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カテゴリ:Gentleman(シリーズ1)
29話 (―) 【告げる声】―ツゲルコエ― ___千早歴side 4日前。 労働基準法の遵守に力を入れ始めたユナイソンは、休日出勤や時間外労働に鋭く目を光らせるようになった。 『休みを取れ』という至極もっともなオーダーだ。でも。では。なにゆえ勤務時間を飛び越えて仕事をしていたのか? 時間内に終わらないからこその『残業』だ。その分のつけは、日々の業務の方へとギチギチに組み込まれてしまった。 柾さんなどは、まさにその筆頭。 「見方を変えれば、ON/OFFがはっきりしてありがたいことかもしれないな」と言っていたけれど、私は聞いてしまった。 「膨大な仕事量で疲れている」と。そんな弱音が彼の口から飛び出たこと自体が衝撃的だった。 いつだって弱音も吐かず、愚痴のひとつも零さない柾さんだから。 ふと垣間見えた弱気な部分に触れ、乙女心を揺さぶられていた。そんな私の胸の内など知るよしもない柾さん、 「さすがにこれ以上はもう無理だ。午後から半日年休を取得する」 ――そう宣言した通り、その日はお昼の12時に仕事を切り上げている。 あの時は疲労困憊のていで元気がないみたいだったけれど、それでも私に対しては優しかったように思う。 3日前。 忙しい日ではなかったので、自身への誕生日プレゼントとして休みを取得した。 敢えて用事も作らず、流れに身を任せ、気の赴くままにのんびり過ごせれば幸せだなと思って。 それがまさか朝の早い時間帯に、何の前触れもなく現れた兄と一緒に過ごす展開になるとは思わなかったけれども……。 この機会を逃がすまいとばかりに、心配性な兄は「親しくしている男性はいるのか?」と探りを入れてきた。 知りたいのは交際相手の有無に違いない。いないと答えると、明らかにホッとした様子でしきりに頷いていた。 「うんうん、歴はまだまだ子供だからな。お前を好きになる男が現れるのも数年先の話か」 そうのたまっておきながら、「しかし……」と兄は続ける。念には念を入れるつもりのようだ。 「本当か? ほんと~にいないんだな?」 「本当よ。でも、とてもお世話になっている男性なら」 「いるのか? 職場に? 世話になっている男性が!?」 食い気味に質問を被せてきたので、私としては、つい苦笑いを浮かべてしまう。本当にもう。心配症なんだから。 「仕事でミスをしてしまった時に、フォローして下さるの。いつもからかってくるけど、性根は優しいひとよ」 一転、兄は『面白くない』表情になった。 「そいつはお前に気があるのか?」 「まさか。善意に決まってるじゃない。出来の悪い部下を、根気良く指導してくださってるだけよ」 「善意……。善意ねぇ……」 納得がいく答えではなかったのか不服そうな目で私を見るも、それ以上暴き立てる真似はせず、詮索はそこで終わった。 あくまでも『私の誕生日』で『お祝いを』という日。兄なりに、その一線を越えないよう、大切にしてくれたのだろう。 母が贈ってくれたケーキを分け合いながら、ゆっくりとスパークリングワインを空けては飲み。 夜は、兄が手配してくれたお店で舌鼓を打った。高層ビルから見える夜景が綺麗で、晴れてくれたことを心から天に感謝した。 2日前。 朝礼の場で柾さんを見掛けた。 『業務上の関係で、本部からひとが来る頻度が増える』、という店長のことばを聞きながら、私の目は柾さんを探している。 ようやく見付けたものの、距離が離れていたためか、目が合うことはなかった。 以降、柾さんは部下を通じて仕事を依頼してくるようになった。 いつも柾さん自身が訪れていたこの部屋には、「仕事を依頼するよう頼まれた」部下が訪ねてくる。 日課となりつつあったPOSルームへの訪問がぷつりと途絶えたことを残念に思っている自分がいた。 よそよそしさと寂しさを感じてしまって、妙に落ち着かない。 私は何を期待していたのだろう? 柾さんは多忙な人で、これが本来の姿なのだ。 (避けられているなんて考えすぎよ。少なくとも、向こうには毎日私と会う必要も、理由だってないのだから) 昨日。 たまたま社員食堂で昼食をすることになった。トレーを運ぶ途中、柾さんとすれ違った。 「こんにちは、柾さん」 勇気を振り絞った割に、待ち望んでいた返答はなかった。 代わりに、小さな笑みだけくれた。 そして今日。 「この通信障害、いつごろ直りますか?」 被害が大きかったため、途方に暮れてしまった私の質問に、エラーを発したパソコンを弄りながらメンテナンスの社員は首を振った。 「なんと言ってもサーバー側のエラーだからね。いつかは分からないなぁ。 酷なことを言うけど、千早さんの出番はないよ。俺が契約会社と連絡を取って復旧を目指すから、それまでは他の仕事でもしてて」 ネット回線が使えなくなってしまったのは痛い。明らかに業務に支障を来たすため、まずは各売り場に電話をし、その旨を伝える。 手配を終えると、後藤田店長に事情を説明した。「それは仕方ないな」と理解は得られたものの、じゃあこれをしなさいという指示もない。 このまま何もしないわけにもいかないので、仕事を見付けようと思った。ところがである。業務課、売り場、ともに追い返されてしまった。 「人手は欲しいが、慣れた自分がやった方が効率が良い」と論破されてしまっては、おとなしく引き下がるしかない。 諦めきれず、藁にもすがる思いで出勤ボードを見てみる。誰かいないだろうかと名前を追っていくと、麻生さんのプレートが目に入った。 居ても立ってもいられず家電売り場に向かった。働かせてくださいと懇願してみたものの、麻生さんの答えは「ノー」だった。 「……どうしてもですか?」 「あぁ、駄目だ」 取り付く島もない物言いに、尋ね方もぎこちなくなってしまった。 「あの……どうしてでしょうか?」 