239897 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【お気に入りブログ登録】 【ログイン】

Sillage...

PR

Freepage List

創作ノート


キャラ設定


《Gentleman》


登場人物一覧表


年表


千早 歴


柾 直近


麻生 環


千早 凪


潮 透子


不破 犬君


八女 芙蓉


杣庄 進


伊神 十御


青柳 幹久


志貴 迦琳


Gentleman


01話 【禁忌遊び】


02話 【騒き戻り】


03話 【鬼畜計画】


04話 【恋愛遊戯】


05話 【貴顕紳士】


06話 【萌え出づ】


07話 【姿情追い】


08話 【感情待機】


09話 【恋ふらし】


10話 【片趣なり】


11話 【匂ひ包み】


12話 【余裕無し】


13話 【特別扱い】


14話 【小心翼翼】


15話 【女郎回廊】


16話 【客観解析】


17話 【止事無し】


18話 【決別狂騒】


19話 【興味津々】


20話 【惑い出づ】


21話 【運命の女】


22話 【君知らず】


23話 【露の世に】


24話 【禁断の匣】


25話 【捲土重来】


26話 【夜半の嵐】


27話 【幕引きへ】


28話 【記憶の鎖】


Gentleman2


01話 【未知数】


02話 【不退転】


03話 【豆台風】


04話 【門外漢】


05話 【棚牡丹】


06話 【値千金】


07話 【寝業師】


08話 【依怙地】


09話 【空威張】


10話 【横恋慕】


11話 【御破算】


12話 【突破口】


13話 【桐一葉】


日常編 【橋頭堡】


日常編 【茶飯事】


日常編 【青写真】


Gentleman3


01話


02話


03話


04話


05話


06話


07話


08話


09話


10話


11話


12話


13話


14話


15話


16話


17話(旅行編T1)


18話(旅行編L1)


19話(旅行編T2)


20話(旅行編L2)


21話(旅行編T3)


22話(旅行編L3)


23話(旅行編T4)


24話(旅行編L4)


25話


26話


27話


28話


29話


30話


31話


32話


33話


34話


35話


36話


37話


38話


39話


40話


41話


42話


G3日常編


番外編01


番外編02


番外編03


番外編04


番外編05


番外編06


番外編07


番外編08


番外編09


番外編10


番外編11


番外編12


番外編13


番外編14


番外編15


番外編16


番外編17


番外編18


番外編19


番外編20


番外編21


Gentleman4


1話


2話


3話


4話


5話


6話


7話


8話


9話


0話


日常編1


日常編2


日常編3


日常編4


gentleman*


0101★柾直近


0104★平塚鷲


0205★児玉絹


0205★児玉玄


0314★不破犬君


0322★麻生環


0213★姫丸二季


0601☆レオナ・イップ


0602☆児玉菫


i NeeD Me


01話


02話


03話


04話


05話


ENSLAVE


01話


02話


03話


04話


05話


06話


07話


ワクプラ!


ファンタジー100


全44件 (44件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 >

2018.05.28
XML

←27話┃ ● ┃29話→


28話 (歴) 【記憶の鎖】―キオクノクサリ―

 
1:今


鉛色に塗りたくられた世界の中で、ひとりの少女が泣いている。
泣き声とともに聴こえてくるのは遠雷の音だろうか。
少女が静かにこちらを見た。歳の頃は10くらいのようだ。
思わず手を差し伸べたいと思った。
だって、ここには彼女の他に、私しかいないから。
彼女を慰めてあげられるのは、私だけしかいない。
「ねぇ、どうして泣いてるの?」
「……怖いの。お兄ちゃん、どこ? お兄ちゃん」
「もう泣かないで。泣きやんで……10歳の歴(わたし)」

そんな夢を、見た。


***

流れる涙が原因で目が覚めた。鼻が詰まってしまい、うまく呼吸が出来なくて。
夜中も風を感じていたいという理由でわずかに開放していた窓からは、叩きつけるような雨音が聴こえてくる。
その雨粒が部屋にまで吹き込み、床をじわりと濡らしていた。慌てて窓を閉め、応急処置として濡れた箇所をティッシュで拭きとった。
拭き終わると、寝起きでまだけだるい状態にある身体に活を入れて洗面台に向かった。顔を洗って、さっぱりしたかったのだ。
雨に負けない音で、蛇口から水が出てくる。この水温では目が冴えてしまいそうだったけれど、二度寝をする気になれないので構わない。
タオルで顔を拭きながらベッドへ戻り、照明を控えめな色にし、時計を見る。針は5時を指していた。少し肌寒く、カーディガンを羽織った。
咽喉の渇きに気付いた途端、コーヒーが恋しくなった。自分を慰めるには甘さも必要で、作り終えたマグカップの中身はホットカフェ・オ・レ。
マグカップで手を温めながら、しばらくベッドの端に腰掛けていた。
夢の内容を、敢えて思い出そうとは思わない。夢を見ながら泣いたのだ。大方、切なくなるような内容だったのだろう。
夢の中でも誰かが泣いていたような気もするけれど、それが誰だったのかまでは曖昧模糊としていて、記憶を手繰り寄せるのに苦労しそうだ。
それよりかは、雨の音、カフェインの味、時が刻まれて行くのを、五感で味わっていたかった。
どれくらいの間そうしていただろう? 気付けばマグカップの中は空。
ふと視界にチカチカ光るものがあり、そちらに目を向けると、携帯電話の着信メールを知らせるランプが点っていた。
マグカップをテーブルの上に置き、携帯電話に手を伸ばす。2件のメールに共通する『HAPPY BIRTHDAY』なる件名。9月1日、私の誕生日。
「あ、そっか……」
我ながら、間の抜けた独り言だった。
メールを1通ずつ確認する。
0時に麻生さん。簡素だけれど、とても丁寧な文章だった。普段の砕けた口調と掛け離れているので、なんだか少し、くすぐったい。
そして柾さん。麻生さんに続いて柾さんまで送ってくれるとは思わなかったから、驚いたし、心が浮き立った。
着信は5分前。既に起きているのだろうか?
「……そう言えば、今日はお母さんがケーキを送ってくれるって言ってたっけ」
ふと、ノイズ掛かった記憶が頭を掠めた。
ケーキ――10歳の頃の私。
「……!」
そうだ。私が見た夢は、これだったのだ。
たんに夢を見たのではなく、昔の思い出を、夢という手段で回顧していたのだ……。


2:過去

小学校から帰宅すると、キッチンに母が用意したであろうチョコレートのホールケーキが置いてあった。
板チョコには≪れき10才おめでとう!≫の文字が書かれている。
私のためのケーキ。年に一度だけ許された、自分のためのケーキ!
「わぁぁ……! ねぇ、見てお兄ちゃん! これ、私のお誕生日ケーキだよ! お願いした通り、チョコの! ふふっ、嬉しいなぁ」
「ケーキ? あぁそっか。お前、今日誕生日だっけ」
部活帰りで疲れ果てていた兄は、ケーキを見るなり目を輝かせ、家族の人数分に切り分けることすらせず、いきなりケーキにフォークを突き刺した。
私は「ダメ」と鋭く言って、ケーキを取り上げた。睨み付けると、兄も負けじと睨み返してきた。
「別に良いだろ。腹が減ってるんだ」
「ダメなの! みんな揃ってから食べるの!」
「そんなこと言ったって、母さんも父さんも帰りは遅くなるって言ってたぞ」
「イヤだ! 私、待ってるもん! お兄ちゃんも待つの」
「強情なヤツだな! 良いんだよ、待たなくて。待ってたって、9時とか10時にしか帰って来ないんだぞ」
「イヤなのー!」
「強情だな。貸せよ!」
「イヤイヤ! これは私のだもん!」
「俺の分ぐらい良いだろ!?」
「一緒に食べるんだもん! 一緒に食べなきゃ美味しくないんだもん!」
「味なんか一緒だ! この……っ、分からず屋!」
カッとなった兄が、私の肩を押しのける。
片や、空腹の極限にいた高校男児。力加減など頭にない。
私はよろめいてバランスを崩した。その拍子に、必死に庇ったケーキが床に落ちる。
綺麗なマーブル模様を描いていたチョコレートケーキ。板チョコに書かれた私の名前とメッセージ。全てが一瞬にして原型を失くした。
兄の、息を飲む音が聴こえた。成人を迎えた今ならば、そのとき兄が感じたであろう『後ろめたさ』を読み取れただろう。
けれど、当時の私はやっと二桁に届いたばかりのおさなごだった。兄の行為は許せるものではなく、惨めな己を憐れむだけで精一杯だった。
「ふぇ……っ。ふえぇ」
どうしてこんなことになってしまったんだろう。ただみんなと一緒に食べたかっただけなのに。同じ時間を共有したかっただけなのに。
それら全てを踏みにじったのは、年の割に幼稚だった兄の軽率さと、貪欲なまでの食欲のせいだった。
「いやぁぁ……っ」
突き付けられた現実は到底受け入れがたく、否定したかったのだろう。「いやだ」とか「なんで」とか、そんな言葉を呟いていた気がする。
呪詛という名の矛先は兄に向かった。だって、兄が悪いのだから。
「お兄ちゃんのばかっ! どっか行っちゃえ。大っきらい! 返してよ! 私のケーキ、返して……っ!」
力の限り叫んだ。喚いた。泣き散らした。憎んだ。悲しんだ。負の感情が兄を責める。
兄は何も言わなかった。私に対してなだめもしなければ、怒りもしなかった。謝罪の言葉もない。ただ無言のまま、突っ立っていた。
「うわぁぁぁん」から「ひーん」という泣き方に変わった頃、兄は動いた。
腹に力いっぱいの拳を食らったかのような苦痛な表情をしたかと思うと、踵を返し、家から飛び出して行ったのだ。
一人取り残された私は、そのまま泣き続けていた。こんな不幸な10歳児はこの世に私だけだろうと、世界から見たらとても傲慢な不幸を感じていた。
ケーキが勿体なくて、食べれやしないかと手を伸ばした。板チョコは粉々に割れ、苺は潰れてしまっている。どだい無理な話だった。
唯一無事だったのは、机の上、袋に入ったまま置かれていたロウソク。色とりどりの細長いロウソクの数は、全部で10本だった。
19時を過ぎても兄は帰って来なかった。父と母はいつものように仕事で遅い。
兄が帰って来ないことを両親に伝えるべきなのだろうが、ケーキの残骸が頭にちらつき、「電話などしてやるものか」と意地を張った。
浴槽に湯を張り、入浴を済ますと、既に20時を回り、さすがに不安になってきた。
兄が塾に通う日などは、私一人で留守番をすることもあった。けれど今回は勝手が違う。兄は、私との喧嘩が原因で家を飛び出したのだ。
このまま二度と帰って来ないのでは? そんなことはない、兄は帰って来る。そんな問答を延々と心の中で繰り返していた。
さらに1時間が経つと、今度は心細くなってきた。失うのはケーキだけで十分。兄もだなんてイヤだ……。
両親へ電話をしようと受話器に手を伸ばすと、ゴロゴロ……という地響きが家の土台を駆け巡った。私が最も苦手とする雷である。
どうしようどうしよう怖いよお兄ちゃん助けて!
べそをかきながら、心の中で叫ぶ。受話器を持つ手が震えた。パリ、と乾いた音をあげながら、比較的近くに落ちる雷。
もはや電話どころではなかった。部屋の移動もままならない。その場にうずくまるしかなかった。
兄はどうしているのだろう? 傘は持っているだろうか? 雷が直撃してやいないだろうか? 最悪のシチュエーションが頭をよぎる。
「……ゃん、おにーちゃぁん……っ」
はちきれんばかりの恐怖におののいて、私は泣いた。


3:今

あの頃の私は、兄がいなければ何も出来ない弱虫な少女だった。常に兄の背に隠れて行動し、おどおどしていた。
クラスの男子の意地悪に、見かねた兄が助け舟を出してくれたことだって、数え切れないほどある。
兄がいてくれたからこそ、私はやってこれたのだ。その兄に見放されてしまったら、私は自分の殻に閉じこもったままに違いなかった。
あの雷の日――私はどうしただろう? 今思い出そうとしても、To be continuedと打たれた映画のように記憶が曖昧だ。 
結論から言えば、兄は生きている。雷雨の中、無事に帰って来た。
今になって、「夢」という形で在りし日の悪夢を思い出したのは、兄に何か遭ったからだろうか? これは虫の知らせなのだろうか。
携帯電話で兄の項目を選び、発信ボタンを押す。コール音。こんな朝早い時間だ、無視される可能性は高い。案の定、応答はなかった。
それに、昔のことを思い出したからと言って胸騒ぎを覚えるのもどうかしてる。
考え過ぎだろう。そう思い直して電話回線を切ったその時、耳が異音を聴き取った。
玄関の方から何かが擦れる音がしたような気がして、私は玄関に向かう。
外、だろうか。試しにドアを開けてみると、ドアの横、もたれかかるように体操座りの姿勢で頭を垂れている人物がいた。
(だ……誰っ!?)
よく見れば、背広姿だ。恰幅から察するに男性だろう。
具合が悪くて突っ伏しているというより、単にその姿勢のまま寝ているように見える。
こんな所でどうしたのだろう。このままここにいたら、風邪をひいてしまいかねない。
勇気を奮い起し、小声で「あのぅ……もしもし? 大丈夫ですか?」と尋ねてみる。
「……ん……?」
男性はゆっくり頭を上げると、私に視線を絡めてきた。
私を認識するなり相好を崩し、満面の笑みでこう告げる。
「あ……。やぁ、おはよう、歴」
「!!」
来客の正体を認識した瞬間、私の頭の中に、鮮やかなビジョンが流れてきた。
あの夢の続き。すなわち――雷に怯えていたシーンの、続編だ。


4:過去
 
またもや近くに雷が落ち、このまま無事に一夜を過ごせないかもしれないと、不安でどうにかなりそうな時だった。
「レキちゃん!」
いとこがもどかし気にカッパと靴を脱ぎ捨てながら駆けつけ、私を抱き締める。
「大丈夫だった!?」
「お、おねえちゃん? どうしてここに?」
「もう大丈夫だからね、安心して。お姉ちゃんが来たからもう大丈夫よ。一緒にいるからね」
いとこの存在がどんなに心強かったことか。――否、気が緩んだせいで、涙の量は俄然増してしまったけれど。
「ヒカおねえちゃん……。あのね、お兄ちゃんがお家を出て行っちゃったの……どこかに行ったまま、帰って来ないのぉ」
「大丈夫よ。ナギ君ね、私の家にいるから」
「おねえちゃんのお家?」
私の身長に合わせてしゃがみ、下から覗きこみながら、いとこは優しく言った。
「すごーく反省してたよ。ものすごく悲しい顔してた。レキちゃんに悪いことしちゃったって、本人も気付いてるんだよ」
私に対し、分かりやすい言葉を選びながら、お姉さんは兄をフォローしたものだった。
お姉さんが言うには、兄は家を飛び出して行った後、2キロ離れた場所にある従姉妹の住まいまで走ったとのことだった。
部活をこなした後だと言うのに、そのスタミナの残量には驚かされる。よほど我武者羅だったに違いない。
急な訪問こそ異変の証拠。
違和感を察知したいとこは、無言を貫く兄を追及したりせず、まずはタオルと温かい飲み物を与え、落ち着かせる時間を与えた。
20分経った頃、兄がおもむろに口を開いた。「妹の誕生日を台無しにしてしまったのだ」と。
事情を知ったいとこは、雷雨の中、私を心配して自転車で駆け付けてくれたのだった――。
「私、もう怒ってないよ。お兄ちゃんに会いたい」
「じゃあ仲直りだね。今から私のお母さんに電話して、送って貰うね」
「うん。おねえちゃん、ありがとう……」
「どう致しまして」 
1時間後、おばに連れられ帰って来た兄は、目を少しだけ赤く腫らしていた。うさぎさんみたいだ、と子供ながらに思った私である。
兄は私を躊躇いがちに見た。私は気まずさを感じていた。大丈夫だと聞かされてきたものの、怒られるのでは? と恐れたのだ。
おばに「ほら」と促された兄は、渋々と私に小さなブーケを寄こした。白い花びらが特徴の、鼻腔くすぐるカモミールの束だった。
「歴ちゃん。カモミールの花言葉はね、『仲直り』なのよ」
おばがこっそり教えてくれた。


5:今

「兄さん!」
驚く私の目の前で、すっくと立ち上がったのは実の兄だった。
長身痩躯の背広マン。
六四分けの前髪――四割が右目に少しかかる位置、残りの六割は左目を鋭く見せるため後ろへ撫で付けられている――は黒く艶めいている。
ブランドの小物を愛用するところも変わっていないようだ。
兄は中学・高校時代と硬派な野球男児だった。趣旨替えは大学を入学してから。女性を意識し始めたのか、急にお洒落になった。
「歴、誕生日おめでとう」
友人に「あの笑顔を独占したい」とからかわれた曰くつきの顔で兄は笑う。同時に差し出されたのは薔薇の花束。
「あぁ、あと、これもプレゼントだ」
小箱を薄手のコートから取り出し、私に押し付ける。
「ちょっと待って! えぇっと……これってどういうことなの??? 取り敢えず……そうね、あがらない?」
「いいのか?」
「いいも何も、こんな場所で立ち話なんて論外だわ。入って」
心なしか、部屋に上がれて喜んでいる気がしないでもない。興味津々とばかりに部屋を見渡している。
「兄さん、何か飲む? コーヒーでも淹れようか?」
「あぁ、お願いするよ」
兄は私のベッドがある方をちらりと見た。まるで誰かいないか探るかのように。
やれやれ、過保護さは未だ健在のようだ。
「まだ6時台よ。突然どうしたの?」
「どうしたなんて心外だな。お前の誕生日だから会いに来たっていうのに」
「会いにって……。一体いつからそこにいたの?」
「30分くらい前じゃなかったかな。チャイムを鳴らせば両隣の部屋の住人に迷惑が掛かる。そう思ったら鳴らすのも気が引けてね。
まぁプレゼントを渡したかっただけだから、お前が部屋から出てくるまで待てばいいかと思って待ってたんだ。
最初は壁にもたれかかってたはずなんだけどな……徹夜が続いていたもんだから、睡魔に襲われて、寝てしまってたらしい」
我が兄ながら、自分勝手なのか、思いやりがあるのか、よく分からないひとだ。
「せめて電話の1本でも入れてくれれば良かったのに」
「ただ会いたい一心で、お前の都合を考えていなかった。すまない」
私の返答次第で一喜一憂するところも変わらない。雷事件以来、私に対して随分甘くなったと思う。そして気遣うようにもなった。
やたら私の異性関係を気にし始め、服装にもチェックを入れるようになった。
いつだったか私がスカートを穿いて出掛けようとすると、兄は「丈が短いから着替えた方が良くないか?」と言い放つこともあった。
「お前のシスコンは重症だな」とは、近くでそのやり取りを見ていた兄の友人の弁だ。
シスコン――。私には兄がそうなのかよく分からないけれど、周りからすればそんな風に見えているのだろうか。
考えながらもコーヒーを淹れる。さっき作ったお湯がまだ冷めていなかったので、沸騰するのも早かった。
カップを兄に渡しながら、私は尋ねた。
「今日は有給を取ったの。もし良ければ一緒にランチしない?」
誕生日とは言っても、母が贈ってくれるはずのケーキを食べて、ゆったり過ごすつもりだった。
「本当か? いいね。そうだ、『蔡庵』に予約しよう」
兄はさらりと言ってのけるが、ひとり2万を超える高級料理店だ。私は卒倒しかけた。
「当日予約なんて無理よ。それにそんな高級店、気遅れしちゃうわ。私が作ります」
「でも誕生日だぞ? わざわざ家事なんかしなくても……」
「この部屋の方が寛げるでしょう? 料亭は作法だけで疲れちゃうもの。一緒に食材を買い込んで作るの。どう?」
「歴がそのつもりなら構わない。ケーキで思い出したんだが、昔、お前に酷いことしたな……」
「でも、お詫びにカモミールの花束をくれた。あれね、凄く嬉しかったのよ」
「……そうか」
「ワインも買いましょうね。そうだ、ところで、兄さんは1日オフなの?」
「あぁ、休みだ。何の予定もない」
「そう」
ふと、兄から渡された薔薇と小箱が目に入った。包みを開けると、細いデザインの指輪が入っていた。
ピンクゴールドは好きなので喜ばしいけれど、贈り主が兄という点が引っ掛かる。その指輪は左手の小指にピッタリ嵌まった。
薔薇の花束は豪華だった。購入の折、「恋人への贈り物ですか?」「いえ、妹です」などというやり取りがあったかもしれない。
前者ならば、店員はさぞかし困惑しただろう。それほどまでに情熱的で瑞々しい、見事な薔薇だった。
「あの時のカモミールは可愛かったけれど、こっちは怖いほど綺麗ね」
なぜ今まで忘れていたのか不思議なぐらいだ。苦い思い出以上に、温かい記憶もあったというのに。
まさか、兄の急な訪問には注意が必要だとでも――?
馬鹿ね、考え過ぎだわ。
年を重ね、また新たな日々が始まろうとしている。待ち受ける未来がなんであれ、乗り越える勇気が欲しい。
スマホを手に取り、ふたりから届いた誕生日メッセージを再び読み返した。
応援してくれる人、寄り添ってくれる人がいる。その事実を改めて確認した私は、これからだって頑張れる気がした。
 

2007.09.10(MON)
2018.05.28(MON)


←27話┃ ● ┃29話→






Last updated  2018.05.28 18:45:08
コメント(0) | コメントを書く
2018.05.26

←26話┃ ● ┃28話→


27話 (―) 【幕引きへ】―マクビキヘ―


【1:5月25日―ユナイソン本部】

「では、きみの抱負を聞かせて貰おうか」
「青二才がと思われるでしょうが、遥かな高みを目指しております」
「もう少し噛み砕いてもらえるか?」
「はっきり申し上げると肩書きです。上役であればあるほどいい」
「私は『抱負』を尋ねたはずだがね。それは寧ろ、『野心』と言わないか?」
「どう受け取って頂いても構いません。私には越えねばならない壁があり、凌がねばならない波濤があります。ですので肩書きと答えました」
「臆さないな、きみは。なるほど、やつの血を引くだけのことはある。壁に波濤、か……。ふん、為葉(いちよう)をそう呼ぶか」
「……」
「きみを業界第1位のhorizonから引き抜いたのは、きみと私の利害関係が一致しているからだ。それは話したな?」
「えぇ、大丈夫です。私は、己の敵が祖父だからと言って、手を緩めたりはしません」
「3度目の説明にはうんざりか? くどいと思われても仕方ない。ことはそれだけリスキーなんだ。足場を慎重に確保し、確実に歩を進めたい」
「会社のナンバーワンたる貴方が、ナンバーツーであるユナイソン代表取締役社長兼COOの失脚を望んでいるわけですから当然でしょう。
下手をすれば貴方はワンどころかゼロになってしまう。ゼロという、無の存在に」
「あいつにはほとほと呆れるよ。なんてやつだ。いまどき正統派を貫くんだからな。とんだ処世術もあったもんだ。 
正しいことを本気で正しいと信じ込み、コツコツと積み上げてきた馬鹿正直者。
清く正しく美しくを地でゆく千早。よくここまでまぁ、振り落とされることなく登り詰めたもんだと、ほとほと感心するよ。
一方、私は手を汚すことも厭わずここまで来た。私と為葉はまるで正反対だ」
「だからこそ、彼が眩しく、疎ましい、と?」
「眩しい……? なるほどな。そんな表現の仕方もあるか。今や、やつは私の地位を脅かし、取って替わろうとする、目の上の瘤だ。
害は取り除く。そのためにきみを呼んだんだ。破格の待遇を用意してな。教えて貰おうか、為葉の弱点を」


