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創作ノート


キャラ設定


《Gentleman》


登場人物一覧表


年表


千早 歴


柾 直近


麻生 環


千早 凪


潮 透子


不破 犬君


八女 芙蓉


杣庄 進


伊神 十御


青柳 幹久


志貴 迦琳


Gentleman


01話 【禁忌遊び】


02話 【騒き戻り】


03話 【鬼畜計画】


04話 【恋愛遊戯】


05話 【貴顕紳士】


06話 【萌え出づ】


07話 【姿情追い】


08話 【感情待機】


09話 【恋ふらし】


10話 【片趣なり】


11話 【匂ひ包み】


12話 【余裕無し】


13話 【特別扱い】


14話 【小心翼翼】


15話 【女郎回廊】


16話 【客観解析】


17話 【止事無し】


18話 【決別狂騒】


19話 【興味津々】


20話 【惑い出づ】


21話 【運命の女】


22話 【君知らず】


23話 【露の世に】


24話 【禁断の匣】


25話 【捲土重来】


26話 【夜半の嵐】


27話 【幕引きへ】


28話 【記憶の鎖】


29話 【告げる声】


Gentleman2


01話 【分岐点】


02話 【入社式】


03話 【一年目】


04話 【転換点】


05話 【綺羅星】


06話 【豆台風】


07話 【棚牡丹】


08話 【部外者】


09話 【依怙地】


10話 【空威張】


Gentleman3


01話


02話


03話


04話


05話


06話


07話


08話


09話


10話


11話


12話


13話


14話


15話


16話


17話(旅行編T1)


18話(旅行編L1)


19話(旅行編T2)


20話(旅行編L2)


21話(旅行編T3)


22話(旅行編L3)


23話(旅行編T4)


24話(旅行編L4)


25話


26話


27話


28話


29話


30話


31話


32話


33話


34話


35話


36話


37話


38話


39話


40話


41話


42話


G3日常編


番外編01


番外編02


番外編03


番外編04


番外編05


番外編06


番外編07


番外編08


番外編09


番外編10


番外編11


番外編12


番外編13


番外編14


番外編15


番外編16


番外編17


番外編18


番外編19


番外編20


番外編21


Gentleman4


1話


2話


3話


4話


5話


6話


7話


8話


9話


0話


日常編1


日常編2


日常編3


日常編4


gentleman*


0101★柾直近


0104★平塚鷲


0205★児玉絹


0205★児玉玄


0314★不破犬君


0322★麻生環


0213★姫丸二季


0601☆レオナ・イップ


0602☆児玉菫


i NeeD Me


01話


02話


03話


04話


05話


ENSLAVE


01話


02話


03話


04話


05話


06話


07話


ワクプラ!


ファンタジー100


全56件 (56件中 1-10件目)

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2019.04.13
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10話 (犬) 【空威張】―カライバリ―

 
哀しいかな、ソマ先輩の腕力には到底勝てる気がしなかった。もがいても、振りほどこうとしても、逃れることが出来ないのだ。
ソマ先輩と自分の差をまざまざと見せ付けられているようで、僕としては面白くない。
それは仕事だったり、女性に関してだったり、男としてだったり、あらゆる場面で突き付けられる「差」だった。
これには素で凹まされる。たかだか3年の差が、どうしてこうも歴然と違うのだろう。
「いい加減……離して下さい!」
力任せに振りほどくと、やっとソマ先輩から離れることができた。グシャグシャによれてしまったカッターシャツを直し、先輩を睨み付けた。
「可愛い後輩の恋路の邪魔しないで下さい。みっともないですよ」
僕が抗議の声をあげれば、彼は「はん」と鼻であしらう。苦み走ったいい男が腕を組めば、それだけで絵になった。
「誰が可愛い後輩だ」
「目の前にいるじゃないですか」
「お前なんて知らね。じゃあな」
さっさと歩き出すソマ先輩のカッターシャツをむんずと掴む。ソマ先輩が鬼のような形相で振り向いた。
「……ほぉ、良い度胸してるじゃねーか。覚悟は出来てンだろーな、糞餓鬼」
「覚悟ならとっくの昔にしてますよ。じゃなきゃ、誰が潮さんを好きになるかってんだ」
「言うねぇ。だったら透子を慰めてみせろよ。出来ねぇよな? お前は見事に失敗したじゃねぇか」
「ソマ先輩には可能だとでも?」
「透子とは同期だ。入社当時からずっと一緒にいたからな、どんな時にどんな言葉が欲しいか、いつ肩が欲しいのかも熟知してるんだよ」
「部署も違うのに?」
「関係ないね」
「すっごい自信。でも相手にして貰ってないのは、あなたもでしょう? ソマ先輩のは、単なる彼氏面じゃないですか」
「……あん?」
「新入社員対象の牽制宣言が証拠です。ほら、『潮透子に手を出すな』ってやつです。
一時はお二人が付き合っているものだと思ってましたが、そうじゃない。あなたの一方的な片想いですよね?」
「……まぁよく喋ること」
「はぐらかさないで下さい。僕の目はもう誤魔化せませんよ。これでもずっと見てきたんですから。
その過程で得た推理を披露しましょうか? ソマ先輩と潮さんは付き合ってない。単なるあなたの片想いだ。そうでしょう?
誰にも取られたくなくてあんな宣言をするなんて、滑稽にもほどが――」
「『付き合ってない』ってのは、どこを見てそう判断したんだ?」
ギロリと鋭い視線を僕に定め、説明を求めてくる。
まさかそこをすくいあげてくるとは思わなかった。想定外だった。
理路整然にまとめ、返答できればよかったのだが、如何せん時間が少ない。あやふやな状態のまま返すしかなかった。
「ことばにするのは難しいんですけど……。守る……、そう、ただ守ってるだけのような気がして」
「なんだそれ? いちゃついてないから付き合ってないって結論かよ。つーか、守るって立派じゃねーの? 男として」
「まぁ……そうですけど……。でも、なんか違うというか……。上っ面の……演技に見えることもしばしばあって……」
「それはお前の願望がなせるワザじゃね?」
「じゃあ、はっきり言ってくださいよ。潮さんと付き合ってるって、はっきりと」
僕のことばにソマ先輩は目を丸くし、そして押し黙った。どう答えたものかと悩む間すら感じられる。
事実、先輩は「これは……予想外だったな……」と呟きつつ、明後日の方向に視線を向けてしまった。
「……ほら。言い淀むということは、付き合ってないってことじゃないですか」
「……」
「……先輩?」
「……やるじゃねぇか」
「え……」
「まずは1勝だな。おめでとさん」
ちっとも嬉しくなさそうにソマ先輩は言う。不穏にもピリピリした気を発し続けながら。
「俺は嘘だけはつかない主義だ。だから、その正攻法でこられたら、『付き合ってない』と言うしかねぇ。お前の勝ちだよ」


*

思い返せば、潮さんとソマ先輩が付き合ってると思い込んでいたのは、ソマ先輩があの『宣言』をしたからだった。
潮透子に手を出してはならない、覚えておけ――と。
それは何故か?
理由など言わなくても、周りはいい年をした大人なのだから、行間を読んで『なるほど、付き合ってるからなのかな?』と認識する。
(――勝手に)
部外者たちは、先輩から刷り込まれていたのだ。僕たち新入社員が盛大な勘違いをするように仕向けられていた。
ソマ先輩も潮さんも、一度も嘘を吐いてない。当然だ。『付き合ってます』と公言したわけではないのだから。
(ソマ先輩は、ただ『手を出すな』という、さも所有権があるかのように振る舞っていただけで――)
「――どうしてそんな、回りくどい方法を……」
「……『どうして』……?」
そう復唱し、空咳をして僕に向き直った先輩は、矢庭にピースサインを作るとその指を振った。
「それには大きな理由がふたつある。が、それをお前に教えるつもりはさらさらねぇ。お前が俺と同じ土俵に上がっていないからだ」
「? 意味が分かりません」
「俺とお前はイーブンじゃねーだろ? 俺は透子と伊神さんの経緯を知っている身だが、お前は全く知らないよな。対等じゃない。 
一部始終を把握してる俺と違って、お前が不利なのは目に見えてる。だからお前が事件の内容を把握するまで、俺は動かない」
「敢えて僕を待っててくれるんですか? これでソマ先輩が負けたら面白いのに」
「お前を再起不能にする為に、分かり易くイーブンにしてるんだよ、こっちは」
「すっげぇヤなヤツ……」
「言葉を慎み、立場をわきまえろ、糞餓鬼」
「それで? その経緯とやらは、ソマ先輩が教えてくれるんですか?」
「俺が言うわけねぇだろ。少しは物を考えてから話せ。そんなの透子本人から直接聞けよ」
「教えてくれないからソマ先輩に訊いたんでしょうよ……」
「ははっ。イーブンにすらならないんじゃ、話にならねぇな。そんときゃお前なんざ俺にとっちゃ敵ですらねぇっつー話だ」
ぐ、と堪えるのがやっとだった。完敗だ。今度は僕が完膚無きまでにノックアウトされる番だった。
「……そうですか。分かりました。本人から聞きますよ」
「教えてくれるといいがな」
半ばやけくそな僕に対し、ふふんと嘲笑うソマ先輩が、とことん小憎たらしい。
そんな先輩が、ふと小首を傾げた。
「そういや、どうしてお前は伊神さんを知ってるんだ?」
「3年もいれば、少しくらいの情報は入ってきます」
「あー、そういやお前の上司、青柳サンだったな……」
「え? チーフが何か?」
「……くそ、しくった……」
「えぇ。チーフからは何も聞いてません。察するに、伊神さんと青柳チーフは知己なんですね?」
「どうもお前とはとことん相性が悪いらしい。しかも俺の方が分が悪いのがまたムカつく。そうだ、伊神さんと青柳サンは同期だ」
「ということは、伊神さんと八女先輩も同期……? 女傑四人衆とも……?」
僕の推理が正しかったからなのか、ソマ先輩は何も答えなかった。もう情報を開示する気はないらしい。
でも僕は、『これは当たりだ』と悟った。大収穫と言ってもいい。
「お前はカマかけんのがうまいな」
「誰も教えてくれなかったので、こうやって駄目元でカマをかけ続けて推理を重ねていくしか方法がないんですよ」
「なるほどな。ま、お前がどこまで真相に近付けるのか、楽しみにしてるぜ」
お手並み拝見どころか、『やれるものならやってみろ』と発破をかけるようなセリフを残してソマ先輩は去って行った。
(……疲れた……)
ドッと襲う疲労感。そして敵だらけだな、と思った。この岐阜店に、進んで僕に真実を教えてくれる者など誰もいない。
恐らく恋のキューピッド役を買って出てくれた八女先輩ですら、真相に関しての質問には答えてくれないだろう。
何故なら、ことはとてもデリケートな問題だから。
潮さん本人が話さないようなことを、赤の他人がぺらぺらとひけらかしていいような話題じゃない。
だからこそ、当事者から直接聞かなければならないのだと思う。
(本人からか……。先が思いやられるなぁ……)
果たして潮さんは教えてくれるだろうか? 無謀な賭けだ。
けれども男の意地というものがある。絶対ソマ先輩と同じ土俵に立ってみせる。
差や溝は埋めることが出来るのだと、皆に思い知らせてやる。誰にも犬の遠吠えだなんて言わせない。


(→続く)

2008.09.24
改2019.04.13


←9話┃ ● ┃11話→






最終更新日  2019.04.13 19:25:56
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2019.04.12