顔色を伺うように尋ねると、麻生さんは書類を閲覧しながら言う。 「もうじき無限電機の羽生が商談に来るからだ」 無限電機の羽生さん? 首を傾げると、「もう忘れたのか?」と麻生さんの呆れ声。 「おたくに抱き付いた不届き者だ。自分を襲おうとしていた人間を簡単に赦したら駄目だろうが」 「……ごめんなさい」 「謝る必要はないが、ただ、あれからまだ日は浅いしな。だから今日は駄目だ」 「……はい」 一通り書類を読み終えた麻生さんは高さ1メートルの小さな作業台にそれを置くと、そのまま頬杖をついて私を見やった。 「ちぃは真面目だなぁ。理由が理由なんだし、半休取っても良いんだぞ? こういう時ぐらいしか取れないだろ」 「確かにいまは仕事がない状態ですけど、いざ復旧したときに私がいないと、仕事が回らないと思うので……」 「えらいえらい、ちぃはいい子だ。……あぁ。そう言えば、俺のメールはちゃんと届いたか?」 さきほどより幾分軽い口調で、麻生さんは自分のスマホを振りながら言った。 思い当たるのは1つ。誕生日を迎えた私への、バースデーメッセージの件に違いない。 「メッセージ! はい、ありがとうございました。とても嬉しかったです」 「はっはっは。そうだろそうだろ。なんせ俺が人の誕生日を覚えるなんて滅多にないからな!」 得意げに話す麻生さんに、私は疑問を投げかけた。 「ご謙遜を。だって麻生さん、柾さんの誕生日にはメッセージカードと花束を贈られましたよね?」 「何か言ったか?」 満面の笑みで返され、速攻で「いいえ」と返す。どうやら麻生さんにとっては不名誉な賛辞だったらしい。 「あの日は特別だったんだよ。俺が来たことをあいつに教えてやりたかったからな。 もう二度と野郎相手にカードと花束なんて贈らねぇぞ。つか、そもそもあいつの誕生日はインパクトがあり過ぎて忘れようがない」 「そうですね」 「柾といえば、やつの部署には声を掛けなかったのか? それこそ諸手を挙げて『千早さんなら大歓迎』って言いそうなもんだが」 「えーと……」 実はここ数日、柾さんに避けられている気がするんですと言ったら、麻生さんはどんな顔をするだろう? 「まだ……です」 もごもごと言葉少なく伝える私をよそに、麻生さんはスマホを操作し始めた。 どこに電話を……まさか……。 「おぅ、俺だ。なぁ、千早さんいらねぇか?」 やっぱり! 柾さん宛てだ! スマホを奪おうと、慌てて手を伸ばしたけれど、背の高さで敵うはずもなく。 やり取りが終わるまでチャレンジし続けた無駄な抵抗――小さなジャンプを繰り返す――は徒労に終わった。 麻生さんはスマホを背広の内ポケットにしまうなり、ニヤリと笑う。 「行き先が決まったぞ。柾んとこだ。即答で『欲しい、くれ』だってさ」 そんな、まさか。あり得ない。だって柾さんは数日前から私を避けていたはずだもの……。 (そう思うのなら確かめてみたら? きちんと、自分の目で) 虎穴に入らずんば、ということなのか。 そんな経緯から、私は柾さんが統括するコスメ売り場へ向かうことになった。 *** コスメ売り場に足を踏み入れた瞬間、美意識に長けた、全身煌びやかなオーラを放つ女子社員方から視線の集中砲火を受けた。 「千早さん、歓迎するわ」 代表して皆川さんが声を掛けてくれたものの、接客業ではあり得ない無愛想。歓迎されていないことが滲み出ていた。 「時に千早さん? 麻生さんとお食事をなさったようですけど、お付き合いをしているの?」 「皆川、やめないか」と、柾さんのたしなめる声。どうやら皆川さんの不機嫌は、そこに起因しているらしかった。 「麻生さんと私が? とんでもないです」 その言葉に、氷点下だった空気が少しだけぬるくなった気がした。 柾さんがこっそり「すまない。うちの部署の女性たちは、麻生贔屓なんだ」と耳打ちをして教えてくれる。 ここでは麻生さんネタは禁句のようだ。迂闊なことは言えない。 「三原、早速彼女に仕事の説明を。以上だ」 柾さんの鶴の一声で解散となった。各々持ち場へと戻り、柾さんも、私に「頑張れよ」と労ってから自分の仕事を再開した。 私はその場に残ってくださった三原さんに軽くお辞儀をする。 「お忙しいところ申し訳ありません。宜しくお願いします。精一杯頑張ります」 「そういう堅苦しいのは抜きでいいわ。あなたがしっかりしてることは分かったから」 三原さんは腕時計に視線を落とし、私の挨拶を遮った。 いつだったか柾さんが三原さんを高く評価していると聞いたことがある。彼女も有能な社員に違いない。 その三原さんが、じっと私を見ていた。 ひょっとして三原さんも皆川さんと同じように麻生さんを狙っている口で、釘を刺す言葉でも考えあぐねているのだろうか。 「千早さん」 「は、はい」 「私とどこかで会ったことあるかしら?」 何を問い質されるのだろうかと身構えていたのに、予想もしていなかった斜め上の質問だった。 「三原さんとは職場が同じですから……幾度となくすれ違ったと思います」 「違うわよ! 私が言ってるのは、職場じゃなくて外! 外と言うか……以前と言うか……?」 どうやら記憶が曖昧な状態らしく、デジャヴュめいた物言いだった。 「こういうのってイライラするわね!」 三原さんは自身に対して怒っているのだろうか。それとも私が怒られている場面なのだろうか。 「えぇ、会った。あなたと会った。そう決めた! さぁ、どこで!?」 「えっ……」 『そう決めた』ってなんの冗談? 『どこ』ってどういう意味? 私は答えを持ち合わせていないし、そもそも私はどこかで三原さんと会っただろうか? 少なくとも私は気付かなかった。 それにしては三原さんからは私への苦手意識がうかがえ、『出来れば会いたくなかった』というオーラを発しているような気がする。 何かしでかしたとしか思えない。そうでないと、この状況は説明が付かない。