***

弱点。それはこれしかない。媚びだ。
有り体に言えば、彼には根回しが出来ない。
実直、誠実、その塊りともいえる祖父は、昔から政治的駆け引きが苦手だった。
分かり易く言えば、おべっか、よいしょ、歯の浮くセリフ、そういった類のもの。
だから祖父は、上司や同僚からことごとく「お前は気が利かない」と眉根をひそめられてきた。
中には「まぁ仕方ないか。お前みたいな男が1人ぐらいいてもいいのかもな」と脱力した者もいるという。
そんな祖父を幼い頃から見てきた俺だから知っている。千早為葉に挑むなら、彼が絶対に取らない行動を取れば効果的だ。
根回し。つまり、接待。
人の心を巧みにくすぐり、相手の心証を良くする。加えて、金で信頼を買う。
そのパイプを繋げていく。より強く、より太く。
我らがCEO様の地位を盤石なものにするため。時には自分のために。或いは、祖父を取り巻く忠実な部下をこちら側に取り込むために。
そうして始まったのが、接待の強化だった。
ひとたび高級の宴席を設ければ、誰もが有り難がった。回を重ねる。美味い汁を啜る者は着実に増えてゆく。見渡せばほら、たちまちCEOの信者だらけ。
簡単だった。


【2:8月30日―ユナイソン本部】

「高級コールガールを呼んだ?」
「しっ! 声が大きいですよ、凪さん」
咎め口調で窘める都築に構ってなどいられなかった。ソファーに深々と座り、悠長にアラミドコーヒーに舌鼓を打つ加納を見下ろす。
おい、それは俺の豆だぞ? ブルーマウンテンより希少価値の高い珈琲を、こいつ、いけしゃあしゃあと――いや、そんなことより。
「どういうことだ? 昨日はブランドン氏を接待したんだろう?」
逸る鼓動に静まれと言い聞かせながら加納に尋ねる。キザったらしいイタリア仕立てのスーツに身を包んだ加納は足を組み替えた。
「したさ。ブランドン氏に、気持ちのいい接待をな」
カッと、頭が沸騰しかけた。それは怒りだった。
「性の接待はしない。そう取り交わしただろう!」
「そういう約束だったかな。だが、氏のリクエストに応えないと、契約がね。それでは君が困るだろう?」
「リクエストだと……? あんたがそそのかしたんじゃないのか? ブランドン氏が何と言ったのか、一語一句違わず言って貰おうか」
「あぁ、そういえば……。今にして思えば、私の勘違いだったかもしれないな」
「? 突然何を……」
「私のリスニング能力が低かったから、解釈を間違えて、氏が望んだものだとばかり思ってしまったようだ。――悪いね、凪」
なんというわざとらしい言い訳だ。TOEIC700点越え、レベルBが御自慢だったんじゃないのかよ……! 
思わず出掛かったその言葉を飲み込む。
「枕営業は禁止。そういう取り決めだった。こうなったらCEOに頼んで……」
「私に処分を下す、か? 馬鹿を言うな。どちらもそう変わらん。同じ穴の狢だと思うがな」
「違うだろう! 全く違う」
「何をそんなにムキになる? 君だけだぞ、そんなオメデタイ思考回路の持ち主は。いつかは性の接待が横行する。これは時間の問題だった」
「その一線を越えるべきではない」
加納はうっすらと笑う。俺を説き伏せられないと知っていて、だったらせめて煽るだけ煽って楽しんでやろう。そんな魂胆が見え透いていた。
「性抜きの接待の何が楽しいんだ。酒、肴、女。それを抜きに接待などあり得ない。君のそれはまるでチェリーボーイの発想だな。そうなのか?」
「私のプライベートは関係ない。……話を戻すぞ。不味いことになったと言ってるんだ」
「そうは思わない。美味しい蜜を吸ってるんだ。誰も口外したりしないさ」
「いつかは露見する。それでは遅いんだ」
「止められるかな? 既にあちこちで横行しているみたいだぞ」
悪夢まがいの報告に、全身から汗が噴き出す。
「馬鹿な……」
「君の耳に届いていなかっただけのようだな。指揮を取っていたようで、実際には除け者にされていたとは、とんだお笑い草だ」
「……っ!」
「知ってるよ。知ってる。君が性接待に反対している本当の理由をね。君の可愛い妹君が、ユナイソンに入社しているそうじゃないか。
その毒牙にいつかかるか、気が気でないんだろう? 大切な妹を巻き込みたくない。だから枕営業は阻止したい、撲滅させたい。違うか?」
「妹? 何のことだか」
「しらばっくれなくてもいいだろう。ネタは上がってる」
くそ、首根っこを押さえられたか。こうなったら異例の人事異動妹をしてでも、どこか安全な場所まで引き離してしまおうか。
人事部に所属する自分が出来ることと言ったら、この手の方法が一番手っ取り早くて堅実だ。
誰だ、妹の入社を許可したのは? 顔も知らぬ人事部相手に舌を打つ。
「傷心の君に教えてあげよう。素晴らしい逸材を見付けたんだ。名古屋店の柾という人物でね。これがとんだ色男らしい。
成績優秀に加え、その容姿で女性社員を次々と陥落しているんだとか。CEOの計画に相応しい人材だと思わないか? 是非欲しいね」
女性問題(スキャンダル)を抱えている? それはつまり、その柾とやらに魅力が備わっていることの裏打ちに他ならないではないか。
「彼なら」、と都築が言った。
「確か2、3度話したことがある。最近では入社式の祝辞を依頼したときだったかな。素晴らしいスピーチを披露していたから労ったよ」
都築が手放しで褒めるのも珍しい。よほど優秀なのだろう。
「男だけが性接待を望んでいると思ったら大間違いだ。女だって男を欲している。
とはいえ、都築が用意した男は何の役にも立たなかった。これから女性の相手には、その柾という男が打って付けだろう」
「別にぼくは加納さんのために『あの男』を用意したわけじゃありませんよ。ぼくの恋路を邪魔する厄介者だったから左遷しただけで」
心外だとばかりに口を挟む都築。加納は勝手にのたまっていろというように鼻を鳴らしている。相変わらず癪に障る男だ。
それよりも――くそ……くそ! 俺に出来ることを探すしかない。見付けるしか。まず手始めに、柾だ。
「その柾という人物の、詳しい情報が欲しいな……」
「いいよ凪さん。ぼくが調べる。他に調べたいこともあるし」
「なんだ、都築。また恋路の邪魔を企んでいるのか。今度は誰を飛ばすんだ?」
背中を向けた都築に、加納はせせら笑い。都築は振り返り、発言者の加納を一睨みしてから部屋を出て行った。
「さて、私も行くとするか。ご馳走様。楽しい結果を待ってるよ、凪」
人の金で珈琲を啜っておきながら、ソーサーもカップも洗わずそのまま席を立ち、退室するさまに、もはや出る言葉などあろうはずもない。


【3:8月31日―ユナイソン名古屋店】

ユナイソン名古屋店店長・後藤田は、ユナイソン本部≪人事統括部≫人事部所属・都築の姿を見るなり最上級の笑みでもてなした。
後藤田は都築の肩書きを恐れている。
ゆえに、干支にして二周りほど離れている都築に対し、自然と上目遣いになってしまうのは仕方のないことだった。
「これはこれは! 都築さん。ご無沙汰しております」
「後藤田店長、突然申し訳ありません。アポもなしに」
「とんでもない。しかし、貴方が来られたということは、何か問題でも?」
「いえ、少しばかり伺いたいことがありまして」 
都築の言葉に、後藤田の顔が強張る。
この店に、都築の機嫌を損ねる危険因子が存在しているとでも言うのだろうか。となれば、誠意を見せるに限る。
うまくいけば後藤田の出世だって夢ではない。都築にはその力がある。正確には『都築の人脈が』、だが。
「なんなりとお尋ね下さい」
「ご助力に感謝します。実は、柾について、なのですよ」
「は――。柾、ですか?」
「えぇ。優秀な社員ということは知っています。売り上げだって伸ばしているし、比較的早いペースでチーフ職に就きましたよね。
そういった能力面でなく、人物像を知りたいのです。聞けば、女性問題を抱えているとか?」
「……否定はしません」
「それは、彼が女性から慕われるタイプだから、でしょうか?」
質問の意図を測れずにいる後藤田は、とくに捻ることなく、素直に答えた。
「確かに魅力的な男かも知れませんね。事実、彼に振られた女性がその場の勢いで退職願を届け出たこともあったぐらいです」
「そうでしたね、そういう報告は上がってきてます。ではこれも一応訊いておくとしましょう。いま彼が親しくしている女性はいますか?」
「いや、最近は、とんと聞きませんね。どうも自分からガールフレンドを切ったようですよ」
「おや……。そうなのですか? それはまた、どうして」
初耳なのか、都築は僅かに目を丸くした。
「離婚をスムーズに行うためだと本人は言ってましたがね。なるほどそういうものかと、特に疑問は持ちませんでしたが」
「つまり、身辺整理をしたがっているんですね。ふむ。でもそれって……」
都築には、どうしても繋がってしまう推理がある。
「本命を見付けたから、早々に離婚したがってるのでは?」
「あの柾が……本命を? はは……っ、はははは……あ、いや、申し訳ない」
「いえ、店長のその反応で、私の推理が間違っていたことが分かりました。必要以上に穿ってはいけませんね。お恥ずかしい限りです」
「今年の元旦に彼の同期が着任しましてね。彼とは馬が合うようで、なんだかんだ言いつつも楽しそうですよ。以前に比べれば大人しいもんです」
「同期とですか。それは色々と刺激がありそうですね。職場の同期と言えば、仲間や友人という位置付けの他、ライバルでもありますからね」
「あぁ、でも、そう言えば麻生と一緒に、『彼女』といることも多いなぁ……」
ぽつりと呟いた、後藤田の何気ないことばに、都築は引っ掛かるものを感じた。
「彼女? どなたです?」
「いやいや、そういうのじゃないです。まだ入社したての新入社員ですよ。ミスが多かったので、柾が指導している場面も多々ありました。
その延長で、いまも仲がいいのだと思うんですがね」
「柾は面倒見もいいんですね。ちなみに、誰なのですか、その女性は?」
「POSオペレータです。千早と言います」
「――千早? 千早ですって?」
あまりに耳に馴染み過ぎた苗字に、都築は反射的に鸚鵡返す。
「後藤田店長。……ちょっと失礼しても?」
「えぇ」
断りを入れてから、自身の鞄から薄いPCを取り出す。
人事課だけが入れるネットワークにアクセスし、検索をかける。調べる対象はもちろん『千早』だ。
検索対象者の性別を“女”に絞ると1件だけヒットした。その項目をクリックする。
『千早歴』のページが現れた。そこには履歴書、入社試験の結果など、彼女が提出したものや、あらゆる関連書類が紐付けられていた。
その中から履歴書を選び、顔を確認する。
黒髪が特徴的な女性だった。だがそれ以前に、その表情に引き込まれた。
履歴書のため、微笑んではならない写真だというのに、それを差っ引いても慈愛に満ちた、柔らかい表情をしている。
恐らくこれが彼女の自然体なのだろう。
(これが千早歴……)
自分が知る人物と同じ苗字。だが、その人物の、こんな表情は一度として見たことがない。
(似ている……。彼に。彼が笑えば、こんな風かもしれないな)
履歴書をページを閉じ、住所や近親者の情報を見るため、検索画面に戻った。
(もう少し調べてみるか)
検索内容:“千早”“男”2件ヒット。
調べていくと、そこには都築が予想していた通りの結果が横たわっていた。
(まさかこんな繋がりがあったとは……。加納が言っていたのは本当だった。凪さんの妹が千早歴。名古屋店のPOSオペレータ……)
『千早為葉』『千早凪』『千早歴』。
(彼女もまた、千早一族の者――)
キーマンとなる『千早為葉』をクリックし、秘書の項目を見る。第一秘書、『鬼無里火香』。
(……そうだった。鬼無里三姉妹のひとりが、千早為葉の秘書だ)
どこまでも繋がる符合に、背筋を冷たいものが伝う。
(これは運命か……)
PCを片付けながら、都築は最終確認として後藤田に念を押した。
「柾は……千早歴さんと懇意なわけですね?」
「男女の仲ではないと思いますが。それこそ穿ち過ぎというものかと」
「……なるほど、よく分かりました」
都築はその答えに納得したようだった。満足気に微笑み、席を立つ。
「後藤田店長、今日はとても有意義な訪問になりました。感謝します」
一方の後藤田は拍子抜けだ。てっきり名古屋店の抜き打ち視察に来たとばかり思っていたのに、蓋を開けてみれば柾の件。
それでも、本部の人間の機嫌を損ねるような失態をせずに済んだことに安堵した。
都築を丁重に見送ったあと、後藤田は呟いていた。
「彼の目に留まったか。柾の異動も近いな」


【4:8月31日―ユナイソン名古屋店】

「柾君、今期の売り上げ推移表を見せて貰ったよ。コスメ部門、前年度の147%とはね。うん、上々の出来だ」
「恐れ入ります」
「あれ? あまり嬉しそうじゃないね」
「まさか。会社に貢献できて嬉しいですよ。金一封が出るとの話でしたし」
笑みを浮かべた僕に、都築始の目が光った。
金一封など建前で、業績を残そうが会社に貢献しようが、僕の心が晴れていないことなどお見通しの様子だ。
なるほど、本部にも侮れない人間がいる。
「何か浮かないことでもあるのかい?」
「会社に不満はありませんよ」
嘘八百。会社には不満だらけだ。
代わり映えしない社員食堂の献立、因縁をつけるモンスターカスタマー、やっかみを隠そうともしない社員。
だがそんな悩みは多かれ少なかれ誰しも抱えている。どの業種、いつの時代だろうが、改善されることはないのだろう。
ただひとつ、ここ最近の風潮を受けてか、労働時間に関する項目だけは劇的に改善されてきている。
休日返上業務はなくなり、残業時間が減ったのは、本部が見直しをしたからだろう。その点はありがたかった。
「あまり自分を追い込むなよ」
その言葉こそパワハラに似た重圧だと思うのだが。
とはいえ彼なりに気を遣ってくれているのだろう。素直に頭を下げておいた。
「この調子だと、君が本部に来るのも時間の問題かな」
「光栄です」
「……大嘘つきだな」
苦笑する彼には、何もかもお見通しのようだ。
「そうですね、確かに」
首を竦め、僕は本音を吐露した。
「どうせ本部で僕を扱き使う気でしょう? これ以上の激務なんて想像もつきませんよ、都築さん。出来ればまだ現場にいたい」
「本部は君に期待しているんだよ。特に、女性の心を掴むコスメ部門でこれだけ成績を伸ばし続けていればね」
「単に僕好みのアイテムを棚に並べただけです」
「はは。謙遜がうまいな。君にこの部門を任せたのは大正解だった」
「女性スタッフを充実させて下さった都築さんには感謝してます。彼女たちの力があったからこその数字ですから」
「女性スタッフと言えば――名古屋店では急に退社した者がいたとか? 色々あるだろうが、身体を壊さない程度に頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
「これ以上、イレギュラーな人事異動を増やさないためにもね」
意味ありげな視線を寄越すからには、全てを把握しているのだろう。
三木奈和子と間宮七朝が立て続けに会社を辞め、その穴を埋める形でイレギュラーな異動があった。
都築がそのことを言っていることは、火を見るより明らかだった。
恐らく今日の接触は、僕にひとこと物申すためだったのだろう。やはりこの人は侮れない。いや、本部がか。
「気を付けた方がいい。君は有能だからね、君の昇進を妬む人間がいるんだよ。足元をすくわれないように」
「覚えておきます」
「君が異動するか、千早歴が異動するか。それは君次第だ」
「千早歴? 誰ですか、それ?」
「そうそう、その調子。その『答え』で合ってるよ」
都築はにこりと笑うが、なぜここで彼女の名前が挙がるのかが理解できず、僅かながら動揺してしまう。
ポーカーフェイスを装えたかどうかは分からないが、知らぬ存ぜぬで押し通した方がいいと直感が告げた。
が、否定し過ぎれば余計怪しく思われるだろうと思い、ひとことだけ添えておくことにした。
「まぁさすがに『誰ですか?』というのは冗談ですが。千早はうちの店のPOSオペレータ。当然知ってますよ」
「じゃあこれは知ってるかな。彼女が誰かってこと」
「……どういう意味です?」
「彼女はね、物凄いお金持ちの御令嬢なんだ。もし彼女と結婚すれば、逆玉間違いなしだね」
何を言い出すかと思えば、随分と俗物的なことを。
身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
「わざわざそんなことを伝えるために、遠路遥々お越しに? お疲れ様です」
「怒ってるのかい? それとも呆れてる? 私は君の敵じゃないんだけどな。むしろ本部に来てくれればいいと願っている側だからね」
「本気でそう思っているなら、僕を上に引き上げてくださいよ」
「ははは、そんな気など、これっぽっちもないくせに。でも可能性は高い。覚えておいて」
「……はい」
「あぁ、そうそう。明日からしばらく、僕や本部の人間が引っ切りなしに出入りすると思う。よろしくね」
「それはまた、どういった理由で?」
「さぁ? 俺は下っ端だからね。言われた指示に従うだけさ」
煙に巻くように笑うが、その微笑みの下に、一体どんな本性が隠れているんだか――。
それはそうと、上層部による監視が付いたのだろうか? 
(予想もしていなかったな。これで雁字搦めというわけだ)
彼女と離れてしまっていいのか? 答えはノーだ。千早の近くにいたい。
僕が何かを恐れているとしたら、それは千早を失うことに違いない。
そのためにも、これ以上勘ぐられない方がいいな。
(様子を見るか。本部の影が見えるうちは、彼女との接触を控えよう)


【5:8月31日―ユナイソン名古屋店~ユナイソン本部】

― では、まだ柾の離婚は成立していないのか?
― 戸籍上では、まだのようですよ。
― 彼には2人の子供がいたな。親権はどうなる?
― 柾と子供の間に、血は繋がっていないようです。奥方の連れ子だそうで。
― なんだって? 前夫との子だったのか。
― 凪さん、柾を味方につけるのは、やめた方が得策かもしれません。
― 何故だ?
― さきほど接触してみて分かりました。柾は、あなたの妹を好いている。
― 何だって?
― こうなると、柾の扱い方を考え直さなければいけませんね。あなたからすれば、妹君から引き離した方が良いのでは?
― 俺個人としては引き離したいが、既に計画は動き出している。柾が使えないとなると……。
― では、この名前は御存知ですか? 麻生環。同じく名古屋勤務の社員ですが、彼は柾と仲が良い。アキレス腱かも知れません。
― 麻生? 何者なんだ?
― ストーカー問題がネックになって、出世街道から逸れてしまった優秀社員です。確保しておきましょう。役に立ってくれるかもしれない。
― そうだな、念のために。
― この計画……本当に遂行するつもりですか? 道を間違えた場合、ぼくもあなたも、あなたの妹君の経歴にも傷がつきかねませんよ。
― それを言われると耳が痛いな。だが私だって上には逆らえない。性急な軌道修正も仕方あるまい。都築、上手くやってくれ。
― えぇ、岐阜店の件はお任せ下さい。お互い上手くやりましょう。
― あぁ、互いにな。


【6:8月31日―ユナイソン本部】

調べた結果、柾という男の女性関係は真っ黒だった。
本当に考えて結婚したのか? と思える相手と初婚を果たしておきながら、離婚間近だと言う。
泣かした女性は数え切れず。その上、あろうことか歴の同僚、しかも歴に懸想?
名古屋店から異動させるのは歴ではなく、柾の方が適任だ。
しかしヤツを本部へ持ってこれば加納は当初の予定通り、柾に枕営業をさせるだろうし、ここは俺の一存で手早く引導を渡すしかない。
加納には異動宣告する権限がない。そこを突いての、微かな反撃。小さな反抗だが、多少の打撃ぐらいは与えられるだろう。
さてその柾だが、異動先にどこを選べば良いのか。
そこで目を付けたのは五条川店だった。
柾の担当であるコスメ部門が東海地区最下位。
成績を上げられず苦悩するか、奇跡を起こし(手腕を発揮し)売り上げを伸ばすか。
どちらに転んでもらっても構わない。俺自身には痛くも痒くもない。
前者ならば柾個人の査定に響くだけであり、後者ならば「よくぞ五条川に柾を!」と、俺の人を見る目が称えられるだけのことだ。
何より歴から柾を引き離せるのだ。これに尽きる。
候補はいわば、切り札だ。まだ使わない。必要になった時のために取っておく。
自分の進むべき道、方針が定まったところで、描いたフローチャートに落とし穴がないか何度もトレースする。
俺は……もしかしたら、こののち、ユナイソンにスカウトしてくれた現CEOの足を引っ張る『特異点』になるかもしれない。
展開次第では、飼い主に牙を立てる猛犬へと変貌するとも限らない。
情報を得れば得るほど、守るべきものが出来てくるのは当然だし、計画に変更が生じるのも仕方がない。
どこに比重を置くかで、人は意見を変えるものだ。それは俺にも言えることだが。
ピッと腕時計が鳴った。19時を告げる音。
明日になれば月が変わる。9月1日。妹の誕生日。
……しまった。まだプレゼントしか用意していない。
花束も欲しい。花屋で、今年は年の数だけの薔薇を包んで貰おうか。
動く。とにかく今は、動かなければならないことだらけだ。
車に乗り込む。駅周辺に向かいながら、俺は、遂行させるべき最終考察を頭の中でなぞり、車体を暗闇の中へ――。


2006.11.09(THU)
2018.05.26(SAT)


←26話┃ ● ┃28話→






Last updated  2018.05.26 17:36:02
コメント(0) | コメントを書く
2018.05.23

←25話┃ ● ┃27話→


26話 (―) 【夜半の嵐】―ヨワノアラシ―



【1:麻生(1)】

目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。上体を起こすなり怖気が走り、くしゃみを連発してしまう。
古来の迷信に則れば、くしゃみ三回は惚れられているんだったか。
(――はっ。そんなわけあるか。誰から想われてるんだって話だ)
苦笑し、布団を見やる。
まだ寝足りないのか頭がぼんやりするし、二度寝するため布団にもぐり直す。と、耳元でメールの着信音がした。
(誰だ、こんな朝っぱらから……)
『名前:邑 用件:忘れるな!』
(邑? 忘れるなって……何を?)
不思議に思い『邑』の項目を選んで電話を掛けるも、『電源が入っていないため、かかりません』と告げられてしまう。
メールを送るだけ送っておいて即電源を落とすとは、いかにもあいつらしい。俺に対しての立腹アピールのつもりなのだろう。
「……何の用だったんだ?」
いぶかしむ暇もなく、今度は無神経にもドアを叩く音がした。
(おいおい、ちょっと待て……! 両隣りに筒抜けちまうんだよ、このドアは……!)
隣人から苦情が来ないことを願いながら、この騒音を止めるため、慌てて玄関へ向かう。
ドアの小窓から覗くと、『邑』本人が立っていた。
(うわ、想定内とは言え、めっちゃ怒ってる)
まるで俺が小窓から覗いていることを知っているかのように、その猫のような釣り目は、小さな覗き穴を凝視していた。
(やれやれ……)
俺は、長い1日が始まることを覚悟しつつ、観念してドアを開けた。