←8話┃ ● ┃10話→



09話 (潮) 【依怙地】―イコジ―


昼休憩から戻り、POSルームのドアを開けると、ちょうど固定電話が鳴り始めた。
本日、部屋の住人は私しかいない。デスクまで小走りすると、受話器に向かって左腕を伸ばした。
ノック式ボールペンを右手に構え、常に机の上にスタンバイされているメモ用紙に、いつでも書き始められる準備を済ませる。
この内線にかかってくる内容のほとんどが値段変更依頼のため、名乗る前までにメモを取れる姿勢を整えておくのだ。
「はい、潮です。――分かりました、今日の20時ですね」
受話器を置く頃には背後の人の気配に気付いていた。振り向けば不破犬君が入室していて、探るような視線でこちらを窺っている。
「何?」と問えば、「誰からですか?」と逆に質問を投げかけられる。
「誰って電話の相手?」
後ろめたいことなどないけれど、私用だと思われるのも癪なので正直に答える。
「来栖さんよ」
「鮮魚の?」
「そうだけど」
不破犬君は考える素振り。一体なんだって言うんだろう。
「……潮さんって、あーゆータイプが好みなんですか?」
「は?」
「20時からデートなんですか?」
(何を言い出すの、不破犬君は。どこからデートなどという発想が出てきたの)
返答に詰まっていると、脳裏に、つい今し方のやり取りが蘇ってきた。誤解をしたとしたら、電話がきっかけとしか考えられない。
(でもこれってひょっとして……嫉妬?)
「気になるの?」
ストレートな問い掛けに、不破犬君は視線を外した。
「……いつでだって気になってますよ」
そっぽを向いた不破犬君の顔はうっすらと赤く、世にも珍しい光景に、私は一瞬呆けてしまった。
それどころか、そんな素直な反応をされたら、かえって私の方が赤面してしまうではないか。
「私の言葉にいちいち一喜一憂しないでよ。調子狂うじゃない」
「しちゃいけませんか、一喜一憂。それだけ潮さんに惚れてるんですよ。こんなの……潮さんだけにです」
これで通算何度目の告白になるだろう?
未だに慣れないそれはもはや習慣のようなもので、どこまで本気のつもりなのか、頻繁に甘いセリフをぶつけてくる。
そしてここで押し黙ってしまうのも、私の常となりつつあった。それではいけないと、気力を奮い起こす。
「デートじゃないわ。20時に値段の変更を頼まれただけよ」
「……良かった」
心の底から安堵したような不破犬君の声。そして表情。
ちっとも隠そうともしない『好き』という態度に、こっちが面くらってしまう。
彼は、会話の回数を重ねていけば、私の心が動くと本気で信じているのだろうか。
そう思われていたら心外であり、不愉快だ。私はそんなに移り気の激しい女ではない。
(――はずだったのに……嘘でしょう? 嬉しいって思ってる……?)
不破犬君なんて気にならない存在だった。
年下のくせに不遜で、口を開けば上から目線で、かと思えばひとを憐憫の目で見てくるような後輩だった。
いまでもそういう接し方はしてくるけれど、好意を上乗せされると、どうしたって封印してきたはずの乙女センサーが反応してしまう。
何せ耐性がないのだ。近くに寄られたときや思わぬ場所ですれ違ったとき。きっかけが増えれば、意識する回数も比例するように増えた。
小さな変化、大きな戸惑い。日に日に自分が変わって行く。そんな自分を自覚するたび、自己嫌悪に陥り、叱責する羽目になる。
(呆れた。そんなことで一喜一憂しないでったら。しっかりしてよ。『あなたが好きなのは誰だった?』)
もう1人の自分が、本心を思い出させるように叱咤してくる。情けないことに、最近はその声で我に返るパターンが多くなってしまった。
「潮さん、そこのダンボール捨ててきましょうか」
明らかな点数稼ぎさえ、こそばゆくて嬉しいだなんて。勘弁して欲しい。
「……いい。後で捨ててくるから」
「点数稼がせて下さい。こうやって恩を売って、僕の虜にしていく作戦なんですから」
しかも彼は本音をストレートに伝えてくるから手に負えない。心に響く度合いが半端ないではないか。
『あなただけですよ』。そんな特別扱いは、どうしたって心地良く感じてしまう。
(でもね、でも……。私は罪を犯したから、罰を受けなければいけないの)
「呆れた。作戦名暴露したら台無しじゃない」
「口説かれてるって意識して下さいよ」
「そんな言葉じゃ動かされない」
嘘だ。実は動いてる。いつの間にか動かされてる。
でも応えるわけにはいかないから、今日もまた、返事はノー。
掻き乱される心と、なぜか追ってしまう視線を逸らすことなど、出来なくなってしまいかけている。
右手を首元にやる。私の鎖骨の上にある、ナットのネックレスを押さえながら、心の中、たった1人の男性の名前を呼んだ。
まるで呪文のように。良薬のように。伊神さんの名前を刻むことで、不破犬君の存在を押さえ込む儀式。
「じゃあ潮さん、今日仕事終わったらデートしましょうよ」
不破犬君は性懲りもなくサラリと告げた。
「何が『じゃあ』なのかよく分かんないけど、今日もしないし明日もしない。ねぇ、聞きたかったんだけど」
「なんですか?」
「私のこと、ほんとに好きなの?」
瞳同士で語るとか、そんなロマンチックなことではなく。
相手が嘘をついているかの確認をするために、私の瞳は彼のそれを、真正面から見据える。
「えぇ、好きですよ」
仕事やプライベートを通じて累計してみても、滅多に見せない満面の笑顔で不破犬君は答えた。
思わずきゅんとなりかけ、頭を振って雑念を追い出す。
「本当に?」「えぇ、本当です」「デートしたい?」「そりゃしたいですよ」「いちゃいちゃ」「したい」
「……私が好き?」
「……なんなんですか、一体?」
ここへ来て、わずかに寄せられる眉根。そう、私はこれを待っていた。この反応を。
「どうして?」
彼のポーカーフェイスが崩れた瞬間は見物だった。こんな間の抜けた不破犬君の顔を、私は知らない。
この隙は決して逃がさない。今日こそは絶対に。
「いつも『潮さんが好きです』『デートしたいです』『部屋に行きたいです』って言ってくるけどさ。
でも、どこが好きだとか、こういう理由だから好きなんだっていうことは一度も言ってくれないよね?
私、そんなに難しいこと訊いてる? 特別視してくれる理由を尋ねてるだけなんだけどな」
今やその顔からは何も読み取れない。もう平常心を取り戻してる。食えないヤツだ。
「言いたくありません」
今度はこっちが言葉を失う番だった。
「……なにそれ」
「言葉通りです。言うつもりはありません」
「え……。何でそんな簡単なコトが言えないの? そんなの納得出来るわけないじゃない。私じゃなくても良いってコト?」
「どうしてそうなるんですか? すぐ極論に走る……」
自分のことは完全に棚に上げて、不破犬君はこれ見よがしに溜息をついた。
「だってそうでしょ? 私じゃなきゃダメな理由があるの? ないの? 言えないなら、ないと思われても仕方ないじゃない?」
「潮さんは、わがままだなぁ」
侮蔑を含んだ、鋭い言葉を吐き捨てる。
なっ……。言うに事欠いて、こいつ……!
「わがまま!? これのどこが?」
わめく私を嘲笑う、その冷静さが、なおさら癪に障る。
「伊神さんのことで頭がいっぱいで。僕になびく気ゼロのくせに、嫉妬心だけは一丁前?」
「!」
図星だった。痛いところを突かれたという自覚はある。
「どうやら伊神さんに負い目を感じてるっぽい潮さんは、『罪には罰を』とばかりに、二度と恋なんてしなさそうですね。
『伊神さん一筋』精神を貫いて僕を拒んでますけど、でもそれって僕からしたら傲慢で、随分と自分勝手な話ですよ。
あなたのマイルールってやつでフラれ続ける僕への思いやりが一欠けらもない。まぁ、あなたに惚れてしまった僕が悪いんでしょうけど」
言い返せないのは、不破犬君の言う通りだったから。
自分の身勝手さと、正論と、相手を傷付けていた事実を突き付けられて、首を横に振れるはずがない。
加えて、伊神さんとの過去のことを話せないでいる状態だから、彼がイラ立つのも無理はない。
「あなたを蔑ろにしてたことについては謝るよ。無神経だった。ごめんなさい」
殊勝に謝ったのがよほど予想外だったのだろう。鳩が豆鉄砲を食らったように呆けた不破犬君はすかさずフォローに転じた。
「僕も言い過ぎました。すみません」
「……最終確認するけど、あなたの好きなひとは、本当に私なのね?」
「そうです」
「さっきあなた、私のことを『傲慢で自分勝手』って評したけど、それでも?」
「いや、そこは不満ですよ?
でも、そんな感情を抱えている潮さんが、総じて好きなんです。男性に一途なところも含めて。あいにく、相手は僕じゃないけれど」
伊神さんのこととか、罪とか、罰とか、それら全てを解放しなければ、誰も幸せになれない。こうして他人を不幸にしてしまう。
「好いた女性に悲しげな顔をさせて悦に入るような趣味はありません。
潮さんには笑っていて欲しい、ただそれだけです。僕、潮さんの笑った顔が好きなんで」
「……」
(笑った顔?)
不破犬君の言葉を聞いて、心がもやもやしてくるのが分かった。つい咎める口調になってしまう。
「……おかしなことを言うのね」
「? 何がです?」
「私……あなたが居るこの職場で笑ったことなんて、ないはずよ。それなのに『笑った顔が好き』なんて。いい加減なこと言わないで」
お互い、既に『苦しそうな顔』はどこか遥か彼方の方へ行ってしまっている。今や眉根を寄せている男女が2人、相(あい)対してる構図だ。
「僕は適当なことなんて言いません。潮さんこそ、決め付けないでください」
「じゃあどうして私の笑った顔なんて知ってるのよ? いつ私があなたの前で笑ったりした?
ここ数年、何をするのも笑顔なんて作り物だった。それは私がよく、一番よく知ってる。あなたは私の何を見てきたの?」
「あなたの笑顔が作り物だろうがなんだろうが、笑顔は笑顔です。そこに嘘が込められていようとなんだろうと、僕は……」
「やーめーてーよーねー! はは、面白い」
けたけたと笑い飛ばす。彼のことばは青臭く、まるで恋に夢見る少女のようだ。
(そう、私とは真逆の――感受性。あの時に私が失くした、綺麗な。まだ『世界』を知らない時の、無垢な……。くだらない!)
そんな私を見て、やめてくださいと不破犬君は言う。自分をいじめないでください、自虐なんてそんな……、貶めないでくださいと。
こんな私でも、『いまならまだ戻ってこれる』と信じているかのような、手招きにも似た真剣な眼差しで。
だから打ちのめしてやりたかった。
私の暗部の何たるかも知らないくせに、理解不明な告白をのたまうことになってしまった、彼の愚かな勘違いを。
「……この際だからはっきり言うわ。迷惑よ。あなたの全てが迷惑。あなたの告白も、想いも」
「そんな……」
ここで、うろたえる不破犬君に手心を加えるわけにはいかなかった。恋心を粉々に砕いて、目を覚まさせなければ。
私なんかを好きになってはいけない。
(これはあなたのためでもあるのよ)
不破犬君は、何かを言おうと口を開きかけ、それでも何も出てこないようで、再び閉じる。
打ちのめされた彼にとどめをさすように、ドアから男が声を掛けた。
「透子から離れやがれ、糞餓鬼」
「杣庄!」
一体いつからそこにいたのだろう? ドアが開いたことなど、まったく気が付かなかった。
疲労困憊のていで、不破犬君は力なく自嘲した。杣庄に向かって。
「……ソマ先輩ですか。やれやれ、いつまで潮さんの保護者気分? 伊神さんならともかく、ソマ先輩相手なら一歩も引く気ありませんから」
「痴話喧嘩か? いや、透子は丸っきり相手にしてねぇみてぇだ。痴話じゃねぇな。ただの喧嘩か。
喧嘩と名の付くモノなら俺が買うぜ? それが透子だってンなら尚更な」
「その不敵な笑みとか、どこからくるのか教えて欲しいぐらい奇妙な自信とか……ほんっとウザイ」
「ははっ、言ってくれるじゃねぇか。そうこなくっちゃ」
「ソマ先輩ってマゾですか? お呼びじゃないって、これだけ言ってるのに」
「お前こそ、そのドSっぷりを直さねぇと透子が怖がって相手にしてくれねぇぜ。これ以上嫌われたくないだろ?」
「杣庄、言い過ぎ」
「あのな透子。お前も悪いんだぜ。お前がきっぱり拒否しないから、言い包められちまうんだぞ」
がしがしと乱暴に頭を掻く杣庄は明らかに呆れていた。
「でも……、そこまで嫌えないよ……。あ……」
「――だとよ。これにて一件落着! ほら、早く持ち場に戻れ、お前」
「話があります、ソマ先輩」
「俺にはねぇよ。つーか戻らねぇなら俺が無理にでも引っ張ってくかんな。さ、行くぞ」
杣庄は不破犬君の肩を掴むと、力任せにPOSルームから連れ出そうとする。すると、まるで棒読みの杣庄の声。
「あれー? いたんだ、八女サン?」
「演技が下手ね、ソマは。ずっと一緒だったでしょ」
ドアから八女先輩も現れた。八女先輩は、厳しい視線を私に向ける。
「わんちゃんはソマに話があるみたいだから、私は潮の相手をするわ」
何かが始まるとしたら、今日からかもしれない。
逃げること、己を誤魔化し続ける嘘。自分の中のドロドロとした嫌な部分に別れを告げるのは今日からなのだと予感がした。
杣庄の逞しい腕力により、引きずられて行く不破犬君の姿が見えなくなると、八女先輩はPOSルームのドアを閉めた。
「やってくれたわね、潮。あなたの気持ちは分からないでもないわ。でも、わんちゃんに対して厳しすぎない?」
「……厳しい? そりゃそうですよ。彼には諦めて貰わないといけないんですから。冷酷にもなります」
「薄情とも言えるわね。さっきのやり取りは、女性から見ても、男性から見ても腹が立つわ」
「私が悪いんですか?」
下から先輩を睨み付けた。
「自覚ナシ?」
「えぇ、ありません」
きっぱりと告げた私に、八女先輩はその柳眉をピクリと動かした。
「潮が懐いてるのって、この世でたったひとり、伊神そのひとだけみたいね。伊神にだけいい顔をしてる。
“伊神さん大好き! 伊神さんの為だったら何でもする!”。
でも伊神以外となると、“興味ありません”。誰が見てもそう思っちゃう。そういう二面性は嫌われるわよ」
「もう嫌われてます。だから大丈夫です」
上辺だけの笑顔を作り、なんでもない調子で言う。
(そう、みんな私に見切りをつけた。私が伊神さんを見捨てた日から)
いまさら人からどう思われていようが気にならない。伊神さんが隣りにいないなら、どうだっていい。もう、どうだって。
「……あなたが伊神を好きでい続けていることは、私もソマも、それこそわんちゃんも知ってる。
でもね、恋を忘れさせてくれるのは恋だけよ。だから潮も新しい恋をしなさいな」
「嘘ばっかり!」
まるで自分の声ではないかのように。毒が、体内から、口から、吐き出される。
「私から恋を奪ったのは、伊神さんを奪ったのは、“もう1つの恋”じゃない!」
「!」
「奇麗事なんか聞きたくない! 誰も私の気持ちなんて分かってくれない。私は伊神さんがいい。伊神さんじゃなくちゃイヤ!」
「潮……」
塞き止めていたものが、渦を巻いて押し寄せてくる。激流という名の激昂。不満と欺瞞と報いを携えて、それは私を狂わせる。
どうしたって抑えられない願いと不平と憎しみは、今なお私を苛立たせ、私の良心と未来と精神を蝕むのだ。
それが、私から伊神さんを取り上げた「結果」。これが、私が伊神さんを失った「代償」。
「穴」や「溝」は、決して埋まらない。

2008.09.04-2008.09.24
改2019.04.12


←8話┃ ● ┃10話→






最終更新日  2019.04.12 21:13:14
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08話 (―) 【部外者】―ブガイシャ―


___不破犬君side

POSルームには店内の商品売価を変更するシステムを搭載したパソコンが置いてある。それを操るのがPOSオペレータだ。
10畳ほどの小部屋にはパソコンが3台並び、普段は2人のオペレータが店内中の売価に関する一切合財の依頼を請け負っている。
この部屋への入室は要注意だ。部屋の「主」によるオモチャ扱いは店内では有名だから。間の悪いことに、今日はその餌食となってしまった。
「わんちゃーん」
『八女芙蓉の声は悪魔の声』。昔、そう言い切った男性先輩がいた。――誰あろう、僕の上司だが。
その美貌、頭脳、行動力。抜群のパロメータを保持した八女先輩の欠損部分はズバリ、性格だ。
「わんちゃん、私って凄いのよ。空気が読めちゃうの」
「本当に空気が読めるんでしたら、わんちゃん呼ばわりしないはずですよね?」
「茶化さないの!」
「茶化したわけじゃないんですけどね」
皮肉で応じてみたものの、当の本人は瑞々しい唇の端をわずかに上げただけだった。
「私ね、この部屋が微妙にきな臭いコトに気付いたの」
「換気扇でもつけたらどうですか。そもそも臭うのは、八女先輩のキッツイ香水なのでは?」
「あら、潮よりも上手だこと。その潮の様子がおかしいみたいなんだけど、あなた、彼女に何かした?」
柔らかい口調から一転、鋭い口調へ。その目は笑っていない。これこそが八女芙蓉が般若と恐れられている所以だ。
鋭い切込みを入れ、相手を一瞬口ごもらせる手法。この技は、結構通じる。
「告白しました」
『告白』した告白に、八女先輩の目がきょとんとなった。
「……ごめん、今なんて?」
「少し前になりますけど、潮さんに告白しました」
「へぇ……。潮が好きなのは知ってたけど、まさか告白するとはね」
今度はこっちが目を丸くする番だった。
「待って下さい。何で八女先輩が僕の好きな人をご存知なんです?」
「態度見てればバレバレよ」
おかしいな。隠していたはずなのに。見る人が見れば丸分かりだったのだろうか。
「でも、駄目だったのね?」
「はい」
「でしょうね。あの子、伊神にぞっこんだから」
「そう言われました」
「不憫ね~。想い人の伊神はもう居ないっていうのに。いい加減、幻を追うのは止めなさいって言ってるんだけどなぁ」
「そこをもっと強調して、根気よく言い続けてくれませんか」
「私が言っても聞かないもの。で、あなたは? 早くつけ込みなさいよね」
「つけ……」
「204号」
「なんですか?」
「潮のマンション。あの子、今日1日部屋にいるらしいから」
「何考えてるんですか。行きませんよ」
「平静を装うのもお上手だこと! 本当はのどから手が出るほど欲しい情報だったクセに。もたもたしてると他の男に取られちゃうわよ?
そうね~、わんちゃんには落とせなくても、他の男だったらどうかしら。例えばソマとかソマとかソマとか?」
ソマという名はトリガーだった。その人物に負けるわけにはいかない。僕はきっぱりと答える。
「行きます」
「物分りのイイ子は好きよ」
今度は菩薩のような笑顔で微笑むが、ふと疑問を覚え、八女先輩へ問いかけた。
「八女先輩はどうして僕の恋を応援してくれるんです?」
「私は一途な片想いをしている人の味方なの。伊神というライバルがいるにも関わらず、潮を想い続けるわんちゃんの熱意に胸を打たれたの。
となるとソマの存在がネックよね? 潮の同期という時点でソマが何馬身もリードしてるんだからフェアじゃないわ。同じ土俵で勝負させてあげる」
「まさかの展開ですね。恋のキューピッドですか。まぁでも、鬼に金棒です」
敵に回すと厄介な相手だけに、心底そう思った。が、八女先輩の言葉を鵜呑みにしてよいものかと疑問に思いはした。
でも、例え嘘だったとして、僕が不利益を被るわけでもなし。素直に申し出を受け取ることにした。
「ふふっ。ソマはどう出るかしらね」
不敵に笑う視線の先には、社員旅行で撮った写真。潮さんの隣りに陣取り、自信に満ち溢れた双眸を持つ男に注がれる。杣庄進に。