でも記憶を手繰ったところでやはり見当もつかないため、 「すみません、よく分かりません」 素直にそう告げると、三原さんは肩透かしを食らったかのように押し黙り、苦虫を噛み潰したような百面相をしてみせた。 「……良いわ。いまのは忘れて」 二進も三進もいかない現状を憂いた体の三原さんは、そこで私語を打ち切ったのだった。 *** 私に与えられた仕事は、新作に追いやられた旧作の商品値段を見切る、というものだった。 3割引シールを専用の機械で何十枚と発行し、商品名が書かれている部分をうまく避けながら貼り付けて行く。 こういう作業は苦にならない。作業台を一台借りて流れ作業を楽しんだ。 「……来たわよ」 なんの前触れもなく、突然女性たちの会話が始まった。彼女たちは一つに固まり、ある一点に視線を注いでいた。 「いい加減にしなさいよ、あなたたち」 たしなめるというよりは、部下たちの野次馬根性に三原さんは呆れている様子だ。 「だってー、全然懲りてないんですもん」 「そうですよ。ずっと柾さんにべったり。お菓子の差し入れに、自社の新作コスメをふんだんに盛った、気合いバリバリのメイク」 「柾さんが出勤の時にしか来ないし、陳列だって柾さんが居る時しかしないし。それに露骨なボディタッチがすっごく目障り」 彼女たちの視線の先には一人の女性が立っていた。 黒いスーツを細い身体に纏い、ダークブラウンの髪をゆるやかにカールさせ、腕にはピンクゴールドの腕時計。 お洒落な出で立ちで、小さな顔は雑誌から抜け出したモデルのように可愛らしかった。 「柾さ~ん!」と明るい声で名前を呼びながら、女性は柾さんに近付いていく。柾さんは皆川さんと店頭POPの確認をしている所だった。 近日公開されるハリウッド映画。主演女優が使った口紅が大々的に市場に出回るとのことで、タイアップ準備に勤しんでいるらしい。 「瀬戸さん。そうか、もうそんな時間か」 柾さんは腕時計で時間を確認した。 「柾さんに会いたくて、少し早めに来ちゃいましたぁ」 「早過ぎても遅過ぎても困ります。時間は厳守して頂かないと」 柾さんの代わりを務めたつもりか、はたまた嫌味という形で牽制しておきたかっただけなのか、皆川さんがジロリと女性を睨む。 女性は柾さんからは見えない位置に立つと、皆川さんを睨んだ。柾さんがいなければ、一触即発だったに違いない。 「すみませぇん! でも、前回の商談が7割しか進んでなかったんですよね~。残りの3割の打ち合わせをしないといけなくて」 「前回は済まなかった。瀬戸さん、丁度今からキミの会社の口紅を並べるところでね」 「陳列お手伝いしますっ!」 皆川さんを押し退けるように、女性は前に進み出た。柾さんは女たちの無言の争いに気付いていないのか、助かるよと笑う。 「今度の映画、絶対成功すると思うんですよ。女優はアミカ・リムーノを起用しているし、ルージュだって我が社一押しですから!」 「あの映画は気になるな。監督も8年振りにメガホンを取るとあって、力を入れてるみたいだし」 「映画に行く時は誘って下さいね。そういえば、この前名刺をお渡ししましたけど、持っててくれてますかぁ?」 「あぁ、持ってるよ」 「嬉しい~」 端から見れば、既に二人の世界だ。 お邪魔虫は引っ込んでるわよ! とばかりに、女性社員たちは面白くなさそうにそっぽを向いた。 *** シール貼りの作業をこなしていると、メンテナンスの社員がわざわざ売り場まで来てくれた。 『千早さん、通信障害が直ったぞ』という、ありがたい連絡だった。お陰で私は1時間そこそこで復帰することができた。 溜まった書類を片付けていると、突然荒々しくドアが開き、強張った顔をした柾さんが入って来た。 入室早々「千早さん、匿ってくれ」とは穏やかではない。 職場で何か起きるたびに避難場所扱いされているのがこのPOSルームだった。現に今、この部屋には私と柾さんしかいない。 ひとけがないため、込み入った話もできると踏んだ私は、「どうしたんですか?」と尋ねる。 一瞬の間が空いたのは、言うかどうかを躊躇ったからに違いない。 それでも柾さんは、部屋を借りるからには事情を説明しなければと思い直したのだろう、ぽつりぽつりと話してくれた。 要は、“瀬戸”なにがしさんが問題を起こしたようで、無事に商談も終わった頃、ひとがいない隙を狙って柾さんにキスを迫ったのだという。 柾さんはそれを拒み、逆上した彼女は「意気地なし!」「ふざけないで!」などと騒ぎ始めたそうだ。 女性の剣幕に驚いた客や従業員が『なにごとだろうか』と訝り、声の発生源である2人の元に集まりかけたので、 「何でもない。業務上の、ちょっとした意見の相違だ」 などと平静を装って誤魔化しているうちに、瀬戸さんはどこかへ行ってしまったという。 「鞄もなくなってたような気がしたな……。きっと会社に戻ったんだろう。 とてもじゃないが、僕もその場に留まっていられなくてね……。売価変更を理由に、そそくさと退却して来た」 ――というのが、いま私の目の前にいる柾さんの弁だった。 「そ……それは災難でしたね」 呆気にとられながら柾さんを見る。一時期流行した、愛憎にまみれた昼ドラのような凄惨たる出来事に、驚きを禁じえない。 聞けば、言葉での攻撃はあったものの、頬をぶたれたとか、そういう外的被害はなかったらしい。それだけが不幸中の幸いだった。 「彼女の唇が近付いてきたときは本気で焦ったな……」 そう言えば、拒んだと言っていたっけ……。好奇心がむくむくともたげてしまい、気付いたときには尋ねていた。 「どうやって拒否の意思を示したんですか?」 「手だよ。手で塞いだんだ」 「……そうですか。手で……」 瀬戸さんの肩をもつわけではないけれど、その拒まれ方はショックだったろうなと思わないでもない。 「どうして避けるんですかって聞くから、その気はないと言った。 瀬戸さんのアドレスは『御社の代表』という意味で登録させて貰っていると、そう言った。愚かだの、意気地なしだのと叫ばれたが」 柾さんは、目を細めて微かに笑った。