【2:歴(1)】

非番の今日は、可燃ゴミの収集日でもあった。
社宅マンションなので、いつ誰に会うとも分からない。身なりを整え、集積所までゴミ袋を運びに行く。
(これでよし)
来た道を戻る途中、見覚えのない女性が階段を下りてくる場面に出くわした。
ステップを踏むごとに、肩まで緩く巻かれた茶髪と両耳のピアスが、跳ねるように揺れる。
走るにはロングスカートの裾が邪魔なのか、せっかくの白くておしゃれな召し物を厄介者扱いしているように見えた。
陸上競技に劣らない本格走行に、見ている私の方がはらはらする。
悪い予感は的中してしまい、彼女はステップから足を踏み外してしまった。
反射的に目を閉じるも、嫌な音が響き、彼女が落ちたのだと知る。
そろりと目を開け、恐る恐る現場の方を見やる。足首を抑えているところを見るに、打撲か、或いは捻ったのかもしれない。
慌てて駆け寄ると、女性は苦痛に顔を歪ませていた。
「いったああ……。もうやだ、ほんっと最悪……」
「あの! 大丈夫ですか!? 立てますか?」
「え……? あなた、誰?」
「ここのマンションの者です……けど」
(前にもこうして階段から落ちた人を介抱したっけ……)
そんなことを思いつつ、その腕を取り、立たせようとした。
彼女は恐々と立ち上がったものの、膝から出血したようで、白いスカートにべったりと付着してしまっていた。
「大変! 手当した方がいいですよ。うちに来て下さい」
「いいよ、大丈夫だから」
捨て鉢気味に、女性は言った。
「駄目ですよ、黴菌が入っちゃいます。その姿で街を歩いたら、何事かと思われますよ。だって……」
だって、階段から落ちる以前から、泣いていたし……。
その言葉を、私は呑み込んだ。傷の理由はともかく、泣いていた理由に踏み込んでしまってはいけないような気がして。
「消毒しましょう? 私の部屋、2階なんです。少しだけ我慢して貰えれば、すぐですから。ね?」
下から覗き込むように言うと、女性はこくりと頷いた。
彼女のペースに合わせ、ゆっくり部屋へと戻る。
ソファーに座って貰い、救急箱を用意した。
消毒を終え、ガーゼを患部に当てるまで、私も女性も無言のままだった。
最後に「ありがとう」と、小さく、だけどはっきりした声で彼女は言った。
「どう致しまして。……そうだ、そのスカート……」
本来なら、すぐ水洗いすれば少しは落ちただろう血染み。けれど患部の消毒の方が先だったため、後回しになってしまった。
すっかり染み付いてしまった血を洗い流すには、プロに任せるしかないかもしれない。
「あぁ……うん、クリーニングに出すよ。心配してくれてありがとうね」
「よかったら、私の服を着ませんか? 61ですけど……」
「あ、一緒だ。……ごめんね、お願い出来るかな……」
「勿論! 待ってて下さいね、すぐ持って来ます」
タンスからジーンズを引っ張り出してくると、彼女に手渡した。
幸いカジュアルなトップスだったため、ジーンズでも何ら違和感はない。
「うん、丁度いい。何から何までありがとう。あなたがいてくれて良かった。あ、私は邑(ゆう)っていうの。よろしく」
「千早歴です。よろしく。えっと……邑さんは、ユナイソンの社員でしたっけ?」
「ううん、違う。今日は兄に会いに来ただけなんだ」
(お兄さんに会いに来て……泣いていたの?)
そんな質問、しちゃいけないんだろう。とはいえ、気にはなる。
「遊びに行く約束してたんだけど、電話しても繋がらないから直接迎えに来たの。でも、今日のこと忘れてたみたい」
「そんな……」
「あ、そんな顔しないで。これが彼氏だったら修羅場だったろうけどさ、相手は単なる兄貴なんだし。
向こうから『行くぞ』って誘ってきたのに、約束の時間になってもちっとも待ち合わせ場所に現れなくて。
仕方ないから直接迎えに来たんだけど、『今日だったか?』だの『まだ準備出来てない』だの言うから腹立っちゃった。
もういい! って怒鳴りつけて帰ろうとしたら、このざま。迷惑かけて本当にごめんね。服さ、洗って返すから」
「邑さんさえ良ければ貰ってやって下さい。私、ジーンズよりスカート派なんです。そのジーンズ、穿く機会がなくて」
「本当に? 綺麗な青色だから、一目見て気に入ったんだよね。じゃあお言葉に甘えちゃう。ありがとう」
「どう致しまして」
「それじゃそろそろ、おいとまするね」
「あ、はい。下まで送らせて下さい」
邑さんの歩幅に合わせて階下まで降りる。若干傷口をかばっているのか、その足はたどたどしい。
「大丈夫ですか? タクシー呼びましょうか」
「そんなオーバーな。これくらい平気だって。駅だって近いし、地元着いたら親呼ぶし」
「そうですか? それならいいんですけど……。本当に気を付けて下さいね。また遊びに来てください」
「うん。ありがと。お言葉に甘えて、また来るから。それじゃあね」
邑さんが手を振った時だった。『邑!』と彼女の名前を呼ぶ声が、頭上から降ってきた。
馴染み深いその声に、心臓がどきりと高跳びしてしまう。
「待て、邑!」
(この声、麻生さん?)
「げ、お兄ちゃんっ」
(お兄ちゃん? 麻生さんが!?)
「そこから絶対動くなよ!? 今そっちに行くからな!」
邑さんはその言葉を聞くなり、天の邪鬼よろしく駆け出した。
その突飛な行動も予想済みだったのか、麻生さんは舌打ちしつつもすぐに三段飛ばしで階段を降りてくる。
私も邑さんの後を追ったけれど、角を曲がった瞬間に見失ってしまった。
普段はのんびりしているとか大人しいなどと言われている私だけど、走りには自信があっただけに、虚を突かれてしまった。
その場で呆然としていると、追い付いた麻生さんから、「さっき一緒にいたやつ、どっちに行った?」と尋ねられた。
私は挨拶と質問の答えを全て端折り、単刀直入に訴えた。
「実はね麻生さん、邑さん、そこの階段から落ちて、膝から出血を……足を怪我してるんです」
「そうなのか? だとしても、ちぃが気に病むことなんてないからな。あいつは昔からそそっかしいんだ。それより自転車あるか?」
「折り畳み式のが部屋に」
「走った方が早いな」
「自宅に帰るようなことを言ってましたし、駅に向かったんじゃないかしら」
「サンキュ」
麻生さんは再び走り出し、邑さんを探しに行った。
私がこの場に留まっていても仕方がない。とはいえ、あんな場面を見てしまっては、部屋でのんびり寛ぐ気にはなれなかった。
しばらくマンションの出入り口で待っていようと思い、エントランスに設置された数人掛けのベンチに腰を下ろすことにした。
これなら麻生さんが戻って来てもすぐに気付けるからだ。
10分も経たないうちに、麻生さんが戻って来た。驚くことに、邑さんも一緒だ。
「ちぃ……千早さん、どうしたんだ?」
麻生さんが私の呼び方を替えたのは、邑さんの目があったからに違いない。
「あー……いえ、特に理由はないです」
私がここで待っていたのは、言わば個人的理由からだ。単に私が待ちたかったから。それだけ。
『麻生さんと邑さんが心配だったから』。そんな本心は、相手からしたら重いような気がして、言えなかった。
「気分的にその……紅茶が飲みたくて」
私が指し示した方向には自動販売機がある。もちろん紅茶がラインナップされていることは把握済みだ。
ただし今日は買っていない。そこだけがダミーだった。
「こいつ、隣りの公園にいたよ。おい、邑。千早さんに迷惑をかけたこと、ちゃんと謝りな」
厳しい声で麻生さんは言った。邑さんの心中を思うと、それはちょっと酷なような気がして、
「麻生さん、私は全然……」
気にしてません――。そう固辞する私に、麻生さんは首を振る。
まるで、『こういうことこそ、きちんとしないと』とでも言うように。
「ごめんなさい、歴さん」
「色々と迷惑を掛けてすまなかった。それに邑も。元はと言えば、俺が約束を忘れていたのが原因だったんだよな。ごめん」
「……もういいよ。そんな素直に謝られたら、許さないわけにはいかないじゃん」
いまや邑さんの顔は、出会ったときの悲しげな表情とは違っていた。
(麻生さんの言葉ひとつで、ここまで一喜一憂出来るなんて。本当に仲のいい兄妹なんだな)
麻生さんは邑さんの足を気遣いながら、ゆっくりとエレベータに乗り込んだ。手を振りながら、私はふたりを見送った。


【3:歴(2)】

夕方になり、麻生さんから私のスマホにメッセージが届いた。
足の怪我によって遊園地へ行けなくなった邑さんは、麻生さんの部屋でケーキや料理を作ったのだそうだ。
その報告の最後に、『ちぃ、今から俺の部屋に来れるか?』と問い掛けがあった。『はい』とだけ送る。
すると今度はメッセージではなく、電話がかかってきた。
「邑が張り切って、結構な量作っちまってさ。一緒に食べてくれると助かるんだが……」
「私でよければ、喜んで伺います」
「助かる。それと、悪いがもうひとつ頼みをきいてくれないか? 柾を連れて来て欲しいんだ」
「柾さんを? 分かりました」
「一緒に来てくれると助かる。ほんとに凄い量なんだ。もう仕事終わってるはずだから、家にいると思うんだ」
「じゃあ、柾さんに声を掛けてから伺いますね」
時計を見ると19時少し前。早番か中番なら、帰って来ているはずの時間だった。
自分の玄関を施錠し、目的地に向かう。すると柾さんの部屋のドア前で、驚くような光景が目に飛び込んで来た。
柾さんと、見知らぬ美女の組み合わせだ。柾さんは女性の首に両手を回していた。
そのままの状態で、ふたりが見つめ合っている。
「やだ、こら、直っ! くすぐったいって言ってるでしょ?」
「恭子が暴れるからだろう。まったく、自分からせがんだくせに……」
溜息をつきつつも、彼の両手はなお女性の首に絡んだままだ。
(嘘……。こんなところで……キスシーン……!?)
見付かってはまずい。慌てて身を隠す。
逸る鼓動を押さえていると、柾さんが「これで満足か?」と確認している声が聴こえてきた。
「えぇ、上出来よ」
(な、何が満足で、何が上出来なの……!? キスがってこと!?)
刺激が強過ぎて、頭がどうにかなりそうだ。  
柾さんを連れて行きたいのは山々だけれど、のこのこ姿を現していい雰囲気じゃないことぐらい、私にだって分かる。
そもそも情けないことに足が震えてしまっている。こんな状態では麻生さんのオーダーに応えるなんて土台無理な話だ。
(一体、彼女は誰……?)
艶めかしくゴージャスで、身に着けている貴金属も、小振りなものながら高価なように見えた。
しかも名前を呼び合う仲なのだから、俄然気になって仕方がない。
(モヤモヤしてソワソワする。なんだか落ち着かないわ)
「ちぃ、こんなところにいたのか。遅いからどうしたかと思ったぞ」
背後から声を掛けられ、思わず飛び上がりそうになった。いつの間にか麻生さんが私の隣りに立っていた。
「え、あ、す、すみません……!」
私が遅かったから、わざわざ様子を見に来てくれたのだろう。そう思うと申し訳なくて、頭を下げた。
「いや、待て待て。謝らなくていいんだ。それよりどうした? そんなところに突っ立って。柾はいなかったのか?」
「あ、いえ。その……」
歯切れが悪いのを不審に思っただろう。麻生さんは「ほら、柾んとこに行くぞ」と私を促す。
(や、やだ……行きたくない……。見たくない……!)
私の思いなど知るよしもなく、麻生さんは曲がり角を進み、柾さんの部屋へと向かってしまう。
「なんだ、いるじゃないか」
そう言い掛けた麻生さんの言葉が止まった。と同時に、柾さんも私たちに気付いたようだ。
「麻生? に、千早さん……?」
「あら、麻生君! お久し振り。元気だった?」
(え……。このひと、麻生さんとも知り合いなの……?)
「……恭子さん……。御無沙汰してます。今日はどうしてここに?」
穏やかな笑みを浮かべ、麻生さんは尋ねる。
一度も見たことのない、ゆったりした麻生さんの挨拶の仕方にどきりした。おとなの男性の表情、仕草が拍車をかける。
私にはそんな顔も対応もしてくれたことがないのに。残念がった自分に気付き、一瞬焦った。
「今から友人の結婚式の二次会なんだけどね、会場がここから近いから、ついでに会いに来たのよ、直に。
お酒飲むから今夜は泊まらせてって頼んだら、断られちゃった。薄情よねぇ」
意味深な笑みで柾さんを見る美女は、あまりにも柾さんにお似合いだ。自分が場違いなように思え、惨めさを覚えてしまう。
「ねぇ直、そちらの可愛らしい女性はどなた?」
「紹介するよ。同じ職場の千早さんだ。千早、彼女は恭子。僕の……」
「えぇ!? 信じられないわ。本当に単なる同僚なの? 直の恋人じゃなくて?」
言うなり、恭子さんの顔が近付く。とても芳しい香りに恐れ戦いてしまう。
「かんわいぃ。こんな妹が欲しい」
「恭子。彼女に失礼だから」
「ふふふ、ごめんなさい。じゃあ、そろそろ行くわね。またね、麻生君。千早さんも」
「は、はい」
「恭子さん、また」
(『また』? 麻生さん、恭子さんに会うつもりなの……?)
言葉ひとつひとつに、心が掻き乱される。
(私……どうして……)
ざわめく心には蓋が必要だった。何かに気付いてしまう前に、早く閉じてしまわなければ。


【4:歴(3)】

「驚いたな。すごい種類だ」
「私の悪い癖なの。作り始めたら止まらなくて。柾さん、たくさん食べてくださいね」
楽しく料理を分け合う邑さんとは大違い。柾さんをまともに見ることが出来ない。
恭子さんの存在が、気になって仕方ない。締め付けられるように心が苦しい。
(柾さん、あの美女とどういうご関係ですか? そんな風に訊ける勇気が私にあれば……)
「姉がすまなかったな」
柾さんがサラダを自分の皿に移しながら、ひとり落ち込んでいた私に言う。
「姉?」
「長女の恭子。僕の姉だ」
「おね……さん?」
反芻する私の声は、少し掠れていた。
私が見た、泣きぼくろが印象的な、日本人の体型とは思えない美女が長女の恭子さん。科学者なのだそうだ。
他にも姉がいるらしく、上から順に繋げると『きょうこ→こはる→るいな→なおちか』と、名前でしりとりが出来ると聞いて、更に驚いた。
柾家は少し特殊な環境にあるのかもしれない。
「少しは安心して貰えただろうか」
そう言って、静かに微笑む柾さん。
安心……には、まだ至らなかった。
「で、でも……! 柾さん、恭子さんの首に手を回していて……。『これで満足か?』って……。それってつまり……」
「?」
柾さんから『何を言ってるんだ?』という目で見られる。
それでも、私のことばの意味を理解するべく、柾さんはしばらく考え込んでいた。
「……あぁ、そういうことか」
腑に落ちたのか、柾さんは相好を崩して私に言った。
「ネックレスを付けてあげてたんだ。あの小さな輪っかが苦手らしくてね。科学者のくせに細かい作業が苦手なんておかしいだろう?」
「ね、ネックレス」
言われてみれば、なんてことはない。すべてのつじつまが合ってしまう。
「ひょっとして、僕がキスしてると思った?」
「!」
ぼん、と顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「なるほど、そう解釈されてもおかしくない流れではあったかな。
しかしそれを指摘してくるということは、千早さん、あのとき僕を意識してくれてた?」
「あ、あの……そ、それは……」
微笑する柾さん相手に、私はたじたじだ。
「嬉しいよ」
「……っ」
とどめの一撃に、私は二の句が出せずにいた。
(どうせからかわれてるんだわ。いつもみたいに……)
柾さんの謎は解けた。けれど、まだ麻生さんの問題が残ってる。
恭子さんは麻生さんを知っていた。いつからの付き合いで、どれほどの仲なのだろうと勘ぐってしまう。
「……っくしょん!」
思考を遮断するかのように聴こえたのは、麻生さんのくしゃみだった。間もなくしてドンという鈍い音。
「お兄ちゃん!? しっかりして、お兄ちゃん! 柾さん、歴さん、お兄ちゃんが倒れた……!」
「麻生さん!?」
「熱いな……。熱があるのか」
麻生さんの額に触れた柾さんが症状を確かめ、麻生さんを背負ってベッドまで運ぶ。
こうなってしまっては、夕食会どころではない。3人で手分けして、洗面器やタオル、パジャマなどをかき集め始めた。


【5:麻生(2)】

全身が燃えるように熱かった。特に顔が半端なく、首を伝い続ける何かが、とてつもなく気持ち悪かった。
それが何てことはない、自分の汗であることに、俺は思い至る。
気だるい肢体、火照る肉体、朦朧とする意識、三半規管の異常。ひどい耳鳴りがする。
重たい瞼をむりやりこじ開ければ、そこにあるのは一切の闇。
俺は一体どうしたんだ? 目が見えなくなったのか? 
……そうか、夜中か。だから何も見えないのか。
ホッとひと安堵するも、咽喉が渇いて仕方なく、唇を開ける。やばい、咽喉が痛い……。
水を飲みに立とうとして、違和感に気付いた。
どうやら自由が利かないほど熱があるようで、すぐにふらりとベッドに倒れ込んでしまった。
マジかよ……。そういえば、起きてすぐにくしゃみを連発していたっけ……。
諦めよう。水は諦める。今は眠りたい。けど、着ているものが汗を含んでいて気持ち悪い。着替えたい。
何を言ってるんだか。水すら飲みに行けない状態なのに、立てるはずがないんだ……。
そのとき、相変わらず続く耳鳴りとは別に、聞き馴染んだ男女の声が隣りの部屋から聴こえてきた。
「あとは僕が診ているから、キミはもう部屋に戻りなさい」
「私は休みですから大丈夫です。柾さんこそ、今日も出勤ですよね?」
「徹夜は慣れてるさ」
「でも終電を逃した邑さんを送るために遠路遥々関市まで送ってくださったばかりですし、お疲れのはずです」
「平気だよ」
「駄目です。お願いですから、少しは休んでください。私なら、隣りの部屋で仮眠させて貰ったお陰で大丈夫ですから」
「そうか? じゃあお言葉に甘えて、少しだけ部屋に戻って仮眠してくる。悪いな。後から交代しよう」
「はい。お休みなさい」
柾なのか……? 一体、誰と話してる? そもそも、どうしてここにいる……?
駄目だ、頭が重い。瞼も。
閉ざされる視界。そして、現の世界。


【6:歴(4)】

「失礼します。入りますね、麻生さん」
返事はない。近くに寄ると、麻生さんはうなされていた。
怖い夢でも見ているのだろうか。それとも、高熱が彼を苦しめているのか。細かい汗が浮き出ては、つつと流れ落ちる。
見えるところはその都度拭いていた。見えない箇所も拭いてあげたいのだけど、何度も躊躇してしまう。 
(でも、麻生さんは苦しんでいる患者なのよ。汗まみれだし、気持ち悪い思いをしているに違いないわ)
「……麻生さん、失礼します。勝手にごめんなさい」
意を決して掛け布団を捲る。邑さんが羽織らせたパジャマは、既に汗によって湿っていた。
(歴、落ち着いて。彼は病人。これは看病よ。早く汗を拭いてあげないと)
自分に言い聞かせながら、震える手でパジャマのボタンを外してゆく。露わになった上半身は、華奢めいていたものの、雄雄しかった。
男性的なその身体を前に、心臓がどうにかなってしまいそうだ。私の頬が熱いのは、麻生さんの熱がうつったからだろうか。 
(恥ずかしがってる場合じゃないわ。早く終わらせなければ、悪化させてしまう)
意を決し、かたく絞った冷たいタオルでまずは肩を拭く。次は腕を。手首、胸板、脇腹も。
「寒……い……」
小さな声が聴こえた。
(そうだ、早く着替えさせなければ)
柾さんが置いてくれたのか、男物のTシャツがすぐ近くにあった。苦労しながらそれを着させ、布団をかぶせる。
「麻生さん、大丈夫ですか?」
返事なんて期待してない。それでも。
夢と現を何度も何度も行ったり来たりする、そんな夜に。
(私の声は、届いてますか?)
「さっき――柾さんと恭子さんとの仲を疑ってしまったけれど、ふたりがご姉弟だと知って、心から安心しました。
でも、だったらどうして、麻生さんと恭子さんの仲がこんなに気になってしまうの……?
私は柾さんが好きだったはずなのに、いつから……? 私の心のなかに、麻生さん、貴方もいる……」
呟いてから我に返る。聞かれていないとはいえ、恐ろしい言葉だったことには変わりない。
これは本心。心にわだかまっていた、悩みの塊、そのもの。
柾さんだけじゃない。麻生さんもなのだ。いつの間にか麻生さんに吸い寄せられている自分がいる。
(私は卑劣な人間だわ。……ごめんなさい、麻生さん。弱音を吐いてしまいました)
言葉に出来なかった台詞。その上に被さってきた言葉は、
「……ちぃ、なのか?」
「……!」
「俺……あぁ、何だ、夢を見てるのか……。ちぃの手、冷たくて……気持ちいい……」
(今の言葉、聞かれてた――!? ううん、そんなハズは……そんなハズない)
「ちぃがいてくれるなら……安心して寝られるな。……役得だぜ。ざまーみろ、柾」
「麻生さん……」
「夢、でもいい。いや、夢……だからこそ言える。今だけは……傍にいて欲しい……。行くな……」
「――もちろんです。私はここにいます、麻生さん」
お願い。繋ぎ止めていて下さい、柾さん。柾さんを好きなままでいさせてください。私から、麻生さんを背かせて。
(でも、今日だけは……熱が下がるまでは。貴方の隣りにいるわ)
これは夢だから。朝が来れば、忘れるの。心が揺らいでしまった、今夜のことは。


