ。自己問答し続けているところだ。……これで満足か?」
真っすぐ向けられた柾の情熱に、少しでも報いろうと頑張った麻生だったが。何故だか柾は憐れみに満ちた顔をする。
「何を言ってる? お前が彼女を意識しているかもしれないことが分かったというのに、満足するわけないだろう」
「し、仕方ねぇだろ!? 俺の身にもなれ。少し前までは女が怖かったんだから。お前、俺の『設定』忘れてるだろ」
「確かに。お前にしては物凄い進歩だ。よく頑張った。というか、彼女に目を付けたところは偉いと思うぞ」
「お前が言うか。……ん? ちょっと待て。結局――なんだ? 俺が彼女を好きでも『いい』ってことなのか?」
「いいも何も。言ったろう? 彼女はファム・ファタルだと。どんな男も惹き付ける。これは仕方のないことなんだ」
(こいつが小っ恥ずかしいことを言うのは全部昨日の安酒のせいということにしておくか……)
「それを聞いて少し安心した。仮に俺がちぃのことを異性として好きだったとして、お前のことも色々考えてたからさ。
『彼女のことは諦めろ』なんて言われたりして、とか。或いはお前が俺から離れていくんじゃないか、なんてな」
「馬鹿な。そんなことは言わないさ。……麻生。まさか僕に遠慮して、彼女への想いに蓋をしていたのか?」
柾の問い掛けに、麻生は虚を突かれたように目を瞠った。
「……いや、さすがにそれは……。ないと思うが。……どうかな……? 分かんね」
結局、『分からない』という答えに終始してしまうのだった。
「僕のことは気にするな。フェアに行こう」
微かに笑う柾は、本音を口にしていた。
麻生だってそれが嘘じゃないことぐらい理解している。
いいやつだな、と思った。だからこそ、これからは自分も誠実であろうと誓い直す。
「分かった。柾も、俺に遠慮するなよ」
「了解した」
(柾がライバルか。そんな風に考えたことは一度もなかったな)
ただの同期、或いは縁のある悪友としか思っていなかったが、なるほど、ライバルという関係が成り立つのだろう。
友にして好敵手。そんな関係が育まれていた事実に気付き、麻生の口元は自然とほころんだ。
ちょうど、通話を終えた五十嵐が戻って来た。
「今、キャロルがセントレアに着いたそうだ。業務に支障が出るようなら休めとの命令で」
「マジかよ。俺、見舞いの花だけ買ってお前に渡すから」
「麻生」
「俺苦手なんだよ、知ってるだろ!?」
「知っているが諦めてくれ。キャロルはお前が大好きなんだ」
「大好きって次元の話じゃねぇよな!? 明らかに玩具扱いだろ、あれ!」
「麻生の代わりに僕が代行しよう。全く、彼女をエスコート出来るなんて役得だとは思わないのか、麻生」
「そうか、お前がキャロルを怖がるワケがないんだよな。彼女に懐かれてるから」
「懐かれ度なら、麻生の方が遥かに上だろう?」
「あれを懐かれ度とは言わない。下僕度だ。おい嵐、柾を見張ってろよ。こいつ絶対下心持ってるからな」
「失敬な。目の保養をするだけだ」
「嵐に魔法の呪文を教えてやる。『千早に告げ口するぞ』って言ってやれ。それで大人しくなるから」
「うーん、千早……千早ねぇ……。やっぱり最近どこかでそんな名前を聞いた気がするんだよなぁ」
「だからPOSオペレータの千早さんだろ? しっかりしてくれよ、嵐」
「違うんだ。俺が言いたいのは女性じゃなく、男性の『千早さん』なんだよ」
「男性の……千早?」
真剣に記憶を手繰り寄せている五十嵐に、麻生と柾は思わず顔を見合わせる。
自分の曖昧な記憶で2人を待たせては申し訳ないと思ったのか、五十嵐は「忘れてくれ」と言葉を添えた。
「そうか? ならいいけどさ」
麻生も柾も、五十嵐には一目も二目も置いている。
その五十嵐が伝えようとした話なのだ。とても重要なことではないのか?
とはいえ肝心の五十嵐が失念してしまっていては、それ以上の深追いはしかねた。
「麻生、やっぱり仕事が終わってから一緒に行かないか? 妻も会いたがってるに違いないし」
「う~、分かった、行くよ。柾、お前も行くだろ?」
「あぁ」
ロッカーを閉める無機質な音が、三方向から響き渡る。
聞こえてくるのは、そんな生活音だけではない。
五十嵐が思い出せなかった記憶こそ、ユナイソン名古屋店に近付く厄災の足音だったのだが――。
いま、それに気付く者は、誰もいなかった。


■更衣室前廊下

歴が女子更衣室を出たのと、柾と麻生が男子更衣室を出たのは同時だった。
「「「あ」」」
声が三重にハモる。
明らかに三人とも動揺し、無意識の内にお互いの全身を眺めている。
(最高の夜を演出してくれるであろう男性……)
(着痩せするタイプ、下着の色……)
「あ……。そろそろ行かないとな。遅刻だぜ、遅刻」
出鱈目についた嘘だった。赤面した麻生が踵を返す。ハッと我に返った歴が、その背中に声を掛ける。
「え、遅刻? 30分からですよね? まだ大丈夫ですよ?」
歴は自分の腕時計を確認してから、振り返った麻生にも見えるように差し出す。
「ひょっとして男子更衣室の時計、早いんじゃないですか?」
歴のその手首を、柾は素早く掴んだ。そして自分の鼻の天辺に近付ける。
首筋と手首。それが歴の香水をつける場所だ。当然、柾の鼻孔に、その香りが届く。
「この香水がなくなりそうでね。新しいのを、また買ったよ」
「!」
それだけ言うと、柾は先に歩き出す。麻生が歴の耳に、コソッと囁いた。
「良かったな。ちぃが贈った香水だろ? 柾、毎日つけてるぜ。最近は女性に誘われても飲みに行ってないみたいだ」
「麻生さん……」
「ちぃは、そのままでいろよ」
「? どういう意味です?」
「いつまでもガードを緩めるなってこと。ほら、行くぞ。本当に遅刻しちまう」
「はい」
ついさっき柾に掴まれた手首を、今度は麻生が掴む。そんな光景を、五十嵐が微笑ましく見ていた。
「若いっていいねぇ」
日なたのように温かい笑顔で。


2007.10.19(FRI)-2008.08.07
2018.04.14(SAT)


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