その顔には、やれやれといった疲れも滲んでいるように思えてならない。 「怒ってらっしゃいますか?」 「怒るって? 彼女に?」 「彼女の……その……心ない発言に対して」 「怒ってないよ。僕は何とも思ってない。……だが、結果的に彼女に恥をかかせてしまった。さぞかし居心地が悪い思いをしていることだろう。 これからどうするのかな、瀬戸さんは……。恐らくは適当な理由をでっちあげて、担当を替わって貰ったりするんだろうが……」 「ご自分のことより、相手の心配をなさるんですね」 「……以前の僕なら、馬鹿のひとつ覚えで『据え膳ラッキー』と喜んだかもしれないな。だが、いまはキミが居るから」 柾さんの静かな声が、同じ空間を共有している自分の耳朶にだけ届けられる。 思わず柾さんの目を覗いてしまい、すぐにしまったと後悔した。巧妙に張り巡らされた糸めがけ、率先して絡まりに行ったも同然だ。 「私が……?」 身勝手な勘違いかもしれない。自惚れが過ぎる。 (きっとまたいつもの、柾さんの悪戯だわ。深い意味なんてない。本心なんかじゃない) それなのに、本気に受け取ってしまいたくなる愚かな私。嬉しくて、喜んでしまった。 つらい。糠喜びは、もうごめんだ。一喜一憂の波が押し寄せ、その落差で疲弊してしまう。 「どうして……そんなことを仰るんですか? からかわないで下さい」 「からかう?」 どういう意味だとばかりに柾さんの眉根が寄った。言うなら今だ。今しかない。 「どうせ……どうせ、手持ち無沙汰の余興なんでしょう? お願いです、もう私で遊ばないでください……」 言った。とうとう言ってしまった。 それを聞いた柾さんは、驚きに目を瞠った。居心地が悪くなるほどの間をたっぷり取り、ただただこちらを見つめ返している。 「本気でそんなことを言っているのか、キミは」 柾さんは心外だとばかりに、唸るように低く言った。まるで、聞き捨てならない言葉を耳にし、それを咎めるかのような声で。 微妙な空気を察知した私に去来したのは、戸惑いだった。 「……確かに出会った当初はキミとの駆け引きを楽しんでいたが、今は違う」 「違うんですか?」 「……分からないのか? 鈍感も、ここまでくると罪だな……」 駆け引きなんて、私には出来ない。そんな高度な技を駆使できるような大人の女性ではない。 私は男性の愛し方を知らないし、愛され方も知らない。柾さんにとっては面白みのない、子供のようなものだろう。 「僕は大分前から駆け引きなんかしていなかったぞ」 小さく掠れた声で、柾さんは言った。 訊ね返すのが恐かった。その意味を解釈することが恐かった。平衡が崩れたとき、私は自我を保てる? 柾さんは不思議そうに私を見る。「……千早さん? なぜ泣いてる……?」 泣いてる? まさかと思いつつ手で目元に触れると、生温かいものが頬まで伝っていた。見られたくなくて、私は上半身を背けた。 やだ、どうして涙なんか。柾さんに指摘されるまで、一切気付かなかった。 「ご、ごめんなさい。自分でもよく分からないんです。 でも、ホッとしました。ここ数日、なんとなくですけど、避けられてるような気がしてたから……」 そうじゃないのかもと、一縷の望みを抱く。涙が零れたのは、張り詰めていた気が緩んだせいかもしれない。 (私……そんなに凹むほど、柾さんに入れ込んでいたの? 彼を想っていたの……?) 想いの深さを問われると答えられない。 「いや……。避けていたのには、……理由があったんだ」 その言葉に、がつんと頭を殴られた気がした。避けられていたのは、気の所為じゃなかったのだ。 「私……本当に避けられていたんですね」 ショックだった。足が震える。心なしか、声も。 本人から告げられることがこんなにも怖いことだなんて、思いもよらなかった。 柾さんは「理由があった」と言った。どんな理由にせよ、私を遠ざけたかった。距離を取りたかったのだ。その事実は不変だ。 「キミを傷付けていたなら謝る。すまなかった。僕は……」 柾さんの手が、私の肩に触れた。 その瞬間、電撃めいたものが体内を駆け巡った気がして、 「! ゃっ……」 反射的に身体をよじり、距離を取っていた。 真顔どころか蒼白な顔で柾さんを見てしまったことを、私は後悔することになる。 拒否を態度で示したと思われても仕方ない。現に、柾さんは困惑顔だった。 (取り繕える? 今から? 今さら? 無理だわ、そんなの。だって、柾さんが傷付いた顔をしているんだもの) 「あの、その……私……っ。違うんです、今のは……」 弁解。弁解したい。させて欲しい。とにかく謝らなければ。 「悪かった。……やはりキミの傍にいない方がいいみたいだ。キミに宛てた不快な言葉や行為を忘れてくれると助かる」 実際に謝ったのは柾さんの方だった。突然の撤回宣言に、頭が真っ白になる。思考がまとまらない。 (忘れる? 忘れたくないのに? 貴方とのことを、忘れなければならないの?) (当たり前だ。だって、私は拒んでしまった。柾さんが撤回したくなるのも当然だ) 言わなければ。何か言わなければ。 「柾さん、あの……聞いてください」 ピリリリと鳴り出したのは私のスマホだった。 着信を無視して柾さんと話し合おうと思った。その誠意を酌んでくれたのか、柾さんは「いいから、出て」と言ってくれる。 電話が終わるまで、待ってくれるつもりのようで、私としてはそのチャンスに縋るしか道がない。 画面を見る時間も惜しかった私は、耳に当ててから、着信相手が兄だったことを知った。開口一番、兄は本題を切り出した。 「やぁ、歴。たまたま今、ユナイソン名古屋店の近くにいてね。どうだろう、今晩一緒に夕食を食べないか? 人気店だから席だけでも確保しておきたいんだ。OKなら早速予約を入れるつもりだ」 「……ごめんなさい。今夜はちょっと……」 予定があるわけではない。兄には申し訳ないけれど、出掛けたところで楽しめないだろうなと思い、断った。 