【7:麻生(3)】

誰かの冷たい指先が、火照った頬を伝う。
もっとその感覚を味わっていたいのに、朦朧とする意識がそれを許さない。
余韻に浸り、理性を制御し、そして夢を見る。
夢の中で微笑む彼女は、なぜだかとても悲しそうだ。
見たくないから消えてしまえ。
そう願うのに、いやだ、行かないでくれと切願する自分がいる。
夢ならとっとと覚めてくれ。近くにいるのに遠く感じる悪夢など、さっさと終わってしまえ。
眠りたい。夢など見る暇などないほど深く、深く、深く眠ってしまいたい。
最後に見たのは涙を浮かべた彼女の顔。
あんたは夢の中でさえ泣くんだな。
やめろよ。俺なんかのために泣くんじゃない。
「おやすみなさい、麻生さん」
ポタリと落ちた涙の雫が、やけに温かいなんて。
あぁ、本当に。本当に、変な夢だ。
でも、幸せに思うんだ。


2007.10.26
2018.05.23


←25話┃ ● ┃27話→






Last updated  2018.05.23 21:37:08
コメント(0) | コメントを書く
2018.04.19

←24話┃ ● ┃26話→


25話 (柾) 【捲土重来】―ケンドチョウライ―



16時台のコスメ売り場には学校帰りの女子高生の姿が目立つ。
一風変わったデザインは、名の知れた有名な進学高の制服だ。二三人の友達連れが何組か、売り場を行き来する。
「これカワイイ」「あれも欲しい」「でもお金が足りない」と一喜一憂する彼女たち。
もう化粧をする年頃なのかと驚いたのは、この売り場を任された昔のことだ。いまではすっかりそんな光景にも慣れていた。
商品の新規陳列レポートを確認しながら売り場を廻っていると、1人の女子高生が商品を手に取っているのが目に入った。
彼女は躊躇いもなく、それを制服の上に羽織ったグレーのカーディガンポケットに忍ばせる。
(――ちっ。万引きとは、またイヤな場面に出くわしたものだ)
やれやれと思いつつも、≪万引きに関するマニュアル≫に則り、しばらく様子を見ることにする。
ひとつ腑に落ちない点は、彼女の態度だ。どことなく目がぼんやりしていて、切羽詰まった様子は見受けられない。
ひとの気配や監視カメラを警戒しながら盗るのが定石なのに、彼女は周囲などものともせず、堂々と盗みを働いた。
(常習犯か?)
そんな考えも一瞬頭をかすめたのだが、長年の勘が『彼女は常習犯ではない』とシグナルを発している。
何にせよ、見張り続ける必要があった。
やや離れた位置から彼女を尾行する。歩く速度は早くもなければ遅くもなく、恐ろしいぐらいに普通だ。
僕以外の者がいまの彼女を見たところで、こんな有名進学校生が万引き犯(仮)だとは、誰も夢にも思うまい。
例えポケットに入れてしまったとしても、あとで商品を戻せば見逃せるのだが、一歩でも外に出れば万引きの成立だ。
(さて、彼女はどうするのか)
呆気なく店から出た。こうなるともう、彼女を庇う理由はない。
PHSで容赦なく保安係の投入を要請し、万引きの現行犯として、保安室まで連行してもらった。


***

「どうなった?」
件の少女を任せた保安員に経過を尋ねると、およそ保安員には見えないミニスカートを穿いた女性は軽い溜息をついた。
「大人しいもんよ。素直に犯行を認めたわ。初犯だから警察も呼ばなかった。学校にも連絡はしない。
ただ、母親には連絡したわ。母子家庭だそうで、勤め先からこちらに向かってる最中よ。厳重注意で終わりそうね」
「注意だけで済みそうなのか?」
「反抗も、抵抗もしないし、反省してる。
母親が来たら、管理職立ち合いのもと、盗んだ商品を買い取って貰って、誓約書にサインして貰うことになるわ」
「彼女、まだ隣りの部屋に?」
「えぇ、いるわ。母親が来るまであと50分はかかるそうよ。それまでここでモニタの監視してるしかないわ」
「商品のことで彼女と話がしたいんだが、可能か?」
「構わないわ」
保安員はどうぞとばかりに手の平を保安室のドアに向け、僕の入室許可を出した。


***

18時。時間を確認してから保安室に入る。狭くて殺風景で、簡素なものしかこの部屋にはない。
彼女は椅子に座ったまま微動だにしなかった。
誰が出入りしようが自分には関係ないとでもいうような心の断絶を感じた。
机の上には、彼女が盗った口紅が置いてあった。はっきり言って、全く人気のないシリーズだ。
「やぁ」
さっきまで保安官が座っていたであろう椅子に腰掛けると彼女に話しかけたが、反応はない。
(こんな調子で本当に会話が成り立ったのか?)
名前や年齢を尋ねても、彼女は返事を寄越すどころか視線すら動かさなかった。取り付く島もないとはこのことか。
机に置かれていたファイルに目を通す。要注意人物リストの一番上には既に彼女の名前と写真がファイリングされていた。
『神木彩/カミキアヤ/17歳/名古屋市×××高校在学』云々。
前髪が邪魔をして表情は見えないが、染めていない髪、短くないスカートなどは、生徒手帳に記載された規定そのものだ。
「神木さんとやら。なぜこれにしたんだ?」
その問いに、神木さんは微かに顔をあげた。僕を見る目にはマスカラも無塗布で、僅かに震える唇はグロスも注していない。
「キミが盗んだこの商品は、僕が言うのもなんだけど、何で置いてるんだろうっていうぐらい全く売れないものなんだ。
どうせ盗むなら、高価なものや、人気の高いものの方がいいに決まってる。だからそれを選んだキミが不思議でならなくてね」
ようやく彼女は、蚊の鳴くような小さな声で「知らない」とだけ告げた。
「知らない? 何を知らない?」
「他の商品なんて知らない。メイクの仕方なんて、分からない」
ちらりと視線を動かせば、机の上にはファイルとは別に、高価そうな参考書や問題集が累々と積み上げられていた。
どうやら保安員は身体検査に加え、鞄の持ち物検査もしたらしいが、それがそのままの状態になってしまっている。
(しかしこの量とは……。さすが、県内でも優秀な進学校なだけあるな)
ファイルの犯行動機の項目には『なんとなく』や『よく覚えていない』という曖昧なことばしか並んでいない。
こうなると邪推するしかないのだが、学業に励むあまり、参考書を買い続けてコスメを買うお金がなかった口だろうか。
あるいは有名な進学校の生徒だ、成績のことでムシャクシャしていたのかもしれない。
勉強ばかりでオシャレのおの字も知らず、今回たまたま魔が差した――。そんなところだろうか?
(ふむ)
「ここで待っていてくれないか」
僕の問いかけに、神木さんは不安げな顔で小さく頷いた。
ドアを開けると、隣りの部屋で監視モニタを凝視していた保安員が尋ねてきた。
「あら、柾さん。話は終わった?」
「悪いが、もう少しだけ話がしたいんだ。いいかな?」
「変なことさえしなければね」
「恩にきる」
保安員はなおもモニタに視線を送り、店内に異常がないか、全神経を研ぎ澄ませている。
その横を突っ切ると、コスメ売り場に向かった。


***

机の上に、新品のコスメ類を並べていく。
いまやメーカーの顧客争奪戦は苛烈の一途をたどり、いかに一瞬にして目を引くかを意識して作られている。
結果、凝ったデザインの容器が多いわけだが、彼女も例外ではなかった。
彼女は僕の予期せぬ行動に唖然としていたものの、目の前に散乱する見慣れない『宝石』の美しさに目を瞠った。
中でもペン状のようなものを見つけ、不思議そうにしている。
彼女にとってはさながら参考書にラインを引くためのマーカーペンにしか見えないのだろう。
「蓋を開ければ違いに気付くと思うが、パッと見ただけではまず分からないデザインだろう? それはアイラインだ」
「……名前は聞いたことがあります。アイラインってこんな形をしてるんですね」
やっと感嘆めいたことばを引き出すことに成功した。
「顔をあげて」
「?」
「十分綺麗な目だ。左目を閉じて」
驚いた彼女は、身をよじろうとした。
「動くな。じっとして」
「!」
そんなつもりはなかったのだが、彼女には鋭い声として響いたかもしれない。彼女は怖々と椅子に座りなおした。
じっとしていることを確認してから左目にラインを施す。続いて右目も同じように。
「鏡はあるか?」
キャップを閉めながら聞くと、彼女は首を振った。化粧とはとことん無縁なのだろう。綺麗な肌をしているだけに意外だった。
「じゃあこの手鏡を持って。これがキミだ」
手鏡を渡すとおずおずと自分の顔の前に近付けた彼女は、己の姿を確認するなり「これが?」と驚き、何度も目を瞬かせた。
まるで固い意志を持ったようだろう? と聞くと、首肯する。
「鏡を置いて、顔をこっちに向けて」
一瞬逡巡した彼女だったが、言われた通り鏡を机の上に置くと、身体をこちらに向けた。
「次はアイブロウ。エキゾチックな顔立ちだし、オレンジゴールドが映えるかもな。単に僕の好みだが。
今度は口を少し開けて」
恥ずかしそうにしつつも微かに開いた唇に、スパチュラで切り取った口紅をリップブラシに付けながらなぞっていく。
「ティッシュを軽く噛んで」
きゅっとティッシュを噛ませ、はみ出た箇所は拭ってやる。下唇の中央にだけグロスを施し、これで唇は完成だ。
「さて、アイシャドウはどれにする? 選んでみるか?」
戸惑っている彼女は、ふるふると顔を横に振った。降参のポーズのつもりなのだろう。
「神木さんはイエローベースだからな。ここはカーキにしてみようか」
パウダーアイシャドウを瞼に乗せ、グラデーションを作っていく。多少時間はかかったが、その分綺麗に塗れたと思う。
「ほら、どうだ?」
手鏡を彼女に向けてやる。
普段の自分とかけ離れた姿を見て戸惑ってはいるものの、瞳の奥に宿った喜びの光は隠し切れていない。
(あぁ――そうだった、僕はこの瞬間が好きなんだ)
生かし切れていない魅力を引き出し、自分は綺麗なのだと気付かせてあげる手助けをしたくてコスメ売り場を希望した。
初心に戻れた気がして、胸に熱いものが込み上げてくる。これはしばらく味わっていなかったもの――『手応え』だ。
(まさかこんな感情が再び芽生えるなんて)
チーフになってからは統括業務に忙しく、美容部員の仕事から完全に手を引いていただけに、純粋に楽しく思える。
(今度、最新の知識を吸収しに、化粧品会社のメイク勉強会に参加するか)
最近はまんねりなルーチンワークが祟り、勤務意欲の乏しさにどうしたものかと危機感を抱いていたところだった。
だから今回、目標ができたことが嬉しくもあり、まだまだ向上心を失っていなかった自分が誇らしくもあった。
「これが……私?」
「キミだよ。間違いなくね」
「嘘みたい。だってこんなの……いつもの自分じゃない……! まるで雑誌に載ってる子みたい……」
「綺麗だ」
「お、お世辞は結構です……」
急に顔が真っ赤になり、慌てた様子で伏せるように手鏡を机に置く。
「お世辞じゃない。勉強もお洒落ももっと楽しめばいい。誰も止めやしない。綺麗な子が増えれば世の男が喜ぶ。それだけさ」
「でも……! お母さんが……お母さんが、勉強を疎かにしてはいけないって。
私、お金を使うたびにお小遣い帳の記入をしなくちゃいけないんです。でもメイク道具なんて買ったら絶対怒られる。だから……」
しゅんと項垂れるところを見るに、それが動機の根幹に繋がっているのかもしれないと僕は思った。
おしゃれに憧れる一方で、母への期待を裏切るわけにはいかないジレンマ。
『うつつを抜かしている場合ではない』と己を叱咤するも、煌びやかな売り場は年頃の少女にはいささか刺激が強すぎた。
心に閉じ込めていた羨望が溢れ出し、今回万引きという手段に手を染めることになってしまったのだろう。
「お洒落をすると、勉強が疎かになるのか? 院まで行ったが、そんなおかしな方程式は知らないな」
彼女がハッとした顔で僕を見返した。そんな考え方もあるのかと、初めて気付いた様子で。
「逆にその発想がよろしくない。そんなに堅く考えてしまうと、ますます自分を追い込むことになるぞ。さっきのキミみたいに」
「……ごめんなさい」
深く反省しているようだ。決して涙は見せず、歯を食いしばって、自分がしたことの罪の重さを認識しているようだった。
きっと彼女は大丈夫だろう。そんな根拠のない自信が、なぜか僕の胸を満たした。
(今回は警察に通報しないケースだったな。その場合だと、学校に報告するかしないかは生徒の任意次第、だっけか)
「……あぁ、そうだ」
危うく忘れるところだった。一緒に持って来たクレンジングシートを手渡す。
「これでメイクを落とすんだ」
「え……でも……」
せっかくの変身が解けてしまうことを残念がっていることは、手に取るように分かった。
だが彼女の場合、それではいけないのだ。僕は懇々と説き伏せる。
「じきにお母さんが見える。その時にそんなメイクをしていたら、心からの謝罪も嘘臭く聴こえてしまうぞ。
名残惜しいだろうが、いますぐそのシートでメイクを全部落とすんだ」
「で、でも……せっかく……貴方が……褒め……褒めてくれたのに」
(なんてことだ。ここで泣くのか?)
万引きの説教時には涙すら見せなかったというのに。
彼女に女性としての片鱗を見たような気がした。蝶は羽化したことで羽根を広げ、羽ばたきたがっている。
ならば僕はその手助けをするより他に道はない。
「2週間後の土曜日、午後15時、コスメ売り場だ。どうだ、来れそうか?」
彩はきょとんとしていたが、次の瞬間、こくんと頷いた。
「よし、いい子だ。しばらく辛い日々が続くだろうが、2週間後にまたメイクをしてあげるから。頑張れるね?」
「……はい!」
「もし売り場に僕の姿がなかったら、近くのスタッフに『柾を訪ねてきた、アポ済みだ』と言えばいいから」
「分かりました。柾さんですね。……柾さん、今日は本当にごめんなさい。でも……ありがとうございました」
「あぁ。じゃあな。2週間後に会おう」
この約束が彼女にとっていい方向へ向かえばいいと願わずにいられない。
僕はコンコンとドアを叩き、隣りの部屋を開ける。
「あら。もう用は済んだ?」
「あぁ、済んだよ。ありがとう」
まだ仕事が残っているし、これ以上ここに留まるわけにはいかない。保安員にお礼を言い、退室した。


***

2週間があっという間に過ぎ、約束の土曜日午後15時になった。
そろそろ来る頃かと思い、売り場で陳列の作業をしていると、彩は時間通りに現れた。
今日は私服姿だ。白いワンピースに、黄色のカーディガンを羽織っている。
「あの……柾さん、こんにちは。その節は、本当に申し訳ありませんでした」
まっすぐに僕の目を見、頭を下げる。
「神木さん、髪切ったんだな」
指摘すると、頭を上げた彩は照れくさそうにボブカットの毛先に触れた。
「はい。あれから親にこっぴどく叱られて、私が悪かったこと、ちゃんと反省していることを伝えました。
学校にも報告して、……優秀な君が? って驚かれちゃったけど……もう期待を裏切る真似はしないと誓いました。
謹慎処分や退学処分を覚悟してたんですけど、ずるいことに反省文5枚の提出だけで済んでしまいました。
髪を切ったのは、私なりのけじめです。できれば、学校にはもっと重く罰して欲しかった……」
「誠意が伝わったんだ。上辺だけじゃなく、心の底から深く反省していることが。ありがたいことじゃないか」
「はい。もう私、二度とぐれたりしません。親も学校も私を気にかけて、心配してくれていることも分かりましたし。
それもこれも、柾さんのお陰です」
「僕の?」
「そうです。柾さんが私の気持ちを肯定してくれたこと、本当に嬉しかったんです。
勉強の大切さも否定せず、その上でおしゃれすることもこれから頑張れって仰ってくださいましたよね。
必死に机に齧りついてきた今までの私の行為は決して無駄なんかじゃなかった、そう思ったら報われたような気がしました。
柾さんの言葉が、ストンと胸に落ちてきたんです」
「そう言って貰えて、僕こそ嬉しい」
彼女の目は既に前を向いていて、きらきらと眩しかった。
これなら本当に大丈夫だろう。
「今日キミに来て貰ったのは他でもない。キミさえ良ければ、メイクをしていかないか?
今日は、特に腕のいい美容部員が出勤してるんだ。彼女はあらゆる賞を総なめにしているほどの実力者でね。
普段は指名客によって予約が埋まってるんだが、15時から16時まではスケジュールを空けて貰った。
キミがメイク体験を望むなら、いますぐ彼女を呼び出すよ」
店内用のPHSを取り出し、短縮番号を押せるようにスタンバイする。
「あの……それは……、メイク体験はとても魅力的で……ぜひお願いしたいです。でも……」
「うん?」
「あの……せっかくですけど……その女性じゃなくて……あの……出来れば柾さんがいいです。……駄目ですか?」
「僕?」
「私、出来れば柾さんにもう一度お願いしたいです……!」
顔を真っ赤にしながら彩は訴えた。まさかそんな提案をされるとは思わず、僕は虚を突かれる。
「いや、だが僕はそんなに巧いわけでは……。多忙を理由にメイク講座の受講もさぼっていたし……」
「でも、この間の柾さんのメイク、私、とても好きだって思いました。だ、だから……」
たどたどしく自分の想いを綴る少女に対し、これ以上ノーと抗い続けることは、僕の美学に反した。
「――光栄だ。分かった、僕で良ければ」
「はい! 柾さんがいいです」
ホッとしたように、くしゃりと笑う。笑顔は満開のひまわりを彷彿させるほど明るい。
「きっと、もっと綺麗になるんだろうなぁ」
「え?」
「いや、何でもない。じゃあこっちに来て」
いやはや、恐れ入った。本当に、女性が花を咲かすのは早い。あっという間だ。
彩はこれからどんどん綺麗になっていくことだろう。


***

彩の帰り際、重いけど持てる? と、コスメケースを渡した。
「こっちの勉強も、後々必要になってくるから」
「これは……?」
「僕からのプレゼント。自分で研究してみるんだ。こればかりは、実践あるのみだから」
中を開けると、彩の口から感嘆の声が零れた。
ケースの中には化粧水から乳液、クレンジングオイルに始まり、メイク道具が一式詰め込んである。どれも新品だ。
実は千早歴が好きなブランドのラインで揃えてみたのだが、それは僕だけの秘密だ。
「でも、こんなに沢山……! とても素敵だと思います。めちゃくちゃ嬉しいですし。でも、何だか申し訳なくて……」
「キミを数時間拘束してしまったお詫びと、勝手に女の子の肌に触ってしまったお詫びだ。もう無茶はするなよ」
「ありがとう……ございますっ……! 本当に……本当に、ありがとう、柾さん!
せめてもの罪滅ぼしというか、お礼に、私、これからは柾さんがいるところで化粧品を買いますね。
こんなに良くして頂いたのに、それぐらいのお礼しか出来なくてごめんなさい。また相談に乗っていただけると嬉しいです」
「いつでも歓迎するよ」
僕のことばに、彩は二度目の笑みを見せた。心強くも未来を信じている顔だ。
おめでとう、新たなる彩り豊かな女性の誕生だ。


改稿2018.04.19


←24話┃ ● ┃26話→






Last updated  2018.04.19 10:50:56
コメント(0) | コメントを書く
2018.04.14

←23話┃ ● ┃25話→


24話 (―) 【禁断の匣】―キンダンノハコ―



■女子更衣室内

「柾さんでしょ」
その一言に、歴のブラウスボタンを留める手が止まった。
誰の声かは分からないが、ロッカーを隔てた室内のどこかで繰り広げられているのは柾の話題のようだ。
なんの話ー? と、別の位置から参加者の声がする。歴も興味が湧き、つい耳をそばだててしまった。
途中参加者にも聞こえるような声量で話してくれているのが救いだった。
「この店で、誰が最高の夜を演出してくれるかの話」
「ちょっとー」「朝からどんな話題よ~?」などといった呆れ声、たしなめる者がいる一方で、
「衣料の五十嵐さんに一票」「私は麻生さーん!」とノリ良く加わる者もいる。
柾の名前が断トツ多いが、負けず劣らず麻生の名前があがり、二分するほどの人気の高さに驚いた。
(確かに『麻生さんと食事をし隊』という会は存在してるけれど、これほどだなんて)
なまじ女性を苦手としているだけに、浮いた話は一切聞かない麻生である。
本人も「ここ10年ほどは彼女がいない」と明言しているし、その言葉を疑ったことはない。
女性の影が見受けられないだけに、下世話にも『最高の夜を演出』することなど出来るのだろうかと、
(いぶかしむなんて、私ったら失礼にもほどがあるわ。でも、麻生さんが本気を出したらどうなるのか……)
それ以上は考えてはいけないような気がして、歴は慌てて雑念を振り払う。
他にも知った名前がちらほら列挙され、しばらくは、やんややんやと盛り上がっていた。
やがて他店の男性社員の名前まであがるようになり、これでは埒があかないという理由で投票は打ち切られた。
「案の定、柾票が多かったわね。今でこそ彼の周囲も落ち着いたけど、噂の数なら彼に軍配があがるものね」
「どうしたってその差は大きいよね。そういえば柾さんと同じ香水買ったの。これがまた良い匂いなのよ」
「『ヒストリア』だっけ。最近その香水使ってるひと増えたよね」
話題にのぼった香水は、歴が柾の誕生日にプレゼントしたものだった。
もともと歴が、自分の名前を彷彿させるからと愛用していたものだ。
柾が同じものを所望したため、お互い『お揃い』の最中である。嬉しい反面、次はどうなることやら。
(私は『ヒストリア』をリピートするつもりだけど、柾さんはどうかしら。きっと違うものを選ぶわよね)
少しだけ寂しい気持ちになりつつ、歴はハンガーに私服を掛けた。

女子更衣室。
そこでは恥じらいも芳しい香りもまやかしだ。その匣の中では日々、赤裸々な告白が横行する。
歴は自身のロッカーに鍵を掛けた。そして、秘密にしておきたい会話にも鍵を。心の内に、カチリと施錠。
「今日も頑張ろう」
小さく拳を作り、ドアを開ける。
女子更衣室の秘め事は、門外不出につき、取り扱い注意。


■男子更衣室内

土足厳禁と書かれた紙が貼られたドア。恐らく過去に土足であがる不届き者がいたのだろう。
凌ぎ合い、駆け引きし、騙し合う。
そんな権力のシーソーゲームを楽しむ、多くの女性にとっては未知の世界。男子更衣室。