*

___潮透子side

水にはいい思い出がない。カナヅチで泳げないし、ここぞというイベントでは絶対悪天候になってしまう雨女だし。
現に昨日もそうだった。天気予報では『傘は必要ありません』と言い張っていたのにも関わらず、急に叩きつけるような雨が降るんだから。
でも私だって馬鹿ではない。そんな時のために用意していたのだ。ロッカーに置き傘を。
グリップを押して傘を広げる。少し歩き出すと、店の入り口で、やみそうにない空を見上げ、途方に暮れている客の姿があった。
正直、『う……』と思った。面倒な場面に出くわしてしまったなと。見ぬ振りをしてしまおうとも。でも、でも。
(そんな私を、もし伊神さんがいたらどう思うだろう?)
首を横に振り、『透子ちゃん……』と残念がられでもしたら、二度と立ち直れない。
そんなのは嫌だ。そう思った時にはおばあさん目掛け、駆け出していた。
しきりに固辞するそのおばあさんに傘を押し付けた。その結果がこのザマだ。頭痛に関節痛、のどの痛み。熱が出た。
せめてあのおばあさんが無事ならいい。どうか風邪などひいていませんように。
帰宅してすぐ入浴で身体を温めたものの、夜中には熱が出てしまっていた。
いくらマンションが近かったとはいえ、まだ寒さの残る春先に身体の芯から冷えてしまっては「風邪のフラグ立ってますよ」候だ。
止まらない鼻水に辟易しながら脇から体温計を引き抜いた。8度4分。そんな情報、知らない方がまだ気丈でいられたかも。
汗で身体中がベタベタだ。でも入浴はマズイかも。せめて着替えだけでも……さらに言うなら水が飲みたい。
ベッドから上体を起こし、足を地につける。ぐわん、と頭が揺らいだ。うそやだ、これってば重症? 
思い通りに動かない身体に活を入れ、キッチンまで歩く。マンションの狭さが今日ばかりはありがたい。
冷蔵庫の中に入っている冷たいミネラルウォーターでは、かえってお腹を壊しかねないからコップに水道水を注ぐ。
若干カルキ臭いそれを飲み干して一息つくと、着替えの服を手に取り浴室に向かった。
濡れタオルで身体を拭くだけで精一杯。仕方ないよと自分に言い聞かす。
しまった、いつもの要領で洗濯機を回してしまった。誰が干すのよ? 今日の私にそれをやらせる気?
げんなりしながら再びベッドに戻ろうとしたその時、玄関のチャイムが鳴った。
興味本位でドアスコープから覗いてみたが、顔までは分からなかった。出られる状態でもないので引き返す。
するとあろうことか、ドアノブを回す音がする。 
「え、な、なに!?」
わけが分からなくなって、私は後退る。ベッドの柱が足に当たり、床に尻餅をついてしまった。痛みよりも恐怖が勝り、固まってしまう。
「……あれ? なんだ、鍵開いてる。入りますよ」
なぜ。だれ。どうして。なにがどうなってるの。
駄目だ、頭が朦朧として、正しく働いてくれない。まさか施錠を忘れてた? そんな馬鹿な――!
「どこだろ……?」
私を探しているのだろうか。それとも物取り? 私はといえば、軽くパニック状態になっていた。
「ここかな?」
「だ、誰!? 入って来ないで! 不法侵入!」
「不法……まぁ、確かに」
見慣れた人物が目の前に立っている。
彼のことは分かる。不破犬君だ。それは分かる。分からないのはその理由だ。
「何で! 何で不破犬君がここにいるのよ!?」
「何でって……八女先輩にけしかけられたと言うか、脅されたと言うか」
八女先輩ったら一体どういうつもりで不破犬君を派遣してきたんだろう。よりによって、弱りかけた女性の部屋に男性を寄越すなんて!
怒りでさらに頭が沸騰しかけた。が、それがいけなかったらしい。身体に負荷をかけてしまったようだ。
(あ、もうダメだ……)
そう思ったと同時に、記憶がぷつりと途切れる。


*

___不破犬君side

「潮さん!?」
幸いにも膝から崩れるように倒れたため、頭を打つことはなかった。
それでも慌てて駆け付け、上半身を起こしつつ顔色を伺う。額には汗が浮かび、身体が火照っていた。高熱は疑いようもなかった。
抱きかかえ、ベッドに潮さんを寝かし、布団をかぶせた。スマホを取り出し、会社に電話した。内線で八女先輩を呼びだして貰う。
開口一番、「あら、潮の部屋にいるんじゃなかったの?」と尋ねてきたヤボな質問への回答は打ち捨てる。
「潮さん、相当体調悪いみたいです」
「さっき言い忘れたんだけど、」
「わざと言わなかったんでしょうが」
「潮が今日休んでる理由は風邪をひいちゃったからなのよ。
昨日あの子、お客様に自分の傘を渡して、自分は雨に打たれて帰ったんだって。
あ、『介抱する』なんて馬鹿なこと言わないでよ? わんちゃんに感染ったら困るし」
「だからって、放っておけませんよ」
「よく言ったわ。それでこそ私のわんちゃん! ここで薄情にも見捨てるつもりでいたら首輪を買って付けるところだった」
「ほんっと最低なことしか考えない人ですね。じゃあ、しばらく様子見てますね。2~3時間で戻るつもりです」
「いいわ、青柳には私から伝えておく。あ、どうせなら泊まっちゃえばいいのに」
「そうしたいのは山々ですけど」
「動じなくなったわね。つまんないなー」
「半分以上は本音ですから。それに、いつまでも八女先輩のオモチャのままなわけないじゃないですか」
「甘いわね、わんちゃん。潮に関しては私の方が有利なのよ? 潮のスリーサイズも知らないクセに一丁前に刃向かわないように」
八女先輩は言いたいことだけ言うと通信を終わらせた。額に当てる水タオルを作りに、僕は立ち上がった。
 

*

___潮透子side

水の音が聴こえる。ぼたぼたぼたぼた……これは何かを絞る音? 額に冷たい感触。火照った顔に気持ちいい。
瞼を開けると、そこには私を見下ろす不破犬君の顔があった。
「……なんでいるの……?」
「さぁ、何ででしょうね」
素っ気なく言うと、私の頭をすくい上げ、上半身を起こしてくれた。
「飲んで下さい」
コップを差し出されたので大人しく飲んでおく。水だと思ったそれはスポーツドリンクだった。
「お粥を食べる気力と食欲はありますか? 一応作ってあります」
「……うん」
その返答に安堵したのか、不破犬君の顔はそこでようやく緩んだ。
「わざわざ作ってくれたの?」
「いえ、作ったというのは正確じゃないです。事後報告で申し訳ないですけど、勝手に棚を探らせて貰いました。レトルトパウチのお粥です」
「そう、ありがとう」
お粥を持って来てくれた不破犬君は、ふーふーと冷ます。
自分で冷ますことぐらい出来るのに。そう訴えたのだけど、彼はこうやって恩を売っておかないと、と頑なな態度を改めようとはしなかった。
「何か、悪い夢でも?」
「え?」
「……潮さん、うなされてました」
「……夢なら良かった」
「え?」
悪夢だった。
悪夢は過去に起きた実際の出来事で、ご丁寧にも『最も忌むべき日』の再演上演会だった。
私を罵る者はひとりもいなかったけれど、私は自分に対して呵責を覚えていたし、それは今でも心の中に生きている。
私は伊神さんを裏切り、突き放し、しかも彼の誠意を絶望の淵に叩き付けた。
「……あのシーンだったわ」
両目から涙が溢れて来た。不破犬君に見せまいと両手で目を覆う。
「夢なら良かった……!」
「……僕は、詳しい話を知りません。だから、潮さんを慰める言葉も、今は見付からない。傷付いた貴女を守ってあげたいけど……」
「……言いたくない」
「僕だって知りたくないですよ、貴女をそこまで縛り付ける伊神さんの話なんて!」
これまで聞いたことのない、鋭いことばだった。だだをこねる子供が分からず屋の大人に何とか分かってと訴えかけるような。
だけど、切ない声……。
「す、すみません……。病人に向かって声を張り上げたりして……。本当にごめんなさい」
「……ん、ビックリしたけど、大丈夫だから」
だから教えてください。不破犬君はそう呟いた。
「好きだから。潮さんが好きだから。伊神さんを忘れさせる為にも、僕が潮さんに振り向いて貰う為にも、僕は話を聞いておく必要があるんです。
僕がつけこむ隙を見せて下さい。伊神さんなんて忘れさせてみせます。教えて下さい、何があったのか。そんな貴女を見るのは、本当に辛いんです」
痛い。不破犬君の優しさが痛い。私を責めない優しさが痛い。
優しくしないで。優しくされればされるほど、心が軋む。
伊神さんの呪縛が強まるのを感じつつも、弱まる気配も感じる。
雁字搦めだったはずなのに。私の心は、形を変えようとしている。でも、それがいいことなのかまでは自信がもてなかった。
「……すみません。お疲れですよね。いつかでいいです。今は、とにかく眠って下さい。早く元気になって下さいね」
『いつかでいい』。その言葉に安堵する。
いつか、時が来たら。心の整理がついたら。
(ちゃんと話すよ。彼と私に何があったのか、全部話す)
そこまで私を心配してくれる貴方に、せめてものお礼とお詫びを兼ねて。
(だから今は待ってて)
熱が下がって、雨が上がったら。
「おはよう」って、まずは不破犬君、あなたに言うからね。


*

3日後には体調も良くなった。
少しはあの日の功労者である不破犬君に対して優しくなれるだろうかと思っていたのだけど、そうは問屋が卸さなかった。
どうしてもつっけんどんになってしまうのは、弱さを曝け出してしまったことを私が恥じているからだろうか。
目の前に置かれた大量の食料品に、椅子に座っていた私は上半身だけを捻り、不破犬君を見上げた。「なにこれ?」
彼が持ち込んだ商品には見切りシール――賞味期限が近いため処分価格となりましたと銘打ったもの―が貼られている。
「パスタの麺、カルボナーラソース、片栗粉、天ぷら粉、白玉粉、上白糖」
その他にも、お好み焼きソースやら、コーヒーの粉、缶詰、ペットボトル、使用途例が分からない商品が並ぶ。
不破犬君は、しれっと告げた。
「看病した時たまたま目に入ったんですけど、既製品ばかりで不健康そうだったから、あれではいけないと思って」
「つまりこれを買って自炊しろと言いたいの?」
「潮さんのキッチン、レトルトだらけで正直がっかりしました。精々ホットケーキ作るぐらい? それなら僕にだって出来ますよ」
「なっ、なっ、なっ……!」
「愛知県民でしょう? 味噌汁は八丁味噌で飲みましょうよ。何で白味噌?」
「偏見反対! いいじゃない、白だろうが!」
「僕が赤味噌派なんで、断然赤をオススメします。最高じゃないですか。何が不満?
とにかく、以上のことを踏まえて潮さんに料理の知識が乏しいのは一目瞭然。自炊すべきです」
「なんでそんな事言われなきゃなんないのよー!」
「料理が出来ない潮さんでも僕は良いんですけど、料理が出来る嫁っていうのも、旦那としては仕事のモチベーションが上がると思いません?」
「その意味不明な未来設計こそ、私の心臓に悪いわよー!」
「ですから、これは潮さんの為にですね……」
「要・ら・な・い! 今まで通り、レトルトで過ごすわよっ」
「潮さんが作った手料理、食べてみたかったなぁ」
どうしてそこで、しおらしい弟キャラになるワケ!? 今までの不遜な態度はどこへ行ったって言うのよ!?
「……まったく」
見切り品を押し戻しながら、私は観念した。譲歩とも言える。まぁ、借りを返すにはいい機会だろう。
「お菓子ぐらいなら作ってあげなくもないわ」
「えっ、本当ですか?」
心底驚いた不破犬君の顔といったら。玉砕覚悟の発言が実現するとは思ってもみなかったのだろう。
「言っておくけど、作って持って来るだけよ? 部屋には入れない。あと、味には期待しないで」
「構いません! 潮さんの手作りお菓子……やった」
普段大人びていると彼なだけに、年相応の反応には微笑ましいものを感じる。
完全無防備な笑顔を見せる不破犬君に、苦笑しながら肩をすくめたのだった。

(→続く)
改2019.04.12

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最終更新日  2019.04.12 19:15:27
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2019.03.27

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07話 (―) 【棚牡丹】―タナボタ―


___不破犬君side

空の暗さと湿った空気、独特な匂いから雨が近いと予測できた。気象庁によれば東海三県は昼頃から明日にかけてまとまった雨が降るという。
従業員入り口の傘立てに長傘を立て掛け、鞄から取り出した社員証を警備員に見せた。そのまま2階まで上がり、男子更衣室で着替えを済ませる。
その次は出社証明のため事務所へ向かう。「おはようございます」と言って入室すれば、事務所にいる者が口々に「おはよう」と返してくれる。
壁面に掲げられた出欠ボードの個人札を裏返す。黒字に白背景が出勤を、赤背景に黒字が不在を表している。実にシンプルで分かりやすい仕組みだ。
事務所に入ってすぐの位置にICタイムレコーダーが置いてあるのでパスケースごと社員証をかざすと、ICチップに反応して機械が感知音を発した。
その一連の作業がここ、ユナイソン岐阜店における出勤時の流れ図だった。
「不破君、証明写真は持ってきてくれた?」
僕を見るなり事務課庶務担当である黛さんがカウンター越しに尋ねてきた。
社員証に顔写真を載せることが決まり、証明写真が必要になったため、全従業員が各々撮りに行ったはずだ。
かくいう僕も撮り下ろさねばならず、昨日撮りに行った。そのワンシートを鞄から取り出す。
昨日は気付かなかったが、よく見るとネクタイがほんの少し曲がってしまっていた。
「……撮り直すべきかなぁ」
ぽつりと呟いた瞬間、
「隙あり」
背後からにょきっと手が伸びてきた。振り向けばそこには八女先輩が立っていた。
「馬渕」
八女先輩は、やにわに事務所の奥でコピーを取っていた馬渕先輩を呼んだ。呼ばれた馬渕先輩が顔を上げる。綺麗な栗色の髪が揺れた。
「なぁに? 芙蓉」
馬渕先輩は『ふんわり』という表現がぴったりの、一見優しげな女性に見える。
対してクールな佇まいの八女先輩は、第一印象では『常識人』だと思われていることが多いようだが、
「見なさい。わんちゃんの証明写真をゲットしたわ」
「わ~、うそ? 欲しいな~」
「もちろんよ」
このように、会話が始まると同時に第三者を不幸にしてしまう確率をぐんと跳ね上げてしまうのが玉に瑕だった。
「笑えない冗談はよして下さい。今日提出しなきゃマズいんですから」
「撮り直すんでしょ? ちゃーんと聴こえたわよ。捨てるぐらいなら拾ってあげる」
「そんな殺生で横暴な話がありますか。そもそも、そんなもの持っていたってしょうがないでしょう。どうするつもりですか」
「他店のひとと飲み会に行ったときの酒の肴かなぁ」
「なおさら駄目に決まってるでしょう。たかが証明写真だとお思いでしょうが、これだって立派な個人情報。プライバシーの侵害ですよ」
「ねぇ芙蓉。残りの2枚は黛と香椎に渡しましょ?」
「いやいや、待って下さい。おかしいでしょ。2人して好き放題言ってくれてますけどね、4枚綴りの内の1枚は提出しなきゃいけなんですから」
「こんなネクタイ曲がったものを?」
「何言ってんです? そのネクタイが曲がった変な証明写真を他店の人間に見せびらかそうとしているあなたこそ、どうかしてる」
ひとが大人しく聞いていれば、随分おっかない4人の名前が挙がったものだ。
馬渕、黛、香椎、八女。彼女らは同期で、入社当時から問題視されていた仲良し4人組だという。
全国200店舗を誇る大手スーパーマーケット、ユナイソン。この店舗数にしてなぜ八女先輩クラスの問題児が集結してしまうのか不思議でならない。
問題児は一つの店に固まっていた方が何かと都合がいいという本部人事部の思惑だろうか。だとしても巻き込まれる側の身にもなって欲しい。
その問題児たちはいつの間にか人の写真にハサミを入れている。早い。展開が早過ぎて付いていけない。駄目元で、もう1人の女傑を振り仰いだ。
「黛先輩。証明写真が目の前で紛失しました」
「今度撮るときは、ネクタイをまっすぐにね。でも証明写真機、釣銭切れランプ付いてるって話よ。それとね、事務所の両替機故障中だから」
この世に救いなんてどこにもない無情な宣告。女傑の恐怖政治を痛感した朝だった。女傑と背後には御用心。
「あ、わんちゃん。ちょっと待って」
「……まだ何か?」
胡乱な目で八女先輩を見ると、彼女は不敵に笑っていた。
しなやかな指が、僕のネクタイに触れ、位置を直す。
「いいものがあるの。代わりにあげるわ」と甘言を弄し、さらに一歩僕に近付いた。本能で半歩下げる僕。
「いいもの?」
「これよ」
僕の手に渡されたのは、なんと潮さんの証明写真だった。
「最高です」
「喜んで貰えて何よりだわ」
「でも何で八女先輩がこれを?」
「私が『今から提出してくる』って言ったら、『あ、じゃあ私の分もお願いします』って」
「あー、なるほど」
「だからね、余った写真は私が頂戴することにしたの。つまり、お駄賃ね」
大方、上司である八女先輩をパシらせることによって普段の鬱憤を晴らしたつもりだろうが、それを実行するには如何せん相手が悪い。
一度でも八女先輩の手に渡った以上、潮さんの元に写真の残りが戻ってくる確率など、宝くじで1等を当てるより難しいだろう。
ジャイアニズムが発生してしまうから。現に、僕がいま、身をもって痛感したばかりである。
女傑によって完膚なきまでに丸め込まれた僕は、八女先輩の昼休憩を狙ってPOSルームへと向かうことにした。こんな日は心の女神に逢いたい。