柾さんのことをアレコレ考え過ぎて、知恵熱が出そうだったし。 「なんだ、先約があったのか。分かった、今度にしよう。美味しい店だからな、期待していいぞ。疲れも吹っ飛ぶ」 兄が優しい口調で言うものだから、自分勝手な事情で無碍に断ってしまったことが忍びない。 仕事で疲れた私を労ってくれているのだ。その優しさには報いたい。 「待って。やっぱり行くわ。ありがとう、誘ってくれて」 「決まりだな。何時に上がる? 店の駐車場で待ってる」 「18時に終わるわ。でも私……」 「ディナー代なら心配いらない。気にするな」 私のことなどお見通しだとばかりに、兄は先回りして言う。 仕事しかない日はお金を持ち歩かないことを、兄はとっくに見越していたのだ。 結局何だかんだ言って、兄が全額払ってくれている。私だって社会人なのだし、毎回抱っこにおんぶでは申し訳ない。 「そんな。困るわ。この前だって……」 言い掛けて、気付く。こんな会話、今したって仕方がない。随分柾さんを待たせてしまっている。 「つ……続きは後にしよう?」 「そうだな。待ち合わせの場所だが、北側の駐車場は分かるか? H1の区間で待ってる」 「北側駐車場のH1ね。分かった。じゃあ、また後で」 「あぁ」 通話を終えた私は、待機させてしまったことを謝ろうとして柾さんを見、思わずぎくりとした。 柾さんは口を真一文字にし、強張った顔で私を見ていた。何ですか? と尋ねてよい雰囲気ではない気がする。 通話が終わるまで待っててくれていたにも関わらず、何も言わずスッと。横切る音だけが耳を掠めた。靴音を鳴らして素通る。 どうして……。どうして……? 怒らせた? 怒ってた? 怒ってた。彼から伝わってきた気配は怒りだった気がする。 (……うそ……嫌われた……?) 貴方の優しさが好きだった。笑顔が好きだった。声、仕草、一挙一動。 触れられるたびに、胸を締め付けるほどの痛みをくれた人。 でももう二度と、貴方の手が私に触れることなどないのですか? 柾さん……。 滲んだ涙で、貴方が見えない。見える景色がもはや何なのか、見当もつかない。 ___千早凪side 愛用の腕時計に目を落とすと、時針は18時を、分針は10分を指していた。 携帯電話は聞き逃すはずのない音量にしていたはずで、だとしたら未だに歴から連絡がこないのは妙な話だった。 こちらから電話を入れてみようと思いスマホを握ると、ちょうど着信ランプが点滅した。歴からだ。 「歴! 買い物でもしてるのか? 荷物があるなら運ぶが」 「……何も買ってないわ」 「どうした? 何かあったのか?」 「ううん。いま着替え終わって、そっちに向かうところよ。……お腹空いちゃった。兄さん、どこに連れて行ってくれるの?」 どこか様子がおかしい。受話器から聞こえてくる声が、とても弱々しいのだ。それでいて、無理に明るく努めようとしている。 「ひょっとして泣いているのか?」 「なに言ってるの? そんなわけないじゃない」 ユナイソンにいる限り、歴に正体がバレるのも時間の問題で。 俺は、何らかの拍子に妹を事件に巻き込んでしまうことを危ぶんでいた。 任務を遂行する上で、多少の嫌われ役は仕方のないことだと覚悟を決めたつもりでもいた。 それでも。 いざこうして弱っている姿を見れば、どうしたって心が揺らいでしまう。 何よりも、誰よりも大切な妹。彼女は俺の弱み。出来ればずっと、何も知らず、知らされず、蚊帳の外で笑っていて欲しかった。 歴がユナイソンなんかに入社しなければ。何度……そう、何度そう思っただろう? だが何の因果かユナイソンに入社してしまった。 ユナイソンに籍を置きながら、俺が動いていることを妹は知らない。俺の仕事内容、立場、身分、一切合財。 現在鋭意建設中の大型店オープンにかこつけて同時進行している、水面下で蠢めき始めた『黒い計画』の存在も。 やがてそれらがどんな形となって展開していくことになるのかも、彼女は知らない。 (それでいい。歴は何も知らなくていい。寧ろ知らない方がいいんだ。しっかりしろ、凪) 自分に言い聞かせながら、腹の底から声を出す。 「本当に大丈夫なのか?」 「うん。ごめんね、すぐそっちに行くから。じゃあ」 通信が途絶えた後も、今ならまだ引き返せるんじゃないかと揺らいでいる自分がいた。 ……いや、この計画、直接的には歴とは無関係。当初の予定通り、このまま押し進める。 ___千早歴side 兄は、私が落ち込んでいたことに勘付いていた。この様子では、根掘り葉掘り訊いてくるに違いない。 本当のことを伝えれば兄のことだ、私を案じる余り、何らかのアクションを起こすことは目に見えている。 兄に児童の保護者のような立ち振る舞いをさせるわけにはいかない。 私だってそこまで馬鹿ではない。むざむざ柾さんのことを――男性の存在を――仄めかすような発言はしない。 仕事上のミスで叱られた。そういう路線で、うまく凌げるはずだ。 深呼吸をして再び歩きだす。指定された駐車場に着くと、車が1台だけ止まっていた。兄の車だった。 H1という区間は、ユナイソンから遠く不便な位置にあり、誰も止めたがらないのだ。 私が近付くと、兄が車から降りてきた。 「お帰り、歴。元気がないようだが……?」 やり取りは、いきなり質問から始まる。 「心配かけてごめんなさい。仕事でミスをしてしまって、上司に注意されてたの」 「それでしょぼくれていたのか。……まぁ、ミスに関してはお前が悪いのだから、しっかり反省するんだぞ」 「……はい」 「だが、お疲れ。早速お店に行こうか」 私を気遣ってくれているのか、その声はどこまでも優しかった。 ___柾直近side 電話の相手が男だと気付くのに、時間は掛からなかった。 会話の内容までは分からない。けれども、漏れてくる声のトーンはどう見積もっても若い男のそれだった。 (恋人がいたのか……?) 千早に男の存在がいることを、何故想定していなかったのだろう? 恋愛に奥手だからと勝手に決め付けていたのは、確かに僕だ。