従業員出入口の自動販売機でミネラルウォーターを買った柾は、自身のロッカーに着くなりキャップを開けた。
のどを盛大に鳴らしながら、そのまま一気に煽る。早くも既に半分近くが体内へと流し込まれていった。
「おーおー。うまそうに飲むねぇ」
「さすがに一気に飲みすぎじゃないスか?」
各々感想を述べたのは、柾と同じ通路にロッカーがある麻生と平塚だ。
更衣室とはいえ、上着を脱ぐだけでことが済んでしまう彼らは、室内にいるときはほぼ自由に過ごしていた。
現にいま麻生は商品説明の糧になるならばと≪必読!最新デジカメはここが違う!≫と書かれた雑誌を読んでいる。
一方で、平塚はピコピコとアナログな音を出しながら昭和のレトロゲームアプリの記録更新に勤しんでいた。
柾はキャップを閉じると溜息をついてから弁解した。
「軽い二日酔いだ。安い酒をしこたま飲んでな」
「安酒? 昨日は一人で飲んだのか。珍しいな」
「えーそんなー。一声掛けてくれたら、俺も一緒に飲んだのにー」
残念がる平塚に「また今度な」と応じると、胸やけが治まらないのか再び水を煽る。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
今まさに到着したての声の主は五十嵐 資である。彼もまた、同じ列のロッカー使用者だった。
低く落ち着いた声音からは品性がうかがえ、同性が聞いても心地よい。
日々の運動を欠かさない、がっしりとした体躯は、ほどよく日に焼けている。
そんな体つきとは不釣合いな気もする五十嵐の優しい顔は、彫りの深さと垂れ目がインパクトを与える。
茶雑じりの黒髪は珍しいほど綺麗で、日本人離れした彫り深い顔によく似合っていた。
穏やかな性格と気配りの細かさから、女性からは目下『紳士』と囁かれている好人物だった。
「おはよう、嵐。ちょっと下手な呑み方をしただけだ。大丈夫だよ」
「ならいいけど、無理はするなよ」
「あぁ、ありがとう」
「五十嵐さん! おはようございます」
「おはよう。今日も元気だな、平塚」
「お陰様で!」
会話がひと段落したところで平塚は五十嵐に挨拶をする。
平塚が皆から好かれている理由は、こうした分け隔てなく平等に声を掛ける姿勢にあるのかもしれない。
五十嵐にとっても、この入社3年目のやんちゃ坊主が可愛い存在であるらしく、何かと気に掛けては面倒を見ている。
「嵐、おはようさん」
「おはよう、麻生。朗報だぞ。従業員特権で、今日から月末まで≪セブンス≫のコーヒーが無料なんだそうだ」
うきうきと報告する五十嵐を見た麻生は、本気で驚いたようだった。
「……驚いたな。嵐がコーヒーの無料サービスで喜ぶなんて……」
どちらかといえば五十嵐は、サービスを提供することで喜びを見い出すタイプだ。
クーポンをかざして割引を受けたり、『今なら半額!』といった、受け取る方には無頓着だったはずだが……。
その視線に気付いたのだろう、五十嵐は照れくさそうに苦笑いをした。片頬を指先で掻きながら言う。
「実は、妻が入院してしまったんだ。少しでも出費を抑えようと思ってね」
二重に驚いたのは麻生だ。
「殺しても死にそうにないキャロルが??? 入院???」
「ははは、驚くとこはそこなの? キャロルが聞いたらSIGで撃たれちゃうよ、麻生」
苦笑する時でさえ、五十嵐の所作は上品だ。握った拳を優雅に口元に近付ける。
「あんたの嫁はまた新しい銃を手に入れたのか。これ以上権力付けてどうするんだ?」
「麻薬取締局なんて、麻薬を持っていなければち~っとも怖くないよ」
「そりゃそうだが……」
「凄い……! 五十嵐さんの奥さんって外国人なんですか?」
目を輝かせた平塚が問う。スマホを持っていないところを見ると、ゲームアプリを停止させたようだ。
「あぁ、アメリカ人だよ。キャロラインっていうんだ」
にこにこと説明する五十嵐に、麻生は「どうして入院したんだ?」と怖いもの知りたさで訊ねる。
訊かれたからには、優しく説明するのが五十嵐だ。
「犯人と格闘した際、左腕を撃たれてしまってね。幸い、弾は綺麗に貫通したようだから、傷跡は残ら……」
「わー、俺が悪かった! それ以上はいい! やっぱお前の嫁、こえーよ。あとで見舞いの花束渡すから」
「ありがとう、きっと喜ぶよ。……やけに静かだと思ったら柾、どうした? やっぱり具合が悪いんじゃないか?」
「平気だ、生きてる。俺も花を贈らせてもらうよ」
ロッカーに背を預け、もたれかかる柾は、とてもじゃないが『平気』そうには見えない。
一体、何がどうして、そんな変な呑み方をしたのやら。
「何かあった? そういえば、最近は浮いた話をとんと聞かないが……大丈夫か?」
「おい、柾。まさか『その所為で』夜な夜な安酒に溺れてるなんてこと言わねぇよな?」
「2人とも、どんな心配の仕方だ? そんな理由じゃないから安心しろ」
2度目の溜息は、同期に対する呆れによるものだった。そんな憂い顔を、平塚がまじまじと見つめながら、
「その顔と身体を使わないなんて、ほんと勿体ないな~。俺が柾さんだったら毎晩繰り出してますよ~」
「夜遊びはやめた。そんなに楽しいもんじゃないぞ」
「うわー、おとなの発言。一通り試しての結論だからか、説得力あるなぁ」
「平塚がハーレムを囲うのか? うーん、まったく想像できないな」
と五十嵐が言う。
王様気取りの平塚の姿を想像するのは難しい。平塚が女好きだとは思えないからだろう。
だが、平塚には野望があるのか、へへへと鼻の下を軽く掻きながら言った。
「俺だったら、まずは千早さんから声をかけるかな」
「「!?」」
その瞬間、柾と麻生の顔色が変わった。
彼女の名前が真っ先にあがる理由が分からない。平塚のタイプなのだろうか。
2人が心をざわつかせている隣りで、五十嵐だけが「はて?」と首を傾げていた。
「千早……?」
「POSオペレータの千早歴ですよ。最近めきめき綺麗になって高嶺の花になりつつあるんですけど、知りません?」
「あぁ、彼女か。確かに何度か耳にするようになったかな」
今のところ、仕事の依頼もないため、五十嵐と歴には接点がない。すれ違ったときに挨拶をする程度だった。
「そうなのか? どんな話を?」
麻生に尋ねられ、五十嵐は記憶を辿った。
「『合コンに誘ってみたいんだよね』って話を聞いたことがあるよ。
あとは、『部屋が近いのを口実に、実家から送ってもらった米を差し入れしたんだ』とかね。
彼女、社宅に引っ越したんだってね。彼女会いたさに用を作って部屋まで行ったって話をいくつか耳にしたよ」
「……やれやれ。麻生があれほど釘を刺したというのにな。あれだけでは足りなかったか」
ぼそりと柾が呟く。
『知らない人がチャイムを鳴らしても気安く出るんじゃないぞ。夜中のチャイムは全て無視』――。
歴が引っ越す前、麻生が口を酸っぱくして言ったことばが蘇る。
あのとき柾は麻生に対し『過保護過ぎるんじゃないか?』とたしなめたものだが、今となっては麻生に同調せざるを得ない。
千早歴には危機感がなさ過ぎるのではないか?
「そうなんですよ、なにげに狙ってるひとって多いんですよね~。
でもガードがめっちゃ固いらしくて。恋愛系の話題を振っても反応が薄いから、心が折れそうって誰かが言ってました」
「そんな難攻不落な子を手始めに選んじゃ駄目だろう」
「ですねぇ。千早さん天然っぽいから余計難しそうだし、考え直します。あ、柾さんは?」
「何が」
急に話題を振られ、わずかに身構える。
「千早さんと艶っぽい関係になれそうなのって、ユナイソンだと柾さんぐらいかなーと思って。
そうそう、更衣室のロッカーが隣りだっていう子が言ってました。千早さんって着痩せするタイプらしいですよ。
下着の色まで教えて貰っちゃいました。聞きたいですか?」
「「平塚」」
「な、なんですか、2人揃って……」
気迫に負けた平塚がぱちくりと目を開け、柾と麻生を交互に見つめる。麻生は空咳をして平塚をいさめた。
「阿呆。今のはセクハラだぞ」
「あ、ごめんなさい。そうですね」
失言を素直に謝る平塚に、五十嵐は若いっていいなぁと目を細める。一方、本日3回目の溜息をついたのは柾だ。
「下着の色まで知れ渡っているのか……。なんだか可哀想だな」
「想像するなよ、助平」
「するか」
そう言いながらも、どの下着が似合うだろうかという妄想はどうしたってしてしまう。
ただ、今はそのときではない。頭からむりやり雑念を振り払っていると、どこからともなくメロディーが流れてきた。
すぐに五十嵐が反応し、スラックスからスマホを取り出しながら、通話の邪魔にならないようロッカーの端まで移動した。
「平塚。さっきどうして『千早さんから』、なんて言ったんだ?」
柾がさりげなく尋ねると、平塚は力なく笑った。
「いやー、その。見栄っていうか」
「見栄?」
「実は先日、岐阜店の同期が、書類と一緒にプリクラを送って来たんですよ」
「それがどうしたんだ?」
麻生も聞き返さずにはいられない。
「一緒に写ってた女の人がめっちゃ可愛くて。俺も対抗して、千早さんと一緒に写ったプリクラを送りたいんです」
「……なぁ、お前さ、確か彼女いたよな? その子はどうしたんだ?」
「ううう、最短でふられましたよ! それが何か!? ちっとも面白くない話っしょ!?」
「まぁ面白いかと聞かれれば、別にという感想しかないな。そんなことより千早さんとプリクラなんて言語道断だ」
「面白いかと聞かれてもそもそもお前に興味がない。それより千早さんとプリクラなんて論外に決まってるだろう」
「俺に対する扱いがひどすぎますよ。そもそも千早さんとプリクラを撮るのに2人の承諾なんていりませんよね?
この件は、俺が正式に千早さん本人に尋ねたいと思います。……あ、そうだ!」
「今度はなんだ」
「じゃあ、柾さんが俺と一緒にプリクラ撮って下さい! 千早さんは諦めますから」
「待て。『じゃあ』の意味が分からない。それに千早さんの件は完全却下という判決が出たことを忘れたのか」
「そいつね、柾さん崇拝者なんですよ! 俺が柾さんと仲がいいのを知ったら、絶対悔しがりますって」
「くだらない」
「あー、ひどい!」
「何がひどいものか」
「自分を崇拝している後輩を『くだらない』なんて、ひどいですよ!」
「僕が言っているのはそこじゃない。対抗することがくだらないと言っている」
「それはやっぱり俺に対してひどい!」
「なぁなぁ平塚、それって本当に意図的に入れられたものなのか?
たまたま何かの拍子でそのプリクラが書類に紛れ込んじまったとは考えられないか?」
「ええー? そんな馬鹿な。有り得ないですよ。そんな事故って、あります?」
「分かんねーぞ? もしかしたらお前の手に渡っていることすら気付いていないかもなぁ。
だって、いくらなんでも会社の書類にそんな個人的なもの、入れたりしないだろ」
確かにそうなのだ。そこまで大胆不敵なことを仕出かすような男ではないはずなのだ。
しかもプリクラはワンシートのまま、丸ごと入っていた。
麻生の言葉に『もしかしたら』と思い始めた平塚は、己の短絡的思考を恥じ入ったようだった。
「そ、そうかも……? 俺、ダメですね……。麻生さんの言う通りだ」
「お前の猪突猛進なところは時に短所になり得るが、指摘した時点で反省する点は偉いと思うぞ」
麻生の大きな手が平塚の髪を豪快に掻き回し、やんちゃ坊主は照れ笑いする。
そこに柾が加わった。
「お前と、お前の同期に謝りたい。頭ごなしに否定して悪かった。麻生の発想は頭になかった」
「柾さぁん」
「や、やめろ……。男に抱きつかれて喜ぶ趣味はない」
「なぁ、お前がライバル視しているその同期って、どんなやつなんだ?」
麻生の問いを通じてその人物を思い出したのか、平塚は苦虫を噛み潰すような顔をした。
「重箱の隅をネチネチつつくような男ですよ。女に対しても情け容赦ない、ドSです」
「でも柾を崇拝してるってことは、上昇志向に溢れてんだろ?」
「『期待の星』やら『ホープ』やら、あいつのあだ名はそんなきらきら眩しいものばかりですよ」
どうやら平塚はそれが面白くないようだ。だから尚更見返してやりたいと思ったのだろう。
「麻生さんと柾さんを見ているとね、同期というライバルも必要なのかなって、たまに思うんです」
「麻生とライバルになった覚えはないが?」
「柾は黙ってろ」
「そいつ、本当に嫌味なヤツなんです。でも気になっちまうっていうか」
「ライバルだな」
「やっぱそうですかね? でも、俺がライバルなんて言うのも、おこがましい話なのかも。
この前俺、パンを千個発注したんですよ。結果は見事にハマっちまって、200個しか消化できなかったんです。
そしたらそいつ、『僕なら500個さばける。こっちに送れ』って豪語してマジで500個全部売っちまったんですよ。
3年目の段階でこうも水を開けられるとほんと、俺の存在意義ってなんだろって思っちゃいます」
困った顔で、平塚は笑う。複雑な心境なのだろう。
「残りの300個はどうしたんだ?」
「近隣の4店舗に事情を説明して、60個ずつ送らせて貰いました。うちは60個見切った形でなんとか売り切りましたよ。
プリクラの件は居酒屋にでも連れて行って吐かせようと思います。麻生さんが言うように、事故だったかもしれないし」
「あぁ、それで良いんじゃないか?」
「話したらなんだかスッキリしました。ありがとうございます。だから麻生さんって大好き。あ、柾さんも好きですよ」
「男に好かれても嬉しくない」
「あはは、そう言わずに。あ、俺15分からなんで、そろそろ行きますね」
賑やかな者が退場すると、こんなにロッカールームは静かなものなのかと、改めて気付かされる。
そんな中、麻生は小さく呟いた。
「ライバルねぇ」
「あながちライバルと言えなくもないな。ある女性を引き合いに出せば、僕たちはそんな関係になる。違うか?」
空気がピンと張りつめた。麻生の頬が若干引きつるのを、柾は目の端で捕らえていた。
「敢えてあやふやなままにしておいた境界線を、朝っぱらから壊しにかかるか。少しは空気読めよな」
「それは『認めた』と受け取っていいんだな」
「なぁ、いい加減、俺をつつくのはやめてくれ。俺はお前を応援する。それでいいじゃねぇか」
「誰もそんなことは頼んでない。ただ自分に素直になれと言っているだけだ。お前は滅多に本心を曝け出さないからな」
「……本心?」
「丁度いい。昨日の安酒の余韻も残ってるし、悪酔いの延長とでも思って聞いてくれ。
通常、素面では言えない赤面モノだ。一度しか言わないから、よく噛み締めるように」
「既にその前振り自体が気持ち悪いんだが?」
肝臓や胃はおろか、脳機能にまで悪影響を与えてしまうような呑み方だったのだろうか。くわばらくわばら。
とはいえ、悪酔いの延長と前置きしたにもかかわらず、柾は至って真面目な表情だ。それだけ本気なのだろう。
「僕はお前を全面的に信用している。友人だと思っているからこそお前の手助けがしたい。出来る限り全部だ」
「へー。ふーん。じゃあ何だ、仮に俺が千早さんを好きだと言ったら、お前は彼女を諦めるのか?」
柾からの返答はない。麻生は「あのなぁ……!」と自分の髪を掻きむしった。
「出来ないことは言うな。したくないんだったら最初から提案してくるな。
そもそも、何でそうなる? それはちぃが選ぶことだろ? 身を引くだの、男側がごちゃごちゃ言うことじゃねぇよ」
「そう……なんだろうな。だが、こんな感情を持ったのは初めてのことで……。正直分からないんだ。
何せ恋愛は先手必勝だと思ってきたし、どんな障害が横たわっていようが、欲しいものは手に入れてきた僕だからな。
だが、お前に出会って……なぜかお前には心を許せるようになったんだ。特別な存在で、この関係を壊したくない。
それは彼女に対してもだ。ここまで真剣に惚れた女はいない。生まれて初めて、こんな厄介な葛藤に苛まれてる」
柾にしてはいつになく饒舌で、どこまでも赤裸々な告白だった。麻生は両手で真っ赤に茹で上がった顔を覆った。
「そういう本音を素面のときに言って貰えるのは光栄だと思うべきなんだろうな。それだけ真剣ってことなんだから。
感服したよ。敬意を表して、俺も正直に言わせて貰おうか。本音を言えば『分からない』、だ。
言っておくが、逃げてるわけじゃないぞ。自己問答し続けているところだ。……これで満足か?」
真っすぐ向けられた柾の情熱に、少しでも報いろうと頑張った麻生だったが。何故だか柾は憐れみに満ちた顔をする。
「何を言ってる? お前が彼女を意識しているかもしれないことが分かったというのに、満足するわけないだろう」
「し、仕方ねぇだろ!? 俺の身にもなれ。少し前までは女が怖かったんだから。お前、俺の『設定』忘れてるだろ」
「確かに。お前にしては物凄い進歩だ。よく頑張った。というか、彼女に目を付けたところは偉いと思うぞ」
「お前が言うか。……ん? ちょっと待て。結局――なんだ? 俺が彼女を好きでも『いい』ってことなのか?」
「いいも何も。言ったろう? 彼女はファム・ファタルだと。どんな男も惹き付ける。これは仕方のないことなんだ」
(こいつが小っ恥ずかしいことを言うのは全部昨日の安酒のせいということにしておくか……)
「それを聞いて少し安心した。仮に俺がちぃのことを異性として好きだったとして、お前のことも色々考えてたからさ。
『彼女のことは諦めろ』なんて言われたりして、とか。或いはお前が俺から離れていくんじゃないか、なんてな」
「馬鹿な。そんなことは言わないさ。……麻生。まさか僕に遠慮して、彼女への想いに蓋をしていたのか?」
柾の問い掛けに、麻生は虚を突かれたように目を瞠った。
「……いや、さすがにそれは……。ないと思うが。……どうかな……? 分かんね」
結局、『分からない』という答えに終始してしまうのだった。
「僕のことは気にするな。フェアに行こう」
微かに笑う柾は、本音を口にしていた。
麻生だってそれが嘘じゃないことぐらい理解している。
いいやつだな、と思った。だからこそ、これからは自分も誠実であろうと誓い直す。
「分かった。柾も、俺に遠慮するなよ」
「了解した」
(柾がライバルか。そんな風に考えたことは一度もなかったな)
ただの同期、或いは縁のある悪友としか思っていなかったが、なるほど、ライバルという関係が成り立つのだろう。
友にして好敵手。そんな関係が育まれていた事実に気付き、麻生の口元は自然とほころんだ。
ちょうど、通話を終えた五十嵐が戻って来た。
「今、キャロルがセントレアに着いたそうだ。業務に支障が出るようなら休めとの命令で」
「マジかよ。俺、見舞いの花だけ買ってお前に渡すから」
「麻生」
「俺苦手なんだよ、知ってるだろ!?」
「知っているが諦めてくれ。キャロルはお前が大好きなんだ」
「大好きって次元の話じゃねぇよな!? 明らかに玩具扱いだろ、あれ!」
「麻生の代わりに僕が代行しよう。全く、彼女をエスコート出来るなんて役得だとは思わないのか、麻生」
「そうか、お前がキャロルを怖がるワケがないんだよな。彼女に懐かれてるから」
「懐かれ度なら、麻生の方が遥かに上だろう?」
「あれを懐かれ度とは言わない。下僕度だ。おい嵐、柾を見張ってろよ。こいつ絶対下心持ってるからな」
「失敬な。目の保養をするだけだ」
「嵐に魔法の呪文を教えてやる。『千早に告げ口するぞ』って言ってやれ。それで大人しくなるから」
「うーん、千早……千早ねぇ……。やっぱり最近どこかでそんな名前を聞いた気がするんだよなぁ」
「だからPOSオペレータの千早さんだろ? しっかりしてくれよ、嵐」
「違うんだ。俺が言いたいのは女性じゃなく、男性の『千早さん』なんだよ」
「男性の……千早?」
真剣に記憶を手繰り寄せている五十嵐に、麻生と柾は思わず顔を見合わせる。
自分の曖昧な記憶で2人を待たせては申し訳ないと思ったのか、五十嵐は「忘れてくれ」と言葉を添えた。
「そうか? ならいいけどさ」
麻生も柾も、五十嵐には一目も二目も置いている。
その五十嵐が伝えようとした話なのだ。とても重要なことではないのか?
とはいえ肝心の五十嵐が失念してしまっていては、それ以上の深追いはしかねた。
「麻生、やっぱり仕事が終わってから一緒に行かないか? 妻も会いたがってるに違いないし」
「う~、分かった、行くよ。柾、お前も行くだろ?」
「あぁ」
ロッカーを閉める無機質な音が、三方向から響き渡る。
聞こえてくるのは、そんな生活音だけではない。
五十嵐が思い出せなかった記憶こそ、ユナイソン名古屋店に近付く厄災の足音だったのだが――。
いま、それに気付く者は、誰もいなかった。


■更衣室前廊下

歴が女子更衣室を出たのと、柾と麻生が男子更衣室を出たのは同時だった。
「「「あ」」」
声が三重にハモる。
明らかに三人とも動揺し、無意識の内にお互いの全身を眺めている。
(最高の夜を演出してくれるであろう男性……)
(着痩せするタイプ、下着の色……)
「あ……。そろそろ行かないとな。遅刻だぜ、遅刻」
出鱈目についた嘘だった。赤面した麻生が踵を返す。ハッと我に返った歴が、その背中に声を掛ける。
「え、遅刻? 30分からですよね? まだ大丈夫ですよ?」
歴は自分の腕時計を確認してから、振り返った麻生にも見えるように差し出す。
「ひょっとして男子更衣室の時計、早いんじゃないですか?」
歴のその手首を、柾は素早く掴んだ。そして自分の鼻の天辺に近付ける。
首筋と手首。それが歴の香水をつける場所だ。当然、柾の鼻孔に、その香りが届く。
「この香水がなくなりそうでね。新しいのを、また買ったよ」
「!」
それだけ言うと、柾は先に歩き出す。麻生が歴の耳に、コソッと囁いた。
「良かったな。ちぃが贈った香水だろ? 柾、毎日つけてるぜ。最近は女性に誘われても飲みに行ってないみたいだ」
「麻生さん……」
「ちぃは、そのままでいろよ」
「? どういう意味です?」
「いつまでもガードを緩めるなってこと。ほら、行くぞ。本当に遅刻しちまう」
「はい」
ついさっき柾に掴まれた手首を、今度は麻生が掴む。そんな光景を、五十嵐が微笑ましく見ていた。
「若いっていいねぇ」
日なたのように温かい笑顔で。


2007.10.19(FRI)-2008.08.07
2018.04.14(SAT)


←23話┃ ● ┃25話→








Last updated  2018.04.19 16:51:53
コメント(0) | コメントを書く
2018.04.06

←22話┃ ● ┃24話→


23話 (柾) 【露の世に】―ツユノヨニ―



ねぇ
それでも
世界のどこかには
何の争いも無い
綺麗な場所があるって
信じてもいいかな?