___潮透子side

「潮さん、小銭持ってませんか?」
珍しく困った顔で不破犬君がPOSルームを訪ねてきた。私は事務机の引き出しから財布を取り出して中身を確認する。
「500円玉が1枚、100円玉が2枚あるけど?」
「潮様、交換して頂けないでしょうか。即席証明写真に使いたいんです。釣銭切れのランプが付いてて紙幣が使えなくて」
両手を合わせて拝みだしたので何かと思えば、両替の依頼だったらしい。
社員証変更に伴い、全職員対象で証明写真を提出しなければならないお達しが下っていた。700円というのはその投入金額だろう。
「両替なら事務所で出来るじゃない。なにせここはスーパーなんだし。プライベート利用しても構わないのよ、あれ」
「それがですね、両替機が詰まってしまったんですよ。コールセンターからの返事待ちだそうです」
「タイミング悪過ぎ……。そもそも写真の提出期限は今日でしょう? まだ撮ってなかったの?」
「弁解させて貰うなら、僕はちゃんと撮りましたよ。女傑四人衆に写真を盗まれなければ、こんなことにはならなかった」
「……それは運が悪かったわね」
「『人を見たら泥棒と思え』って本当ですね。「隙あり」って言いながら取り上げるんですから、ほんとひどいです。
せっかく撮った写真は盗られるわ、再度撮りに行こうとしたら釣り銭切れだわ、両替機は故障中だわ、踏んだり蹴ったりですよ」
「……とことんツイてないわね」
「なので、どうしても小銭が必要なんです」
八女先輩が原因ならば仕方がない。先輩の尻拭いは後輩の役目。私は700円を彼に渡す。
「助かりました。ありがとうございます」
ではこれを、と言って彼が差し出したのは千円札である。
「困るよ。私、おつり持ってないもん」
「欲しいのは硬貨であって紙幣じゃないですから。300円はお礼ないしチップです。それでハーゲンダッツでも食べて下さい。好きですよね?」
「女子は皆ダッツが好きだと思ってる? 悪いけど私はピノ派なの。っていうか、これで懐柔したつもり?」
とんでもない、と無邪気に笑う。この笑い方には用心しなければ。絶対裏があるに違いないのだ。
「これを頂きますから」
彼の手には、私が提出した証明写真があった。
「……なんで持ってるの!?」
「八女先輩からいただきました」
「なに勝手にやり取りしてるのよ。あげないわよ。仏頂面だし鉄面皮だし、そんな可愛げのない写真、ひとさまにあげるなんて絶対イヤよ」
「じゃあプリクラ下さい。あ、自撮り写真ってないんですか? スマホの待受にします」
「プリクラなんて学生以来撮ってないし、例え自撮りしてたとしても不破犬君にあげるわけないでしょ」
「学生時代の潮さんにめちゃくちゃ興味があるのでそのプリクラ下さい。写真の方は、潮さんに気取られないよう、いつかこっそり撮りますから」
「隠し撮りの野望は秘密にしておこうよ!」
思わず突っ込みを入れてしまう。
「じゃあプリクラと交換しましょう。それまでこの写真は人質です」
何よ、その笑えない冗談は!? 
「ざ、残念ねー。もう残ってないわー」
「そう言うと思いました。じゃあ、その300円で一緒に撮りましょう」
一緒にってまさか、不破犬君とプリクラを!?
「今日び、300円で撮れる機種なんてあるわけ……」
「写真。貰います」
「う……ぐ……。それだけは……」
「じゃあプリクラ一緒に撮ってくれます?」
「それもイヤだってば!」
「了解。ではこの写真はいただいておきますね」
何でこうなるのよー! 結局私が損したんじゃない! 罪のない千円札を穴が開くほど睨みつける。
それにしても落ち着かない。だって証明写真だなんて、真顔で愛嬌もなくて表情も硬くて、かなり不細工なんだもの。
背筋を冷たいものが走る。やっぱり駄目だ、そんなものは渡せない。 
「分かったわよ……! 3階のゲームコーナーにプリクラあったよね……」
「どんな風の吹き回しです? 嬉しいから構いませんけど。じゃあ18時に」
「今日!?」
ひとを四面楚歌にしておいてから断われない状態に追い込むなんて、とんだ食わせ者だ。



___不破犬君side


約束の18時。私服に着替えてからゲームコーナーに向かうも、潮さんの姿はない。
さてはすっぽかされたかな? 確かに強引だったし無理もないか。10分待ったところで踵を返すと、
「10分しか待てないの?」
声のした方を見ると、私服である紺色と黄色のバイカラーワンピースに着替えた潮さんがいた。
緩やかな髪を左肩の位置で結び、胸部分まで垂らしている。小さな蝶のクリップは仕事中にはなかったものだ。
仕事のときと違う髪形、そして丈の短いワンピース姿に、
「反則的な可愛さですね」
自分でも迂闊だったと思う。率直な感想が口をついて出ていた。
潮さんは顔を真っ赤にさせ、口をパクパクさせていたものの、
「っ……早く撮るわよ」
さっさと歩き出した潮さんの後に続き、プリクラ台へと急ぐ。途中、千円札を百円玉に両替することも忘れない。
すると潮さんが、じゃらららららと吐き出てくる百円玉の山を見つめながら、ちくりと呟く。
「ねぇ、ここで両替出来るんなら、最初からここですれば良かったじゃない?」
「やっと気付きました? あんな口実に騙される方がおかしいんですよ」
「はぁぁあ!?」
「いやほら、考えてみてくださいよ。自動販売機でジュース買えばおつり出てくるし、方法はいくらでもあったってことです」
「なっ……、それを知ってて!?」
「勿論」
あっさり僕が暴露すると、潮さんは身体を戦慄わせた。
「…………帰る」
よほど腹に据えたのか、来た道を戻ろうとした潮さんに、僕は「待った」と制止の声を掛け、その手首を掴んだ。
「離してよ! こんなやり方、卑怯だわ! もう頭きた! 勝手に一人で撮ってろ、ばか!」
「ごめんなさい、謝ります。確かに卑怯でした。ほんと……すみません」
さすがに遣り口が強引だったと反省し、頭を下げる。
「謝れば済むと思ったら大間違いよ。そもそも……」
通りがかった女子高生たちに好奇の目で見られたのが恥ずかしかったのか、潮さんはそこで口を噤んだ。
深呼吸を二度三度と繰り返した潮さんは、気持ちを切り替えたぞとばかりに「行くわよ」と告げた。
「! はい」
歩幅の大きな潮さんの後を付いて行く。それにしても、この膨大なプリクラの種類、そして女子高生の多さと言ったら。
普通ならどれにするか迷っても良さそうなものを、潮さんは躊躇いもせず『美姫』という台に入って行った。
「何してるの? 早く入って」
促され、300円を投入すると、慣れた手付きで操作していく。
「300円の機種なんてないって言ってませんでした? この台を選んだのは、これが300円だと知ってたからですか?」
「秘密」
「学生以来撮ってないっていうのは嘘ですか?」
「トップシークレット」
「前回誰と来たんですか? 彼氏ですか?」
「マル秘扱い」
「素直じゃないですね。彼氏なんていないくせに」
「うるさいわね。……ほら、撮るわよ」
ハイ、ポーズ。マシンボイスの合図でポーズを決める。
「潮さん、何だかんだ言って笑顔ですね」
「プリクラ撮るのに仏頂面なんてありえないでしょ。手元に残るものは、嘘でも笑わないと。……誰が見るか分かんないんだし」
「……そうですか、じゃあ」
ツギイクヨー、ハイ、ポーズ。
「なんで手を握るのよ!?」
ツギイクヨー、ハイ、ポーズ。
「きゃぁっ」
「潮さん、前見てなくちゃ駄目じゃないですか」
「なんで抱き付くの!? なんで後ろから!?」
「だって自慢したいじゃないですか」
「誰にだ! しなくていい!」
「本当なら全身プリクラにしたいぐらいですよ。この機種、全身は選べないんですか? パンプスも可愛いし」
「セクハラ禁止!」
言いながらワンピースの裾を押さえる潮さん。年上女子の可愛い姿を見ている内に、あわよくばと魔が差した。潮さんの顎を持ち上げる。
「……やだ!」
どん、と胸板を押され、抵抗される。
「やめてよ、調子乗りすぎ。さっきの件だって、まだ許してないんだからね」
「……す、すみません……でした」
気まずい沈黙。それを生み出したのが自分なだけに居た堪れなかった。
俯いているので、潮さんの表情は分からない。きっと怒らせたし、呆れられたし、嫌われたことだろう。
いつの間にか撮影は終わっていて、シールが排出されている。
潮さんはそれを掴むと、僕に差し出した。僕はそれを無言で受け取る。
その瞬間、潮さんが乱暴に僕の手首を握った。大股で歩く彼女に引っ張られた僕は、すわ警察に突き出されるのだろうかと内心ヒヤヒヤだ。
思い返せば潮さんと話せるようになったのは痴漢を撃退したからだ。
それまでは、話し掛けるのも躊躇われるほど遠くからしか見ることのできない存在だった。
一度は彼女のヒーローになれたのに、調子に乗った僕は彼女に迫ったせいで今やあの時の痴漢同様、卑劣な男になり下がった愚か者だ。
でも衝動を抑えることなんて出来なかった。それほど愛しくて、可愛かったのだ。
「あのぉ潮さんごめんなさいさっきのは謝りますだから二度と僕と話さないとか半径3M以内接近禁止とかそういうのは勘弁してくれませんか」
「……」
「本当にごめんなさい潮さんが可愛かったから魔が差しました悪意はないんですただ欲望が突っ走ってしまっただけで」
しまった、欲望の暴走云々は言わない方がよかったかもしれない。これではただのスケベな男じゃないか。いや、否定はできないけども――。
潮さんの足が止まった。連れて来られたのは別のプリクラ台だった。
「?」
プリクラ台と潮さんを交互に見つめ、どうしたんだろうと思っていると、ドン! と中に押し込まれた。「潮さん?」
無言でカメラの位置を調整し、小銭を投入する潮さん。ワケが分からない。なぜこんなことをしているのだろう?
“お好きなフレームを選んでね。これでいい? じゃあ行くよ、はいチーズ!”
機械から流れるお決まりのフレーズ。一方で、無言の潮さん。
でも画面に映る潮さんの顔は、さっきの出来事の延長線上とは到底思えないくらい綺麗で、可愛くて。
不可解な行動に戸惑っていたのに、腕を組まれた瞬間、嬉しくなってしまった。
“もう1回行くよ。はい、チーズ!”
潮さんは絡めていた腕をほどくと、今度は僕の前に立ち、背中を向けた。
「あの……潮さん?」
「肩に軽く手を添えるだけのポーズなら……、許す」
「え、でも」
「早く」
“これが最後の撮影だよ。はい、チーズ!”
「……あの……これは何の冗談ですか? いや、嬉しいんですけど」
「……『諦めません』って言ったの、そっちじゃん。そんなこと言われたら、検討しないわけにはいかないでしょ……」
「検討って?」
「早々に諦めてもらう方法を考えたり」
「うわ、ネガキャン含んでた」
「1%でも『YES』って答えてあげられる可能性はあるのかなとかさ……。……はぁ、調子狂う……やんなるなぁほんと」
「は? え……? 待ってください。少しは僕のこと、意識してくれてるってことですか?」
僕のことなんて歯牙にもかけていないのだとばかり思っていた。
それが悔しくて小学生男児かと思われても仕方のない意地悪もしてきたのに。嘘だろう? まるで青天の霹靂だ。
僕が尋ねると、潮さんは訥々と、困りながら教えてくれた。
「あなたが私を好きなのは……分かった気がする。誰とも付き合う気になれないけど、でも、一方で前に進まなきゃって思ったりもするの。
あなたはいつもまっすぐ素直な気持ちぶつけてきて……。実は内心嬉しかったりもするの。
でもまだ怖い。戸惑ってる部分もある。嬉しいけど、あなたを好きなのか分かんないし。伊神さんのことを考えるとキュンってするし。
好きな人に触れたいって気持ちはね、すごく分かる。私もそうだった。自惚れかもしんないけど、不破犬君は私に触りたいのかな? って。
でもどこかで線引きしとかないと。強引に出られても困るし。私、いつも拒絶しちゃってるよね。応えてあげられたら良いんだけど……」
しどろもどろ、つっかえつっかえ言う潮さんの顔は、これ以上ないほどに真っ赤で。
「やば……」
それが愛しくて、こんなに可愛いのに手に入れられないのが、心を掻き毟られるほど、もどかしくて。その姿勢のまま、ぎゅっと抱き締めた。
「潮さん。その服と体勢でそんなこと言っちゃ駄目ですよ。犯罪的に可愛すぎ」
「はぁ?? ちょっ、待って! 許してない! それは許してない!!」
「これは隙を見せた潮さんの所為ですから」
潮さんの頭上にキスを落とす。案の定、潮さんは僕を突き放し、目に涙を湛えた。
あぁ――。分かりかけた気がする。潮さんの心情が。
本気で抵抗しているわけではないかもしれない。
一縷の望みはまだあるのかも。現に、残してくれていた。
恐らく心の中で葛藤を起こしていて、潮さん自身、処理出来ずにいるのだ。
感情を持て余している。理性でどうにかしようとしている。じゃあ、本能で僕を求めてもらおうか。
「そう遠くない未来、きっと潮さんは、僕が欲しくなるはずです」
「そんな日、絶対来ないわよ」
潮さんは挑むような目で僕を見ると、再び半分に分けたプリクラを僕に押し付けた。
「じゃあね! ふんっ」
「あ……一緒に」
「帰らない!」
二言はないとばかりに踵を返し、さっさと歩き出す。――やれやれ。
外は……まだ雨が降っているだろうか?
それでも構わない。僕の心には、虹が架かっている。
我ながら陳腐な言い回しだと苦笑しつつも、どうしたってニヤけてしまう顔を、すぐには引っ込められないのだった。


→続く
改2019.03.27


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最終更新日  2019.03.27 19:42:33
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2019.03.21

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06話 (潮) 【豆台風】―マメタイフウ―



不破犬君による直情的な告白は、3日経った今もなお、私の心の中で燻り続けていた。
思いがけない人物から、思いがけない言葉を掛けられたものだから、柄にもなくうんうんと悩み続けてしまっている。
果たして彼の『好き』はLOVEなのかLIKEなのか。そこを疑い出したらキリがないし、ひとりで考えたところで答えも出ない。
そんなことは百も承知なのだが――。
心の内がしっちゃかめっちゃかしている私を尻目に、不破犬君という男は屈託がない様子で今日ものさばっているのである。
これでは、振り回されて悶々としているのは私ひとりで、不公平ではないのか。
あの出来事は幻だったのかと首を捻りたくなるほどに、この3日間は接触もない。この静かな平穏が、かえって不気味なくらいだ。
あのとき彼は想いを述べただけであり、私とどうなりたいのかという具体的な未来の話も出ていない。その放置っぷりがどうにも気になる。
ゆえに私は相変わらず不破犬君に苦手意識を持っており、仕事が間に合わない私に向かって離れた場所から冷視してくる関係も継続中だ。