のほほんとお気楽に構えていた自分に腹が立って仕方がない。 何より堪えたのは、その男に対し、僕とは比べようがないほど砕けた口調で話していたことだった。 よほど親身かつ気心が知れた相手なのだろう。千早の言葉から推察するに、デートの誘いだったに違いない。 一度は断ったものの、相手が繰り出した魔法のワンフレーズで、見事に態度を改めている。 (僕の手は拒んだのに、恋人からの誘いは受けるのか?) 何をどう考えたところで、結局そこに行き着いてしまうのだ。女々しい自分がほとほと嫌になる。 恋人がいるかもしれない相手に、告白めいた物言いをし、挙句の果てに触れようとした。 さぞかし困惑したに違いない。或いは迷惑だったかも。 あの時僕は――言おうとしたのだ。彼女を数日間避けていた理由を。 『隣りにいれば報告される。近付けば告げ口される。千早さんと居たい。だから、僕は千早さんから距離を取る』と。 ――結局、言えなかった。 (これではまるで、心ごと離れて行きそうだ) 腕時計に目を落とす。18時。千早は……待ち合わせ場所に向かっている頃だ。 思ってから、苦笑する。 なんだ柾。そんな事を逐一覚えたりしているのか? そんな予定、スケジュールには載っていないだろう? ……そうだ、載ってなんかいないさ。ただインプットされている。この頭の中に。 馬鹿か。そんな情報、もう要らないだろう。 「柾、そっちのオレンジのファイルを取ってくれ」 「あぁ……」 「これじゃない、そっちだ。……それも違うって。ピンクじゃなくてオレンジだ」 「あぁ」 「取ってくれよ頼むから……。柾? おい、お前起きてるか?」 「あぁ」 「……何かあるのか?」 「あぁ」 「ふざけてんのか? 上の空すぎだろ。柾」 「あぁ」 「……柾!」 「……何だ? って、麻生?」 「このファイルじゃねーよ! オレンジの! 新品のファイルだっつってんだろ!」 ファイルでひとの頭を小突くと、入社以来の悪友は悪態をついた。 「お前! 俺がここにいたこと自体、いま気付きやがったのか?」 「あぁ」 「……よりによってまた『あぁ』かよ、くそっ。……心ここに在らずだな。帰れ。お前なんかいなくても会社はやっていける」 「は? ひどい言い草だな」 社に貢献していると自負していただけに、麻生のことばは辛辣に思えた。とはいえ、図星なので反論もできやしない。 「言い換えれば、お前がいなければやっていけないヤツもいるってことだ」 麻生が本当に言いたかったことは後者なのだと気付き、我に返る。 「帰れ。問題が解決するまで会社なんかに居んな、馬鹿たれ」 「……麻生」 「なんだ」 「愛してる」 「おま……とうとう壊れやがったな」 「壊れたついでに告白してやる。愛してる。それはもうどうしようもなく深いほどな。例えるなら世界一深い湖が」 「早く行けー、阿呆」 「……感謝する」 もうお前とは話したくないとばかりに、麻生は手だけをひらひら振って僕を追い払う。 麻生。もしかしてお前が僕にとっての神なのか? まさか現状の打破を、お前がしてくれるなんてな。 お陰で道が決まった。 千早の性格だ、約束をしたからには出掛ける準備をしているに違いない。だから僕は彼女を迎えに行く。 その後のことは彼女自身が決めればいい。僕は気持ちに従い、想いを行動に移すだけだ。 (記憶が正しければ、彼女は北側駐車場のH1へ向かったはず……) 間に合うかどうかは怪しいが、全速力でそこを目指す。 やがて、西日に照らされた1台の車が視界に入った。その近くには千早と、肩を並べている男の姿があった。 走るのをやめ、息を整えながらネクタイを緩める。その頃には、向こうも僕の姿を認めたようだった。 「千早さん」 「柾さん……?」 僕の出現に驚いていることが、声の調子で判明した。数時間前にひどい別れ方をしたのだから尚更だろう。 だというのに、彼女は僕を無視することもなく、それどころか心配気に尋ねてきた。 「どうしたんですか? 何か会社でトラブルでも?」 「あぁ、急を要する」 千早は躊躇っていたが、やがて隣りの男の方を向き、様子を探る気配を見せた。 一方、まるで視線で殺そうとしているのか、憎しみに燃えた目をこちらに返す男。 こいつが千早の恋人か? 一体誰で、どういう男なんだ。 ふと男が千早を見たとき、おかしな感覚を覚えた。なぜか2人の横顔が重なるのだ。 輪郭ではない。だが似ている。彼女と男の雰囲気が。顔のパーツ、仕草……? 何となくだがこれは……。 恋人のそれではないと、直感が告げている。 (恋人というより、近親者に近い……?) 千早の砕けた口調、態度。そこから導きだした答えは――『兄』だった。 ___千早歴side 「千早さん」 私は耳を疑った。そして目を。柾さんだ! 『何故?』というより『駄目!』と叫びかけた私の肩を、兄さんは力強く押しのけ、柾さんと対峙する。 ___千早凪side そこには履歴書に添付されていた写真そのままの顔があった。 なるほど、小売業界において最も重要視される、清潔感溢れる人物のようだ。 (これが柾直近か) 俺は柾の全身を矯めつ眇めつ、都築から入手した情報を思い出していた。 入社当時から優秀な社員であり続け、その反面数々のゴシップを作り、あろうことか妹の歴に懸想しているという。 真っ白なカッターシャツ、シンプルな緋色のネクタイ、細い腰に巻かれたベルト、汚れのない靴、腕に光る時計、ネクタイピン。 ブランド品をさり気なく、嫌味にならないよう身につけている。俺でさえ見惚れてしまう着こなしに、嫉妬を感じた。 (そこに歴のことも加わるのだから、お前に対する心証ははっきり言ってすこぶる悪いぞ、柾) 歴を背後に隠しながら、キミは? と形ばかりの応答を試みる。柾の顔が、『そっちこそ何者だ』と語っていた。 だが、そういう切り返し方はしてこないという気がした。この男からは、自ら現状を把握し、打破する姿勢が窺える。 