【1日目】

迷い込むような場所にある、隠れ家的なジャパネスク・モダン・スタイルな一軒屋。そこが行き付けの喫茶店だ。
日本家屋を改装したその店は外観こそ古民家だが、壁をツタが這うなど、どことなく初めて来る者を拒む気配が見受けられる。
どこにも看板がないので、そこが喫茶店だと気付く者はいないだろう。口コミや店主の紹介でしかこの店には入れない。
駐車場がないところも優しくない。それでも、店内に入ればそこは楽園だった。
中はさほど広くなく、打ちっ放しのコンクリートが無機質でもあり、洒落てもいる。テラスに吊るされたハンモックも利用可能だ。
他のどこにもない、ここだけのオリジナルなものがある。店内の床を走り巡る水路だ。
幅10cm×高さ7cm分が凹んでおり、そこを水が流れる仕組みなのだが、その1本が蛇行している様は視界を楽しませてくれる。
観葉植物が主張しすぎず置かれており、ボサノヴァやらジャズが静かに流れるこの店こそ、知る人ぞ知る、絶好の穴場だった。
「やっぱりここだったか」
窓際の、木漏れ日注ぐ、絶好のポジション。
風も心地よいお気に入りの席で珈琲を飲んでいると、聞き慣れた声がした。入社当時からの腐れ縁、麻生環だ。
白いカッターシャツに紺色のネクタイ。その上に背広を着ている。恐らく出勤前なのだろう。
「何の用だ」
「愚問だな。愛知県民の朝っつったらモーニングだろ。現にお前だって通いつめてるじゃねぇか」
「そういう意味じゃない。明らかに僕を探している感じだった。……待て、お前は岐阜県民だろ?」
「岐阜も愛知も変わんねぇよ。それよか柾、今日は何時出勤だ?」
「9時だが」
「じゃあこれ。宜しく頼む」
背広の内ポケットから取り出したのは、切手が貼られた1通の茶封筒だった。
「いい度胸だな。僕をパシらせるのか」
「ここからユナイソンの通り道にある唯一のポストは、収集時間が10時だから丁度いい」
「丁度いいのはお前にとってだろう。どうして自分で出さないんだ」
「遅番なんだ、俺。それまでここで2時間ほど読書」
もし僕がオーナーだったら迷惑この上ないと思うに違いないが、意外にもここの店主は長居に好意的だ。
麻生は早速ブリーフケースから本を取り出した。アウトドアな性分かと思いきや、意外にも活字中毒でもあるらしい。
そういえば麻生の部屋には文庫本や文芸書が雑多に積んであったことを思い出す。
腕時計に目をやれば8時38分。伝票と茶封筒を掴んで席を立つ。入れ替わるように、同じテーブルに麻生が座った。
「柾、それは置いていけよ」
指示語は、僕が飲んだ珈琲の伝票を指していた。
「手間賃だと思ってくれ」
「お言葉に甘えさせて貰うとするか。ご馳走様」
簡潔に「おぅ」とだけ答えた麻生の目は、既に文庫本に注がれていた。


***

その凡そ似つかわしくない風景に、軽い絶句を覚えた。
ユナイソンへ行くまでの道の途中にあるポスト。赤い鉄の塊りを前に、首を捻らざるを得なかった。
なぜポストの上に、部屋用芳香剤が置いてあるんだ?
周囲が臭うだとか、そういう違和感があるわけではない。単なる子供の悪戯だろうか。
恐らく考えても答えは出ないだろう。薄気味悪かったが、素知らぬ振りをして、麻生から託された茶封筒を投函する。


***

会議に出席するためバックヤードを歩いていると、麻生に出くわした。
聞けば同じ会議に出ると言うので、2人して会議室に向かう。
「あれから読書ははかどったのか?」と尋ねれば、麻生は首を竦めてこう言った。
「お前と入れ違いにちぃが来たんだ。だから読書は中止」
「彼女があの店に?」
「あぁ。今日は休みなんだとさ。……おい、そんな顔するなよ」
「どんな顔だ」
「どうして麻生がそんな僥倖にありつけるんだ? って顔。ちぃならまた、日を改めて誘えば……」
「確かに羨ましい話だが、そんなことより麻生。来る時にそのポストの前は通ったか?」
「ポスト? あぁ、通ったぜ」
「ポストの上に、部屋用芳香剤が置かれてなかったか?」
麻生は、僕を変なものを見るような目をしていた。案の定、「なに言ってんだ?」と尋ね返されてしまう。
「言葉の通りだ。僕が通ったときにはあったんだ」
「部屋用の芳香剤が?」
「あぁ」
「ポストの上に?」
「そうだと言ってる」
「……いや、なかったと思うぞ。だって、あったらおかしいと思うだろ? 柾みたいに」
僕が断言したものだから、麻生は困惑の色を隠せないようだった。
「10時に回収に来た郵便局員が撤去したのかもしれないな。あぁ、封筒は投函しておいたから安心しろ」
「……そいつはどーも」
腑に落ちないまま、麻生は礼を言った。
麻生以上に僕も腑に落ちていないのだが、やはりいくら考えても答えが出ないので、謎解きは諦めるしかない。
その時だった。顔を曇らせた部下の三原が近づいて来て、「柾チーフ」と僕の名前を呼ぶ。
「どうした?」
「それが……」
それなりにキャリアを積んでいる彼女だからこそ、弱気な口調なのが珍しかった。
「初老の男性客が、テスターの口紅を片っ端から口に塗りたくっておりまして……」
「テスターを全て回収して、新品と交換しておいてくれ。そのお客については警備員に委ねよう」
「分かりました」
「困った客と言えばさ、数日前のことなんだが、ダイエット器具の『ジョーバ』ってあるだろ?」
三原の背中を見送りながら、麻生は言った。
「家電売り場に4台並んでるんだが、これが傑作なんだ。客がスイッチを入れたままトンズラしたみたいでさ。
ウィンウィン回ってんだよ、4台。もちろん騎手はいない。それを見た時、肋骨が折れそうなほど笑ったよ」
「お前はとことん幸せなヤツだな」
「その光景を見たら、お前だって腹がよじれるほど笑うと思うぜ」
今からこいつも交えて会議か。そう思うと、自然と溜息が出た。


【2日目】

次の日も同じ喫茶店で朝食を取った。件のポストが気になったからだ。
腹が満たされると同時に好奇心も満たせてくれるのだから、430円という代金は安い対価だった。
一息ついた後、ポストへと向かう。心なしか歩幅が大きかったように思う。
麻生の言った通り、もう芳香剤は置かれていなかった。その代わり、名も分からぬ花が一輪だけ置かれていた。
それは明らかに人によって手折られたものであり、枯れていないところを見ると、摘んで間もなさそうだった。
「今日は花か……」
昨日の芳香剤、今日の一輪花。果たして同一人物が置いたのだろうか?
花を見てみる。ブルーサファイアのような群青色。花弁の枚数がかなり多い。おしべは紫色で、形状はコスモスに似ている。
花には疎い僕だったが、これなら育ててみようかなと思わず趣旨替えしたくなるような、可憐な花だった。
明日はどうなるだろう? 好奇心が抑えられない。しばらくは、あの喫茶店に通うことになりそうだ。


***

「青や紫の花というと、何を思い浮かべる?」
漠然とした問いに、千早歴は目を瞬かせながらも、うーんと呟いた。
「この時期ですとあじさいですか? 菖蒲も綺麗ですよね。それともパンジーかしら。露草も可愛らしいですよね。クロッカスも」
「問題。『あるところに、ポストがありました』」
「え? はい」
花とポストがどう繋がるのかと、興味津津のていで彼女は頷いた。
「『ポストの上に、花が一輪置いてあります。何故だと思いますか?』」
「それは、禅かなにかの問答ですか?」
「いや、単にポストの上に置かれた花を思い浮かべてくれればいい」
「……? 心が浮き立つかもしれませんね」
「じゃあ、芳香剤がポストの上にあったら?」
「芳香剤ですか? それはちょっと気味が悪いですね。……人を困らせたい者の犯行とか?」
僕も、彼女と同じ感想だ。
既に僕の中で答えは出ていた。悪戯をする子供の姿が、ありありと浮かんだ。


【3日目】

ポストの上に一輪の花が置かれてから、一夜が明けた。
意外にも花はそのまま置かれていた。しかし綺麗だった花弁は茶色く変化しており、既に枯れ始めていた。
いつか風に飛ばされて、花は姿を消すだろう。


【4日目】

さらに翌日。予期していなかったことが起きた。ポストの上には何十本もの花が置いてあった。
枯れてしまった例の1本は取り替えたのだろうか、それとも風でどこかへ誘ったのだろうか、どこにも見当たらない。
今回新しく置かれた花は先日と同じ花であり、こうなると、気付いているのが自分だけというのもおかしな話だった。
芳香剤が置かれていた時点で郵便局員は異変に気付いたはずだ。芳香剤は撤去しても、花は撤去しないのだろうか?
往来こそ激しくなくとも、市民が通り掛かからないなんてことは絶対にあり得ない。
僕が気付いたように、誰かも気付いてるに違いないのだ。
気になって麻生に尋ねてみると、「気付いたが、そのままにしておいた」という。
「何かの犯罪に巻き込まれてもいやだしな」
「犯罪……」
花束を置くことが犯罪に繋がるのだろうか。だが確かに奇妙な出来事であることには違いなかった。


【8日目】

この悪戯になんの意味があるのか。ただの気紛れの産物かと思いつつも2日後、花たちは枯れた。
1回目の1輪。2回目の10本。3回目があるとすれば、花束は何本になるだろう? 
当然僕は、3回目があるものと思っていた。けれどもその日はやって来なかった。
芳香剤の朝から数えて8日目の朝。僕は道の端に散乱する小汚い衣服と、私物らしき小物が点々と落ちていることに気付いた。
それがポスト周辺であるという奇妙な一致に、妙な胸騒ぎを覚えた。ふと『ヘンゼルとグレーテル』の話を思い出す。
(待て……。あの物語のように、子供の後を付け狙う悪い魔女がいたとしたら、筋書きはどうなる?)
例えば今までの行為が無邪気な悪戯などではなく、乱暴な犯罪者が関わっていたとしたら? 
何かがカチリとはまる音がした。疑問という名のパズルのピースが、1つの物語へと収束していく音だった。
街をさまよい歩く浮浪者、或いは痴呆が進んだ老人。
彼はユナイソンにも姿を現した。
三原の言う、テスターの口紅を塗りたくった老人こそ、その人物だと仮定する。
麻生の言う、4台のジョーバのスイッチを入れてトンズラした人物も、その老人と仮定する。
「彼」はユナイソンへ来る道中、ポスト前も通過する。どこからともなく摘んで来た花をポストの上に並べる。芳香剤を置く。
(誰が置いたかまでは分からないにしても、市民だって気付いている。けれども関わりたくないと思っている。――麻生や僕みたいに)
降りかかる「災い」や「奇妙な関わり」は、極力避けたい世の中だ。
果たして、この散乱した衣類や遺物が示すものは……。


***

上着、ズボン、シャツを拾い上げながら、僕はどこへ行こうとしているのか。
ただ、点と点を繋げば線になるように、物と物を繋げば、「何か」には行き着くだろうと思った。
それだけは分かっていたから、足は「答え」を知りたくて進み続ける。
誘導された先は、町外れの土手だった。
川と岩石が交じり合うその境に、老人はいた。
動かず、所々から血を流し、泥で汚れた下着1枚と靴下、靴のみの姿で倒れていた。
その右手には、例の花が握り締められていた。ブルーサファイアのような群青色が1本。
息絶えていることは、一目瞭然だった。
僕は、間に合わなかったのだ。


***

警察による事情聴取から解放されたのは夕方近くだった。
自分がどのように帰って来たのかすら覚えていない。何もする気になれず、ただ部屋の隅に蹲っていた。
チャイムの音も、携帯の着信音も、全て無視する結果になった。だって、僕の耳には何も入ってきやしなかったのだから。
そんな抜け殻状態の僕だったから、僕の名前を呼ぶ声が顔の真正面から聴こえてきた時は、幻聴かと思ったほどだ。
いつの間にか陽は落ちていた。薄暗い部屋で、僕を呼ぶ澄んだ声だけが希望の光だった。
「柾さん、柾さん。大丈夫ですか?」
私服姿の千早歴は、膝を抱えていた僕の高さに合わせるためか、膝を折り、顔を覗き込んでいた。
「千早……?」
「犯人が捕まりました。返り血を浴びた男が、2時間ほど前に逮捕されたそうです」
「そうか……」
「男は、『ムシャクシャしていた。殺すのは誰でも良かった』という供述をしているみたいです。
『たまたま目の前に弱そうな人間が通り掛かったから』、とも……」
千早の両目から、盛り上がった涙がとめどなく零れ落ちる。
始めの内こそ手で目尻を拭っていたが、決壊したダムを堰き止めることが出来ないのと同じで、無駄な行為だと気付いたようだ。
流れるままに任せ、彼女は続けた。
「……柾さん。園田さんの……園田さんって、亡くなられたお爺さんのお名前ですけど……」
「彼は、園田さんと言うのか……」
「警察の方から聞きました。園田さんには身寄りがなかったそうです。
奥様を亡くされてからは1人で自宅住まいをしていらしたそうで。でも最近は痴呆が進み、街を徘徊することが多かったそうです。
警察が道に散らばった園田さんの物と思しき物を回収したところ、奥様の写真と、わずかな所持金が見つかったそうです」
「そうか……」
「柾さん。先日、私に聞きましたよね? 青か紫の花について。あれは、園田さんに関係していたんですね」
「……ポストの上に、芳香剤や花束が置いてあったんだ。僕は、あれが園田さんの手によるものじゃないかと思った。
今なら合点がいく。痴呆が進んでいたなら、そんなこともあるんじゃないかってね。
子供の悪戯なんかじゃない。園田さんが、気紛れで置いたんだ」
「警察の方から、その花を見せて頂きました。矢車菊、だったんですね……」
千早の顔が、沈痛に歪んだ。
「矢車……菊?」
「その花弁の形から、矢車菊と名付けられました。その起源は古く、悲しいエピソードもあります。
かつてツタンカーメンが暗殺された折に、最愛の夫を亡くした妻アンケセナーメンは、その棺の上に、青い矢車菊を置いたそうです。
それを見た発掘者ハワード・カーターは、『あたりに輝くどんな黄金より、枯れた矢車草の方がずっと美しく見えた』と残しています」
「永遠の愛の証か……」
「園田さんが、どこから摘んで、何を思ってその花を持っていたかは分かりません。
でも、そのエピソードを知っていたとしたら……。痴呆を患っても、無意識にその花を愛していたとしたら……。
『あなたが亡くなっても、私たちは1つだ』と言う意味を込めて、持っていたとしたら……」
ほとんどが推測の域だ。そんな背景を勝手に描くなと怒られても仕方のない、想像に基づいたもの。
ハワード・カーターの件だって、“そんなものは無かった”、“そもそも花束ではなく花輪だった”という説もある。
けれども僕は見てしまった。知ってしまった。1人の老人の悲しい末路を。冷たいこの世界の現状を。
僅か8日間。たった8日間の出来事だった。それでも確かに僕は、社会の目の役割を果たしていたんだ。
涙が堰を切って流れた。漏れる嗚咽を抑えることなど出来なかった。膝を強く抱える。千早のぎこちない腕が、僕を包んだ。
彼女は何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。
それでも、ただ彼女がそこに居てくれただけで、救われた気がした。

ねぇ
それでも
世界のどこかには
何の争いも無い
綺麗な場所があるって
信じてもいいかな?

そんな言葉が、心の中に渦巻き続けていた。


【11日目】

3日後、僕は町外れの土手に来ていた。
本当は翌日にでも花を手向けに来たかったのだが、熱が出て2日間ほど寝込んでしまい、今日になってしまった。
起き上がって一番にしたことは、出勤でもなければ通院でもない。
ユナイソンの花売り場に電話をして、矢車菊を仕入れて欲しいと頼むことだった。
今、その矢車菊の束が手の中にある。
園田さんが横たわっていた場所に、そっと花束を置いた。
手を合わせると、優しい風がすり抜けて行った。
矢車菊が揺れた。まるで、くすくすと笑うように。


2008.08.06
2018.04.06


←22話┃ ● ┃24話→






Last updated  2018.06.04 06:22:33
コメント(0) | コメントを書く
2018.04.05

←21話┃ ● ┃23話→


22話 (―) 【君知らず】―キミシラズ― 


::歴::

早番上がりが重なった柾さんと麻生さんが夕食に誘ってくれた平日午後6時。
場所はユナイソン名古屋店に入っているテナントの1つ、イタリアンのお店。まだ時間が早いこともあって客の入りは少ない。
わずかに落とした照明がくたくたの身体を休ませてくれような気がして、私は以前からよく好んでこの店を訪れることが多かった。
入り口から遠い席を選び、ウエイターが運んできたレモン水で渇いたのどを潤しながらメニューを決める。
優柔不断な私は、時間短縮のため、上から順番に頼むことにしていた。今日は上から6つ目、ラザニアだ。
2人も早々にドリアとパスタに決め、順調に注文が終わった。私は早速柾さんと麻生さんに切り出した。
「実は私、社員寮に引っ越すことにしました」
「ほんとか?」
問い返したのは麻生さん。声こそあがらなかったものの、柾さんも少なからず驚いた顔をしている。
「……なんで今更?」
麻生さんの疑問は最もだと思う。
私の実家は名古屋市内にある。縦横無尽に走る優秀な地下鉄もあるのだから、わざわざ移る必要はないのだけど……。
「先週POSオペレータが1人辞めてしまったのはご存知ですか? 当面は私1人で業務を担うことになりました。
店長は人員補充を請け負ってくださったんですけど、本部からは『人員不足により却下』との返事があったそうで。
呼び出しなんて滅多にないと思うんですけど、すぐに対処が出来るように、近くに住んだ方がいいかなと。
それに1度ひとり暮らしを経験しておきたかったんです。なので、実は楽しみだったりします」
「ちぃもあのマンションに住むのか?」
「はい。お2人が住んでらっしゃるので心強いです。もう荷造りも終わっていますし、今週末に引っ越します」
ユナイソンに勤める独身従業員が1人暮らしを兼ねて店舗に近い社員寮に住んでいるという話は、柾さんから聞いた。
ただし寮とは名ばかりで、実際には立派な賃貸マンション。管理人責任者はいても賄い人は付かないので食堂はない。
言ってしまえば家賃を3割負担で借りることができる、それなりにありがたいシステムなのだそう。
社員同士がルームシェアをすることも可能だそうで、その場合はさらに折半し合えばいいとのことだった。
私の場合は普通に1人住まいとなるので、これからは月々の衣食住のやりくりに四苦八苦する羽目になるだろう。
それもまた、社会勉強だ。
「僕の部屋に住まないか?」
今まで傍観一方だった柾さんが優しげに笑んだ。
「えっ……?」
柾さんからそんな言葉が聞けたのが嬉しくて、火照った顔をこっそり柾さんから背けた。
ちょうどその時、全員分の料理が運ばれてきた。


::麻生::

「本気な分、笑えない案だ」
柾の本能剥き出しのセリフに呆れた俺は、バジルパスタを口に運びながら小さく言った。困り顔のちぃが俺を見る。
「やめときな、ちぃ。それにしても急な話だな」
「そうなんです。辞めると聞いたのが2週間前だったので、ほんと、まさに青天の霹靂」
苦笑しているちぃの元に、ラザニアが置かれた。ものすごい勢いで湯気が立っている。
「それで申し訳ないんですけれど麻生さん。配線について教えて貰えますか? 業者の手配とか、よく分からなくて」
「だったら俺が出張ろうか?」
「え……本当ですか?」
「あぁ。……ってなんだ、柾?」
「いや」
柾の言いたいことは分かっている。ちぃの手助けを請け負った俺への無言の非難だが、正直知ったこっちゃない。
大のおとな、しかも『柾直近』なのだ。ここで本音を吐き出しに来ない、軟弱者に成り下がったお前が悪いんだろう。
「そういうのって、何日程度かかるものです?」
電器系統には強くないであろうちぃが尋ねてきた。
「何日もかからないはずだが、多めに見積もっておこうか。必要なものから順番に繋げていこう」
「助かります! あ、じゃあ」
器用にも、音を一切立たせないという小さな柏手(かしわで)を、ちぃは打った。
「その日の夕食、そのまま食べていかれませんか?」
屈託なく微笑むちぃへの反応が遅れた。それとなく柾の気配を探ってみるが、意外にも無反応だ。
「ちぃの手作り?」
「はい。でも期待はしないで下さいね。得意ってわけじゃないんです」
そう言って、はにかむ。
俺も男なのであり、女性恐怖症はまだ治らないのだが、慣れ親しんだちぃが相手なら話は違う。
「いや……夕飯の期待ってより……」
(そのさらに後への期待、ってのがあるだろ?)
そんな不埒な考えがよぎった俺自身だったが、ちぃ相手にそんな行動を取る自分の姿がいまいち想像できず。
(ほっとするような、情けないやら……)
「もちろん、柾さんもですよ?」
「……僕?」
(柾もか……。そりゃそうだよな。ちぃの好きな相手は柾なんだし)
再びちらりと柾を見る。
ポーカーフェイスを取り繕っているものの、内心喜んでるんだろうなと、わずかに意気消沈した俺は思ったのだった。
(……ん? なんで俺、がっかりしてるんだ???)