***

上司である八女先輩が昼休憩に入り、ひとりで仕事をしていると、背後から靴音が聞こえて来た。
振り返るまでもなく足音の主は不破犬君であり、やれやれタイムリーなことだと思いながらも椅子ごと反転させる。
相変わらず彼の身だしなみはバッチリだ。身の上話を語り合う間柄でもないので確認はしてないが、彼からは育ちが良さそうな印象を受ける。
これで毒舌さえなければ、顔も整っているし、言うことはないのだけれど。
「潮さん、これ入力してください」
差し出された用紙を受け取ると、「はいはい」と何事もなかったかのように振る舞う。
いや、“何事もなかったかのように”じゃない。“何もなかった”に違いないのだ。現にこの3日間、何もなかったではないか。
だから紙を受け取ってから、速攻で椅子の位置を元に戻したとしても、露骨ではなかったはず。……なのだけど。
「潮さん。3日前に僕が言ったことですけど」
「み、3日前って?」
悪あがきをして、気付いていないフリをする。
自分からその話題を持ち出すのも癪だし、LOVEなの? LIKEなの? と尋ねるのも躊躇われ、私は「何のこと?」ととぼけるしかない。
けれど、無情にも先を続けるのが不破犬君という人物だった。
「潮さんに好きと言った件です」
≪ここで効果音!≫という台本指示があったなら、本当に何かが燃える音がしたに違いない。
私の顔は、自分でも分かるくらい赤くなっているはずだ。すでに耳朶が熱っぽい。
「あれは本当です。恋愛感情という意味で、潮さんが好きです」
直球ストレート勝負。どこまでも真剣な眼差しに、心の奥底に眠るパンドラの箱が、今にも開いてしまいそうだ。
「し、仕事中に口説かないで。ひとが来たらどうするの?」
苦し紛れに、その話題を遮った。
すると珍しく、ぐっと押し黙った。私の正論が耳に痛かったのか、悔しそうな顔をしていた。
……温かい。熱いほどだ。不破犬君自身はクールなのに、その内に秘めたモノは、情熱という名の炎によって守られている。
彼に助けて貰うことは多い。彼から好意を寄せられることが、嬉しくないわけではない。
不破犬君は、苦手だけど、嫌いになれない存在だ。それはつまり、人としては嫌いじゃないという意味だ。けど。
「ごめん。私、好きな人がいるから」
(だから、駄目なの。あなたでは)
私には、それだけ言うのがやっとだった。
だからこそ、心の内を曝け出した不破犬君の勇気に感心する。人と向き合うって、簡単なようで難しい。
「えぇ」
彼は静かに肯定した。何が「えぇ」なのだろう? あぁそうか、私が言った「ごめん」に対してか。
答えの意味を咀嚼するのに、こんなに時間が掛かるなんて。
「知ってました。だから、こうもすんなり伝えられたのかもしれない」
その言葉に驚いた私は、咄嗟に彼を見上げていた。
「好きとしか言えないです。付き合って下さいなんて言っても、駄目って言われるの、分かってたし」
その途端、今まで見たことのない表情に変わった。
つい『やめてよ、泣かないでよ』という言葉が咽喉元まで出掛かるような、苦しそうで、笑おうと頑張っているような、無理をした顔だ。
誰がそんな顔を彼にさせるの? そんな表情見たくないから、しないで。
違う。彼にこんな顔をさせているのは私だ。でもどうして? 私は彼に想って貰えるような人間なんかじゃない。秀でたものなど何もないのに。
「伝えられれば、それで良かった」
彼の言葉からは、肩の荷が下りました感がひしひしと伝わってくる。その割に、強張った顔はなおも継続中だ。
そのちぐはぐな差異が気になってしまう。
「伊神さんですよね?」
ビク、と肩が震えた。自分でも分かったのだから、彼にも伝わったことだろう。
「な……なんであなたがその名前を……」
「知っているのかって? まぁ確かに、直接会ったこともないひとの名前ですものね。
さぞかし不思議にお思いでしょうが、僕がここに配属されて3年になりますからね。知ってますよ、名前ぐらいは」
「…………」
「でもおかしなことに、それ以上の情報は入ってこないんですよね。伊神さんって誰なんですか? 潮さんとどういう関係です? 
誰に聞いても、はぐらかされてしまう。まるで――緘口令が布かれているかのようだ」
緘口令という単語に、私の心臓がきゅっと縮こまるのが分かった。
「でも、僕の予想が正しいなら、潮さんが好きなのは、その伊神さんというひとじゃないかと」
思うんですよね、と彼は言う。じっと私をみつめて。私から反応を引き出し、見極めるように。
「……ノーコメントよ」
「やっぱりそうなりますか。……ひとを好きになるのは自由なはずなのに、始めからその権利すらないなんて、ちょっと悔しいです」
素直な本音を聴かされて、うろたえてしまう。どうしていいか分からなくて、困惑してしまう。
いつもは厳しすぎるくらい冷ややかなのに。フォローしてるかと思えばその逆で、とどめを刺すくらい嫌味なヤツなのに。
ふいに頬に冷たいものが当たった。不破犬君が、遠慮気味な手付きで私の頬を撫でていた。
「……泣きそうな顔しない下さい。僕、その顔……苦手です」
違う、何言ってるの? それはこっちの台詞よ。あんたの方が、よっぽど泣きそうな顔してるじゃん。
不破犬君の親指が私の頬をなぞり、と同時に切ない顔をした。ツキンと棘のように私の胸に鋭く刺さる。情にほだされそうになる。
(駄目よ、それでは。思い出して。あなたが好きなのは誰だった?)
制服のブラウスの上から、私はそっと鎖骨部分を押さえた。
傍目には分からないだろう。『そこ』に何があるのか。
知らないひとからすれば、鎖骨を撫でる私の動作は、単なる私の悪癖に見えるだろう。
鎖骨の上に、少しだけ盛り上がってる『それ』は、戒めのようなものだ。ナット・ネックレスという名の。
(あなたが好きなのは誰だった?)
その質問には、分かり切った解がある。揺るがない、根幹のような答えが。
(伊神さん――……なんだわ)
すぅ、と息を吸う。そして、満ちた呼気と一緒に吐き出すのだ。今度は、不破犬君への解を。
「ごめんなさい」
数秒ほど身動ぎしなかった彼は、しかし何も告げることもない。
(これでいい)
やがて彼も気付くだろう。
恋は盲目だという。あばたもえくぼ、とも。
何の手違いか、或いは神の気紛れか。一瞬の気の迷いのせいで、変な女性を気になってしまったものだと。
そしてそれは、風化していくのだろう。
(だから、これでいい)
項垂れている私の頭上に、潮さん、と声が掛けられた。
顔を上げると、不破犬君はまっすぐと私を見ていた。
にこりと笑みを浮かべ、あっさりと口にしたそのことばは。
「知ったこっちゃないです。諦めません」
「……ひとの話、聞いてなかったの?」
唖然としかけた私だが、そこで「あ、いたいた。潮ー、入力お願いー!」という同期からの仕事が舞い込んできた。
とんだタイミングだ。その依頼、できれば3分前にして欲しかった。
不破犬君といえば、この話は今日はここまでと言うかのように、ただ礼だけを残してPOSルームを出て行った。


(→続く)
改2019.03.21


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最終更新日  2019.03.21 10:35:40
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2019.02.01

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05話 (潮) 【綺羅星】―キラボシ―



果たして五感で最も敏感なのはどこだろう?
目か、鼻か、舌か、手か、それとも――。
私、潮透子は耳で恋をした。
伊神さんの声で、恋に落ちた。

― 3年前 ―

「潮、なんとかしなさい」
有無を言わせない命令が下った瞬間、紙の上を滑っていた私の字は醜く歪んだ。
「る」が「ゑ」になってしまい、「顧客における」という文が「顧客におけゑ」などと、全くもって意味をなさない言葉へと早変わり。
恐る恐る振り返れば、般若の形相をした鬼が私を見下ろしていた。
般若というのは我ながら的を射た表現だと思う。八女先輩は、街を歩けば5人に1人は振り向きたくなるであろう美貌の持ち主だ。
けれども先輩の特技百面相はとても精巧にできていて、女性誌の表紙だって飾れそうな微笑みを浮かべられるくせに、怒ると般若像に似てしまう。
そんな八女先輩の細長い綺麗な指はいま、部屋の壁、遥か頭上に位置するスピーカーに向けられている。
「シャウト系のBGMってイライラする。お陰で、集中力が途切れてしまったわ」
DJ付きラジオ番組が流れるユナイソン店内のBGM。英語が堪能なDJを起用し、店のお買い得情報を交えながら1時間のサイクルで洋楽を流す。
今日は月初めなので、曲が入れ替わる日だった。
確かに私もシャウト系の曲が流れ始めたときは、『なぜこのチョイス!?』と違和感を抱いたけれど、ここまで明け透けに言われるとは思わなかった。
この部屋にはスピーカーがあるものの、ボリューム調整機能は付いていない。音響に関しては『メンテナンス部』が一括管理しているらしいのだ。
「……はいはい、分かりました。私が電話しますよ」
入社当時は言えなかったブーイングも、今では口に出来るようになった。渋々やってますという形だけれども、言えるのと言えないのとでは雲泥の差だ。
先輩パートナーの命令に逆らえるはずもなく、私はメンテナンス部と呼ばれる、店内の設備全般や故障を一手に担う部門に内線を掛けた。
『はい、メンテナンス部です』
「あのー、POSルームだけ店内放送の音を下げて欲しいんですけど」
『POSルームの音量はこれ以上下げられないよ。先日、八女から依頼された時もそう伝えたんだけどな』
先輩、既に迷惑掛けてるじゃないですか! どこまで人非人なんですか! 
八女先輩を睨むものの、当の本人はしれっと栄養ドリンクを煽っている。
『規則で音量0っていうのは禁じられてるからね。すまんな』
店内放送は手堅い通達手段なのだから当然だ。火災などの緊急事態にも店内放送は欠かせない。ここは大人しく引き下がるしかない。
「無理なんですね。分かりました、ありがとうござ――」
その瞬間、乱暴に受話器を引ったくられた。あぁ、もう、このヒトは……!
「ちょっと、無理ってどういうことよ」
「八女先輩っ」
「碩人(ひろと)、伊神を出しなさい。いいから早く! 
……伊神、ちょっとは融通きかせなさいよ。優しさが貴方の特権でしょ? ちょっとぐらい目を瞑ってくれたっていいじゃない」
その後1分ほどの攻防があったものの、結局折れたのは八女先輩だった。
「良いわ、もう伊神には頼まないから!」
捨て台詞を吐いた八女先輩は、さながらむくれた小さな子供のようだ。
「伊神のやつ、伊神のくせに。伊神のくせに!」と地団太を踏みならす始末。
八女先輩をここまで悔しがらせることが出来る猛者がいたなんて知らなかった。伊神さんなる人物に、俄然興味が湧いた。
気付けば問題のシャウトソングは終わっていた。
R&Bを歌うセクシーな女性ボーカルの声が八女先輩の端正な顔に似合うなと、ぼんやり思った。


***

誰より精確に仕事をこなす八女先輩は、怠惰な面も見受けられる一方で、新人教育の指導者でもある。
新人POSオペレータは全員、八女先輩に面通しされる。ユナイソンPOSの頂点に君臨するのが八女芙蓉様だからだ。
その八女先輩が、本部指示により長野県の支店へ赴いた。今日からひと月のあいだ、新人教育に携わるのだそうだ。
そのためこの店のPOSオペレータは私一人になってしまうというのに、出勤した早々、パソコントラブルに見舞われた。
数字の羅列入力が止まらないという、地味な嫌がらせ。
このままでは仕事にならないため、昨日お世話になったメンテナンス部の内線番号を押す。
「はい、メンテナンス部です」
「……。あ、えっと……あの……おはようございます、POSオペレータの潮ですが……」
「おはようございます。どうされましたか?」
言い淀んでしまったのには理由がある。電話口の相手の声を聴いてビックリしたのだ。
それだけで? と思うかもしれない。いや、待って欲しい。弁解させてもらうなら、こうだ。
POS業務は開店前の早朝から始まるので、人の気配も少なく、建物内は驚くほど静か。
そんな中、受話器の向こうから聴こえてくる声が、もっと聴いていたい、何か話して! と促したくなる、心地良くも落ち着いたものだったのだ。
単に挨拶と用件を尋ねただけのフレーズだというのに、男性の柔らかい声音はあっという間に私の心の中を浸透してゆき、身震いまでさせてしまう。
咄嗟に僧侶という言葉が頭に浮かんだ。この声で何かを言われたら逆らえなくなる。呪をかけることなんて、造作もないのでは……? 
聖なる声に呆然としていると、
「もしもし? どうしました?」
改めて問い掛けられ、私は再び現実世界へと引き戻された。
「あ、すみません。パソコンなんですけど、数字の9が延々と入力され続けて、困ってるんです」
今度は受話器を通して笑い声が聞こえてきた。またしても心臓が跳ね上がる。こんなに軽やかで好ましい笑い声を聞いのは初めてだ。
「ひょっとして、ナンバーキーの上に、何か置かれていませんか?」
促され、ナンバーキーを見る。
「あっ」
気付いたらなんてことはない。マウスのコードがナンバーキーの上にあり、その重みで『9』が延々と入力されていただけだった。
「そ、その通りでした。もう大丈夫です。ちゃんと止まりました……」
「そうですか、良かった」
「ありがとうございます。えっとでは……失礼します」
相手の声が聴けなくなってしまうことが名残惜しかった。受話器を置きながら思う。もしかして、この声の主が『伊神さん』、なのだろうか。


***

その数時間後、今度はプリンタの紙が詰まってしまった。なんとか引っ張り出せないものかと足掻いてみたものの、紙が千切れてしまった。
ハサミの先端やピンセットで摘んだりして自分なりに頑張ってはみたもののまだ紙片が残っているらしく、プリンタはエラーのまま。
(またメンテナンス部に電話するのか……)
嬉しい気持ち半分、頼りづらい気持ち半分。でも本音を言ってしまえば前者の方が勝っている。私はいそいそと受話器を持ち上げた。
既に覚えてしまった内線番号を押すと、朝の人とは違う、中年の声が返ってきた。聞き取りにくく、くぐもった声だ。
「紙が詰まってしまいましたか。では、そちらに行きます」
「宜しくお願いします」
残念がっているのが自分でも分かった。私の耳は、もう一度あの声を欲している。