「ユナイソン名古屋店コスメ部門担当の柾です。間違っていたら申し訳ない。あなたは彼女のお兄さんですか?」 そら見ろ、思った通り。僅かな時間で俺の立ち居振る舞いから情報を掻き集め、推理を構築し、答えを導きだした、というわけだ。 なるほど、これは一筋縄ではいかないと直感が告げる。歴のことがなければ、計画遂行のためにも咽喉から手が出るほど欲しい人物だ。 「あぁ。お目にかかれて光栄だ」 向かい合って初めて分かることもある。女性が放っておかない美貌を、彼は持っている。そのうえ仕事が出来るとなれば……。 (まさか歴も、この男に懸想している……?) 「柾君だっけ。何か用かな?」 「彼女に用が」 「構わないよ。いま言ってくれないか」 隣りに兄がいては、さしもの柾だろうと口説けやしないだろう。俺はそんな計算をしていた。 柾は冷やかな視線を俺に注ぎつつも、逡巡しているようだった。 だが俺から視線を外すと、伏せた歴の顔を覗き込み、視線を交わした。まるで2人だけの世界のように。俺など存在していないかのように。 「さっきは逃げたりしてすまなかった。このままフェードアウトしてしまってもいいのかと自問した。答えはノーだ。 これだけ言っておきたい。僕は、キミ以外の女性とデートの約束を取り付けたり、淫らな行為や愛のやり取りはしたくないんだ。 キミの前では誠実でありたいと思った。僕が誘いたいのは、いつだってキミだけだから」 「「!」」 馬鹿な。兄の前で、堂々の口説き文句だと!? 一語一句をハッキリと、歴の瞳を見て言い切る柾に、俺も歴も唖然とし、絶句せざるを得ない。 だが柾が歴に近付いたところで我に返る。柾の胸板を、俺の右手に力を入れ、ぐぐぐと引き離す。 「俺の目の前で口説くとはいい度胸だ。会話は許したが、誘惑行為は認めてないぞ」 「おたくの前じゃなければいいんだな」 「そんなわけないだろう」 「……シスコンめ」 「なんだと? 俺には歴を守る理由と権利があるんだ。お前が俺に刃向かうなら、俺にだって考えがある」 「彼女は成人済みだぞ。いくら身内だからと言って、あなたが決めるのはどうかと思う。彼女の意見を尊重すべきだろう」 「関係ないな。特に、お前には。二度と歴に近付かないでくれ」 「兄さん! ねぇ、もうやめて……!」 よりにもよって、歴がかばった相手は俺ではなく、柾だった。瞬間、口から勝手に言葉が出ていた。 これから長い戦いになるであろう、その『きっかけ』となった瞬間が、まさにここだった。 「……。ユナイソン本部、人事統括部人事部所属・千早凪の命により、只今をもって柾直近に異動を申し渡す」 「……なんだと?」 「兄さん! 何を言っているの!? ユナイソン本部付ってどういうこと!? 一体いつからユナイソンに!? それより、今のあんなやりとりひとつで目くじらを立てるなんて、どうかしてるわ! 取り消して!」 「俺はもともと歴か、この男のどちらかを異動させるつもりだった。決めたよ。やはり彼は歴から離れるべきだ。 異動先は後日、正式な文書として通告する。……行くぞ、歴」 「いやよ! こんなのいや! 柾さん!」 抗うなら今しかない。これ以上、関係をこじらせたくない――。歴の全身から、対峙する意思が漲っていた。 「なぜこの男にすがる? この男が裏で何をしているか知らないんだな」 「何を言い出すの? これ以上柾さんに失礼な態度を取るのはやめて!」 「いつまでそうやって見て見ぬ振りや、耳を塞いでいるつもりだ? この男の女性遍歴は、それはドス黒いもんだ。 この男に惚れているならよすんだ。離婚調停問題や、親権問題、他の女性社員に手を出しては問題になっている」 「知ってるわ!」 「知ってるって、お前……」 信じられず、呆然と歴を見つめる。 「裏で何かをしているのは兄さんの方じゃない! ユナイソンにいるってどういうこと? 本部って? どうして人事部にいるの? 私、何も聞いていないわ!」 「それは……」 「言えないのね? じゃあ私も、兄さんを信じることなんて出来ない」 「歴!」 咄嗟に歴の腕を掴んだが、すぐさまその手を振り払われてしまった。 「そうやって何度、私の行く手を阻むの? 思いやりも、度を超せば不快でしかないわ。これ以上は耐えられない」 「待ってくれ、歴」 「……柾さん!」 行きましょう、と促し、エントランスから駐車場へと向かう。俺が掴みそこなった腕を、柾が掴む。歴は振り払おうとはしなかった。 2人は駆け足で車まで向かい、車の持ち主は歴を助手席に座らせた。運転主も乗り込み、エンジンを噴かした後、車体は滑らかに動き出した。 「……くそ!」 歴が座ろうとして開けっぱなしだった助手席のドアを力任せに閉める。 決意は揺るがない。歴が頭を下げてきたって、撤回する気はない。 ___千早歴side 車好きとは聞いていたけれど、まさか外車を乗り回しているとは思わなかった。 外観デザインは猛禽類をイメージさせ、内装もスポーティだった。近未来的なメーターパネルが色っぽさを醸し出している。 革の匂いに混じる匂いは、私と柾さんが使っている香水、ヒストリアだ。 落ち着かないのは乗り慣れていないせい? 否、色々な出来事が重なったせいだと思い直す。 勢い任せでこうなってしまったものの、どこを見て、何を話せばいいのか分からない。所在なさげで居た堪れない。 ステアリングを握る柾さんを盗み見ながら思う。この車はどこへ向かっているのだろう。 「ユナイソンに戻るんですよね? さっき、急を要するって言ってませんでしたっけ」 「そんなのは口実だ」 「口実……」 「さっき言いそびれた話をさせて貰う。構わないか?」 「……はい。さっきはごめんなさい。柾さんさえよければ、聞かせてください」 神さまは、私が望んだ『チャンス』を与えてくださった。だから覚悟を決めて、真摯に向き合わなければならない。 車の助手席だけれども、私は居住まいを正した。そして柾さんの言に耳を傾ける。 