::柾::

急に話を振られたので、咄嗟に何の話だったか反応に遅れた。麻生が配線の手配を手伝うところまでは聞いていたのだが。
さすがに『途中からラザニアを口に運ぶ千早に見惚れていて上の空だった』とは言えない。
熱いラザニアをふうふうと冷ます千早の唇がどれほど魅惑的だったか、麻生は気付いていないに違いない。ご馳走様、だ。
「えぇ、ご迷惑でなければ。料理を振る舞う機会なんて家族以外になかったので緊張しちゃいますけど……頑張りますので」
千早の言葉の端々を組み立ててみる。麻生の配線の手伝いが終わった後、彼女が手料理を振舞ってくれるという話だろうか。
「光栄だ。喜んで」
「よかった!」
心の底からの安堵が伝わってくる。どうやら推理は当たっていたようで僕も胸を撫で下ろした。
「あのマンションは男女別に分かれてるわけじゃないからな。注意しろよ、ちぃ」
麻生はなぜか僕を見る。
「ちゅう、い?」
まるでその単語には心当たりがありません、という顔をする千早。いや、だからな、と麻生は説明を始める。
「知らない人がチャイムを鳴らしても気安く出るんじゃないぞ。NHKは銀行振り込みにしておくこと。夜中のチャイムは全て無視」
「……麻生、それは過保護過ぎるんじゃないか?」
「本当。麻生さんってば、私のお兄さんみたい」
ころころと笑う千早に、麻生はやれやれと頭を掻き回す。
「あのな、ちぃ。これはお前さんに必要なことだから言ってんだ」
麻生が再度視線を寄越してきた。その目は「大丈夫か、この嬢ちゃん?」と如実に語っている。
「何かあったら、僕か麻生のところに来ればいい」
「ありがとうございます。やっぱり心強いです!」
彼女は手離しで喜んでいるが、果たしてこれは素直に喜ぶべきか否か。
この即答っぷりは、僕と麻生が男として意識されていないとも取れるのだが。
それ以上は何も言えず、僕も麻生も黙ってパスタとドリアを食べ続けた。
近い距離に住んでくれるのは嬉しい。だがこれは正直、蛇の生殺しではないだろうか。
複雑な想いを抱えつつも、千早歴の引っ越し劇は、こうして始まったのだった。


2008.08.06
2018.04.05


←21話┃ ● ┃23話→






Last updated  2018.04.05 18:35:09
コメント(0) | コメントを書く

←20話┃ ● ┃22話→


21話 (―) 【運命の女】―ウンメイノヒト―


1:柾(1)

例えば何気ない会話の、他愛ないやり取りの中にも、物事のヒントになったり、きっかけに気付くことが出来る。
時が経過してようやく、「あぁ、あの人はこのことを言っていたのか」「あれはこれだったのか」と納得に至るケースは少なくはない。
ピースをはめていくように、点と点を繋げばやがて線になる。それが「ナルホド、腑に落ちた」の正体。
あちこちに散らばったサインは、拾い集めてみれば意外と大局観を展開することができるものだ。
思い返せば、それにまつわる伏線は1つだけ存在していた。2日前、検収担当の女性社員と会話をしていたときのことだ。
彼女は北出入り口で仕事をしているので寒さが身に堪えると、恨めしくこぼしていた。
「マンションの管理人さながら業者が出入りするたびに窓を開けなきゃいけないし、荷物が届くたびに中廊下で検品しなくちゃいけない。
これって結構激務なの。夏は風の出入りが悪くて蒸し暑いし、冬なんて寒すぎる。地獄の場所だわ」
書類を片付けていた最中だった僕は、相槌を打つので精一杯だった。
「仕方ないよ」だとか、「せめて南なら少しはマシだったろうにね」なんて、頭を一切使わない生返事になってしまう。
彼女としてはただ愚痴がこぼせればよかったのか、構わず先を続けた。
「ただ、最近は人の出入りが激しい割に、荷物が多いわけじゃないから助かってるけどね」
僕には無縁の話だと思っていた。しかし、厄介なできごとは既に起きていたのだ。僕は数日後に思い知ることになる。


2:麻生(1)

今日のスケジュール確認をしよう。
09:00、出社。売り場を整え、客を迎え入れる準備が出来たら、家電部門内で軽いミーティング
10:00、開店。ユナイソン名物、従業員によるお客様の一斉お出迎え
10:30、無限電機と商談
11:00、(株)ニードランと商談
12:45、昼食
13:30、午後の業務
16:00、公外からの直帰
まぁこんな感じで、ごくごく普通の就業内容だった。
ところで俺はいま、ひとを待っている。
焦っているのは、次の商談に影響しそうだったからだ。
つい、机の上に肘を付きながらもう片方の手でペンを挟み、足を組んだその上で忙しなくペンを弄ぶクセが出てしまう。
メーカーの営業職なのだから、時間が押せば後続に迷惑が掛かることぐらい熟知しているだろうに、連絡すら寄越さないのはなぜなのか。
いつもなら5分前には必ず姿を現すはずなのに、10時40分になっても来ない。
すっかりくたびれてしまった革の手帳を広げる。今日の欄には確かにアポ2件の予約が入っていた。時間も間違っていない。
それとも、俺がスケジュール帳に誤った時間を記入してしまったのだろうか?
「……やっぱり今日……だよな?」
顎に手を当て眉根を寄せながら、一体どういうことかと考える。念のため、業者の出入りを管理している受付に内線を入れてみた。
「あぁ、麻生ですが。確認をお願いします。無限電機の羽生さんは入店してますか?」
「無限電機の方は10時20分に通過してますよ」
「え、ログあり? もう見えてるんですか?」
「えぇ」
「……そう。ありがとう」
狐につままれたとは、俺の整理し切れない今の状況を指すのだろうか。
既にこの店に来ているだって? では何故会えていない?
「おかしいな、どこへ行ったんだ?」
いっそ探しに行くか? だがこの場合、ミイラ取りがミイラに……という悲惨な結末もあり得る。
出て行った直後にひょっこりここへ現れる、というコントが頭に浮かび、やはり俺は動くべきではないのだろう。
(あ、そうか。置き手紙をすればいいんだ)
『羽生さんへ。俺が戻るまでここを動かないように。麻生』
これで良い。俺は部屋を後にした。


3:歴(1)

着席早々、私は青果の売価変更表を前に、途方に暮れてしまった。
そろそろ市場にはメロンが競りに賭けられ始める頃で、この店でも扱う時期がやってきた。
タカミ、アンデス、クインシー、イエロー、ホームラン、ハネーデュ、プリンス、アムス、マスク。
これらにはバーコードが貼られていないので、店独自で番号を設定する必要がある。
その前にまず、黄色メロン、赤果肉メロン、青果肉メロン、その他メロンの4種類に分けなければならないのだが……。
(どれがどれなのか、さっぱり分からない)
どの種類も『メロン』で片付けていた無知の頃が懐かしい。切ってからでは遅いのだ。外見で見分けなければ。
パソコン画面と売価変更表、群番と品種の一覧表、青果への内線を忙しなく処理しながら片付ける。
苦戦しながらも何とか終わらせると、既に開店時間を回っていた。急いで青果売り場のチーフに値段の確認をしてもらう。
「千早ァ、冬のメロンまで入力しなくていいんだぞ」
「す、すみません!」
「ハネーデュぐらい季節外れだってことにすぐ気付け」
叱られながらもOKは貰えたので、一安堵してPOSルームに戻る。部屋の前に差し掛かると、ドアの前に人が立っていた。
駆け足で近付くと、その人物と目が合った。見覚えがある。麻生さんと一緒にいるところを見かけたことがあった。
「おはようございます。無限電機の……? 羽生さん、でしたよね?」
「千早さん! お、おはようございますっ」
「ごめんなさい、席を外していて……。何かご用でしたか?」
「は、はい……! 製品の……新製品の値段の確認に来たんです!」
「そうだったんですね。お待たせしてしまってごめんなさい。中にどうぞ」
セキュリティ対象であるこの部屋に入るには、鍵が必要だった。私はスカートのポケットから鍵を取り出すと羽生さんを招き入れた。


4:柾(2)

僕はというと、実はまだ検収場にいた。荷物が到着するのを、今か今かと待ち侘びている。
運送業者からの連絡によれば、交通事故による渋滞に巻き込まれたそうだ。
こればかりはしょうがない。だが、積荷が降りないことには作業が始まらないのもまた事実で。
手持ち無沙汰な僕は、連日の遅番勤務によって疲れの抜け切らない身体を、椅子の奥深くまで預けていた。
部屋の温度が快適で、やたら眠気を誘う。睡魔と闘いながら、腕時計を幾度となく見直していた。
もしかしたら眠っていたのかもしれない。電話が鳴る音でハッと覚醒したからだ。隣りで誰かが電話のやり取りをしている。
記憶がない数分間に運送業者は来なかったかと、業者の出入り表を見るが徒労に終わった。どうやらまだのようだ。
「無限電機の方は10時20分に通過してますよ」
無限電機といえば大手家電メーカー。
(電話は麻生あたりかもしれないな。何にせよ、仕事があるというのはいまの僕にとっては羨ましい限りだ)
電話を切る音と、僕の欠伸の音が重なった。一体僕は、いつまでここに居続けることになるんだろう?


5:歴(2)

羽生さんは、無限電機のロゴが描かれた紙袋からヘアドライヤーを取り出した。
私が憧れている女優がCMをしていて、どうやらシリーズ最新版のようだ。つい食い入るように見つめてしまった。
「このドライヤー、前のと比べて随分可愛らしいデザインになりましたね」
感嘆雑じりに商品を受け取りパッケージを眺めていると、羽生さんは「でしょう!?」と興奮気味に語った。
「従来のデザインを一新して、ターゲットを10代後半まで広げようと女性チームが頑張った傑作品です。
これでライバル社を抜いてみせます。もちろんデザインだけでなく、使い勝手の点も改良しました」
「実は私、このシリーズの2世代目を持ってるんです。使いやすいので愛用してます」
「そうなんですか! 有り難う御座います」
「でも少し重くて、腕が痺れてきてしまうんですよね。改良版に替えてみようかな。ナノイオンだから髪にも優しそう」
「ナノイオンが搭載されたのは3世代目からですもんね。ぜひこの4世代目を使ってみて下さい。もっと綺麗になると思います」
「恥ずかしい話ですけど、心なしか、切れ毛が多いような気がして……」
苦笑する私。その左手は商品を、右手にはハンドスキャナを持っていた。バーコードリーダーが商品コードを読み取る。
(少し高いけど、社員割引を使えば1割安く買えるし……)
そんなことを考えていたから、全く気付かなかった。
羽生さんは私の髪をすくい上げていた。そして……。


6:麻生(2)

一口に探すと言っても、バックヤードぐらいしか思い当たらない。もしくはトイレか。
取り敢えず、バックヤードを見て回ることにした。手始めに入り口から――つまり、検収だ。
業者の出入り表を見せて貰うと、確かに入店時間と個人のサインが記されていた。
礼を言い、帰ろうとすると、窓ガラスを隔てた向こう側に柾がいた。どうやら伝票と格闘しているようだ。
俺とは違い、順調に仕事をこなしているようだった。羨ましい限りだ。
次は事務所。だだっ広い面積を誇るそこにも、件の人物はいなかった。事務員だけが、忙しなく動き回る。
その隣りは資材置き場だ。不要なダンボールや梱包材、プラゴミ、不燃ごみは全てここに集う。
当然、一般メーカー営業職がいるはずもなく、さらに進んでPOSルームへ。
ガラス張りの部屋なので通り過ぎるだけで中の様子が確認出来る。
そこにはいないものだとばかり思っていたが、何かが視界に入った。
心臓が脈打つ。見てはいけないものを見たような気がした。
中にいるのは千早歴だった。当然だ、彼女は常時ここに詰めているのだから。
異様な光景は、彼女の背後から彼女を抱き締めている者の存在だった。
そいつこそ、俺が探している羽生本人だった。


7:歴(3)

始め、何が起こったのか分からなかった。
髪に埋もれる気配がしてからようやく、自分の身に何が起きているかを知った。
なんと声を掛けるべきか。私はどうしたら良いのか。
判断できず途方に暮れる私を、もう1人の自分が物凄い剣幕で叱咤している。
(歴! 何をぼんやりしているの!? 早く離れなさい!)
当然従うべきなのだが、金縛りに遭ったかのように動けない。声を出そうにも、絶句したままだった。
ドン、という衝撃音で、私は視線を音のした方に向けた。
ガラス窓の向こうには、麻生さんが立っていた。彼は叫んでいる。「離れろ」と。
麻生さんは、怒り心頭、憤怒の形相で、部屋に入って来た。
「何してんだ?」
ハラハラしながら成り行きを見守るしか能のない私は、麻生さんが羽生さんの襟首を引き寄せても何も言えやしない。
(殴ったらどうしよう!? ううん、麻生さんはそんなことしないわ。本当に? ……いまいち自信が持てない)
「ちぃに何した!? つかよ、お前さん、いつになったら俺の商談に付き合ってくれるんだ?」
「す、すみませんでした! ごめんなさい! つい!」
「ついじゃねぇ。お前さん、彼女が反抗しない性格だと知っててやったな!?」
「や、あの……千早さんが、髪が痛んでるって仰るから、確認してみたくて近くに寄ってみたんです。
でも、近付いたら今度はあまりにもいい匂いだったので、触ってみたくて……」
(……!!)
「で、背後から抱き締めたのか?」
「抱き……!? そんな、滅相もない! でも、あああすみません、大変申し訳ありませんでした!」
「俺じゃなくて! 彼女に謝れ」
「は、はい……千早さん……大変申し訳御座いません! あの……俺……貴女が気になっていて……どうかしてました……」
最後の方は聞き取れないほどか細くて。謝罪を受けながら、『あぁ、私はこの人のことを嫌いになれないな』と思った。
麻生さんに怒鳴られたからとは言え、低姿勢で震えながら必死に謝るのだ。少なくとも誠意は伝わっていた。
足を折り、羽生さんはとうとう床に膝をついてしまった。土下座だ。
(あぁ、そんな)
慌てて私もしゃがみ込み、彼の肩に手を置く。覗く込むように目を見ると、怯えているのがはっきり分かった。
(大丈夫、私は全てを許している。そもそも、怒ってなどいないから。そんなに怯えないで……)
「急なことだったから……ビックリしてしまってごめんなさい」
「何を……仰るんですか。千早さんが謝るなんて、筋違いってもんでしょう……」
「それに、私を気に掛けてくれて、ありがとうございます」
「や、やめて下さい。俺はそんな言葉を掛けて貰える価値のない男です」
「価値がないなんて言わないで下さい。そんな悲しい言葉、絶対使わないで下さい」
「もう二度と……姿を見せませんから……」
「そんな……どうしてそんなことを仰るんです?」
「どうしてって……。自分で言うのもなんですけど、変態じみた行為をしでかしてしまった。それも、職務中に……」
「私なら大丈夫です。もう二度としないって誓ってくだされば、それで」
ぐっと言葉に詰まってしまった羽生さんは、その姿勢のまま、深々とお辞儀をした。


8:麻生(3)

何だこれは。ちぃの博愛主義も、ここまで来ると「いい加減にしろ」と怒鳴りつけたくなる。
“仲良きことは美しき哉”なんて、本当に思っているのか? どこまでアマちゃんなんだ、ちぃは……!
「おい、そこに居るヤツ、今すぐ出て来い!」
俺の怒鳴り声に、羽生とちぃは目を丸くして俺を見る。
「そこに隠れてるのは知ってる。誰だ」
ずっと背後に気配を感じていたのだ。誰何すると、おずおずとこちらの部屋の様子を窺っている江藤が現れた。
「麻生……。悪いな、アポの時間に遅れちまって……」
次の商談相手である(株)ニードランの江藤だった。
「江藤さんが、どうしてここにいる?」
「ちょっとPOSルームに用があってな。でも、立て込んでるみたいだから……」
そう言い訳しつつ、江藤氏が未練がましく視線を向けている相手は、間違いなくちぃだった。
(なんてこった。こいつら2人とも、ちぃ目当てかよ?)
はぁ、と溜息が出て、脱力してしまった。
彼女も羽生の件は水に流す考えでいるらしいし、事を大きくしたくない気持ちは俺だって同じだ。だが――。
「……羽生さんも江藤さんも。一段落したら、俺のところへ来てくれ」
邪魔はしねぇよ。『人の恋路を邪魔する奴は窓の月さえ憎らしい』って言葉が日本にはあるからな。
「ただ、これだけは言っておく。2人とも、それぞれ会社の代表で来てるんだよな? だったら、すべきことはなんだ?
アポイントメントの時間を無視してまでしなきゃいけないのか? けじめはつけてくれ」
2人の表情が、どこか引き締まったかのように見えたのは気の所為だろうか。俺の言葉が伝わってくれたら何よりだ。


9:柾(3)

12時、いまだ荷物は来ず。しかしすぐ近くまで来ているとの連絡があったので、どうせならとこのまま待たせて貰う。
退屈そうに見えたのか、24歳業務部「ねね嬢」が伝票の束を突き付けて来た。
「柾さん、すこぶる暇そうなのでこれを。私からのプレゼントです」
プレゼントです、という割には目が笑っていない。
苦々しく他部門の伝票を切りながら、今か今かと待つ。早く来い、荷物。
「きゃ~ん、柾さんだぁっ! 何してるのぉ? 私の分もお・ね・が~いっ♪」
伝票の上に、更に伝票を置く、27歳青果担当「多恵子嬢」。
(一体、僕の半日は何だったんだ?)
伝票すら終え、すっかりやる事がなくなってしまって携帯を操作していると『今日の星占い★』が目についた。
自分は山羊座だったはずだ。1位らしいが、どうも嘘臭い。すぐにサイトを閉じ、携帯を胸ポケットにしまう。
「……?」
ふと手元にあった『業者の出入り表』が目に入ったのだが、何かが引っ掛かった。何だろう? この違和感は。
(業者の出入り先……やけにPOSルームが多いな)
例えば昨日のページのPOSルームへの出入り。11時台だけでも2件ある。
「11時15分:(株)日の出まほろば飲料、世良。11時28分:日本いろは本舗、仙道」
ふいに朝の何気ない会話を思い出した。
『ただ、最近は人の出入りが激しい割に、荷物が多いわけじゃないから助かってるわ』
(POSルームに用? それにしたってこの数は多くないか? それとも、そういうものなのだろうか)
考えあぐねていたその時、遠くから名前を呼ばれた。どうやら積荷を載せたトラックが到着したらしい。
(助かった。これでやっと仕事ができる)
宙に漂っていた疑問の塊は、トラックが到着した瞬間、一気に霧散された。


10:麻生(4)

何とか2つの商談をまとめ、予定通りの時間に昼食にありつけた。
食券を選んで順番待ちをしていると、隣りに柾が並んだ。
「おぅ。珍しいな。今からか?」
「別に珍しくなどない。単に今までお前とかちあわなかっただけだ」
憮然とした態度で柾は言う。やっぱり占いなんてアテにならないと、意味不明なことを呟いている。
そうこうしている間に順番は回ってきて、俺のトレイに紫蘇きのこスパゲティが置かれる。オリーブオイルの匂いが香ばしい。
感慨に浸っていると、柾が豪華な日替り惣菜を貰っていた。隣りの芝生は青く見えるなぁ。あっちも美味しそうだ。
「柾」
「何だ」
とても迷惑そうな顔で、柾は向かいに座る俺を一睨みしてくるが、そんなのは知ったこっちゃない。
「ちぃのことなんだが」
「ちぃって誰だ」
「千早さんだ」
「……」
眉根こそひそめたものの、それ以上柾は何も言わなかった。俺は午前中にあった出来事を話した。
柾は話の腰を折らず、ただ黙って俺の話を聞いていた。話し終えてもしばらくノーコメントだったほどだ。
やがてぽつりと「ファム・ファタル」、とだけ呟いた。
「何だって?」
「ファム・ファタル。『運命の女』という意味だ。男を破滅させる魔性の女のことらしい」
「ちぃがそれだって言うのか?」
「どうやら僕は、彼女の運命の一部に組み込まれてしまったみたいだからな。彼女は僕を惑わす」
「こんな人の多い場所で、よくそんな恥ずかしいことを平気で言えるな? それに、そんな言い方はちぃに失礼だろ」
「そうでもないさ。彼女に懸想している男の影がいくつかあるような気がする」
「あぁ、まぁ今回のことでよぉく分かったよ。ちぃってめっちゃモテるんだな。あの分じゃ、他にもいそうだよなぁ」
「そもそも自分が好かれてることに気付いてない可能性が高い。それもまた罪深い話だ」
嫌いなのか、人参の煮付けを皿の淵によけて柾は言う。俺はその人参を箸で摘むと、口の中に放り込んだ。
「魔性の女ねぇ……。不思議だな、あんなにも真っ白な子なのに」
「そうだな」と柾は頷いた。
「しかし、破滅という表現は大袈裟じゃないか? さすがにそれは言い過ぎだろ」
俺が言うと、柾はふっと微笑んだ。
「彼女に振られたら、僕は破滅したも同然だ」
「……驚いた。そこまで入れ込んでたのか」
俺の言葉に、柾は眉根を寄せた。明らかに何か言いたそうだ。
案の定、じっと見つめながら言葉を紡ぎ出してきた。
「お前は違うのか?」
「……は?」
「いや、何でもない」
柾はスープを飲むことで『この話題はここまで』と線引きをしたようだ。だから俺も口を閉ざすことにした。
柾が何を言いたかったのか、本当は分かってた。
でも俺は何も気付いていないフリをした。自分の気持ちも含めて。
可能ならば、波風を立てない生活を続けたい。
柾と争うのはご免だ。俺は平和に過ごしたかった。


2007.07.14(SAT)
2018.04.05(THU)


←20話┃ ● ┃22話→






Last updated  2018.07.18 21:40:23
コメント(0) | コメントを書く

←19話┃ ● ┃21話→


20話 (歴) 【惑い出づ】―マドイイズ―



三段ケースの下段、未処理と書かれた引き出しを開けて書類を取り出した。入力内容を確認しながらPC画面を切り替える。
(これは来月の月間奉仕品リストね。完成させるには20分……ううん、30分は必要かしら)
腕時計をちらりと見、ちょうど昼休憩前には終われそうだと予想をつける。
「千早さん!」
「き、やぁっあっ!?」
首元にヒヤリとしたものが押し付けられ、思わず素っ頓狂な声をあげながら反射的に椅子から飛び上がった。
振り返ると、そこには(株)日の出まほろば飲料の男性営業マン、サプライズ好きの世良さんが立っていた。
悪いひとではないのだけど、いつも心臓によくない登場の仕方をしては、こうして私を驚かせる。
「せ、世良さん……」
困惑顔の私に、世良さんはふふっと笑った。
「驚かせてしまってすみません。差し入れです」
そう言って目の前に突き出されたのは、初めて目にするボルドー色パッケージのペットボトル飲料だった。
「来月うちから出る新製品です。当社でも評判がよいのですが、千早さんの意見も伺いたくて」
「ありがとうございます。一緒に飲みましょう、世良さん。綺麗な色ですね」
「ロゼです。微炭酸ですけど、あ、炭酸は大丈夫でしたか?」
「平気です。美味しそうですね。いまコップ出しますから」
机の引き出しを開ける。そこには試飲用の透明プラスチックコップが入っていたりするのだった。
その他にもお菓子やらハンドクリームなどが保管されており、この引き出しにあるものは全て試供品シールが貼られていた。
「わ、見たことがない商品ばかりだ。すごい種類ですね」
「ありがたいことに、営業の方から頂く機会が多くて」
入力という仕事柄、試供品ですからどうぞ、と声を掛けてくださる方も多く、ご厚意に甘えさせてもらっている。
コップを二つ取り出すと、世良さんがロゼジュースを注いでくれた。独特な赤色をしたそれは、照明の光を受けて反射する。
「では、千早さんに乾杯」
「乾杯! って、私の何に対してですか?」
「ははは。細かいことは気にしないでください。んー、やっぱり冷やしておいて正解でしたね」
「これ、美味しいです。きっと売れますよ。入荷したら買いますね」
「ありがとうございます! さてと。今からドライのチーフと商談ですので、そろそろ行きますね」
「はい。ごちそうさまでした」
残りは千早さんが飲んでくださいというので、ありがたくいただくことにした。
世良さんを見送ってから椅子に座りなおすと、入れ替わりに日本いろは本舗の仙道さんが顔を覗かせた。
「千早さん、ほい!」
放物線を描いて私の手の平に落ちてきたのは、これまた見たことのないパッケージの飴玉1つ。
「俺の会社から新製品出たんだ。それ、あげるよ」
渡すものだけ渡し、言うことだけ言うと、仙道さんは引き留める隙すら与えずそのまま行ってしまう。
(お礼を言いそびれてしまったわ。今度見掛けたら、忘れないように言わなくちゃ)
私はその飴を、パソコンのすぐ横に置いてある透明な瓶の中に入れた。
(飴がだいぶ溜まって、今にも溢れそう。……っていけない、仕事しなくちゃ。えぇと、どこまで入力したかしら?)
「ちぃ」
ドアの方から声を掛けられ、キーボードの手を止めた。
ちぃって私のことだろうか。この部屋に私以外誰もいない点を考慮すると、そうに違いなかった。
声の主は麻生さん。ガラガラと車輪の音もする。何かと思えば、電化製品を載せた荷台を引っ張っていた。
「これ登録してくれ。34,000円のブルーレイレコーダーだ」
「分かりました」
麻生さんはダンボールの中から商品を取り出すと、私の方にバーコードを向けてくれた。
バーコードリーダーと呼ばれる代物でそれを読み取ると、PC画面に13桁のJANコードが自動的に入力される。
今回は新商品の登録作業となるため、商品名、売り場の群番、品種、値段等の個別情報を入力する必要があった。
私がその作業をしている間、麻生さんは疲れたと言って、隣りの空席から椅子を引き寄せ腰掛けた。
「……ん? 何だこれ?」
「え?」
どうやら飴の瓶に気付いたようで、麻生さんの手がそれを鷲掴んだ。中身をしげしげと眺めている麻生さんに、
「新作の飴をいただいては、その中に入れてるんです。なので全部種類が違うんですよ。よかったら、麻生さんもどうぞ」
「いいのか?」
「勿論です。私、舐めるの遅いから、増えていく一方なんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。柚子貰っていいか?」
「はい」
「さんきゅ。じゃあ代わりに、ほい」
「何ですか?」
「今朝コンビニで買ったのど飴だ」
「……それじゃあ交換になっちゃうじゃないですか」
「補充だ補充。1個減ったから1個補充」
「麻生さん、さっきの私の話、ちゃんと聞いてましたか?」
「舐めるの遅いから増えていく一方っていうのは聞いたけど」
「だったら」
「でも、増えて困ってる、とは聞いてないしな~」
「……そういうの、屁理屈って言うんですよ? 麻生さんの意地悪」
「そう怒るなって。可愛い顔が台なしだぞ」
「からかわないで下さいっ。はい、入力終わりましたっ」
「おー、どうも。んじゃな」
立ち上がると同時に私の頭に手を置くと、わしゃわしゃと掻き乱した。
「~~~麻生さんっ!」
どこ吹く風で、麻生さんはそのまま荷台を引っ張って部屋から出て行った。
その姿が完全に消えるまで、私はその背中を見送っていた。
作業を再開してからふと思う。『ちぃ』って何だったんだろう?