***

急にPOSルームの入り口がざわめき出した。主に、女性の黄色い歓声だ。仕事の依頼でこの部屋を訪れた同期や先輩方が喜んでいる。
(え? な、なにごと……?)
「ちょっと! 伊神くんじゃない?」
「やった、役得」
女性社員たちを掻き分けて近付いてきたのは、メンテナンス部が着る制服――つなぎの作業服を着た、見慣れぬ男性社員だった。
「POSオペレーラの潮さんですか?」
「……!」
真っ先に思ったのは、『まさか』、だった。
午前中に電話をした相手。その声の主だった。私の耳が、聞き間違えなどするはずがない。
「はい、そうですけど……」
どきどきしながら肯定すると、相手はホッとしたように微笑んだ。
恐らく『間違ってなくてよかった』という安堵からの笑みだとは思う。
思うけど、人を惹き付けるのに十分過ぎる、とんでもないスマイルだった。
かかかかか、と顔が火照るのが自分でも分かった。
(嘘……でしょ? まさか私……速攻好きになってる……!? 彼に一目惚れ!? そんな……っ)
早くも相手の顔をまともに見ることが出来なくなってしまった。二度目の『まさか』な出来事だ。はっきり言って、予想外だった。
「メンテナンス部の伊神です。プリンタを直しに来ました」
「!!」
(や、やっぱり……やっぱりこの人が伊神さんだったんだ……! ええええ~~~……)
「あ、お、お願いします……!」
ぺこりとお辞儀をし、顔をあげたと同時に手首を掴まれた。私を乱暴に廊下に連れ出したのは同期の女子社員だった。
「潮、誰よ! 誰よあの人!?」
「だ、誰って、いま名乗ってたじゃない。『メンテナンス部の伊神です』って……」
「あんな格好いい人、この店に居た!?」
「や……確かに私も初めて見る人だけど……。そもそもメンテナンスの人たちとはそんなに接点がないし……」
「私もよ! だから気付かなかったのね。うわ~、知らなかった。声ヤバイよね。聞いた? すごくゾクゾクする! 
褐色の肌とさ、肩まで伸びた黒髪の緩やかウエーブっぽさが東欧系っぽくない!?
あの風貌にして、あの繋ぎの服! 俄然ワイルドだよね! 今まで知らなかった自分に腹が立つ!
っていうか、何で先輩たち教えてくれなかったんだろ? きっとわざとよ。ライバルは少ない方がいいと思って言わなかったんだわ!」
真偽のほどは分からない。でも、彼女の推理は一理あるような気がした。
だって、話題にならないとおかしいほどのハンサムだ。見るからに優しそうな人で、大人の余裕というか、落ち着き払った印象を受けた。
とはいえ、何らかのスポーツを嗜んでいるのか、モデル体型の長身でもある彼の肢体には、程よい筋肉が付いていた気もする。
文系なのか理系なのか、はたまたスポーツマンなのか。そのどれもが当て嵌まるような、不思議な魅力を持つ男性だった。
本当にあの人が、あの傍若無人な八女先輩を黙らせることの出来る、『凄い人』なんだろうか……?
八女先輩といえば――先輩は伊神さんのことを呼び捨てにしていた。ふたりは仲がいいのだろうか。だとしたら、どれくらい?
(八女先輩、美人だし……。伊神さんと並んだら、めちゃくちゃお似合いのカップルじゃない……!?)
でも、八女先輩に彼氏がいるという話は聞いたことがない。
(私が知らないだけかも。……それにしても……)
一体、伊神さんはどうやって八女先輩のボリューム調整の要求を拒んだのだろう。
声を荒げて「駄目だって言ってるだろう!」とでも言ったのか。はたまた物静かな雰囲気通り、頑なにノーと言い続けたのだろうか。
(うーん、訊きたい。知りたい)
そんなことを考えていると、「わっ、こっちに来る!」と、同期の女子がおっかなびっくりのていで耳打ちしてくれた。
お陰で、余計なもやもやを引き摺らずに済んだ。彼女に感謝だ。
「潮さん。あの様子だと、分解しないと駄目みたい。時間を頂いてもいいかな?」
「すみません、お願いします」
「いえ、それが仕事だから。じゃあちょっと待っててね」
その顔に笑みを浮かべた伊神さん。この時点で私の心は完全に奪われていた。
私が伊神さんを知ったのは、そんな日常生活のワンシーンだった。


***

POSルームの何かが故障するたびに、私は伊神さんの個人携帯を鳴らした。
呼べばいつだって来てくれたから。理由を作らなければ、彼と逢う機会など得られなかっただろうから。
積極的に『何かが故障したら私に知らせて下さい』と周囲に触れ込んだのも、伊神さんとの接触回数を増やしたいがためだった。
「透子ちゃんって言うの?」
「え!?」
緊張気味な私の隣りで、マイナスドライバー片手にネジを緩める作業をしていた伊神さんが言った。
「潮さんの下の名前。透子ちゃんって言うんだね。綺麗な名前だ」
息が止まりそうだった。その声は余りに心地いいし、男性から下の名前で呼ばれたことなど滅多になかったから。
意識している男性から言われると、それだけで顔や耳朶が火照った。
「はい。トウコです」
胸ポケットぶら下がる名札を、伊神さんに見えるよう持ち上げる。
「オレと似てる」
「似てる? えっ、伊神さん……何ていうお名前なんですか?」
伊神さんの名札は、フルネーム記載ではない。意味深な彼の言葉に興味が湧いた。
「当ててみて」
彼は、ただ笑うだけ。ふんわりと。細かい作業の時にだけ装着する、眼鏡越しに。
「トウコに似てるんですよね……? ソウゴとか? ケンゴ?」
「惜しい」
「トウゴ?」
瞬間、彼は作業を止めた。わざわざ御丁寧にドライバーを机の上に置き、視線を合わせ、にっこり笑って。
「当たり」
「……やった!」
真正面からその視線を受け止めるほどの度胸がなくて、私は照れ隠しにわざと大きくはしゃいだ。
「どんな漢字なんですか?」
「十の御と書くんだ。『伊神十御』。だから正確にはトウゴではなくてトオゴだね」
「凝ってますね。意味深な漢字……」
「オレの母親はレバノン人とインド人のハーフでね、父と結婚する際、国際結婚を理由に反対されたらしい。
母は必死に日本語と礼儀作法を覚えて、やっとの思いで祖父母の許しを得たんだって。
十御という名前は、そんな母が父や祖父母と一緒に考えて、付けてくれたんだ」
「御苦労なさったんですね」
「日本という異国に一人で嫁いできて頑張ってくれてる母には感謝している。今のオレがこうしてあるのも、母の努力のお陰だから」
そこでまた柔らかい笑みをたたえると、伊神さんはドライバーを掴んで、作業に戻る。
「オレと似た名前の透子ちゃん。手を出して」
「あ、はい」
言われた通り、素直に左手を差し出す。
「これ、プレゼント」
伊神さんの手の温もりを感じる。私の手の平には、工具用のナットが1つ。
「部品、余っちゃった」
「……伊神さん、ナットなんて貰っても女性は喜びませんよ」
「あはは」
「もっとイイのが良かったなぁ」
「そうだね、透子ちゃんにナットは失礼だったね」
伊神さんが、さぁ返してと手を差し出す。うう、伊神さんは、まるで女心というものが分かっていない。
例えナットでろうが、好きな人から貰ったものは、一度だって手離したくはないのだ。
「駄目ですー。返しません。これは私が貰ったんですから」
よく見れば、黒いその六角形の輪は、太いリングに見えなくもない。
(今日仕事帰りに手芸屋さんでチェーンを買ってこよう。ネックレスにするんだ!)
「困ったな……本気かい? 怒らせたんなら、謝るよ。ごめん……」
「じゃあ、これからも、透子ちゃんって呼んで」
別に怒ってなんかいなかったけど。我侭が言いたくなる。
伊神さんはキョトンとしていたけれど。
「……うん。分かったよ」
微笑みを浮かべ、頷いてくれた。その優しさが、切なくなるほど嬉しかった。


***

伊神さん。私と似た名前を持つ貴方。
今でも私は身に着けているの。あなたから貰った、工具用のナットを。シルバーのチェーンに繋いで、毎日、肌身離さず。
周りは経緯や理由を知らないから、「何ソレ」って呆れるけれど。私にとっては何より大切な、伊神さんと私を繋ぐ媒介。私の宝物。
――透子ちゃん。
心の中に、あなたの声が響くよ。一番心地良く呼んでくれる、あなたの声が。
今でも大好きだ。今すぐ逢いたい。伊神さんに。
穏やかな微笑み方も、丁寧な動作の1つ1つも、伊神さんを形成する上で、欠かせない特徴。
春の陽だまりのような人。それが伊神さん。優しい紳士。過去形にしたくない。
今でも大好きなあなた。



2008.04.17
2019.02.01 修正


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最終更新日  2019.02.01 18:20:24
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2018.11.22

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04話 (潮) 【転換点】―テンカンテン― 


残念ながら小売業に携わる誰しもが顧客対応を完璧にこなせるわけではない。
事務方に就けば、売場に一歩も踏み入れない日だってある。
お客様と会話をしないのは致命的だ。「習うより慣れろ」、この能力が全く育たないのだから。
お陰で、何年経ってもまともに接客できない社員だっている。――私、潮透子のことだ。
新入社員になりたての頃、あんなに叩き込まれたマニュアルも、多様化するニーズの前では通用しなくなってしまっている。
そんな、いつまでたっても若葉マークが取れない入社6年目のPOSオペレータがお客様の対応をしたらどうなるのか?
答えは1つ。ただの足手纏いにしかならない。


***

「ねぇ店員さん。この棚にあったはずのカンピョウがないのよ。どこに行っちゃったの?」
カンピョウ。ユウガオの果実をひも状にして乾燥させた食品。主要な生産地は栃木県。国内生産の8割を占めている。
(記憶では7番通路にあったはずだけど……。ええ~? おかしいな、どこだっけ~……?)
お客様の仰る通り、干瓢があった場所にはいま、真っ赤な鷹の爪の瓶が置かれている。
「少々お待ち下さいね」
不安げな顔で「えぇ」と頷くお客様のためにも、早々に干瓢を見付けてさしあげなければ。
そうは思っても、どの棚を見ても目当ての商品は見当たらない。
じれったくなったのか、それまでハラハラと見守っていたお客様は、「もういいわよ!」と腹を立て始めた。
(しまった、またやっちゃった……!)
この展開。私が最も恐れていたことだった。
「も、申し訳ありません。ただいま分かる者に訊いてまいりますので、もうしばらくお待ちを――」
「どれだけ待たせるのよ! もういいから」
「お客様」
背後から聴こえてきた涼やかな男の声に、お客様と私がそちらを見る。
(……!! うわ~、やだやだ! やっぱりこいつか!)
「カンピョウでしたら8番通路、あちらの棚に移動しました。お待たせして大変申し訳ございません」
よりによって会いたくない社員がそこにいた。入社3年目。若くしてドライ食品売り場のホープである不破犬君だ。
犬君は源氏物語・若紫の段、『雀の子を犬君が逃がしつる』から付けられた名であり、『いぬき』と読むのだそうだ。
スラリとした肢体、清潔感を漂わせ、艶やかさを放つ黒髪、眼鏡フレームから覗くシャープな瞳。手首には高級時計が光っている。
眉の手入れも悔しいくらい上手で、女の私から見てもその整ったパーツが恨めしい。
「あら、ありがとう。助かったわ」
お客様は彼の容貌と接客態度にすっかりご心酔のようだ。私など歯牙にもかけていない様子。こちらとしては願ってもいないけれど。
(助かった……。でも、不破犬君。こいつとはあまり接触したくないのよね。隙を見つけてさっさと退散すべしだわ)
助けてもらったことに対しては、心の底から感謝している。でもそれはそれ、これはこれだ。
左足を一歩だけ下げてみる。静かにしたつもりだったのに、不破犬君はすかさず私に鋭い視線を投げかけてきた。
(うぐ、バレてる)
仕方がないのでその場でスタンバイすることにする。役に立たない私がここに留まっていたってどうしようもないのに、と思いながら。
一方不破犬君はというと、再び極上の微笑みを作り、お客様の方に向き直っていた。
「お客様、他に必要なものはございますか?」
「ピクルスの瓶はどこかしら。案内して下さる?」
「はい、ピクルスですね。こちらです」
最上のおもてなし係、不破犬君が案内役を買って出てくれたお陰で、私はやっとお役御免だ。
やったー! と心の中で快哉を叫んでいると、すれ違いざま、彼は念を押してきた。
「潮さん、POSルームで待っててくださいね」
勿論これも、私にだけ聞こえる声で。


***

案内を終えた不破犬君は言葉通り私の詰め所であるPOSルームへとやって来た。
パスワード制のドアも、この人物の前では意味をなさない。彼はこの部屋への出入りを許されているからだ。
そんな事実を恨めしく思いながら、私はいま、彼の説教をこんこんと受け止めていたのだった。
「潮さん。乾物と調味料の棚替についての本部通達、まだ読んでいないんですか?」
「誰も見せてくれないし、そんな紙があったこと自体、今初めて知ったわよ」
「いくらPOS担当だからって、全く関係ないわけじゃないんですよ。少しは他部門のことも気に掛けて下さい。
お客様は制服を着ている全ての従業員が店内のあらゆることに精通しているとお思いなんですから」
事務所付けのPOSオペレータ、それが私の職務だ。
POSとは販売時点情報管理のこと。主な仕事は店で取り扱う全ての商品の登録、値段の入力作業。
ひたすらPCのディスプレイを睨み、テンキーを叩き続けなければならない私に、売り場へ行く機会などそうそうないのが現状だ。
「売り場に行かない日が多いから、売り場の棚を全部覚えるなんてムリよ」
「せめて買い物をして覚えたる努力をしてみては? 潮さん、僕より先に岐阜店に配属されたんでしょう?」
後輩の言葉はもっともで、ここまで言われてしまうと先輩としての立場がない。
「……分かったわよ、覚えるわよ」
居心地が悪かった私は不破犬君から離れ、売り場へ赴く。
広告に掲載された商品の値段を入力するため珈琲缶のJANコードを調べに行く、いい機会だった。
売り場へと通じる最も大事な門、バックヤードの扉を開ける。
笑みをたたえ、3歩進んだ位置で斜め45度のお辞儀。すれ違う客にいらっしゃいませと声を掛けながら紅茶珈琲コーナーへ向かう。
辿り着いた先には棚を埋め尽くす数多の商品たち。その景色は圧巻だ。並べられた缶のラベルを、私の目が滑る。
「レギュラーコーヒーは、と」
棚の高い位置から順に調べていると、背後に人の気配を感じた。その瞬間、身体に何かが触れた。
それが手だと理解するのに時間がかかった。だって、触られた場所が場所だったから。
手はあろうことか私の下半身、つまりお尻を触っていた。
「!?」
「ねーちゃん、良いケツしてんな」
ネーチャンイイケツシテンナ? 今この人そう言った?
振り返れば、不精ヒゲで見るからにガラの悪い男がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて私を見ていた。
「い、ら、っしゃいませおきゃくさま」
「んー? いらっしゃったぜー」
辺りを見回してみたものの、平日の朝の紅茶・珈琲コーナーに人などいるはずもない。
「あの、お客様。何かお探しでしょうか」
「何も探してなんかいねーよ」
「え、でもあの……お客様、失礼ですけどお客様の手が……」
「手が、なんだ?」
「あの……困ります、本当に……。手を……」
放して下さい。
そう言いたかったのに羞恥心と恐怖が入り混じって頭が真っ白になってしまい、口ごもってしまった。
顔も耳も真っ赤だろう。お願い助けて。でも嫌だ、こんな姿、誰にも見られたくない!
こんな時あの人が居てくれたら! こんな時にこそ居て欲しい、あの人。
「い、……さん……っ」
「ぁあ?」
男は、思わず口から洩れた私の言葉に反応し、その意味を考えていたみたいだった。
「ははぁん。なるほど、ソイツがあんたのナイトの名前か」
「!」
「残念だったなぁ、俺みたいなのに目ェ付けられてよ?」
耳元に男の吐息が掛かる。呼気は生温かく、嫌悪感を抱かずにはいられない。
「……ゃぁ……っ」
「呼んでやれよ。ソイツの名前呼んでやれ。きっと息せき切ってやって来るぜ、あんたのナイトとやらが」
本当に? 私が名前を呼べば、彼は来てくれるの?
だったら来て。今すぐここへ来て。私を助けて。あの時のように。私の大切な――。
「い……み……」
「お客様」
きっとデジャヴュに違いない。
背後から掛けられた声はあの時と全く同じ。柔らかいのに自信に満ちた声だった。
笑みを浮かべた入社3年目、期待のホープ。『いぬくん』と書いて『いぬき』と読む――不破犬君だ。
「お客様、そちらをお気に召されましたか」
彼は微笑みながら大きな歩幅で近付いて来る。
「いやはやお目が高い。しかし申し訳ありませんが彼女は商品ではありません。どうかその手をお放し頂けると幸いです」
その対応に、痴漢はあろうことか手に力を込めてくる。「痛っ……」。お尻を鷲掴みにされ、その痛みに私は顔をしかめた。
「俺はこれが気に入ったんだがなぁ~」
「や、やだ……ぁ、んっ!」
お客様の神経を逆撫でしないでよ不破犬君!
行為がエスカレートしているような気さえする。スカートの中に滑り込む男の手が、うねる蛇を彷彿させた。
カシャ。
その、この場にふさわしくない音に、私と痴漢が気を取られる。見れば、不破犬君がスマホを構え、写真を撮っている所だった。
「現行犯です」
もう一度、パシャ。さらにパシャ。パシャ。
「このガキ……っ!」
「ありがとうございます、手を放して下さったんですね」
気付けば痴漢から解放されていた。私は大きく安堵したものの、痴漢男の拳の行方に驚き目を瞠った。
握りしめられた大きな拳は、不破犬君の頭めがけ、今にも振りおろされようとしている。
「ダ、ダメっ……!」
「――すみません。手加減できそうにないので御容赦を」
言うなり、痴漢の腕を掴み、不破犬君はそのまま背負い投げを決める。
受け身を取れなかった痴漢は、まともに床に叩きつけられたのか、暫くは息をするのも辛い様子だった。
何事かと周囲に人が集まり始める。私も、そして不破犬君も、この時ばかりは疲労の溜息しか出てこない。