「数日前から本部の人間が名古屋店に出入りしていることは、キミも知ってるだろう」 「はい。店長もそう仰ってましたね。私には、どこの部署のひとまでかは分かりませんけ……ど……」 言い掛けて、尻すぼみしていく私の言葉。なんとなく分かった気がしたのだ。 (本部の人間、人事部に所属していると告白した兄、突然の異動――。まさか) 「……顔を見せていたのは、人事部の方々?」 「そうだ。他部署の人間もいたが、主に人事部だな」 「なぜ名古屋店に……」 私がうろたえていると柾さんは数秒ほど黙りこくり、これは推測でしかないが、と一言断ってから先を続けた。 「名古屋店が閉店する話、キミは知っているか?」 「え!? え……知りません。初耳です。そうなんですか?」 寝耳に水だった。私が本気で驚くと、柾さんは嘆息する。 「キミと同じ空間にいるときは、仕事の話ではなく、出来ればロマンチックな話題をしたいというのが僕の本意だ。 だが、そうも言ってられないな。いまは職場の上司として話すから、キミは部下として聞いてくれ。 新入社員気分も、そろそろ返上した方がいい。これは業界向けの新聞や経済面にも載っていることだ。 ユナイソン名古屋店は閉店する。その代わり、市内に新しい複合商業施設ができる予定だ。そこと統合する」 暗に新聞ぐらい読めと注意されてしまったようで恥ずかしい。身が縮こまる思いだ。 「そうだったんですね。すみません、これからは流通系の新聞も読むようにします」 「いちいち買わなくても事務所に置いてあるから、昼休憩のときに読むといい」 「分かりました。ありがとうございます。……ひょっとして人事部は、その新しい店舗のスタッフを探しているんですか?」 「その通り。察しが良くて助かる。当然、新店舗には優秀な人材を揃えておきたいはずだ。 だからチェックしているのは名古屋店だけではなく、他の店舗も見ているに違いない。近隣の岐阜店とかな」 優秀な人材の査定。もしそれが行われたとしたら、名古屋店で名前があがるのは柾さんか五十嵐さん、麻生さんが候補にあがるだろう。 3人は間違いなく出世街道を進むことができる人材だ。 それなのに、私との一件で人事部に――兄に――最悪な印象を与えてしまった。なんてことをしてしまったんだろう。 「私があんなことを言ったばかりに柾さんの心証が……。私、今から兄に謝って来ます! 今ならまだ間に合うかも――」 「いいんだ」 焦る私とは対照的に、柾さんはゆっくりと制した。 「いまの僕の望みは、新店舗に行くことでも、ましてや他店に異動することでもない」 「……」 「どうした? いまさら遠慮なんていらないぞ。正直に言ってくれ」 「失礼を承知で言わせて貰います。上を目指さないのは柾さんらしくないな、と思ったんです。向上心に溢れた方だとばかり」 「見くびってもらっては困る。栄転だけが全てじゃないと気付いただけだ。それに、世の中にはタイミングというものがある」 きっぱりと断言する柾さんは頼もしかった。 『いまの望み』というからには、柾さんには既に歩む道、目指すゴールが定まっているのだろう。 柾さんは大人だ。私は、自分の心配をすればいい。課題だらけだと思い知らされた1日でもある。 「着いたぞ」 心の準備もしていなかった。慌てて顔をあげ、そこがどこか確認する。見慣れたマンションがそびえ立っていた。 車はガレージへと入って行く。決められた位置に車を止めると、柾さんは助手席のドアを開けた。 何も言わずに降り、何も言わずにドアを閉め、何も言わずに歩く。ただ、柾さんの後について。 やがて柾さんの足が止まった。そこは私の部屋の前。 もしかして部屋の前で兄が待ち構えていやしないかと危惧していたけれど、その心配は杞憂だった。 兄どころか誰の気配もない。柾さんの顔を伺うと、彼も私を見ていた。 「今日は振り回して悪かった。ゆっくり休むんだ。いいね?」 「……」 それ以上のことばも、触れ合いもなかった。 あぁ、本当に1日が終わったのだ。長かった1日が。 「……はい、お休みなさい」 「お休み。じゃあ、また明日」 私が鍵を開けるのを確認すると、柾さんは踵を返した。去り行く背中に向かって、私は「あの……!」と本日最後の勇気を振り絞る。 「今日は……色々とごめんなさい……! 私、柾さんと仲違いなんてしたくありません!」 きゅ、と革靴が止まる音がした。柾さんがその場で振り返る。 「あの……その大きな誤解だけは、私……どうしても早い内に解いておきたくて……その……」 一体どんな情けない顔で訴えているのだろう。恥ずかしさでどうにかなりそうだ。 それでも、伝えなければならないことがあるのだから、四の五の言ってなんかいられない。 柾さんはこちらに2歩3歩と歩き始めたものの、そこで足を止めた。 この数歩は心の距離を表しているのだろうかとぼんやり考えていると、柾さんはその場で言った。 「僕もだ」 それはまるで、信じて欲しいという強い念が込められた『断言』だった。 「キミの口からそのことばが聴けるなんて、夢のようだ。嬉しいよ」 柾さんは最後に「ありがとう」と言い添え、微笑んだ。見るひとを優しい気持ちにさせる、柔らかい笑みだった。 再び歩きだし、今度こそ遠くなる背中を見送りながら思う。夢のなかにいるのは、私の方かもしれないと。 また話し合える仲に戻れたことが嬉しかった。この平穏を二度と壊したくない。失いたくない。 (兄さんが何を仕掛けてきても、受けて立つわ) 兄の魔手は、いつ迫ってくるのだろう。 来たるべき対峙に向けて強くならなければと、私は心に固く誓った。 2006.11.09 - 2008.12.25 2020.11.10 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2020.11.10 17:22:21
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