***

ドアをコンコンと叩く音がして、私は音のした方を振り返った。
「柾さん!」
「これを売価変更してくれないか?」
「は、はい!」
思わず上擦ってしまう声。どうしよう、柾さんはその理由に気付いてしまっているだろうか?
そんな心配をよそに、柾さんは入って来た。机の上に、口紅がずらりと並ぶ。
「明日から2割引にしたいんだ。予約をしてくれ」
「分かりました」
途端、ぎこちなくなる私の手。そして動作。失敗したくない。この人の前では。
緊張しながら作業をしていると、背後に立っていた柾さんの手が伸びて来た。
「!!??」
「……これは何だ?」
肩越しに伸びた手が、またしても件の飴の瓶を鷲掴む。
バクバクと脈打つ鼓動が聞こえたりしませんようにと願いながら、私はさきほど麻生さんにした説明を繰り返した。
「一つ頂いても?」
「は、はい。勿論!」
「ありがとう」
瓶の蓋を開け、掴んだそれは……。
「あっ、それは」
(麻生さんから貰った飴――)
「え?」
「あ……っ、い、いえ!」
「これは駄目だったかな? じゃあ、こっちは? ライチの飴」
「も、もちろん大丈夫です!」
「じゃあ、これをお礼に」
そう言うと、柾さんは飴をスーツの中から取り出した。まさか……。
「のどが痛かったから、今朝コンビニで買ったんだ」
(ふふっ。柾さんもかぁ。なんだかんだ言ってる2人だけど、いつも麻生さんと生活がリンクしてるような気がするわ)
微笑ましくて笑みを零しそうになり、慌てて抑える。
「いただきます。……はい、入力終わりました」
「あぁ、ありがとう。それじゃ」
(ひょっとして、立ち上がる時も一緒なのかしら。頭をくしゃくしゃって――)
思った通り、柾さんの手が私の頭に触れ、私はひとりこっそり赤面する。
髪を掻き乱した麻生さんに対し、柾さんは撫でる方だった。その違いはあれど、同じ行動ではある。
(柾さんと麻生さんは、似てる)
正反対のところもあるのに、なぜだかそう思ってしまう。
そういえば、さっき柾さんが掴んだ飴。
柾さんを相手に、とっさに静止の声が出てしまったのはなぜだろう?
麻生さんがくれた飴は、この瓶の中に入っている新商品とは違って、いつでもどこでも手に入るものなのに。
もし――柾さんが好きなら、なんの躊躇いもなく、麻生さんから貰った飴を渡せたはずだ。
もし――麻生さんが好きなら、柾さんに髪を撫でられても、なんとも思わなかったはずだ。
(どうなっているの??? 私の本心は、一体どこにあるの?)
麻生さんから貰った飴と、柾さんから貰った飴を、それぞれの手の平に乗せてみる。
零れるため息。飴を握り締める私の手。その2つを、私はスカートのポケットに忍ばせた。
瓶には戻さなかった。
なぜなら。
(……これは、私が貰ったんだもの……。私の物だもの……)
どちらの飴も、他人の手に渡って欲しくなかったから。


***

またしても新しいブルーレイレコーダーの登録依頼をするため、麻生さんがPOSルームを訪れた。
ずっと『ちぃ』という呼称が気になっていたから、ちょうどよいタイミングだった。尋ねるなら今しかない。
「ちぃって何だったんですか?」と尋ねれば、
「ちぃは千早のちだ」と、まるで『ドはドーナツのドだ』とでも言うような断言口調で麻生さんは言った。
「これから私は『ちぃ』ですか?」
「楽だからな」と、面倒臭がり屋の常套句みたいなことを言う麻生さん。
「慣れなかったら、そのまま千早さんだろうな」
「でも、面倒だからこその『ちぃ』なんですよね?」
「慣れを馬鹿にするなよ?」
「別に、馬鹿になんてしてません」
苦笑した私に、正にその反応こそが馬鹿にしてるのだ、とは彼の弁だった。違うのに。
「でもその法則でいくなら、麻生さんは“あぁ”ですね」
「ださい」
「えぇっ。一蹴ですか」
「環でいいんじゃねーか?」
「!?」
「言ってみ?」
ニヤリと笑う麻生さんに、どきりと心臓が跳ね上がるのはなぜなのか。
なまじ整った顔だけに、上目遣いで茶目っ気たっぷりの反応をされると胸が高鳴ってしまう。
「……」
「何? 聞こえない」
「……た……き……」
「聞こえないなー」
わざと棒読みに言う麻生さんは、完全に面白がっている。私はこんなに頑張ってるのに。
「た……、たま……き……さ……ん」
「なに、歴?」
「……! は……反則です!!」
「何が?」
「だって、名前! ちぃって言うんじゃ……」
その先が続けられない。
いやじゃない自分が怖かった。
それどころか、そう呼ばれて嬉しかったなんて……。口が裂けても言えない。
「……二度と言いません」
(環さん、なんて)
心がぶれる。心がざわめく。
違う。違う。嘘よ。絶対、嘘。
(私が好きなのは、麻生さんじゃなくて、柾さんだもの)
目の前に柾さんが居れば、きっと私の心は高鳴るはず。そちらへ向かって、物凄く速い心音を奏でるはず。
(……なおちか)
確認するように呟く。呪文を唱えるように、こっそりと。
マサキ・ナオチカ。私の好きな人。私の心を縛る人。
でも、どんな言い訳をしたところで、麻生さんに名前を呼ばれて喜んだ事実は覆らない。
心は、なまもの。いつも同じとは限らない。そんなこと、誰だって知ってる。私だって知っていたはず。
でも認めようとしなかった。認めてしまえば、何かが壊れそうな気がしたから……。


2007.07.04(WED)
2018.04.05(THU)


←19話┃ ● ┃21話→






Last updated  2018.04.05 15:36:31
コメント(0) | コメントを書く
2018.04.02

←18話┃ ● ┃20話→


19話 (環) 【興味津々】―キョウミシンシン―



「……名古屋店だって?」
麻生環の手に握られた辞令には、次の避難場所が書かれていた。
避難場所……しつこいストーカーから逃げる手段として用意されたシェルター。身を守るための、新たな隠れ蓑である。
(名古屋店にはあいつがいるんじゃなかったか?)
あいつ……つまり、柾直近だ。麻生の同期というだけの少ない接点ながら、何の因果か、付かず離れずの距離にいる男。
ストーカー被害に遭い、女嫌いになってしまった麻生と違い、妻帯者だというのに平気で不倫をこなす柾はまるで対極の存在だ。
(あいつと同じ支店で働くのは、これが初めてだな)
初対面は入社式を迎えて間もない頃だった。
その際、ひょんなことから互いの名前を知ることとなり、以来、何かと本部や出張先、会議で顔を合わせる機会が多くなった。
仕事が終わればそのまま一緒に飲みに行くが、休日にわざわざ会う仲でもない。あくまでも職場の同期という間柄だ。
(相変わらず不倫生活を謳歌してんのかね)
考えただけでも悪態をつきたくなる。
純粋な恋愛から縁遠くなってしまっただけに、自ら泥沼愛憎劇を選ぶ柾の心理が理解できない。
妻がいるのだから、その妻をひたすら愛し抜けばいいではないか。なぜ妻や愛人を悲しませるような真似をするのか理解不能だ。
(阿呆だな、あいつ)
平穏が一番に決まってる。1対1で、お互いを尊重し合いながら愛を育むのだ。
それが麻生の考える恋愛であり、不倫やストーカーは決してその類ではない。


***

名古屋店に異動する2日前の夜、同期の五十嵐が、祝い酒を手土産に麻生の実家を訪れた。
五十嵐が同郷だと知ったのは、意外にもまだ最近のこと。
車で10分とかからない近さにお互い奇妙な縁を感じたのがきっかけで、たまにこうして麻生の家に寄っては語り合う。
国際結婚をしている五十嵐の妻は現在アメリカで暮らしているので、時間も気にせず気楽に語らうことが出来た。
とはいえ麻生は実家暮らし。親から結婚をせっつかれ、居心地が悪いのも確かだった。
「なにせ関店だろ? 社宅に住む必要がないから、実家から通うしかない。毎日顔を合わすたびに結婚しろの一点張り。
だがまぁそれも明後日には解放だ。何せ一人暮らしだからな」
そう言って笑う麻生の部屋は、既に荷作りを終えているため広く感じられた。大の男2人が足をゆったり伸ばすことも可能だ。
「結婚はまだにしても、彼女は作らないのか?」
とくとくと酒を注ぐ五十嵐の手元を見ながら、麻生は苦々しい顔を作った。
「彼女ねぇ……。いや、女はいいや。懲り懲りだ。だからって男に走るわけじゃねぇからな」
「もちろん分かってるよ」
「妹もわがままだし。俺はもう女に振り回されるなんざ、ご免蒙るよ。
最近、家にまで届くんだぜ、婚姻届。さすがに命の危険を感じ始めたところだ」
「例の女性か……。麻生、一体どんな助け方をすればそんな風に熱烈的な歓迎を受けるんだい?」
「……俺に思い出させるつもりか?」
「場合によっては、麻生が助け過ぎたってことも考えられるしね」
(助け過ぎ?)
麻生としては、そこまで大層なことをしたつもりはない。つもりはないが、五十嵐の視点からすれば、話が違ってくるのかもしれない。
「……。スクランブル交差点で――」
「うん?」
「あの女が、スクランブル交差点の真ん中でヒールが折れて難儀してたんだ。信号は点滅してて、じきに赤。
危ないと思って、俺は咄嗟に彼女を背負って退避を……嵐?」
「そんなことしたのか?」
「した」
「……間違ったことをしたとは思わないよ。間違いなく危険な場面だったろうし。でも、それをやられたら女性は惚れるかも……」
「なんでだよ! 普通は引くだろ!? 手首掴まえて、引きずるぐらいで良かったんだ。何で俺、おんぶなんかしちまったんだろ!」
どうやら五十嵐の言うように『助け過ぎ』たらしい。もし過去に戻れるなら、それは間違ったやり方だと教えてやりたいぐらいだ。
「ドン引きする女性もいれば、感謝する女性もいるさ。その女性は麻生の行為に惚れてしまった。……仕方ないよ」
「だからってなぁ……!」
職場を突きとめ、毎日押し掛けてくるのはどういう了見だ? 挙句の果てに家の住所まで突きとめ、婚姻届を送りつけてくる。
一体彼女はどういう神経をしているのか。その内こちらの神経がどうにかなりそうだと、麻生は気が気でない。
「おかげでこちとら3ヵ月単位で異動する羽目になってんだぞ。俺の出世も泡となって消えたし! いい迷惑だ」
「やれやれ……。まぁ元気を出すんだ、麻生」
祝い酒が自棄酒になる。やってられるかとばかりに麻生は徳利ごと酒を呷った。


***

「俺のことはいいんだよ。そっちはどうなんだ、嵐?」
五十嵐は半年ほど前から名古屋店に異動し、レディース売り場の担当をしていた。そういう意味では『先輩』にあたる。
「本社が近いこともあるから、やっぱり売り上げは上位だよね。でも、老朽化が激しいかな」
「あぁ、新しいのを建ててるんだろ? 来年移転するんだっけ。名前はまだ決まってないって聞いたな」
「“新しい名古屋店”だから、“ネオナゴヤ”って皆は呼んでるみたいだけどね」
「身も蓋もない呼び方だな」
「そう? 分かり易くていいと思うけど」
「で、店の様子はどうよ。柾もいるんだろ? 元気にしてるか?」
「あぁ、柾ね……」
「どうした?」
「いや……。実は最近、柾の様子がおかしいんだ」
「おかしい?」
「噂が流れてるんだ。付き合っている女性全員と手を切ったっていう……」
五十嵐の言葉は俄かに信じ難く、麻生は思わず噴き出した。
「嵐! お前、何年柾や俺と同期やってんだ? まさかお前がガセネタ掴まされるなんてなぁ……あははは!」
「……どうやら、好きな女性がいるらしい」
そこでやっと麻生は笑うのをやめた。
五十嵐の顔は真剣で、ふざけている様子は一切ない。そもそも彼は、この手の話題を冗談で言える人間ではないのだ。
だとすれば噂は高確率で真実で。麻生は一気に酔いから醒める。
「……あの柾が本気の恋をしてるだって? おいおいマジかよ……相手は一体誰なんだ?」
とうとう奥方一本に? とも思ったが、どうやらそうではないらしい。
「嵐は柾から直接聞いてないのか?」
「俺が尋ねても素直に教えてくれるとは思えなくてね。向こうから話してくれるのを待ってる」
「そんなことじゃ、いつになるか分からんぞ……」
「でも、ことがデリケートなだけに、興味本位で詮索するのも気が引けるっていうか。
でも、柾から別れを告げられたある女性は、気になる女性が出来たと言われたそうだよ。どこの誰かまでは分からないけど」
「うわー気になる。相手は店の中なのか、外なのか」
「それもよく分からなくてね……。女性陣は血眼になって相手を探しているらしいが」
「あの柾を本気にねぇ……。意外と三木佐和子との復活愛だったりして」
「柾に不倫を教えた魔性の女性? いや、違うと思うよ。彼女はこの前婚約したって聞いたから」
「マジか?」
「あぁ。婚約相手はユナイソンの社員ではないみたいだけどね。
何だい麻生。ストーカーから逃げていて余裕がないと思ってたけど、名古屋店に異動するものだから、安堵感に満ちちゃってる?」
「それもあるが、『あの柾が本命を見付けた?』っつー興味の方が上だな」
「結婚して妻がいる身である俺から言わせて貰えば、複雑な心境だよ」
「嵐は恋愛結婚だからそんなことが言えるのさ。柾は違う。夫婦関係は複雑で、そもそも愛なんてものがあったかすら怪しいもんだ。
おまけに奥方には前の旦那との子供が2人いるときてる。初婚の柾には難しかったんだよ」
「麻生はやけに柾の肩を持つんだね? 奥方の話も聞かずにさ。一方の話だけで判断するのはフェアじゃないと思うけど」
「そもそも俺は女なんか信用してないんだ。そんな説法は無駄だぜ」
凝り固まった麻生の思想をほぐせるとも思えず、五十嵐はその言葉を丸ごと聞き流した。いまは柾の話題だ。
「柾も不器用な男だからね。幸せを掴みにくいのかもしれないな。でも……幸せになって欲しいと思う。
離婚して、女性との関係を清算して、本命一筋になるというのなら、全力で柾をサポートするつもりだよ」
窓から差し込んだ月の光が、猪口の酒の上辺をゆらゆらと漂う。その様子を見つめつつ、麻生は呟いた。
「……その点については俺もお前に同感だ、嵐」


***

結局、柾の噂話の真意を確かめる暇もなく1月1日を迎え、麻生は名古屋店に異動した。その日は柾の誕生日でもあった。
朝早くに出勤した麻生は、真っ先に祝福を交えた『諸々の挨拶』満載の花束を、柾のロッカーへと置きに行った。
柾の反応が楽しみなだけに、自分がその瞬間を見られないのが少しだけ残念でもある。
その後は事務所に向かい、1人黙々と作業している若い社員――ネームプレートによれば平塚鷲――を見つけた。
「よぅ。平塚君だっけ? おはよう」
「はい?」
福袋を空箱に詰めていた平塚が、きょとんとした顔で、見慣れぬ麻生を見上げた。
「おはようございます。えーっと、すいません。どなたですか?」
「今日付けで配属された、家電の麻生だ。よろしくな」
「あぁ、そうなんですね! ドライ食品担当の平塚鷲です。よろしくお願いします」
麻生は差し出した右手を握り返しながら微笑んでいる平塚に対し、「それ」と空いた方の手で福袋を指差した。
「凄い量だな。今日売る分か?」
「はい。本当は女性向けの紅茶洋菓子セットだったんですけど、柾さんからハンカチを追加するように言われまして。
幸い、筒状の小箱だったから隙間から入れられましたけどね。ちょうどその作業が終わったところです。
……あ、柾さんっていうのはコスメ売り場のチーフで、」
「知ってるよ。同期だ」
「そうなんですか!?」
目をきらきらさせた平塚の反応が気になったが、それよりも先に、どうしても知りたいことがある。
「なぁ、柾が本命にゾッコンって話、本当なのか?」 
賄賂としてミンティア1粒を添えることも忘れない。
平塚は麻生からミンティアを受け取ると、口に含んでからニヤリと笑った。
「麻生さんはどうなんですか? 信じる派ですか? それとも信じない派?」
「信じられない派だ」
「わー、麻生さん、かなり面白いひとだ! 俺大好き!」
一番最初に出会えたのが平塚でよかったと麻生は思った。いろいろと知っていそうだ。
「柾の本命、誰だか知ってるか?」
「いや、知らないです」
これは麻生が欲しい答えではなかった。
しかし、平塚はすぐあとに「でも」、と続ける。
「うすうす『この子かな?』ってね。思ってる候補者ならいますよ」
「よし、いい子だ平塚。何が望みだ?」
「おっとー……。これは『何も』と答えた方が、あとあと有利な気がするなぁ……?」
へらりと笑っていた平塚の目が、獰猛な獣のソレへと急変するさまを見てとった麻生は口角を上げる。
「へぇ、世渡りがうまいんだな。……おっけ、貸し1つな」
思わずミンティアを2粒進呈する麻生である。
「ありがとうございます。彼女の名前はチハヤさんですよ。それじゃあ俺、もう行きますね」
口早に言ってからぺこりと頭を下げ、台車を引いた平塚は事務所から出て行った。
麻生は壁にかかっている全従業員の名札に視線を走らせた。探す相手はもちろん『チハヤ』だ。
すると、意外にも早く見付けることが出来た。チハヤは名前ではなく、苗字だった。
「千早――歴」
所属は事務所になっているが、どうやらPOSオペレータらしい。
「ってことは、当然POSルームだな」
恋多き柾が本気になったかもしれない相手。それはもう、何が何でも見てみたい。
麻生は事務所から出ると、POSルームへと歩を進めた。


***

10畳ほどの広さのPOSルームは無人だった。ここを訪ねた理由は興味からだが、POSオペレータは比較的世話になる相手でもある。
挨拶も兼ねておこうと、麻生は適当な椅子に座り、部屋主が来るのを待った。やがてドアが開く音がし、麻生は素早く振り向いた。
「おはよう」
「お、おはようございます……?」
麻生の視線はただ一点、その艶やかな黒髪に釘付けだ。光沢を放った髪は、触れたくなるほどさらさらで美しい。
視線を下へとおろしていく。制服の着こなし、身だしなみ、すべてが彼女の性格を素直に表しているかのようだった。
(あれま。随分とおとなしそうな子だな。生真面目というか、気が弱そう……?)
果たして、彼女は柾のタイプになり得るんだろうか? 
風の噂で聞いた歴代の彼女を頭の中でずらりと並べてみたが、その誰とも重ならなかった。
(いわゆる新境地開拓ってやつか? 今までいなかったタイプに、ころっとやられちまったのかねぇ)
もし千早歴が柾の片想いの相手だったとして、彼女の方は、柾をどう思っているのだろう?
無難に自己紹介をしている最中だというのにそんなことまで気になりだし、麻生は尋ねずにいられなかった。
「なぁ、柾には会ったか? 今日のあいつ、すこぶる機嫌が悪くなかったか?」
「あっ……」
「お、その様子だと会ったみたいだな。かなり無愛想だったろ」
「無愛想というか……素っ気なかったです」
「あー、千早さんには申し訳ないことをしちまったな。実はさ、あいつの機嫌が悪いのは、俺のせいなんだ」
「麻生さんの?」
「あぁ。挨拶代わりに柾のロッカーに花束を置いて来た。今日が誕生日だからな、あいつ。お祝いも兼ねてさ」
「誕生日? 今日が……柾さんの?」
(ん? 柾の誕生日、知らなかったのか?)
いまいち柾と歴の関係が量れない。どこまで踏み込んでいいものだろう。
(俺が出張るのはまだ早いか。まだ柾本人から本心を引き出してすらいないしな)
だがファーストコンタクトはこうして無事に済ませたことだし。これからは毎日会えるのだから、気長に行こう。
(千早さんは俺の妹と同い年ぐらいだから、まぁまぁ話し易いしな)
なにせまだ名古屋店に異動してきたばかりだ。『次の異動』まで、若干の猶予はあるだろう。それまでに把握できればいい。
噂の真偽はともかく、何もないところから突如湧き上がった千早歴には、きっと何かがある。彼女をマークすれば分かるはずだ。
(柾が溺れているのか、彼女も溺れているのかを)

加えて麻生自身も、千早歴を中心とした渦中に放り込まれる運命にあるのだが――。
それはまた、年を跨いだ未来の出来事である。


2009.10.15
2018.04.02


←18話┃ ● ┃20話→






Last updated  2018.04.09 13:59:49
コメント(0) | コメントを書く

全44件 (44件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 >


Copyright (c) 1997-2018 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.