***

かくして痴漢男は警察所へと連行されて行った。行為が収められたスマホの画像データも警察に譲渡済みだ。
一方、事情説明のため上司に呼び出された私たちは、お灸を据えられたあと、満身創痍のていでPOSルームへと戻ったのだった。
「私が売り場に行くと、ろくなことがないような……」
「そうですね」
思わず漏れた私のボヤキに、ミネラルウォーターを口に含んだ不破犬君が素っ気なく賛同した。
「……」
この男には感謝している。けれども口に出して直接お礼が言えるかと聞かれれば、『嫌だ』というのが本音だった。
なぜか私は不破犬君に対して素直になれない。出会った日からずっと。
(でも、うーん。助けて貰ったしなぁ。それに、不破犬君にとっては怒られ損だったわけだし……)
良心の呵責に耐えかねて、珍しくも自分から声を掛けることにした。
「せっかく助けてくれたのに、青柳チーフから『もっと上手に立ち回れなかったのか』って叱られちゃったね。ごめん」
「……別に」と、不破犬君はまだ素っ気ない。……謝ったのに。なに、その態度。
「……もしかして、怒ってる?」
無言の視線は明らかに私をバッシングしていた。沈黙に耐え切れなくなりそうなほど長い間を置くと、不破犬君はようやく口を開いた。
「何でそんなにスカート丈が短いんですか? 明らかに膝上じゃないですか。狙って下さいって言ってるようなものですよ」
理解出来ないと彼は言う。でもそれは私の所為じゃない。濡れ衣だ。
「短くしてない! 支給された時から、この長さだったもの」
私の弁明に納得がいかないのか、彼はまだ何か言いたそうだった。それも促す。
「まだ何かあるの?」
「……嫌です」
「何が?」
「僕が、嫌なんです。潮さんが好きだから。だから、これは単なる僕の我侭です」
「なっ……」
誰が誰を好きって!? 尋ね返すのも怖い。
「僕だってまだ潮さんの身体に触れていないのに。あの痴漢マジ最悪」
「まだとか言わないでよ! 永遠に来ないわよ、そんな日!」
「時間の問題です」
「助平! 変態!」
「あー五月蠅い。さっきの潮さん、凄く色っぽかったのになー。何で助けちゃったんだろ」
「見てる余裕があったなら、早く助けてよ!」
「やー、だって……」
「怖かったんだから」
今になって震えだす肢体。思わずその場にへたり込みそうになる足。
「あんたは知らないのよ、女の非力さを! 本当に襲われるかと思っ……」 
やばい……。やばい……。どうしよう、涙が出そうになる。
「潮さん、すみませんでした……! お願いです、泣かないで下さい」
不破犬君の右手が私の肩に触れる。左手は頭を。私を気遣う優しい撫で方で、決して不快ではなかった。
不思議と気持ちが落ち着いてきて、だからその手を振り払うようなこともしなかった。
(助けが遅いなんて言うんじゃなかった。私を助けてくれたじゃない)
「助けてくれてありがとう」
泣きそうな顔を見られないように背け、私は礼を述べた。
お礼を言われるとは思わなかったのだろう。どうやらまじまじと私を見つめているようで、私はさらに困惑した。
「……いえ。どう致しまして!」
弾む爽快な声に、今度は私が目を丸くして彼を見つめる番だった。満面の笑み。そして微かに赤みが差した頬――。
……あぁ、苦手だ。不破犬君に振り回される。こんな生活は疲れるから御免だ。
たじたじとなった私は小さく溜息をつき、さてこの部屋から一体どうやって彼を追い出そうかと使い慣れない頭をフル回転させたのだった。


改2018.11.22


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最終更新日  2018.11.22 20:03:00
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2018.11.08

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03話 (犬) 【一年目】―イチネンメ―




それは僕、不破犬君が2ヶ月に及ぶ新人研修を終え、岐阜店に配属されたばかりの2日目、昼休憩中の出来事だった。
本来ならば、同じ部署同士の従業員は時間をずらして休憩を取ることになっている。
しかし、まだ右も左も分からない新入社員をひとりにするなど無謀というもの。
仕事に慣れるまでは、昼休憩や休日などに関しては、直属の上司と同じサイクルで動くことが決まった。
その日も当然、上司である青柳(あおやぎ)さんと一緒に、13時に食堂へ向かった。
「お前もドライ売場の社員なんだから、ゆくゆくはチーフ、果ては食品部門全てを担う食品副店長を目指すことになる。よほどのことがない限りな。
今はドライ売場だけ担当しているが、パンもデイリーも精肉も鮮魚も食品部に含まれるからには、全てに目を光らせなければならない。
今の内から視野を広げておくことが大切だ」
少し気の早い青柳さんのレクチャーを受けながら、僕たちは食券を食堂のおばちゃんに渡す。
「あらぁ、青柳くん、今日も良い男っぷりねぇ。おばちゃんの目の保養になるわぁ。ほらこれ、にしん。1尾サービスしちゃう!」
「有り難う御座います、平内さん。いいか、不破。上は『売り上げを作れ』と言うが、本当に大事なのは粗利だ。粗利あっての黒字だからな」
「ですね。経営学で習いました」
「あらあら、前途有望な子を連れているのね。キミには、つみれを2個サービスしちゃう」
「え? あ、ありがとうございます」
勝手に増えていくトレーの中身を携え、僕と青柳さんは適当に空いている席に座った。
「……って、カレーににしん? ラーメンにつみれ?」
「よくあることだ。気にするな」
よくあることだって? これが日常茶飯事なのだろうか。どこかずれている青柳さんと食堂のおばちゃんである。
青柳さんは、にしんを福神漬と一緒に食べながら、尚も講義を開いてくれる。昼休憩だというのに、わざわざ熱心に。
恐らく早く僕に巣立って欲しい一心に違いない。その期待に応えなければと、僕はラーメン丼の横にメモ帳とペンを置いた。
青柳さんは既にドライのチーフ職に就いており、有能な社員だと周りは言っていた。彼から得るものはきっと多いだろう。
「……辛さが足りないな」
ルーを舐めた青柳さんが、しかめ面で呟く。徐にテーブルに置かれた七味を満遍なく振りかける。明らかにかけ過ぎだ。
「……よし」
メモ帳には書かなかった。だがインパクトが強過ぎて、勉強より真っ先に頭に入ってしまった。“青柳さん、味覚音痴、或いは辛党”。
青柳さんからレクチャーを受けながらラーメンを食べ終わった頃、食堂の中央から騒がしい声が聞こえて来た。
どうやら複数の男が言い合っているらしい。その喧しさに、ふと顔をあげた。
「おい、不破。ちゃんと聞いてるのか?」
青柳さんはそんな僕をたしなめた。この騒ぎに気付いていないのだろうか。
「いえ、ちょっと騒がしくて、青柳さんの声が聞き取りにくかったので」
僕の言葉でやっと青柳さんは気付いたようだ。食堂の騒がしさに。
僕たちは同じ場所を見ていた。即ち、威勢のいい啖呵を切る、江戸っ子みたいな男性社員がいる方向を。
「ふざけんな! 俺が許すわけねーだろ!?」
「別にお前の彼女じゃないだろ! 何でいちいちお前の許可がいる!?」
白昼堂々、痴話喧嘩でもしているのだろうか。だとしても、こんな所で泥沼劇を繰り広げるなんて、どういう神経をしているんだ。
「誰かと思えば、またあいつか……」
青柳さんは、やれやれと眉間に皺を寄せると、問題のテーブルへと近付いて行った。
「杣庄! またお前か。今度は何をやってるんだ」
熱が入っているのか、杣庄と呼ばれた男は片足を椅子の上に置いていた。青柳さんはその足をぺし、と叩く。
「青柳さん……。いや、こいつがさー……」
杣庄と呼ばれた男は、言い争っていた相手に親指を向けて文句を垂れた。
「透子を合コンの頭数にしたいなんて言うから」
「合コンぐらい許してやれよ」
呆れた口調で青柳さんは言った。
「しかも頭数なんだろ? ……んー……。頭数という言い方もどうかと思うが」
今度は『合コンに誘いたい』と言っていた男の方に、青柳さんは呆れた視線を向ける。
「なんにせよ、合コンなんて言語道断だ。俺が許さねぇ。つーかそんなに合コンの人数が足りないなら、俺の妹連れてきてやるよ!」
「お前の妹になんざ来て貰わなくてもいいっつーの! どうせお前に似て、がさつで口が悪いんだろ!?」
「んだとこのやろー言わせておけば……っ」
「やめておけ、杣庄。……それよりお前、まだあんな約束を守ってるのか?」
「守りますよ! 当然でしょ!? ちっ、これじゃあ埒があかねーや」
杣庄なにがしとやらは、やにわに靴を脱ぐと椅子の上に立ち上がる。両手を口元に宛がい、メガホンよろしく大声で宣言した。
「いいか! 潮透子に手ェ出すなよ!? 特に今年の新入社員! まだ言ってなかったから、今言っておくぜ!」
入社2年目以上の社員はハイハイと空返事をし、中には失笑を漏らす者さえいた。
潮透子? そもそも誰なんだ、そのひとは。
青柳さんに尋ねると、「この店にいる女性社員だ」と教えてくれた。
「どこの部署の人なんですか?」
「POSオペレータだ」
それなら知っている。昨日挨拶回りをして会ったばかりだ。
心の中で、あんな女性のどこがいいんだか、と杣庄さんの趣味の悪さを笑った。
印象としては、つっけんどんな女性だった。そんな彼女が恋愛対象だって? 問題外だ。論外だ。
「あの杣庄さんというひとは、よほどその潮さんという方が好きなんですね」
「……あぁ、凄く凄く大切にしているようだ。さ、行くぞ」
青柳さんは興味がないのか席に戻ると、空になったトレーを持って返却場に向かった。
ただ、その途中で一度だけ振り返り、「不破」と言う。
「何ですか?」
「杣庄の肩を持つわけではないが、俺からも上司命令だ。潮透子、彼女だけは好きになるなよ。……あぁ、あと、八女芙蓉もな」
「……え?」
そんな上司命令があっていいのか? そもそも、どうしてそんな牽制を? それも、僕に?
けれどもここで釘を刺すからには、ユナイソン岐阜店のなかに『暗黙の了解』というやつが存在しているのだろう。
(潮透子の彼氏が杣庄さんで、八女芙蓉なる女性の彼氏が青柳さんってことなのかな)
そう考えるのが一番スマートだろう。だとしても引っ掛かるものがあった。
(待てよ? 確か杣庄さん、『別にお前の彼女じゃないだろ』って突っ込まれてなかったっけ? 一方的な片想いなのか?)
何にせよ、どちらの女性にもなびかない自信があったので、「了解です」とだけ答えておいた。
入社早々、面倒ごとにだけは巻き込まれたくない。絶対に。


***

午後の業務が始まった。僕と青柳さんは、従業員入口に近い≪検収≫と書かれた部屋にいた。これから伝票に関して学ぶのだ。
「伝票は、」
と発し始めた青柳さんのスマホが鳴り出す。僕に断りを入れると、青柳さんは相手と短いやり取りをし、再び謝罪を口にした。
「悪いな、不破。名古屋からのヘルプで、明日のチラシに掲載するマフィンの発注を落としたんだそうだ。
幸いウチに在庫があるから、今から名古屋店まで持って行く」
「発注を落としておいて、取りに来ない、ですって? それ、おかしくないですか?」
「今日は人手が足りないんだそうだ。困った時はお互い様。だろ?」
僕が押し黙っていると、青柳さんは真剣な顔でゆっくりと、言い聞かせるようにこう言った。
「不破、いいか? 人は多かれ少なかれ、誰だってミスをする。本当だ。ミスをしない人間なんて、絶対にいない。絶、対、だ。
人間は過ちを犯す。その間違いを指摘し、叱る人間も必要だが、軌道修正する人間もまた必要なんだ。つまり仲間だ。分かるな?
俺たちはユナイソンという大きなチームであり、仲間だ。だから助ける。俺は助ける力を持っているから、困った人を助けることが出来る」
「……助ける力? つまり、この場合は……『マフィンと言う名の在庫』?」
「そうだ」
「……青柳さんの説明は、すっごく分かりにくいです」
「2日目で上司否定とは、お前は器がでかいな。俺なんて1週間かかったぞ」
「普通、上司は否定しちゃいけないものだと思うんですが」
「どの世界にも、無能な先人はいるものだ」
2日目にして部下から指導に難アリのレッテルを貼られたと思い込んでいる青柳さんはしかし、大して気分を害した様子もなく伝票の作成に取り掛かる。
椅子にも座らず中腰のまま作業する青柳さんの背中に、僕は声をかけた。
「でも、青柳さんの心って、めちゃくちゃ温かいから、すっごく尊敬します」
「ん? 上司認定? 俺もまだまだ捨てたもんじゃないな」
満更でもないようで、青柳さんはにやりと笑う。
「言ってて下さい。ところでその間、僕はどうすればいいですか? 一緒に名古屋行きですか?」
「いや、俺ひとりで十分だ。残っててくれ。だがバイト経験者とはいえ新米社員だからなぁ。
売り場に出て面倒を起こされても困るし……。そうだな、POSルームに行って、売価変更作業を教えてもらってこい」
「それ、僕に必要なスキルですか? 何のために専門のオペレータがいるんです?」
「何でも一通り出来ないと、後々困るのはお前だぞ。
いつ、どんな店に飛ばされるか分からん。POSオペレータがいない店だってあるんだからな」
「そうなんですね。分かりました。POSルームに向かいます」
「……あぁ、不破。行くのはいいが、俺がさっき言ったこと。あれだけは忘れるなよ」
青柳さんは至極真面目な顔で、厳かに念を押すのだった。


***

1階の従業員通路をひたすら歩き続けると、やがて左手に≪POS ROOM≫なる部屋が見えてきた。
この部屋に入るにはドアに付随しているテンキーパネルにパスワードを入力しなければならないとのことだった。
青柳チーフに教えてもらった数字、0806を入力するとドアが開き、同時に中から騒がしい声が耳に入ってきた。
「香椎! 根も葉もない噂ばっかり立てないでったら! 名誉棄損で訴えるわよ?」
「あらん。芙蓉ってば何を怒ってるの? 香椎の言うことに間違いなんてないわ」
「いいこと? 私が小学生低学年男子相手に色目を使ったなんてデマ、これ以上吹聴しないでちょうだい。 
迷子が無事に母親と合流できたから、よかったわねという意味でウインクしただけじゃない」
「じゃああんなにも色っぽいウインクしないでくれる? 芙蓉」
「ぷっ」
「そこ! 潮! 笑うな!」
「すみませ~ん」
空気を読む。取り敢えず、ここは退散すべきシーンだった。
踵を返した瞬間、「あらぁ?」という調子外れの声さえなければ、僕の人生は以後も安泰だったに違いない。
だが、出会ってしまった。と言うより、見付かってしまった。
「新入社員の不破犬君クンね? どこ行くの?」
「うそ。もう新入社員の名前覚えたの? さすが、歩く辞書の香椎ね」
「いぬき? 変わった名前ねぇ。わんちゃんか。おいで~、わんちゃん」
帰りたい。
一体何なんだ、ここは。女性だけで井戸端会議でもしているのか。
「……不破犬君です。青柳さんからPOSの指導を請うよう言われました」
「1時間でPOSの何を教えろって言うのかしら。青柳の無茶振りはいまだに健在なのね。
ま、しょうがない。青柳に免じて仕事しますか。ほら、香椎、黛、馬渕も。さっさと出て行って。昼休憩は終わりよ」
どこの売り場担当なのだろうか? 呼ばれた3人は部屋を出て行くと、右に左にと散って行った。
「そして私は今から事務所で作業、っと。そんなわけで潮! わんちゃんはアンタに任せるわ」
「ちょ……八女先輩!?」
それまでどんなに騒がしくても机に向かってPC作業をしていた潮さんが、慌てて八女さんを振り返る。
「ゲラ刷りからチラシのアイテムを書き出してくる作業と、新人クンへのレクチャー。どっちが良い?」
そう問われた潮さんの顔はどちちも嫌だと語っていた。それでも後者を選んだようで、八女さんの机から椅子を引き出すと、僕に座るよう促す。
「じゃあ、後はよろしくねー」
香椎という人が指摘した八女さんの悩殺ウインクは、確かに魅力的ではあった。


***

「人に教えるのは初めてなので、分かりにくいかも知れませんが」
潮さんはそう前置きすると、椅子を若干左に寄せた。もっと近くに(つまり、右だ)寄れと言うことらしい。
1つの画面を2人で見ながら、勉強会は始まった。
「これはパソコンです」
「……」
「あっ、じゃなくて、値段を変更する為のソフトを搭載したパソコン、です」
これまた、えらい端折りようだ。僕は前途多難を予感した。
「岐阜店には今、このパソコンが3台あります。八女先輩のが親機。子機はこれと、あっちの1台。
この機械で、1階から3階全ての直営フロアの売価を変更する事が出来ます。というか、それが仕事です」
「……まぁ、そうでしょうね」
「例えば、この万歩計。先ほどスポーツ売り場の方から、この商品の登録を頼まれました。
商品の新規登録の場合、トップ画面からまず≪売価変更≫をクリックします。次に≪単品登録≫をクリック。
バーコードをこのハンドスキャナで読み取って、次に商品の名前を入力。ここはレシートに明記される箇所なので気を付けて下さい。
次に群番。スポーツ売り場は223群。品種は24。値段は2,280円」
とにかく無愛想な女性だった。ただひたすら淡々と話し、相手の理解度を無視して自分のペースで先に進む。やりにくい事この上ない。
僕が開始15分でリタイアしたことを知らない潮さんは、尚も説明し続ける。僕は潮さんの横顔を観察することにした。要は、暇だったのだ。
「このM&Mは厄介で、」
潮さんの髪は栗色で、緩やかに波打っていて(毎日コテであてているのだろうか?)、それを片結びにして纏めている。
左手首にはシルバーの時計と、同じくシルバーの、細いブレスレット。
水色の半袖カッターシャツの上には指定の黒ベストを羽織り、胸は……C? いや、これは……。
「……不破さん?」
「Bかな……」
「Bではなく、Eです」
「E? そんな馬鹿な!」
話が噛み合わないと思ったのだろう。潮さんは僕を見て(正確には、僕の視線の先を見て)、怒りに震える。
「不破……っ、さんっ……!」
「あ……」
「あ、じゃない! どこを見ているのかと思えば……!」
「ほんっとーにごめんなさい」
潮さんの鋭利な視線は、暫く僕を突き刺していた。が、1つ大きな溜息を吐くと、再びレクチャーに戻った。
「……つまり、ここはEです! 忘れずに終了日も入力するように」
今から聞けと言われても、何が何だかさっぱり分からない。
残り時間を確かめる為に、自分の腕時計に視線を這わす。後20分。
すると、その視界に潮さんの足が入って来た。足を組んでいるのでスカートから太股が露わになっている。素敵にエロい。素晴らしい眺めだ。
「一律の場合、2つの入力箇所があるので先に日付を打ちます。その次に値段の方を」
「潮さんって、お幾つですか?」
「入れてから、――仕事に関係ない質問はしないで下さい」
24~26ぐらいだろうか。
潮さんは無意識に足を組み換えた。ワザと? ……いや、絶対無意識だ。というか、シチュエーション的にそう信じたい。
「あっ」
「出力方法は……今度は何ですか?」
「いえ、その部分をもっと詳しく……」
と上手く話をはぐらかしたが、僕が見付けたのは潮さんの脹脛部分のストッキングの伝線である。
小さな切れ込みから、徐々に徐々に上へと綻んでゆく。
(ちょ……ヤバイな、これは……。僕の理性的に)
思わず目を逸らし……「伝線してますよ」と伝えるべきか逡巡し……その言葉を飲み込む為に口元を手で覆い……でも顔が赤らむのは抑えられなくて……。
はぁー、と思わず溜息をついていた。
「……何?」
「何でもありません。POSって難しいなと思いまして」
迷わず即答。この場は取り敢えず、エロスを拝ませて頂くことにする。
潮さんには申し訳ないが、こうして60分のレッスンは終わったのだった。


***

POSルームの電話が鳴り、その電話を取った潮さんは、受話器に戻しながら僕に告げた。
「青柳さんが帰ってみえたそうよ。キリがついたら、ドライのバックヤードまで来るように、とのこと」
「1時間、ありがとうございました。でも実は、開始15分以降は全く聞いていなかったので、近い内にまた教えて下さい」
その言葉を聞いた潮さんが、烈火の如く怒り出したのは言うまでもない。
「4分の1しか聞いてないじゃない! あとの45分間、何を聞いてたの!?」
「潮さんを見てました」
「は!?」
怪訝な顔で、気持ち悪そうに僕を見る潮さんである。
「伝線したストッキングがやらしかったから、ずっと魅入ってました」
「でん……?」
潮さんの目は、僕の視線の先を辿る。
「あっ……あぁーーーーーッ???」
左足の脹脛を見る為に「く」の字に曲げた、
「その格好もエロい」
「エロい、じゃないわよ馬鹿ーっ! な、何!? ずっと知ってたの? ちょ……やっ……嘘でしょー!?」
「御馳走様でした」
「サイッテー! 二度と顔見せないで!」
「それは仕事上ムリですよ」
「どっ、どうしよう、私、ストッキングの替えなんて持ってないわ」
「僕が買って来ますよ。何色です? サンドベージュ? ライトベージュ? チョコレートモカ?」
「あああああんたはストッキングフェチか!? おね……お願いだから、余計なことしないで!」
からかい過ぎたかもしれない。既に潮さんは半べそ状態だった。
その時、ガチャリとドアが開いた。入って来た男に見覚えがあった。昼に大演説をかました男である。
「そ……そましょぉおーーーーー!」
潮さんがその場に蹲り、涙声で男の名を呼ぶ。
杣庄。そうだ、そんな名前だった。あ、でも確かこの男って――。
「……透子を泣かせたのはお前か、糞餓鬼1年。あァ?」
黙っていれば、正統派アイドルとして通用するであろう杣庄さんの端整な顔が、迫力を伴ったお陰で般若に早変わりだ。
あぁ、2日目にして早くも面倒臭いことになった……。まぁ、自業自得だが。
「イエローカード1枚だぞ。3枚目にはどうなるか……分かってンな?」
「あなたが潮さんの彼氏?」
その質問に、相手は絶句した。……何だ? 変なことでも聞いたか?
「恋人? ですよね? だから怒ってるんでしょう?」
杣庄さんと潮さんを交互に見ると、2人とも困った顔をしていた。が、
「~~~あぁ、そうだ。だから、透子には手を出すな!」
まるで、『そう答えるのが一番手っ取り早いから』とばかりに杣庄さんは言い切る。
腑に落ちないものを感じたものの、ここは引いた方がいいという直感に従うことにした。
情報はその内、勝手に集まってくるだろう。それに、いま敵を作るのは利口とは言えない。
「分かりました。あと潮さん、すみませんでした。改めてまた、お詫びに来ますので」
「詫びなんざいい。それより二度と来ンな」
杣庄さんのアッカンベーを無視し、僕は憂い顔の潮さんを見納めると、青柳さんが待つバックヤードへと歩を歩めた。
この岐阜店、……色々とおかしいぞ?


改2018.11.07

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最終更新日  2018.11.08 21:34:52
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02話 (犬) 【入社式】―ニュウシャシキ―



入社式における式典は社長の挨拶と祝辞に始まり、入社辞令授与、新入社員による答辞と、恙無く進行していた。
とはいえ、そろそろ気だるいムードが訪れる、いわゆる魔の中弛み時間に差し掛かり、場内は確実に緊張感に欠ける空気になりつつあった。
私語がそこかしこで囁かれ、ちょっとこれは雰囲気的にマズいんじゃないか? と思い始めた頃。
舞台上手側の袖幕から、綺麗に背広を着こなしたひとりの男性社員が現れ、中央の演台へと歩を進めて行った。
ひとを惹き付ける能力というものが存在するのであれば、まさにこの男性に備わっていると断言してしまってもいい。
不思議なことに、ざわつき始めていた私語はぴたりと止み、しんと静まり返ってしまったのだから。
そして皆の視線はといえば、壇上に上がったその男性にだけ、向けられている。
(まだ何も喋ってないのに……。どうしてこんなにも惹き付けられるんだ? 何者なんだ、このひとは?)
好奇心を掻き立てられる。だが、それが何故なのか? までは分からない。判断材料がないからだ。
きっと皆も、理由が分からないまま熱視線を注いでいるのだろう。
容姿は……確かにいい。スタイルも……抜群だ。だが、それだけでここまで観衆の心を一瞬で奪えるものなのだろうか……。
或る者は呆け、また或る者は固唾を飲む。そんな中、演台に着いた男性は、その第一声をあげた。
「新入社員の皆さん。本日は入社、誠におめでとうございます。皆さんの入社を、心より歓迎いたします。
社員を代表いたしまして、ユナイソン名古屋港(ナゴヤコウ)店、柾直近が歓迎の挨拶をさせて頂きます」
『名古屋港店?』『それって新しく出来た大型店舗じゃん!』『え、じゃああのひと、超優秀社員ってこと?』『っぽいね』
情報を交換し合う小声でのやり取りが、そこかしこで始まる。それでも視線だけは壇上の柾直近さんに釘付けの状態だ。
原稿などない。アドリブで話し続けている柾さんは、絶妙なタイミングで新入社員たち1人1人の顔を見つめ返している。
粛々とした舞台。言い淀まぬスピーチの中、時折挟み込まれる手の仕草は流れる水のよう。全てが流麗だった。
校長の挨拶然り、社長の挨拶然り。普通『スピーチ』と言えば、退屈極まりない工程ではなかったか? 
少なくとも、自分にとってはそういうものだった。
それなのに、このスピーチだけは。柾さんだけは違った。
内容は重複したりせず、指示代名詞である『こそあど言葉』が一切ない。
だからとても聴き易く、何よりずっと聞いていたい声音なものだから、心地良くて仕方ない。
恐らくはここにいる新入社員たちのほとんどが柾さんを尊敬の対象と見なしたに違いない。そんな僕は、とっくに柾信者である。
柾さんは、しごくナチュラルに自身の腕時計に視線を落とした。
何故時間の確認を? と思ったが、そうだ、スピーチには終わりがある。延々とは続かない代物だ。
僕も膝の上に置いていた左手に視線だけを這わし、腕時計を見た。
(なんてこった! 既に5分を切ってるじゃないか!)
もっと聴いていたいからこそタイムリミットの存在が惜しく思え、また残念でもあった。
残りあと2分。それでも唐突に終わる様子はなく、まとめに入るその過程すら鮮やかなものだった。
終わり10秒前。9、8、7、6、5秒前、4、3、2、1、
「以上です。社員代表、柾直近」
ジャスト10分。柾さんはマイクの電源をオフにする。
数拍の間があり、やがて割れんばかりの惜しみない拍手喝采が、暫く場内を支配し続けていた。
「すげぇな……」
隣りの椅子に座っていた同期が感嘆を呟き、いまだに賛辞を浴び続けている目映い照明下の柾さんを食い入るように見つめていた。
確か、平塚といったか。
僕の視線を感じ取ったのか、平塚がこちらを向く。色素の薄いブラウンの瞳が珍しく、思わず魅入ってしまう。
「えっと、おたくは? 不破くんね。不破くんはどこの店に配属されたんだ?」
僕のネームプレートを見て苗字を確認し、一切の人見知りをしない平塚は右手を差し出し、握手を求めてきた。
まさか声を掛けられるとは思わなかった。社会人としての第一歩。僕も握り返す。
「不破でいい。岐阜店だ」
「お! 近いじゃん。俺、名古屋店なんだ。売り場は?」
「ドライ」
「一緒じゃねーか! へへっ、これからよろしくな! 不破」
社会人にあるまじき、単語のみの返答だったにも関わらず、平塚は気にしていないようだった。
必要以上に話さなかったのは早くこの場を退散して岐路につきたかったからなのだが、平塚はお構いなしに話しかけてくる。
「あの柾さんって人、凄かったよなぁ。いつかあのひとの下で働いてみたいな!」
それは僕も同感だった。
「そうだな」
賛同の意を伝えたところで司会者から解散の号令が出た。どうやら式はここで終わりのようで、各々自由行動となった。
帰る者もいれば、早速同期の仲を深めようとしている者もいる。
平塚は既にフレンドリーなスキルを発揮し、他の同期に声を掛け、談笑していた。
出口に向かおうと歩を進めたところで、タイムリーなことに柾さんを発見した。
ここまで背広が似合い、仕事も完璧にこなすビジネスマンがユナイソンにいたなんて。
気付けば「あの!」と柾さんを呼び止めていた。
「なんだい?」
心臓が高鳴る。一瞬で雰囲気に呑み込まれてしまった。圧倒的な存在を前に、僕は絞り出すように言うのがやっとだった。
「えっと……、その……柾さんのような社員に、僕もなりたいです……!」
彼は僅かに目を見開いた。そして、ふっと笑う。
「やめといた方がいい。ろくな社員にならないから。……だが光栄だ。頑張れよ」
「はい!」
最後に僕の肩を1回叩いてから、柾さんは会場から姿を消した。
「くぁ~、かっけ~! なんだよあの大人の雰囲気! 切り返し方! 絵になるなぁ」
いつの間に背後に来ていたのか、柾さんの後ろ姿を見送りながら息巻く平塚である。
(柾……直近さん……)
尊敬出来る上司が同じ会社に居ると知った。
何があっても頑張れそうな気がして、僕は力強く拳を握った。
ぶるりと身体が震える。それでも口角が自然と上がったのは、未来に対しての武者震いに違いなかった。



改2018.11.07

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最終更新日  2018.11.08 21:31:18
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01話 (―) 【分岐点】―ブンキテン― 



――こんなの卑怯だよね。でも君にしか頼めないんだ。オレがいなくなった後、透子ちゃんをお願いできるかな?
――あなたが卑怯者じゃないってことは誰だって知ってるさ。それに、安心しなよ。透子は俺が守る。
――本当にごめん。君の本命を知ってるくせに、こんな無茶なお願いをしてしまって……。
――いいんだ。向こうは俺のこと、子供扱いしっ放しだからな。全然恋愛対象として見ちゃいねぇしさ。
――そうかな? ……やっぱり駄目だ、こんなこと。やめよう……。
――怖気付いちゃダメですって。俺だってひとのことは言えない。振られるのが怖くて、告白しなくて済む口実が欲しいんだ。
――君なら大丈夫だと思うけどな……。情けないよ。自分がこんなに弱かったなんて……。
――失うことへの恐怖です。でもどう考えてもこれは、俺たちにとって最良の保険なんです。だから――いきましょう、この方法で。
――つらい役目を担わせてしまって……本当にごめんよ?
――何言ってンすか。本当につらい思いをしているのはあなたでしょう? ……××さん。


2018.11.08


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最終更新日  2018.11.08 21:25:28
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